国立遺伝学研究所教授の著作であり、ダントツで優れた内容

p27
情報量が圧倒的な常染色体
10年位前までは、現代人の進化を探る場合には、ミトコンドリアDNAとY染色体を調べる研究が一般的だったが
ヒトゲノムは、全体として塩基数として32億個あるが、両親から伝わる常染色体上で、遺伝的個体差がある部分に限れば、その塩基数は400万個ぐらいになる。最新の技術では、これらのうち100万カ所ぐらいを一気に調べている

(耳垢について)
p43
日本、中国、韓国という東アジア地域において機能を失った乾型タンパク質を作る突然変異遺伝子の頻度が極めて高いのは、自然淘汰上有害でも有益でもない遺伝的浮動の結果ではないかという可能性が浮かぶ。
自然淘汰よりも中立進化を考えた方が妥当なのかもしれない

(2重構造モデルについて)
p76
このモデルは、人骨の形態を研究した山口敏や埴原和郎が1980年代に定式化したものだ

(縄文人DNAと現代人との主成分分析法によるものとして)
p101
三貫地縄文人は現代日本人からぐっと離れたところにある。別の言葉で言えば、現代日本人は縄文人と東アジア大陸人の中間に位置していることになる。

(この部分の記述は、主として、下記の神澤氏らの論文に依拠している。図も全て下記論文による

P109
現代日本人の、縄文人と弥生人の比率は

私たちの研究グループが、(略)現代人のゲノム規模SNPデータを用いて、縄文人のゲノムが伝わった割合を14~20%と推定している。(略)全く別の統計手法を用いた中込らが2015年に発表した論文では、(略)22~53%と推定した

P145
計算の結果、ヤマト人については、今から55~58世代前に混血が開始され、(略)ここで1世代とは、両親が子供を産んだ時の平均年齢である。(略)世代数も1世代の年数も幅を持たせると、混血が始まったとされる時代は、最も新しくて1375年前、最も古くて1740年前となる。(略)これら混血が始まった年代は西暦3から7世紀となり(略)

p126
2008年には、東アジアの多数の人類集団のこれらSNPデータを比較した論文が、米国のグループによって発表された

(下記論文であり、この日の記事でメモした
日本でも、理化学研究所の中村祐輔・鎌谷直之らのグループが日本列島に居住する7000名についてSNPデータを産出し、やはり2008年に解析結果が発表された
(下記論文で引用数は多い。

p136
(この辺りの記述は全て、下記論文によっている。私も精読した論文だ

主成分分析の結果そのものは、ソフトウェアが生成するものであり、客観的だが、その解釈は研究者の知識や憶測に左右される

p137
(下のこの図は、主成分分析法によるサンプル各個々人のプロット図のことで、この本では、図が単色で非常に分かりずらいので、斎藤教授の記述根拠である下記論文の画面コピー付けておく


著作では単色で掲載
saito
この主成分分析結果は、アイヌ人に、全然別系統の要素が存在することを強く示唆する。本土日本人+琉球人+朝鮮人+中国人は、概ね直線ライン上にある。恐らくこれが正しい。私が精読した同じ筆頭著者の論文
の最後で示唆しているアイヌ人のロシア・アムール川流域民と日本列島土着の縄文人との混血かもしれない説をはっきりと裏付ける図である。即ち、アイヌ人自体が混血であったのだ。斎藤教授は明言を避けている。
この図の最大の特徴は、朝鮮人が本土日本人とかなり離れている点だ)

この図では、アイヌ人の個体間のばらつきが大きいので、遺伝多様性も大きいように見えるが、個体の遺伝的多様性をはかる尺度である「平均ヘテロ接合度」でみると、これらの集団の中ではアイヌ人が最も低い。人口が少ない集団の方が遺伝的多様性が低いことが予想されるがその通りになっている

p145
計算の結果、ヤマト人については今から55~58世代前に混血が開始され、現在のヤマト人には、14~20%の割合で縄文人のゲノムが伝わっていると推定された。
混血が始まったとされる時代は、最も新しくて1375年前、最も古くて1740年前となる。
これら混血が始まった年代は西暦3~7世紀となり、日本列島中央部では古墳時代から飛鳥時代となる
この時期は大和政権が東日本から東北地方に勢力範囲を拡大していた時期である。日本書紀のこの時代のものとされる叙述には、頻繁に蝦夷(えみし、えぞ)が登場する。

p146
西暦660年前後には、660隻の大軍勢で蝦夷を討ったり、蝦夷が200人朝廷に参上したり、

P149
渡来人の人数を推定する
1個体あたりの成熟に達する子供数の平均をWとする。(略)最初の人口がNであったとき、T世代後の人口は、N×WのT乗となる。(略)1世代を30年とすると、5世代前は150年前となる。(略)世代あたりの増加率Wは1.31になる。

P150
西暦815年、平安時代前期を考えよう。木藤博によればその頃の日本の人口はおよそ550万人と推定されている。

P151
小山修三は、住居跡の数から、縄文時代晩期の日本列島中央部の人口を約8万人と推定している

(斎藤教授は、下記を本書で提唱されているが、その根拠となる論文を明示していない。jinamらによる未発表論文としている。)
p165
ヤポネシアへの三段階渡来モデル

第一段階:約4万年前~約4400年前
旧石器時代から縄文時代の中期まで
第一波の渡来民がいろいろな地域から様々な年代に日本列島の
全体にわたってやってきた

第二段階:約4400年前~約3000年前(縄文時代の後期と晩期)
日本列島の中央部に第二の渡来民の波があった。彼らの起源の地ははっきりしないが
第三段階の、農耕民である渡来人とは、第一段階の渡来人と比べると、ずっと遺伝的に近縁だった

第三段階前半:約3000年前~約1700年前(弥生時代)
弥生時代に入ると朝鮮半島を中心としたユーラシア大陸から、第二波渡来民と遺伝的に近いが少し異なる第三波の渡来民が日本列島に到来し、水田稲作などの技術を導入した。
(斎藤教授がこの本を書かれた時点で既に弥生時代の始まりは、従来の紀元前3世紀から紀元前10世紀頃=3000年前であると修正されていた。)

第三段階後半:約1700年前~現在
第三波の渡来民が、引き続き朝鮮半島を中心としたユーラシア大陸から移住した

P194
人の染色体の本数は46本だが、このうちの半分、23本が1ゲノムに相当する。

P195
これら一つ一つの場所を専門用語では「単一塩基多型」あるいは英語の略称を使ってSNPと呼んでいる。一人のヒトゲノム中には、400万前後のSNPが存在し、他人と異なっている。これは32億個の塩基からなるゲノム全体から見ると0.1%ほどにしかならないが(略)これらSNPの大部分では、その塩基配列の変化は表現型には影響しない。このためこれらの進化は、淘汰上中立な突然変異が偶然によって変化する「中立進化」によって生じていく。

P202~203
ヒトゲノム中のある特定のDNAの場所には、A,C,G,T4種類の塩基のうちのどれかが存在するが、ほとんどのDNAには個体差がなく、どれか単一の塩基だけである。ところが多数の個体を調べた時に、1000に1個ぐらいの頻度で複数の塩基が見られることがある。これがSNP(一塩基多型)である、ほとんどの場合には4種類のうちの2種類の塩基(例えばAとG)が一つのDNAの場所に見いだされる。

(長くなるので要約すると、上記A,Gについて、A=アデニンを基準にすれば、ホモ接合体AA=0、ヘテロ接合体AG=1、ホモ接合体GG=2と数字に変換できる。)

このような数字の列が数十万カ所のSNPに対応して並べれば、1個体のSNPデータを表現することが出来る。 (略)横にSNP座位の分だけ数十万個、縦に比較した個人の数だけ数千個並んだ行列ができる。どの数字も0,1,2のどれかである。

SNP座位はとても多く、我々の興味は個人間の遺伝関係なので、(略)この行列から(略)比較された個人がN人であれば、N×Nの行列ができる。(略)SNPデータに基づく個人間の遺伝距離である。

(これ読んで、主成分分析法によるプロット図の作成方法が初めて本当によくわかった。)

P204
SNPはそれぞれの塩基の頻度が長い進化の間に偶然に上がったり下がったりする。この中立進化の状況を専門用語で「遺伝的浮動」と呼ぶ