高麗史日本伝 
武田幸男 編訳
岩波文庫

以下は、韓国人どもが、中国の正史を真似て作成した高麗史の原本中から武田氏が日本関連部分を抜粋したもの。元寇に関する歴史家の記述の根拠を見れて興味深いが、韓国人どもの記録として意味ある箇所のみメモする。武田氏による詳細な注書きがある

高麗史(紀伝体)及び高麗史切要(編年体)に関しては、この韓国内ウェブサイトで一応検索できる
ただし、異体字は含めて検索できない、検索結果は、中国正検索サイトと異なり、ごく一部しか表示されない等実際にはあまり役立たない

洪茶丘での検索結果例
文永の役での造船は全て全羅道で行われたことになっている

高麗史節要 卷19

元遣使來, 命發軍五千, 助征日本. 時, 全羅州道造船, 洪茶丘所領監造軍供給不足, 輸東京 晉州道內米, 與之. 王患徭役之煩轉輸之弊有防農務, 遣上將軍 李汾禧, 往說茶丘. 茶丘頗然之, 每一船留五十人, 其餘悉放歸農.


上巻p22
高麗史の編纂は高麗朝の滅亡した年のうちに(武田氏は明記していないが、編纂はすぐに開始された)
朝鮮・太祖4年(1395)に
これ以降半世紀に及んだ「高麗史」編纂過程を通じて、これがいわば第一次高麗史に相当する

上巻p24
高麗史は半世紀の歳月をかけ、5次の編纂過程を経て誕生した

上巻p28
(各王の記録である高麗)実録をはじめとして、「高麗史」の主な典拠はほとんど現存していない

p32
「高麗史」列伝には外国伝がなく、もちろん日本伝もない

p158
[家138][家139]
忠列王7年
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[家138]
上の原文中の 公主 とは、モンゴル皇室の娘のことである。原文から見る限り、どこをどう見ても、朝鮮人どもの方から、「娘婿」になるべく、要請したとしか読めない。

同じような娘婿方式は、中東方面でも行われているが、差があるように思える。

[家139]
忠列王7年

武田氏注釈の趣旨
高麗王は、従来は、モンゴルの使者に対して、北に座り、南面できなかった。

(日本人歴史家ですら、「娘婿」に対しモンゴル大官は臣下の礼をせざるを得なくなった旨の記述をする場合が多いが、単に形式上、韓国人どもの王は南を向いて座ったのに対して、洪茶丘は特段不服をを言わずに東を向いて座ったので、韓国人どもが大喜びしたとあるに過ぎない。洪茶丘からすれば、くだらん形式と考えたのであろう。一次資料を自分で確認すると、全然違う!)

p191
武田氏注釈より
忠宣王は高麗第26代国王
モンゴル諱はイジル=ブカ

①この注釈にあるように、元の首都で、娘婿として幼児から成長した場合、果たして、朝鮮語で完全に意思疎通できたのかどうかすら疑わしいように思える
②武田氏は、明示していないが、恐らく中国の一次資料からモンゴル名の諱を探し出したのであろうか?だとすれば漢字のはずだ!

p192
武田氏注釈より
忠粛王は高麗第27代国王
モンゴル諱はアラトナシュリー
(以降の歴代の朝鮮人どもの国王は、モンゴル名の諱を有している。)

下巻
p27~28
[伝007]
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[伝008]
武田氏注釈より
高麗前期の正規軍はほぼ4万5千
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武田氏の読み下し文よりみて、モンゴル侵攻時において、朝鮮半島の人口が、大幅に減少したことは、ほぼ確実である。

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