朝鮮新式戸籍関連資料の基礎的研究( 5 )
─国立歴史民俗博物館所蔵1904年全羅北道任実郡下雲面戸籍─
山内 民博
朝鮮時代、戸籍は各邑(郡県)で 3 年ごとに作成されていたが、甲午改革をへた1896年(建 陽元年) 9 月に戸口調査規則・戸口調査細則が制定され1)、新たな様式の戸籍作成がはじ まった。この新式戸籍(光武戸籍/近代戸籍)は1908年にかけて毎年作成され、220冊程度(戸 籍及び統表)が現存している
任実郡は朝鮮半島の南西部、全羅北道に属し、1904年時点でいえば北は全州郡、南は南原 郡と接していた。任実郡には当時、18の面(郡の下位の統治単位)があり下雲面は郡の 北西の山間に位置した
戸籍に収録されているのは、242戸、737人(男407人、女330人)であり、 1 戸 あたりは3.05人となる
その戸主の職業を整理したものが表 7 である。「農」がほと んどを占めるのは地方の新式戸籍にはよくみられる傾向であ る。それ以外では「進士」が 2 人、「士」が 2 人、「商」が 1 人 となっている。「進士」は朝鮮では科挙の小科(司馬試)のう ち進士試の及第者をさすが、しばしば小科の生員試及第者も進 士とよばれた。
「士」は士大夫・士族・士人などを意味するが、旧式戸 籍の職役としては確認できない。新式戸籍では『慶尚南道丹城 郡南面元堂里培養洞戸籍』などに記載例がある(손병규2005: 205-207)。「商」も旧式戸籍の職役にはあらわれないが、新式 戸籍では職業として記載されるようになった
表 8 は姓貫別の戸主数を示している。姓貫、すなわち姓と本 貫(祖先の出身地)は父系の血縁によって継承され、朝鮮時代 後期には姓貫に象徴される父系血縁集団の組織的紐帯が強ま り、社会的に大きな意味をもつようになっていた。

一方、戸籍上で「士」と記されている洪淳沢と洪鍾珏はいずれも西之里の南陽洪氏である。 淳沢の曾祖が鍾珏の祖にあたる。洪淳沢は戸籍上で40歳、同居親属は妻のみで、家宅は草家 5 間である(下雲面西之里第19統第10戸)。
洪鍾珏は戸籍上で51歳、同居親属は弟が一人記 載されているだけで、家宅は草家 3 間と小さい(下雲面西之里第20統第 4 戸)。いずれも父・ 祖・曾祖は「学生」、外祖は姓名のみで、これは下雲面の多くの戸と共通する。
新式戸籍の特徴のひとつは従来の身分的性格を帯びた職役の記載を廃止して職業に変えた 点であり、記載内容の上でも多くの者が職業を「農」とすることによって、戸籍による身分 的編成は希薄化していた。『任実郡下雲面戸籍』で「進士」洪鍾喆の居住地である基洞里に は南陽洪氏の戸主が鍾喆を含め11人いるが、鍾喆以外はみな「農」を職業としている。また、 鍾喆の従兄弟である下雲面金渓里の洪鍾旭は父が「進士」、祖父が「生員」と記されており、 『任実郷約籍座目』にはかれも「幼学」として収録されているが、戸籍上の職業はやはり「農」 である(下雲面金渓里第15統第 6 戸)。
任実以外の地方でも新式戸籍の戸主の職業は「農」であることが多いが、「儒」・「幼学」 などそれ以外の職業を記す例がないわけではない。
これまで「朝鮮新式戸籍関連資料の基礎 的研究」においてとりあげた戸籍では、1905年の忠清南道『泰安郡遠二面戸籍表』は147戸 の戸主すべての職業が「農」であったが(山内2011:53)、1896年の咸鏡南道『端川郡新満 面戸籍』の戸主244人のうち「農」は46.7%にとどまり、48.8%は職業を「儒」と記載してい る(山内2012:42-43)。
前述したように1906年平安南道『孟山郡外南面戸籍』では全戸主 248人が「農」であるが、そのうち12.5%は職業欄に「農」とともに「幼学」を併記していた (山内2022:110-111)。
他の先行研究では『慶尚南道丹城郡南面元堂里培養洞戸籍』登載の 戸主37人のうち 9 人は「士」で、残る28人が「農」であった
とはいえ、「士」記載は本戸籍に おいて例外的であり、かつて「幼学」と称していた儒林/士族層の多くは職業を「農」と記 すようになっていたとみなせる。
─国立歴史民俗博物館所蔵1904年全羅北道任実郡下雲面戸籍─
山内 民博
朝鮮時代、戸籍は各邑(郡県)で 3 年ごとに作成されていたが、甲午改革をへた1896年(建 陽元年) 9 月に戸口調査規則・戸口調査細則が制定され1)、新たな様式の戸籍作成がはじ まった。この新式戸籍(光武戸籍/近代戸籍)は1908年にかけて毎年作成され、220冊程度(戸 籍及び統表)が現存している
任実郡は朝鮮半島の南西部、全羅北道に属し、1904年時点でいえば北は全州郡、南は南原 郡と接していた。任実郡には当時、18の面(郡の下位の統治単位)があり下雲面は郡の 北西の山間に位置した
戸籍に収録されているのは、242戸、737人(男407人、女330人)であり、 1 戸 あたりは3.05人となる
その戸主の職業を整理したものが表 7 である。「農」がほと んどを占めるのは地方の新式戸籍にはよくみられる傾向であ る。それ以外では「進士」が 2 人、「士」が 2 人、「商」が 1 人 となっている。「進士」は朝鮮では科挙の小科(司馬試)のう ち進士試の及第者をさすが、しばしば小科の生員試及第者も進 士とよばれた。
「士」は士大夫・士族・士人などを意味するが、旧式戸 籍の職役としては確認できない。新式戸籍では『慶尚南道丹城 郡南面元堂里培養洞戸籍』などに記載例がある(손병규2005: 205-207)。「商」も旧式戸籍の職役にはあらわれないが、新式 戸籍では職業として記載されるようになった
表 8 は姓貫別の戸主数を示している。姓貫、すなわち姓と本 貫(祖先の出身地)は父系の血縁によって継承され、朝鮮時代 後期には姓貫に象徴される父系血縁集団の組織的紐帯が強ま り、社会的に大きな意味をもつようになっていた。

一方、戸籍上で「士」と記されている洪淳沢と洪鍾珏はいずれも西之里の南陽洪氏である。 淳沢の曾祖が鍾珏の祖にあたる。洪淳沢は戸籍上で40歳、同居親属は妻のみで、家宅は草家 5 間である(下雲面西之里第19統第10戸)。
洪鍾珏は戸籍上で51歳、同居親属は弟が一人記 載されているだけで、家宅は草家 3 間と小さい(下雲面西之里第20統第 4 戸)。いずれも父・ 祖・曾祖は「学生」、外祖は姓名のみで、これは下雲面の多くの戸と共通する。
新式戸籍の特徴のひとつは従来の身分的性格を帯びた職役の記載を廃止して職業に変えた 点であり、記載内容の上でも多くの者が職業を「農」とすることによって、戸籍による身分 的編成は希薄化していた。『任実郡下雲面戸籍』で「進士」洪鍾喆の居住地である基洞里に は南陽洪氏の戸主が鍾喆を含め11人いるが、鍾喆以外はみな「農」を職業としている。また、 鍾喆の従兄弟である下雲面金渓里の洪鍾旭は父が「進士」、祖父が「生員」と記されており、 『任実郷約籍座目』にはかれも「幼学」として収録されているが、戸籍上の職業はやはり「農」 である(下雲面金渓里第15統第 6 戸)。
任実以外の地方でも新式戸籍の戸主の職業は「農」であることが多いが、「儒」・「幼学」 などそれ以外の職業を記す例がないわけではない。
これまで「朝鮮新式戸籍関連資料の基礎 的研究」においてとりあげた戸籍では、1905年の忠清南道『泰安郡遠二面戸籍表』は147戸 の戸主すべての職業が「農」であったが(山内2011:53)、1896年の咸鏡南道『端川郡新満 面戸籍』の戸主244人のうち「農」は46.7%にとどまり、48.8%は職業を「儒」と記載してい る(山内2012:42-43)。
前述したように1906年平安南道『孟山郡外南面戸籍』では全戸主 248人が「農」であるが、そのうち12.5%は職業欄に「農」とともに「幼学」を併記していた (山内2022:110-111)。
他の先行研究では『慶尚南道丹城郡南面元堂里培養洞戸籍』登載の 戸主37人のうち 9 人は「士」で、残る28人が「農」であった
とはいえ、「士」記載は本戸籍に おいて例外的であり、かつて「幼学」と称していた儒林/士族層の多くは職業を「農」と記 すようになっていたとみなせる。
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