李朝実録 朝鮮婚姻考
藤田 東三
昭和16年

著者は京城帝国大学法文学部教授である

李朝実録は承政院日記、日省禄、備局謄禄などの記録を元に領議政など編集官に任命して4・5部が印刷されたものであり、保管場所は、①京畿道 江華島②全羅道 茂朱の赤山裳、慶尚道 奉化の太白山③江原道 平昌五基山④平安道 寧辺妙花山 に史庫を置いて護衛兵を配置して保管し、国王といえども
みだりに閲読できなかった旨
【国王云々の箇所は?である】

対象としたのは、李朝成立から経国大典成立までの間の朝鮮の婚姻に関する扱い

注として、承政院日記について、
*王命の出納を所管する部署で、定宗(=第二代、1398年即位)の時に始まり、政令事柄をことごとく記録した。しかし、現在残っているのは仁祖元年(1623年)3月12日から高宗31年(1894年)6月29日までの3047冊である旨(これは承政院日記という名称である)
*その後、官名の変わるたびに、承宣院日記、宮内府日記、秘書監日記、圭章閣日記と改名され、1910年まであり、計188冊。

【論文用記述素案】
本稿は主として承政院日記(注)の記述により、17・18世紀の朝鮮独特の奴隷制(奴婢制)について考察するものである。従来、日本では李氏朝鮮時代の奴婢を奴隷と明言する著作・論文は、本稿筆者の知る限り皆無であり、例えば、「朝鮮史 武田幸男 編」でも高麗時代に関してはたったの1ヶ所だけ奴婢(奴隷)としているものの、李氏朝鮮時代に関しては奴婢=完全な奴隷とは一切記述してはいない。
このような異様とも言える状況は、恐らくは韓国における奴婢=奴隷否定論の影響を強く受けた結果であろうが、李氏朝鮮の私奴婢は、上典の相続及び売買対象として、牛馬同様に上典所有の動産であった点に疑問の余地は全くない。従って、本稿では奴婢ではなく、以下の記述において、私奴婢に関しては奴隷という表現を使用する。反面、官奴婢・寺奴婢に関しては、古代ローマにおけるような都市国家奴隷とは到底言い難いため、慣例通り奴婢と記載する。

ページ下部に
(注)承政院日記は、李氏朝鮮第二代国王 定宗(1398年即位)の時代から記録が始まったとされているものの、承政院日記という名称で現存するのは仁祖元年(1623年)3月12日から高宗31年(1894年)6月29日までの3047冊、及び、大韓帝国の成立等々による担当部署名称変更により、承宣院日記、宮内府日記、秘書監日記、圭章閣日記の名称で残されている1910年までの同趣旨の記録188冊、総合計3235冊である。(以上は、「李朝実録 朝鮮婚姻考」藤田 東三、昭和16年より)
承政院日記は、日省禄、備局謄禄などと共に朝鮮王朝実録の記述根拠となるものであり、事実上は、出納関連記述日記ではなく、今日の日本の表現で言えば、「内閣官房による閣議議事録」とも表現すべき貴重な記録であり、本稿筆者の知る限り、李氏朝鮮が模範とした中国明朝においては同様の「明朝皇帝との質疑議事録」は存在しない、言い換えれば、宰相をおかない皇帝独裁制の明朝では本来的にそもそも同種の記録は存在しえない。
しかしながら、「朝鮮国王・中央六曹官吏等・(地方)監察司等は民を憐れんでいるのである」式の記述で満たされており、一次資料として使用する場合には、その点に注意が必要であると本稿筆者は見做している。