神風という名称は、池内宏が初めて使用したはずであるが、まさにその通りである。今、日本人のDNAは、元寇以来の危機を迎えている。明らかに、DNA異常民族である韓国人どもとの遺伝的交雑を防がねばならない
p25
博多で中国人町を形成していたのである。日宋貿易の拠点が移った博多には、11世紀末にはチャイナタウンが存在していたのである、こうした動きは世界的に見ても早い事例である

p52
日本の中世社会では、私鋳銭以外の貨幣の鋳造は行われれず、中世人たちは中国銭を基本通貨として使用していた。
こうした状況は近世初期に江戸幕府が寛永通宝(1636年)を発行するまで続いた。中世における日本の経済発展に伴い、大量の中国銭が輸入された。あまりにも大量の中国銭が日本に輸出されるので、宋政府は一時その輸出を禁止したほどである
中国からの主要輸入品の一つは陶磁器であった

p90
文永11年(1274年)10月、日本遠征の準備が整い、遠征が決行された。
その兵力は資料によってまちまちであるが、
元軍が2万人
高麗軍が6000人で、計2万6千というのが、池内宏氏の説である

p140
1280年8月フビライのもとに
高麗国王忠烈王らが呼ばれて日本遠征の作戦会議が開かれ、
①祈都・洪茶丘は、元・高麗(洪茶丘が率いる高麗人投降者)・漢(中国北部の旧金領の人)の4万人を率いて、高麗の合浦から出発する
②氾文虎は旧南宋軍10万を率いて江南から出発する
③両軍は壱岐で合流する



p141
弘安4年(1281年)
元と高麗の連合軍4万人
高麗の合浦を出発した
元軍は日本に居住するため、生活用具や工作のための鋤・鍬まで積んでいたという