在日朝鮮人の朝鮮専門家のソウルの歴史であるが、明らかに美化しており、やはり欺瞞が多い。FDAの論文と調べたデータ結果から、人類史上まれにみる劣悪遺伝子集団と言い切ってよい。

従って、不断に自然淘汰の圧力がかかる。李朝朝鮮末期に人口は、明らかに減少傾向にあった。世界的に見ても同時期に中緯度地帯に住む民族として、天災や内乱・戦争等がなかったにもかかわらず、人口が減少傾向を示した唯一の集団であることがその証拠だ!

1910年以後、爆発的にその人口を増やしてしまったのが、我々日本人だ!劣化の原因は、恐らく、13世紀のモンゴル軍侵攻と30年以上にも及ぶ激しい抵抗に伴う大幅な人口減であろう。

鎌倉時代には、日本でさえ人口は若干減少しており、その原因は恐らくは世界的な又は東アジアにおける一時的な気温低下だ。朝鮮半島では、モンゴル軍侵攻と気温低下のダブルパンチにより、私の推定で、最低でも当時の人口の85%以上の減少が生じているはずである。

p13
今はソウルが、韓国の固有名詞になっているが、本来その意味は、国都又は首都を言う普通名詞である。だから高麗のソウルは、開城、その前時代である新羅のソウルは慶州と言うことになる

p36
30年にわたる抵抗を続けて、ようやく高麗の国号や王権を保つことができた。ところがそれ以来高麗国王は、元帝室の王女を王妃として娶り、燕京に往来して王都を留守にすることが多くなった。政府内部では親元派が実権を握り、なかには元帝にこびて高麗の国号を廃し、元の一省にすることを申し出る者さえ現れた

p44
朝鮮という国号

1392年7月 略 李成桂は、略 明の皇帝に 略 (高麗王からの)禅譲を受けたいきさつを述べ、その承認を求めた。略 明の皇帝は、略 国号を改めて報告するように要請してきた。
朝鮮と和寧 略 いずれかの裁決を要請したところ、「略 朝鮮」と回答してきた。1393年にこれを国号として公布した

p49
現実問題としては、北朝鮮では「韓国」と言うのが禁句であるように、韓国でも「朝鮮」と言うのは禁句である

p55
今でも韓国では日本の火葬と違って土葬が一般的であるが

p58
四夷とは異なる「小中華」を自負したりしたが、略 朝鮮人は女真族をオランケなどといって伝統的な蔑視感を持っている

(姜在彦はごまかしているが、女真族を日本語訳では野人と呼んで蔑視していた。その蔑視していた清朝に簡単に征服されたがゆえに小中華となってしまったのだ)

p76
世宗は全国の仏教教団を禅宗と教宗の二宗に統合し、寺院も両宗それぞれ18カ寺を残して廃寺とし、それに所属していた土地や奴婢を没収して国家財政の基礎を固めた

p124
それに合格した者が、儒教教育の最高学府である成均館に進学する

p130
(シャルル・ダレの「朝鮮事情」を引用している)
両班の数は 略 両班階級の人口が途方もなく増加したため、彼らのほとんどが極貧に陥り、強奪や搾取で生活しなければならなくなったからである。彼らは 略 あまりにも高慢であり、貧窮と奸計の中で無為に世を送る。彼らはいつも借金で首が回らず、何かちょっとした官職の一つも回ってこないかと首を長くしており、それを得るためにあらゆる卑劣な行為を尽くし

p146
朝鮮からは江戸時代に、12回の通信使を日本に派遣している。
(1617年が最初で、京都まで、1811年が最後で対馬まで。それ以外の10回は全て江戸まで行ったそうだ)

p170
つまり1428年に既に漢城の人口が10万名余りとなっているのに、それから220年が過ぎた1648年の人口が10万足らずとなったのには、1592年ー1598年の豊臣秀吉軍、1636年の清軍のソウル占領によって人口が激減したことに起因している

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p189
町人文化の欠如

そもそも朝鮮の両班政治の下での産業政策は、農本主義であって

p207
ソウルには両班人口の数倍又は数十倍の奴婢がいたとみてよいであろう。
略 婢女のばあいは、その所有者である両班の性欲のはけ口ともなった。
略 その子供は母の身分に従って奴婢にされた

p209
1894年7月の甲午改革の時、略 奴婢制は終止符を打った。略
白丁をはじめとするの賤民に対しても、同じく1894年7月 略 制度的な差別は撤廃された。

【この記述は完全な誤りである。白丁は奴婢ではなく、常民の最下位として位置づけられるものだ。】

p246
韓国人の感情の起伏の激しさと、それを抑えた日本人の穏やかさとは、異文化としての「情」の文化と
「間」の文化とのカルチャーギャップであろう

p318
大韓民国のラストエンペラーは、厳密に言えば、1907年7月20日、第26代高宗に代わって皇帝となり併合を迎えた第27代純宗である

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