古い内容であるが、屯田軍の存在は、人口の急減を示唆する
p22
テムジンが9歳の時
習慣に従って、テムジンはブルテの家にとどまって働くことになった
(この記述は、元朝秘史が出典と思われる。高麗国王は、元の燕京で生長した後、モンゴル帝室の娘と結婚、そのまま留まっているのは、モンゴル人の風習)
p45
1204年
おそらく、ナイマン征伐の前後頃から、ウィグル文字はモンゴル族の間に採り入れられたものと思われる
p47
現在のモンゴル文字は、このウィグル文字にやや変更を加えたものに過ぎない
p50
歴史家は1206年をもってチンギスカンの正式の即位の年とすのである
p53
チンギスカンはモンゴル遊牧帝国を千戸制ーー千人の隊士を徴集しうる部落・部族を基本的社会単位とし、百戸、十戸をその下部構成とする社会組織ーーを母体として軍事と行政との機能を発揮するように再編成したのだった。言い換えれば、チンギスカンは。この千戸制を基盤にモンゴル帝国を建設したのであった
この千戸制の仕組みによって、これまでモンゴルの遊牧民の間に根強く残存していた氏族制も次第に千戸制に止揚され、チンギスカンを頂点とする封建体制が整えられていった
千戸の上位には
万戸という軍団が編成されたが、これは社会的組織ではなく、全モンゴル軍を中軍、左翼軍(東軍)、右翼軍(西軍)の3大軍団に分かつ便宜上の軍事編成であった
p56
軍制には、一般軍制と親衛軍の軍制があった。
千戸を長官とする千人隊(大隊)を中核にして、その下に百戸を指揮官とする百人隊(中隊)、10戸を長とする10人隊(小隊)があり、また、千人隊の上には3千ないし5千人を一軍として、それを指揮する万戸長があった。これらの軍官は平時には当該部族ないし部落の部長・領主として行政上の責任者となる
p57
1206年に親衛軍1万人と定められて以来、この員数はだいたい元朝一代の定制となった
p175
(南宋征服軍についての記述)
モンゴル人、西域人、漢人、及び南宋の投降軍人など、様々な民族よりなる混成軍であったが、その中にはこれまでのモンゴル遠征軍と異なって、彼らが一番苦手であった揚子江上の水戦にも十分な訓練を経た水軍や
(中国側資料に基づく、上記の記述から類推して、高麗に侵攻したモンゴル軍も満州の女真族とモンゴル人の混成軍であったと類推しうるが、姜在彦に代表される在日朝鮮人どもの朝鮮半島に関する歴史創出家の著述では、高麗侵攻軍の内実は一切不明である。一体全体、40年もの間、モンゴル軍に抵抗できるものなのか?他のモンゴル侵攻地域では全然見られない現象であり、朝鮮本土と江華島の間の海流の流れが速いからとはいえ、その距離はたったの200m~300mに過ぎず常識的に見て明らかにおかしいが、在日朝鮮人どもの朝鮮半島歴史創出家は、おしなべて、そのように書いている。本当に、朝鮮本土と江華島の間の海流の流れが速いのか調べよう)
p193
p193
高麗は、6月中旬までに900艘の造船を終わった。征東軍の総数は高麗駐屯中の屯田軍5千、本国らの元軍1万5千の計2万名の他に、高麗の助征軍5、6千人、
p209
征東軍の大半は被征服民からなる混成軍であって。モンゴル軍はごく一部に過ぎなかったことは、
p212
世祖がなぜこれまで見たように、死の直前まで執拗なほどに、日本遠征を企図し続けたのか、について考えてみたい。一説では、世祖の日本遠征は日本と南宋との通交を遮断するためであったとも言われているが、第二次遠征は、南宋が滅亡した後行われ、その後も引き続き遠征が企図されていることは、これでは説明されないであろう。やはり冒頭にも一言した通り、日本を黄金の島と信じて、その黄金をや銀をに入れようとした経済的事由が第一であったと考えたい
p251
元朝治下では、奴隷・奴婢の類が他の王朝に比較して、質的にも多様性を帯び、量的にも膨大な数に上ったので、
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