一万年の進化爆発
2010年
グレゴリー・ぺクラン
p115
アメリカ先住民はほとんど感染症を経験しなかった
p116
ヨーロッパ人やその近隣の民族の肌の色に最も強い影響を与えていると思われる変異(SLC24A5の変異体)は驚異的な速度で広まった。
この遺伝子が生じたのは約5800年前と見積もられるが、ヨーロッパの中では約99%の頻度を保っており、
おそらく20%に近い強い選択的優位性があったに違いない
実際これでスコットランドのピクト人が色黒であったというローマン人の印象が説明できるかもしれない
現在では、5800年前ではなく、約1万年前と考えられている。
p133
ジンギスカンと彼の息子たち
今日、中央アジアの約1600万人の男性が彼の直系であることが、独特のY染色体を持っていることによって示されている
p161
ほとんどのメキシコ人のY染色体はスペイン人に由来しており、一方ほとんどのメキシコ人のミトコンドリアDNAはアメリカ先住民のものであることが明らかになった
記述は誤りに近く、地域差はあるものの、概ね50から60%程度である。
p196
病気に関連する選択圧が低かったことを示す証拠の一つとして、アメリカ先住民の間でのHLA(ヒト組織適合性抗原)対立遺伝子群の分布が特異であることがあげられる
HLA系が最も重要な働きをするのは感染症においてである
p197
HLA遺伝子群は全ての遺伝子群の中でも群を抜いて変異が多い
しかし、アメリカ先住民にはその多様性が見られなかった。多くの部族は、50%以上の頻度で単一のHLA対立遺伝子を持つ。部族ごとに、支配的な対立遺伝子は異なる
p198
天然痘、はしか、ジフテリア、百日咳、ハンセン病、腺ペストなどのユーラシアの感染症が短期間のうちにアメリカ大陸に持ち込まれた。
突然こうしたなじみのない感染症の雪崩に見舞われ、アメリカ先住民は大打撃を受けた。ある推定では、アメリカ大陸の先住民人口は数世紀の間に90%減少したとされる。ほとんどの死亡原因は感染症だ。
流行病(特に天然痘)は、アメリカ先住民の武力抵抗を妨げ、その結果、スペインによる征服を短時間のうちに実現させた
【以下はwikipediaから
①天然痘
中国では、南北朝時代の斉が495年に北魏と交戦して流入し、流行したとするのが最初の記録である。頭や顔に発疹ができて全身に広がり、多くの者が死亡し、生き残った者は瘢痕を残すというもので、明らかに天然痘である。その後短期間に中国全土で流行し、6世紀前半には朝鮮半島でも流行を見た。
天然痘は、有史以来、高い死亡率、治癒しても瘢痕を残すことから、世界中で不治、悪魔の病気と恐れられてきた代表的な感染症である。痘瘡ともいい、天然痘ウイルスによる高熱、嘔吐、腰痛があり、全身に発疹する。すでに1万年前にはヒトの病気であったらしい[18]。天然痘で死亡したと確認されている最古の患者は古代エジプトの第20王朝のファラオラムセス5世であり、ミイラの頭部に天然痘の痘庖があることを確認している[18]。彼は紀元前1157年に死亡したとみられる。
②麻疹
p205
1980年にブラジルでヨーロッパ人と接触した800人のスルイ族のうち600人が1986年までになくなっている。死因のほとんどは結核だった
p214
乳糖耐性をもたらす対立遺伝子はヨーロッパ人が対立遺伝子の中で最も強く選択を受けたものの一つだ
p208
スペイン人は16世紀にフィリピン征服を始めたがそこでは人口の大減少が起こった形跡は全くない
p218
インド・ヨーロッパ語族
拡散が始まったのは青銅器時代前半(恐らく紀元前3000年頃)だと考えられる。紀元前2500年までには確実に始まっていた。なぜなら、インド・ヨーロッパ語族の言葉を話す人々の定住国家(ヒッタイト帝国)が数百年後に歴史的記録に登場するからだ
【
BC500~1000に朝鮮半島から稲作が日本にもたされた時代について、
①移住してきた原因は、多くの遺伝学論文の場合、気候の一次的な寒冷化とされている
②九州北部においてBC300年前後の縄文人タイプの人骨発見例はほとんど皆無である。
出典は、この論文による。歴史学者と異なる見解であり、文化の断絶があり、担い手は弥生人であるとする
③Y染色体ハプログループ分析では縄文時代終わり頃に人口の急減少があったとする遺伝学論文
これらから、朝鮮半島から当時は遺伝的に正常であった人々が九州北部に移住してきた際
①移住原因は寒冷化でなく、何らかの感染症?又は結核の蔓延を本能的に悟り、朝鮮半島を離れようとした
②それにより、土着の九州北部の縄文人は激減又はほぼ全滅し、混血した者のみが生き残った
このようなシナリオが浮かび上がる。
この古い論文では感染症による九州北部縄文人の人口減少を明記せず暗示的に述べるにとどまっている。しかし、上の赤字のように、フィリピンでは人口減していない。分かれ目は混血したかどうかである。この著作が正しければ、今日のメキシコ人の多くは男系祖先はスペイン人だ、しかしフィリピンではそうではない。日本人男性の3分の1以上の祖先は縄文人であることは確実であるが、Y染色体ハプログループ分析では縄文時代終わり頃に人口の急減少があったとする遺伝学論文
の推定時期が正しければ、その後のヤマト政権の東北地方への侵攻の結果として、生じた現象かもしれない
】
2010年
グレゴリー・ぺクラン
ユタ大学の人類学の非常勤講師 とこの翻訳書では書いている
ヘンリー・ハーペンディング
ユタ大学の人類学・集団遺伝学教授とこの翻訳書では書いているが、自然人類学と集団遺伝学は異なる分野なので?と思ったが、英文ウキペディア記事によれば本当である。
ヘンリー・ハーペンディング
ユタ大学の人類学・集団遺伝学教授とこの翻訳書では書いているが、自然人類学と集団遺伝学は異なる分野なので?と思ったが、英文ウキペディア記事によれば本当である。
p115
アメリカ先住民はほとんど感染症を経験しなかった
p116
ヨーロッパ人やその近隣の民族の肌の色に最も強い影響を与えていると思われる変異(SLC24A5の変異体)は驚異的な速度で広まった。
この遺伝子が生じたのは約5800年前と見積もられるが、ヨーロッパの中では約99%の頻度を保っており、
おそらく20%に近い強い選択的優位性があったに違いない
実際これでスコットランドのピクト人が色黒であったというローマン人の印象が説明できるかもしれない
現在では、5800年前ではなく、約1万年前と考えられている。
p133
ジンギスカンと彼の息子たち
今日、中央アジアの約1600万人の男性が彼の直系であることが、独特のY染色体を持っていることによって示されている
p161
ほとんどのメキシコ人のY染色体はスペイン人に由来しており、一方ほとんどのメキシコ人のミトコンドリアDNAはアメリカ先住民のものであることが明らかになった
記述は誤りに近く、地域差はあるものの、概ね50から60%程度である。
p196
病気に関連する選択圧が低かったことを示す証拠の一つとして、アメリカ先住民の間でのHLA(ヒト組織適合性抗原)対立遺伝子群の分布が特異であることがあげられる
HLA系が最も重要な働きをするのは感染症においてである
p197
HLA遺伝子群は全ての遺伝子群の中でも群を抜いて変異が多い
しかし、アメリカ先住民にはその多様性が見られなかった。多くの部族は、50%以上の頻度で単一のHLA対立遺伝子を持つ。部族ごとに、支配的な対立遺伝子は異なる
p198
天然痘、はしか、ジフテリア、百日咳、ハンセン病、腺ペストなどのユーラシアの感染症が短期間のうちにアメリカ大陸に持ち込まれた。
突然こうしたなじみのない感染症の雪崩に見舞われ、アメリカ先住民は大打撃を受けた。ある推定では、アメリカ大陸の先住民人口は数世紀の間に90%減少したとされる。ほとんどの死亡原因は感染症だ。
流行病(特に天然痘)は、アメリカ先住民の武力抵抗を妨げ、その結果、スペインによる征服を短時間のうちに実現させた
【以下はwikipediaから
①天然痘
中国では、南北朝時代の斉が495年に北魏と交戦して流入し、流行したとするのが最初の記録である。頭や顔に発疹ができて全身に広がり、多くの者が死亡し、生き残った者は瘢痕を残すというもので、明らかに天然痘である。その後短期間に中国全土で流行し、6世紀前半には朝鮮半島でも流行を見た。
天然痘は、有史以来、高い死亡率、治癒しても瘢痕を残すことから、世界中で不治、悪魔の病気と恐れられてきた代表的な感染症である。痘瘡ともいい、天然痘ウイルスによる高熱、嘔吐、腰痛があり、全身に発疹する。すでに1万年前にはヒトの病気であったらしい[18]。天然痘で死亡したと確認されている最古の患者は古代エジプトの第20王朝のファラオラムセス5世であり、ミイラの頭部に天然痘の痘庖があることを確認している[18]。彼は紀元前1157年に死亡したとみられる。
②麻疹
紀元前3000年頃の中近東地域が、最初の流行地であったと考えられている[3]。日本では、平安時代以後度々文献に登場する疫病の一つ「あかもがさ(赤斑瘡/赤瘡)」は今日の「麻疹」に該当するというのが通説である。
】p205
1980年にブラジルでヨーロッパ人と接触した800人のスルイ族のうち600人が1986年までになくなっている。死因のほとんどは結核だった
p214
乳糖耐性をもたらす対立遺伝子はヨーロッパ人が対立遺伝子の中で最も強く選択を受けたものの一つだ
p208
スペイン人は16世紀にフィリピン征服を始めたがそこでは人口の大減少が起こった形跡は全くない
p218
インド・ヨーロッパ語族
拡散が始まったのは青銅器時代前半(恐らく紀元前3000年頃)だと考えられる。紀元前2500年までには確実に始まっていた。なぜなら、インド・ヨーロッパ語族の言葉を話す人々の定住国家(ヒッタイト帝国)が数百年後に歴史的記録に登場するからだ
【
BC500~1000に朝鮮半島から稲作が日本にもたされた時代について、
①移住してきた原因は、多くの遺伝学論文の場合、気候の一次的な寒冷化とされている
②九州北部においてBC300年前後の縄文人タイプの人骨発見例はほとんど皆無である。
出典は、この論文による。歴史学者と異なる見解であり、文化の断絶があり、担い手は弥生人であるとする
③Y染色体ハプログループ分析では縄文時代終わり頃に人口の急減少があったとする遺伝学論文
これらから、朝鮮半島から当時は遺伝的に正常であった人々が九州北部に移住してきた際
①移住原因は寒冷化でなく、何らかの感染症?又は結核の蔓延を本能的に悟り、朝鮮半島を離れようとした
②それにより、土着の九州北部の縄文人は激減又はほぼ全滅し、混血した者のみが生き残った
このようなシナリオが浮かび上がる。
この古い論文では感染症による九州北部縄文人の人口減少を明記せず暗示的に述べるにとどまっている。しかし、上の赤字のように、フィリピンでは人口減していない。分かれ目は混血したかどうかである。この著作が正しければ、今日のメキシコ人の多くは男系祖先はスペイン人だ、しかしフィリピンではそうではない。日本人男性の3分の1以上の祖先は縄文人であることは確実であるが、Y染色体ハプログループ分析では縄文時代終わり頃に人口の急減少があったとする遺伝学論文
の推定時期が正しければ、その後のヤマト政権の東北地方への侵攻の結果として、生じた現象かもしれない
】
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