朝鮮後期戸籍大帳僧戸秩及び 新式戸籍僧籍の性格(下)

山内 民博


戸主僧の良賎記述に注目してみるなら、表10白楊寺では1684年と1705年に「慶 州案付司寺奴僧」・「私奴僧」といった奴僧が戸主として記載されている。「慶 州案付司寺奴僧」は慶州の奴碑案に司寺奴、すなわち司贈寺所属の公奴として 登録されている僧を意味し、「私奴僧」は私奴、すなわち私人に隷属する奴で ある僧である。


1714年に奴僧はいないが、1729年には良僧とともに私奴僧1名が記載され ている。そして、白楊寺と同じく1765年になると良僧のみとなり、19世紀には 戸主僧はみな「僧」と記して良賎記述はなくなっている。 


このように18世紀までは、僧もその出自によって良賎身分制の枠組みの中に 位置づけられていたが、その後19世紀にかけて良賎表示をおこなわなくなって いたのである。これは大丘府戸籍大帳の僧戸と類似した傾向といえる。 

舎堂は捨堂・社堂・寺堂とも表記され、元来は出家していない女性の仏道修行 者を指す。後には各地を放浪する芸能民に社堂牌と呼ばれる集団があり、その男性構成員を居士や男社堂、女性構成員を女社堂と称したという

身分職役


表16で私奴束伍軍(84)と駅奴碑(143・144)だけは良身分職役の中にまじって  記載されている。これは東伍軍(83)、駅吏・駅保(141・142)という関連する職  役と並べて載せたものであろう。ほかの奴碑は147から156にまと


このように18世紀後半以降の戸口総条・色目条において僧・居士は一般戸口 とは区別され、良賎身分制的編成の外部に配置されていたのであり、これは同 じ時期に戸主僧の良賎記載がなくなっていく傾向とも呼応している。

18世紀後半以降の奴僧の消滅と良賎を示さない「僧」表記への変化は朝鮮社 会における奴碑制の解体傾向を反映したものであろう。

18世紀後半以降のものが残る色目条においては、僧は通常の良賎身分職役と区別されて末尾に置かれたのである。