朝鮮と日本の自他認識
─ 13〜14 世紀の「蒙古」観と自己認識の変容 ─

井 上 厚 史

北東アジア研究. 別冊2017-09-13

高麗史が書かれた時点で既に朝鮮半島では、モンゴル軍侵攻時に私の推定で少なくとも85%以上の男性が死亡し、どうしようもないクズどものみが生き残り、李朝朝鮮が始まっていた。50年ものくだらん議論を経て、原資料が全く不明で史料批判に全く耐えない高麗史の記述を元にに議論しても無意味である。

朝鮮については『高麗史』『朝鮮王朝実録』をテキストとし、日本については『八幡 愚童訓』2『太平記』『神皇正統記』等をテキストとして、両国の自他認識のパターンの異同の抽出を試みる。

2 朝鮮の自他認識

高麗とモンゴルの出会いを、『高麗史』(孫暁主編『標點校勘本 高麗史』一〜十、西南 師範大学出版社・人文出版社、二〇一三)をテキストとして、直接の出会いと支配・被支 配がどのように記述されているかを概観してみよう。

『高麗史』に残されているモンゴル関係の記述を整理すると、以下のようになる4。

4 武田幸男編『朝鮮史』山川出版社、二〇〇〇、第三章「高麗王朝の滅亡と国際情勢」より作成。

2021-04-07
一二二五年の第一次侵攻から一二五八年のモンゴル軍への投降まで六度の侵攻を経験し た高麗は、一二七三年に済州島(耽羅)に逃れて抵抗していた三別抄の軍も鎮圧されるに いたると(三別抄の乱)、忠烈王は元朝への服属を決定する。その五〇年ほどの間に、高 麗はモンゴル軍との直接的交戦=衝突を経験し続けたことになり、それに関する記述も 生々しいものが多い。

【高麗史の原文が引用されている】
伏して皇帝陛下にお願い申し上げたいのは、天地父母の慈しみをもって小邦に 二心がないことをご理解くださり、軍隊を引き返して末永く小国を保護してくださいま すならば、私どもはさらに努力して誠を尽くし、毎年土産物をお送りして赤誠の心をあ らわし、ますます皇帝のお命が永遠に続くことを祝します、これが私どもの志でござい ます」(史料①下線部)と、モンゴル皇帝に対して「天」や「父母」と同様の絶対的服 従を表明する一方で、本音の部分では「いわゆる蒙古とは、猜忍なること甚だしく、そ れと講和を結んでも信用するには足らず、わが朝が仲良くしているのは、必ずしも本意 から出たものではありません」(史料②下線部)のように、モンゴル人を妬み深くて無 慈悲で信用できない民族と表現しており、両義的なものとして認識されていた。

(b)朝鮮から日本への国書には「わが国は蒙古大国に臣事することがもう何年にもわたっ ています。皇帝の仁徳は明らかであり、天下を一家とみなして遠近の差をつけることも なく、日月が照らす所はみんなその徳を仰いでいます」(史料③下線部)と記されてお り、また忠烈王のモンゴル皇帝への奏上文には「陛下が皇女を降され、聖恩によって撫 育してくださることによって、(わたしども)小邦の民はまさに安心して生きる望みが あります。……上国がどうしても軍隊を小邦に設置したいとお望みならば、むしろ韃靼 か漢人の若者の軍隊を多少を問わず派遣されて」(史料④下線部)と記されている。こ のことから、モンゴルを「大国」「上国」、それに対して自国を「小邦」と表現し、自他 認識は大小あるいは上下の範疇によって認識されていた。

(c)モンゴル皇帝に陳情した書面では、「弊邑はもともと海外の小邦であります。歴史が 始まって以来、必ず事大の礼を行い、そうして国家を保ってきました。それゆえ、近頃 かつて大金に臣事していましたが、金国が敗亡するに及んで初めて朝貢の礼を取りやめ ました。(しかし)丙子の年(一二一六)を過ぎると、契丹が大挙派兵してわが境域内 に乱入して好き勝手暴行しました。己卯(一二一九)になると、わが大国(元)が軍帥 の河稱と扎臘を派遣して領兵が助けに来てくださり、奴らを一掃してくださいました。 小国にとってその大恩はつぐなえないほどであります」(史料④下線部)と言っている ように、高麗は「海外の小邦」であり、大国に対して常に「事大の礼」を行って臣 事し、「朝貢の礼」を行ってきたことを認める一方、宗廟への祈告文では、「本朝は三韓の昔から、三方に向かって境界を争い、あらゆる一族が塗炭の苦しみを味わい、わが王 でさえも時には味わい、伏して人民の望みにしたがって義兵を起こそうと唱えると、四 方が声に応じて集まり、自然に帰順しました。しかし、混乱した時にもし謀反の徒がい れば、号令によって人を集めて蜂起し、剣によって三土を掃討し、合わせて一家にして きました」(史料⑤下線部)というように、塗炭の苦しみを味わうような侵略に対して はその都度「義兵」を起こして抵抗し、また国内の謀反勢力を掃討しながら統一を保っ てきたことが力説されている。

(2)朝鮮王朝建国時代の「蒙古」観と自己認識 では、朝鮮王朝建国時代のモンゴル(蒙古)認識はどのようなものだったのだろうか。 ここでは、『朝鮮王朝実録』(国史編纂委員会『朝鮮王朝実録』web 版 http://sillok.history. go.kr/main/main.do)をテキストとして、朝鮮王朝時代の蒙古に対する自他認識を確認して みたい。

(3)まとめ:一三・一四世紀における朝鮮人の蒙古観と自己認識の変容 以上(a)〜(g)までを総括してみると、モンゴルが高麗に影響を及ぼし始めた一三世紀初 頭から一四世紀末における朝鮮人のモンゴル認識は、「啓」などの公式文書においては 「天」「父母」「大国」「上国」などの用語が使われているものの、それは従来の中国への臣 従の形式を踏襲するものであり、朝鮮王朝に見られるような「聖朝」という言葉が使われ ることはなかった。そして朝鮮王朝では急いで中国との一体化(一視同仁)が強調されて いることを考えてみても、朝鮮人のモンゴル認識は、結局中国認識の枠を超え出るもので はなかったと言えよう。 さらに、中国との一体化の強調は、朝鮮自身を中国出自の民族である<箕子>という伝 統の創造にまで至っており、朝鮮にとって建国当初より<中国と一体化する>ことがナ ショナル・アイデンティティに関する最重要課題であったと考えられる。


4 結語 モンゴルとの出会いは、朝鮮では高麗時代の征服時にも<中国との代替>として認識し ようとし、政治的には臣従(臣事)しているものの、元が明に取って代わられるとただち に中国への臣従が復活する。さらに、以前にも増して<中国との一体化>が重要な政治的 思想的課題として認識されることになった。

一方、日本ではモンゴルとの出会いは「元寇」を神風=「神明」によって撃退したとい う認識を広範囲に生み出し、日本人の「神明」への帰依を要請したと考えられる。神道へ の関心の高まりは、やがて神道への絶対的帰依(神国思想の隆盛)をもたらし、結果的に <日本中心の世界観>が成立したことを物語っている。 北東アジア胚胎期(13〜14世紀)における朝鮮と日本の自他認識は、モンゴル侵攻を契 機として、朝鮮では<中国との一体化>を、日本では<日本中心の世界観>を、それぞれ 思想的課題として生み出した。しかし、それはあくまでもモンゴルと中国に対する自他認 識の変容であり、両国人の自他認識に「北東アジア」という新たな空間認識(世界観)を 生み出すまでには至らなかったと結論づけられる。