著者の方は、1971年~1975年まで4年間も古陶芸を求めて韓国に滞在、1975年~77年は、ヨーロッパを巡ったそうで、「最後のマヤ民族」(新潮選書)の著者である。この本を見て、イザベラ・バード・ビショップが、朝鮮半島には美術工芸は何もないと断定していたことが、やはり真実であったことを再確認するとともに、朝鮮の陶磁器関連本に出てくる陶磁器は、日本流に言えば、(公開されていないが)皇室の所蔵品・徳川家の私蔵品に等しいランクであったことを知った。それでさえこの程度のレベルだが、その価値を見つけたのが、日本人であった
著者の方は気づいてはいないが、

①P31の記述からも高麗磁器は、モンゴル侵攻で、職人が捕虜として連行され、技術の伝承が途絶えたことは確実②その後の李朝の白磁器は、単に顔料がなかっただけ。そして、朝鮮半島製であるとされている磁器も中国からの輸入品である可能性があること
p3
これらの焼き物の技法はその王朝の滅亡とともに途絶えて久しく、半島の人々にあまり顧みられなかった品々です。ことに高麗磁器はほとんどが明器として死者と共に副葬品とされてしまっており、半島でも近年まで高麗時代に青磁があったことを知る人は少なかったようです。これらの古磁器が再び陽の下によみがえるきっかけを作ったのは日本の熱心な研究者・美術工芸愛好家でした

p4(1916年頃のことである)
柳宗悦氏は
李朝陶器への系統は大変なもので
朝鮮民族美術館の設立を成し遂げました。当時半島の人々は古美術などにあまり関心はなかったようです
柳宗悦氏たちが朝鮮民族美術館設立を思い立った頃、半島側からの思いがけない反対に出会ったということです。下卑の人々が作った品々で朝鮮の美などと語ってもらっては甚だ迷惑だということでした

半島では明器(副葬品)や古い物、汚い物、破損品には鬼神がつくと古くから信じられ、忌み嫌われていたのです

p5
陶磁器は古くから副葬品にされていましたから、それを作る人々は明器づくりとして蔑視され、社会的な地位も低くみられていました。
古陶磁器
その主な供給者は盗掘者たちでした

p31
青磁は1250年頃を過ぎると坂を転げるように衰退していきます。
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(著者によれば、上の磁器は高麗時代の崔氏武臣政権の創始者の息子の)
墓に副葬されていたものです。出土地は江華島で、土砂採掘の際に発見されました
p47
李成桂は高麗の衰退の理由を過度な仏教依存にあったと考えました

p51
中国ではすでに10世紀頃に硬質の白磁が焼かれています
李朝では
盛んに青花磁器が輸入されるようになりました

p74
高麗時代庶民が青磁器を所有することは厳禁でした。禁を犯した者は重罪を課せられたと言います

p150
高麗も李朝も古陶磁器には製作した窯や作者の名が記されていないのが普通です。
陶工たちの身分は一般庶民より低く賤民だったとよく言われます

p151
陶工の身分は良民に属していましたが、人々の意識では芸人などとともに卑しい職業とされ、良民の中でも一番下層階級として蔑視されていました

西洋や日本でも官窯のやきもの師は、高技術者として優遇されています。それが李朝では最下層とはどういうことなのでしょう。