昭和49年にシリーズで発刊された。この頃は、日本では、朝鮮半島史は単独では成立していない。中国史の一分野という位置づけである。研究者が断絶してしまい、ほとんど存在せず、その後、在日の歴史創出家により美化運動が開始されたようだ。記述内容は、ほぼ全てが、一次資料を「高麗史」に依拠していると推定されるため、一部混乱がある
宋代の高麗王朝
p113
王建の建国
900年、完山(全州)に都し、後百済王と自称した
高麗と後百済との抗争は後者に有利に展開していたが
こうして朝鮮全土の統一は、太祖の即位後19年にしてようやくなった
p119
階層社会
官人は、地方官として赴任する者以外は国都開城に集まり、全国の良民や賤民が
収めた富を消費した。官人はまた、その地位に応じて、国家が所有して宮殿の下吏や雑役に使用していた官奴婢を支給され、また、彼ら自身が私有して雑役・家事・土地の差配などを行わせる私奴婢をもっていた。
p120
賤民の最下位にあったものは奴婢で、かれらは売買・入質・相続の対象となった。奴婢は財産として土地よりも重んじられたが、良民と奴婢との間に生まれた子は奴婢に入れられ、また、本人が奴婢の身分を開放されても孫以下は奴婢であった。
p121
高麗朝では、血統は父系のみならず、祖母・母・妻などの外族のそれも重視された。もし血統に少しでも賤民の血が混じると、社会的に卑しめられ
高麗期の兵制は、
4万2千の兵員を有したが
高麗が元の属国となるやモンゴルに倣って万戸・千戸・百戸の編成が行われた
p122
国家によって開城の内外や各地の名山に多くの寺院が建立され、広大な寺田や多数の奴婢が施入された。僧侶になると租税や力役を免除されるので、僧侶になることを望む者が多く、国家はそれを制限しなければならなかった。
高級僧侶は貴族同様の生活をしたが、下級の僧侶は雑役に従った。寺院は自らの権威や財産を守るために僧兵を養い、貴族の権力争いにも介入した。寺院はまた皇族貴族の清遊の場所でもあった。高麗の仏教は内容的には未熟で祈祷仏教に過ぎなかったが、
p123
朝鮮の支配者は中国の支配者から冊封を受けることによってその地位を承認され、国内において自己の権威を重くすることができたからである
p125
高麗では契丹を北朝と呼び、力の相違から臣礼をとり、宋を南朝と呼んで文化を輸入する立場から、北朝に秘して、事実上の朝貢という形式をとり、両属の関係が成立した。
p126
とりわけ宋と高麗の経済関係は密接で、宋船の高麗への渡航は盛んであった。しかし、南宋への公式の遣使は1136年を最後に杜絶した
p131【記述内容は、矛盾するが、「高麗史」を一次資料としたためである。「元史」の記述が正しいであろう。】
高麗はこれを防ぎ、モンゴル・蒲鮮万奴の軍と、契丹人を大同江畔の江東城に挟撃して、これを掃滅した(1191年)
高麗はこれによりモンゴルに対して歳貢の義務を負う兄弟国となった。ところが、1225年(高宗の12年)貢物を取り立てる使を義州の近くで暗殺したので、高宗の18(1231)年、サルタイの率いるモンゴル軍はこれを口実に高麗に侵入し、開城を包囲し、
高麗は降伏して莫大な贈与を行った。そこでサルタイは攻略した諸城にダルガチ(政治を監督する役人)を配置して引き揚げた
p133
半島独特の山城を根拠にした抗戦は相当にモンゴル軍をてこずらせたと考えられる。当時、モンゴル軍に対する抵抗は、
農民反乱や奴隷を含む広汎なもので、その頑強な戦いは、その後のモンゴル・元帝国の高麗に対する政策に多大の影響を与えたのである
p134
フビライが立ち
高麗に対する従来の強圧的な政策を止めて懐柔策を取り、征討の軍を止め、太子典は帰国して王位についた。(1260年)。これが元宗である。高麗はモンゴルの属国となり、以後
8代90余年の間、その制御を受けることとなった。
太子は、人質として元の大都(北京)にとどめられ、王の死去、譲位の場合は元の大都で即位して帰国するものもあった。
高麗王室の者はみな元風の名前を称し、風俗も元にならい、宰相以下の官人はことごとく弁髪を結い、元の服装をし、国内ことごとく元の衣冠を着けた。
日本遠征遂行のため、高麗に征東行省が至元17(1280)年を最初にしばし設置されたが、至元24年以降は元の高麗統制の機関として常置され
p135
1368年中国に明王朝が起こり、元朝はモンゴル高原に退いた。これが北元である。高麗は明とは洪武2(1369)年から交渉を持つようになり、翌年にはその冊封を受けた。
高麗は北元とも関係を継続し、朝廷は親元・親明の二派に分裂し、明朝の高圧的態度もあって、旧勢力の親元派が力を持つようになり、北元覆滅後の
(1388・洪武21)年、遼東攻撃を企てた。将軍李成桂はその無謀を知り、
軍を回し、親元派を一掃し、土地制度を改革して勢力を固め、1392年、ついに高麗王朝を倒して李氏朝鮮を立てた
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