近世朝鮮の周縁的集団と史料
─戸籍史料・裁判史料からの接近─
山内 民博
環東アジア研究 no.10 2017 年 3 月
1 はじめに
この小論では、17世紀から19世紀、近世朝鮮社会においてどのような社会集団が周縁的な 位置に置かれていたのか、戸籍史料と裁判史料から考えてみることにしたい。
実はこうした分類は法制、あるいは何らか公的な規定から導かれたものではない。朝鮮時 代の身分制として法制的に明確なのは良賤制であり、賤とは奴婢のことであった。両班・中 人・常民が社会的な実態としては何らか存在したとしても、制度的に明確に規定されていた わけではない(4)。
四方・今村のあげているそのほかの集団─白丁・巫覡・俳優・娼妓・僧尼─については、か れらを賤身分とみなす公的規定は存在しない。
2 戸籍史料における周縁的集団 1 )
17世紀初の戸籍と周縁的集団
現存する最古の成冊された朝鮮戸籍(戸籍大帳)は1606年(宣祖39)丙午式の慶尚道山陰 県戸籍大帳であり、1609年(光海君元年)己酉式の慶尚道蔚山府、1630年(仁祖 8 )庚午式 の同じく山陰県の戸籍大帳がそれにつづく(8)。
17世紀前半の戸籍もこの 3 件に限られる。以後、19 世紀末葉にかけて慶尚道地域を中心に400冊程度が現存する。

「内需司」は内需司奴婢 のことで、王室財政を管理した内需司に身貢を納める公奴婢である。
2 )17世紀後半以降の推移
表 3 〜表 5 は慶尚道丹城県戸籍大帳と 蔚山府戸籍大帳から、17世紀後半、18世紀後半、19世紀前半の 3 時点を選んで、良賤別の戸 主数、称姓率、祖先記載方式の推移をみたものである。



賤身分(奴婢)戸主の数は17世紀後半には全体の26〜42%とかなり多いが、18世紀後半に なると急減し、19世紀には消滅に近い。
18世紀後半には奴婢戸主も多くが姓を称し、祖先は母を記さず四祖形 式をとっており、19世紀にはさらにその傾向が強まっている。単に奴婢戸主の数が減っただ けでなく、記載様式の面でも奴婢は良身分と違いがなくなっているのである。
そこに吸収されない特徴をもつ集団もあらわ れる。そうした集団が複数登場する例として、ここでは19世紀の慶尚道安義県戸籍大帳をと りあげてみよう(18)。

以上のように、戸籍記載の大勢としては17世紀の良賤制にもとづいた記載様式が19世紀ま でには良賤間の差異が消失する方向に変化していた。その中で僧や柳器匠・皮匠は奴婢を賤 とする良賤制とは異なる論理によって区別されるようになっていたようである。
李俊九は柳 器匠や皮匠を身良役賤層、すなわち身分的には良であるが賤役に従事する者と位置づけた が(26)、この場合、身良役賤という良賤の中間的概念が有効であるとは思えない。良賤的な 論理になじまないという意味で、僧と柳器匠・皮匠は戸籍においていわば周縁的な位置に置 かれた集団であったと考えることができる。

3 裁判史料からみた周縁的集団
この時期の裁判関連史料に おいては白丁(屠漢・皮漢)の姓は記載しないという慣行が存在していたのであろう。 このように姓記載に注目するとき、称姓する良身分と名のみの奴婢という差異が基本とな るが、それにくわえ奴婢ではない無姓者として僧と白丁(屠漢・皮漢・皮匠)が独自の位置 を占めているとみなせよう。
4 おわりに
19世紀の戸籍において記載 様式の原則から外れた集団─僧と柳器匠・皮匠(白丁)─が存在し、かれらはまた裁判関連 史料においても一般の良民とは異なる表記上の特徴をもつことがあった点は認めてよいであ ろう。
奴婢を賤とする良賤制原理とその変化を軸に朝鮮社会の身分編成を考えるとき、かれ らは周縁的な位置にあったとみなすことができる。19世紀末の戸籍制度改革以後、一般の戸 籍とは別に僧籍と屠漢籍がつくられはじめることも、こうした僧および柳器匠・皮匠(白丁) の位置と関連するものと思われる。
─戸籍史料・裁判史料からの接近─
山内 民博
環東アジア研究 no.10 2017 年 3 月
1825年の安義県戸籍大帳は、総戸数164戸中、145戸88.4%が幼学を自称し、その文字どおりであれば両班階層であり文字=漢文が読めたことになる。山内氏は別の論文で、幼学を自称した者は何らかの税負担をしていたはずであると書いているが、その点こそが最大の重要点である。
朝鮮の場合、良民は偽両班を自称(郷案には恐らくは未記載)、奴隷(外居奴隷)は良民を自称、の傾向が慶尚道には明確に見られる。嘘と騙しのみの能力しか有さないDNA異常民族連中の究極の騙しであろう。
身分の詐称=身分制の崩壊であると、韓国人ども、及び、天理大学出身者以外は、ほぼ全てがDNAが韓国人又は半チョッパリである日本在住の朝鮮史美化運動研究者どもは見做している。
朝鮮の場合、良民は偽両班を自称(郷案には恐らくは未記載)、奴隷(外居奴隷)は良民を自称、の傾向が慶尚道には明確に見られる。嘘と騙しのみの能力しか有さないDNA異常民族連中の究極の騙しであろう。
身分の詐称=身分制の崩壊であると、韓国人ども、及び、天理大学出身者以外は、ほぼ全てがDNAが韓国人又は半チョッパリである日本在住の朝鮮史美化運動研究者どもは見做している。
1 はじめに
この小論では、17世紀から19世紀、近世朝鮮社会においてどのような社会集団が周縁的な 位置に置かれていたのか、戸籍史料と裁判史料から考えてみることにしたい。
実はこうした分類は法制、あるいは何らか公的な規定から導かれたものではない。朝鮮時 代の身分制として法制的に明確なのは良賤制であり、賤とは奴婢のことであった。両班・中 人・常民が社会的な実態としては何らか存在したとしても、制度的に明確に規定されていた わけではない(4)。
四方・今村のあげているそのほかの集団─白丁・巫覡・俳優・娼妓・僧尼─については、か れらを賤身分とみなす公的規定は存在しない。
2 戸籍史料における周縁的集団 1 )
17世紀初の戸籍と周縁的集団
現存する最古の成冊された朝鮮戸籍(戸籍大帳)は1606年(宣祖39)丙午式の慶尚道山陰 県戸籍大帳であり、1609年(光海君元年)己酉式の慶尚道蔚山府、1630年(仁祖 8 )庚午式 の同じく山陰県の戸籍大帳がそれにつづく(8)。
17世紀前半の戸籍もこの 3 件に限られる。以後、19 世紀末葉にかけて慶尚道地域を中心に400冊程度が現存する。

「内需司」は内需司奴婢 のことで、王室財政を管理した内需司に身貢を納める公奴婢である。
2 )17世紀後半以降の推移
表 3 〜表 5 は慶尚道丹城県戸籍大帳と 蔚山府戸籍大帳から、17世紀後半、18世紀後半、19世紀前半の 3 時点を選んで、良賤別の戸 主数、称姓率、祖先記載方式の推移をみたものである。



賤身分(奴婢)戸主の数は17世紀後半には全体の26〜42%とかなり多いが、18世紀後半に なると急減し、19世紀には消滅に近い。
18世紀後半には奴婢戸主も多くが姓を称し、祖先は母を記さず四祖形 式をとっており、19世紀にはさらにその傾向が強まっている。単に奴婢戸主の数が減っただ けでなく、記載様式の面でも奴婢は良身分と違いがなくなっているのである。
そこに吸収されない特徴をもつ集団もあらわ れる。そうした集団が複数登場する例として、ここでは19世紀の慶尚道安義県戸籍大帳をと りあげてみよう(18)。

以上のように、戸籍記載の大勢としては17世紀の良賤制にもとづいた記載様式が19世紀ま でには良賤間の差異が消失する方向に変化していた。その中で僧や柳器匠・皮匠は奴婢を賤 とする良賤制とは異なる論理によって区別されるようになっていたようである。
李俊九は柳 器匠や皮匠を身良役賤層、すなわち身分的には良であるが賤役に従事する者と位置づけた が(26)、この場合、身良役賤という良賤の中間的概念が有効であるとは思えない。良賤的な 論理になじまないという意味で、僧と柳器匠・皮匠は戸籍においていわば周縁的な位置に置 かれた集団であったと考えることができる。

3 裁判史料からみた周縁的集団
この時期の裁判関連史料に おいては白丁(屠漢・皮漢)の姓は記載しないという慣行が存在していたのであろう。 このように姓記載に注目するとき、称姓する良身分と名のみの奴婢という差異が基本とな るが、それにくわえ奴婢ではない無姓者として僧と白丁(屠漢・皮漢・皮匠)が独自の位置 を占めているとみなせよう。
4 おわりに
19世紀の戸籍において記載 様式の原則から外れた集団─僧と柳器匠・皮匠(白丁)─が存在し、かれらはまた裁判関連 史料においても一般の良民とは異なる表記上の特徴をもつことがあった点は認めてよいであ ろう。
奴婢を賤とする良賤制原理とその変化を軸に朝鮮社会の身分編成を考えるとき、かれ らは周縁的な位置にあったとみなすことができる。19世紀末の戸籍制度改革以後、一般の戸 籍とは別に僧籍と屠漢籍がつくられはじめることも、こうした僧および柳器匠・皮匠(白丁) の位置と関連するものと思われる。
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