1926年にソウルに生まれ、日本統治下で教育を受け、1951年にソウル大学法学部を卒業し1975年にカナダへ移住した一般人の回顧録。この年代の人は日本語の読み書きができるので、ご本人が日本語で書いたものである。
(決定的に重要なのは、1945年時点で、著者のパク・チャンウンは既に19歳であった点だ。当時の実際の状況を知りうる年齢に到達している。これが、当時の実情である点に疑問の余地は全くない)
(決定的に重要なのは、1945年時点で、著者のパク・チャンウンは既に19歳であった点だ。当時の実際の状況を知りうる年齢に到達している。これが、当時の実情である点に疑問の余地は全くない)
p8
日本は、日清・日露の両戦役を勝ち取った余勢をかって朝鮮を手に入れた。これに対して、現代人が今の国際規約や国際観衆の尺度で当時を裁くのは不当である
p10
日本統治時代に日本の官憲に捕らえられて拷問され、裁判にかけられて投獄された人数及びその刑期と独立後に南韓又は北朝鮮でそういう目にあった人数とその刑期のどちらが多く長かったであろうかと。
p17
昭和17年(1942年)当時の朝鮮内における韓日間の人口構成を見ると、全国人口は2627万8232人で、うち朝鮮人は2552万409人(97.14%)、日本人が75万2823人(2.86%)。京城の人口は110万8441人で、うち朝鮮人は94万1101人(84.9%)、日本人16万7340人(15.1%)
p197
植民地時代の、朝鮮在住朝鮮人らは、当時このような通名を自ら望んだのではないけれど、この創始改名制度に反対しなかった。
戸籍の上では元の姓はちゃんと残っているのだから、姓を奪われたという非難は当たらない
p199
日本の朝鮮統治35年間の中、その後半期になってからは朝鮮人間に反日感情はなかった。家庭で親が子に対して「日本は悪者だから、お前たちがしっかり頑張って、朝鮮の独立を勝ち取らねばならぬ」と諭した者はただの一人もいなかったと思う
p200
現在の韓国国民は、時の朝鮮総督府が朝鮮人全体に対し、創氏改名を強要して、100%の朝鮮人がその強要に創氏改名せざるを得なかったと心得ているようだが、これは事実と違う。実際は、国民間に反日感情は全然見当たらず、総督府の措置に対して何ら反抗心を持たずに当然のごとくこれに応じたのだ。当時の朝鮮人は、日本の植民地支配は永遠に続くものと考えており、朝鮮独立の可能性など念頭になかった。
p203
日本政府は昭和13年(1938年)二月に、朝鮮人を対象とした陸軍志願兵制度を設定した。
400人の朝鮮人志願兵募集を公告したところ、意外にも3500名の志願兵殺到して、
志願者が
昭和16年14万4734名に激増し募集人員も5千5百名にまで増やしたという
p204
当時の朝鮮人口の9割は農民であり、そのほとんどがその日暮らしの小作農であった。
そのような農家の息子が日本軍に入隊すれば、彼の受け取る少額の俸給でもそれは直ちに親兄弟の生活を潤す(春窮期の憂いが消える)。と同時に近所界隈で社会的地位が高まる。村で幅を利かすことになるのだ。
韓国における反日感情というのは、植民地後期においては上流下流の階層を問わず全く見当たらなかったものである。この反日感情は終戦後、李承晩大統領が個人的偏見と政治的策略の元に煽りに煽った結果である。
p205
昭和19年4月から8月にかけて朝鮮では最初の徴兵検査を全朝鮮にわたり実施した。これが1925年生まれの朝鮮人徴兵一期生たちである。これに合格した者はほとんどが満州の関東軍に配属されたらしい。彼らは戦闘に参加する機会もなく終戦となって、ロシア軍に武装解除された後、朝鮮人らは日本人と区別されて無事帰国を許されたという。1926年生まれの僕は徴兵2期に当たり、
僕は当時、京城高等工業に在学中なので徴兵延期の特典を受けているうちに終戦を迎えた
p217
日帝時代の京城帝大には韓国人学生は少なく、日本人学生が大部分であった
p223
特攻隊に参加して戦死した朝鮮人隊員がいたという話を聞いたことがあった。この度その戦死者の名簿が手にはいいった。全員で14名で、年齢は18歳から28歳
p233
2003年2月6日付け朝鮮日報社説によると、韓国での紅灯街の年間売上総額が24兆ウォン(2兆4千万)に達し、これは国内総生産の(GDP)の4.1%にあたるという。この額は、電気・水道・ガス・水道事業を上回り、農林業業に匹敵する額である
その当時、日本の娘、朝鮮の娘を問わず、慰安婦の稼ぎに心を惹かれた者は多かったようだ。
戦地の慰安婦はたいてい1時間で兵1円、下士官1円50銭、将校と軍属は1時間2円、泊まりは将校で10円であったという。朝鮮人慰安婦が1日30人の兵をこなせば30円受け取って、業者と半々に分けると15円の稼ぎになる。ひと月休まずに働けば450円になる。1日15人の兵を取ったとしても225円である。その頃の兵の給料は、一等兵8円50銭、上等兵で10円20銭、伍長で15円だから、これに比べると慰安婦は兵の給料の20倍にも30倍にもなる。それで数年間勤めた慰安婦の中には、1万円近くため込んだ者もだいぶんあったらしい
(吉見先生の「従軍慰安婦資料」からみてもこの記述は正しいが、著者はどこで知ったのであろうか?カナダでは、「従軍慰安婦資料」は通常手に入らない)
p234
志願兵は毎年増えて、1941年には14万4732名に激増して、(400名の募集に対して)360対1の競争率を呈するに至った。これは当時朝鮮人の間に親日感情が高まったためではなく、軍に入隊すれば一定の給料が出るから、それが農村青年の家族の生活を保障できたためであったと僕は思う。しかし、この志願兵の給料は、慰安婦の稼ぎに比べると20分の一にもならなかった。これが朝鮮の娘たちをひきつけた要因であろう
p258
僕は思う。今韓国では民族主義が真っ盛りで、反日・反米主義がまかり通っているが、ホンモノの日帝時代、特にその後半期には反日主義は見かけられなかったのだ
p260
次に重要なことは、終戦後南韓の李承晩・朴正熙・全斗換の右翼独裁政権と北の金日成親子の左翼独裁政権が、国民を弾圧、拷問、投獄し、または不正腐敗、
を追求して、これを処罰することである。その犯罪の規模とその残虐性は、日帝時代の状況をはるかに上回るものである。そのような民族反逆者らが、今も大きな顔をしてソウルや平壌の街を闊歩しているのだ。
を追求して、これを処罰することである。その犯罪の規模とその残虐性は、日帝時代の状況をはるかに上回るものである。そのような民族反逆者らが、今も大きな顔をしてソウルや平壌の街を闊歩しているのだ。
韓国人らは民族主義という哲学ならざる哲学を振りかざして、同族が弾圧、喝取、虐殺する国家権力の犯罪には目をつぶり、日本人の韓国侵犯だけを声高にあげつらう。これは価値観の順位の喪失であり、哲学の喪失である。これが分からない民族は自治能力なき劣等民族と断定せざるを得ない。
p261
統治後期は独立の動きはなく、とみに平穏
朝鮮が日本に合併されてから20年後の1930年頃、朝鮮の近代化作業は相当進展し朝鮮人の生活水準も向上した。海外の独立志士らは外交的にも軍事的にも何らの成果もあげ得なかった。国内で独立を主張する個人も団体も見当たらなかった。国内学生の抵抗運動も1926年の6.10 万歳事件以後は影を潜めた。たまに学生らのサークル運動が摘発されることがあったが、全て小規模の読書サークルに過ぎず、彼らが裁判に回されても、その判決はたいてい懲役1年以内だった。(解放後、朴正熙時代には学生たちに10年とか無期とか死刑の判決もしばしば見られたものである)
世は日本統治下にとみに平穏であった。南韓で親日派を糾弾する若者たちの父母や祖父母の中に、当時反日運動に挺身したものは一人もいなかったはずだ。
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