日本の代表的な朝鮮半島通史で、以前も読んで別ブログで引用等盛んにしているが細かくメモしておく。著者に朝鮮人が一名のみであり、ましな内容である。)

日本は、遅くとも894年には完全に新羅と国交断絶しているが、当時の朝鮮半島は、全域が新羅の支配下には無かった点に注意すること 

1669年に、奴隷男と良人女との子は、奴隷ではないとする制度となったとのことであるが、四方博の研究結果では、その後も奴隷の減少は明確には見られない 

朝鮮史の最大の特徴である奴隷制に関する記述があまりにも甘すぎる点からして、著者の多くは帰化した朝鮮人と推定せざるを得ない 


第一章 古朝鮮から三韓へ 田中俊明
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p36
前漢末の統計によれば、戸数が6万2812、口数が4万6748となっており、漢全体の郡の中でも有数の規模であった。楽浪郡は前後400年余り継続するが

第二章 三国の成立と新羅・渤海 李成市
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p84
加耶諸国をめぐる百済と新羅の争いは、
ついに大加耶の滅亡をもって、562年に加耶諸国は新羅の手に帰した。ここにおいて朝鮮半島は文字通り三国がしのぎを削る時代へと突入した

加耶諸国を掌握した新羅は、564年北斉へ朝貢し
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p92
新羅は唐と連合して、百済・高句麗をあいついで滅ぼしたが、唐の勢力を朝鮮半島から撤収させるという容易ならざる課題を残した。唐は百済滅亡後に王族の(中国人名)を熊津都督に任命して、その故地に羈縻(きび)支配を行い、高句麗故地でも平壌に安東都護府をおいて同様の占領地支配を行っていた。また唐は高句麗遠征に際して新羅を鶏林大都督府とし、文武王を鶏林大都督とした。これは新羅もまた唐の羈縻(きび)州の一つであることを意味した。

p93
唐は674年に新羅征討群を送り、
新羅は謝罪使を送ってこれをしのぎ、676年に
唐軍を破りついに対唐戦争を収束させることに成功した
西方の吐潘との戦いに敗れたこともあって、唐は678年に新羅の征討を放棄した

p101
王都では反乱が頻発し、王位の簒奪が繰り返された。780年から新羅の滅亡に至る約150年間に即位した王は20にのぼった

第三章 高麗王朝の興亡と国際情勢 武田幸男
9世紀の末になると新羅の勢力はめっきりと衰え、半島東南部に孤立するだけになった。

p152
忠烈王は元帝室と血縁的に結びついて、「鮒馬・高麗国王」という破格の地位を獲得した。いまや忠烈王は、フビライを頂点とした「大元ウルㇲ」に属する「高麗国王」の地位を獲得し、大元ウルㇲの「投下」(アイマク)のなかの一首長として振る舞った。

p154
1287年元のノヤンの乱をきっかけに「征東行省」が復置された。征東の名称は残ったが、もはや日本征討にはこだわらず、高麗を管轄する<高麗「行省」>としての性格が強まった。(後期征東行省)。後期征東行省の長官はこれまでどおり忠烈王が任命され、その後の国王もまたみな行省長官を踏襲した。
彼らは
「国王・丞相」と称された。服属時代の国王は高麗の「国王」であり、同時に元の「丞相」(長官)でもあって、一身に二つの権力を兼ねもつ国際人として同道した


第四章 朝鮮王朝の成立と両班支配 山内弘一

p173
近代になってハングルと呼ばれて民族文化の象徴とされるこの文字も、当時は宮中や両班の婦女子が使う程度で、知識人は一般に漢字漢文を真文と呼ぶのに対して諺文と呼んで軽視し、初等教育の場や女性に対する書簡などに使用するにとどまった

p178
両班の語は、社会の中で官僚を輩出しうると認識されている知識人の階層を漠然と意味するようになり、
彼ら自身は士族と自称することが多かった。

p180
朝鮮社会の身分制は、法制上は良人と賤民よりなる良賤制をとったが、実際には複雑な社会的階層が存在した。通例、両班のほかに、中人、常民、賤民の三階層があったとされるが、

p181
明に対して
(年)4回定期的に朝貢使節を派遣し、
このほかにも
臨時の臨時の諸使節があった
しかし、明が要求する歳貢の馬匹や金銀の調達に人々は苦しみ、ときには未婚の娘や宦官の進献を求められ、早婚の風が生じる一因となったともされる

p188
在地の両班は、邑ごとに親睦の為の組織を持ち、組織の名簿を郷案
郷案に名が載ることが、その地域で本人や一族が両班である一つの証拠でもあり、入録には両親、妻の父の家柄が厳しく審査された

p213
それまでは父母どちらかが奴婢であれば子も奴婢とされたが、1669年に良人の母から生まれた奴の子を良人と認定する従母役法を定めた。従母役法は党争とも絡んで改廃を繰り返したが、1731年には定着し、
1801年には官奴婢を解放した

p216
農民の負担は限界に達し、各地で流民化する者も多く、都市に流入したり、山地で焼畑を営む火田民となり、