古代の高麗と日本
韓国文化院監修

韓国人どもが監修しているのであまり意味はないが、旗田氏が講演・対談している内容のみ少しメモしておく。


高麗がその時負担したのは船が900隻、船は全部高麗で作ったわけです。それから軍隊が六千。六千というのはその当時の高麗が招集できるぎりぎりの軍隊だったらしいです。
それから水夫を六千七百出しています

p60
結論を先に申しますと、高麗時代に日本と韓国との歴史の分岐点が出たのではなかろうか、

p65
(日本は)842年に新羅との国交も断っています。その後も商人の往復はあります。しかし、正式な国交は断ってしまうわけです。

【旗田氏はその理由ついては明確に触れていない】