シリーズ中国近現代史③
革命とナショナリズム  

石川 禎浩
岩波新書
2010年

中国史マニアの私から見て、非常によくできた書籍である。日中戦争に新しい、しかも正しい視線を持ち込んでいる。著者が主張するように確かに日中戦争の結果として中国は国際的に「大国に変化した」。
そして、蒋介石の日記はアメリカのハーバード大で公表されているので、蒋介石への評価も改めねばならないであろう。中国人とは「世界一、政略にたけた人々」かもしれない。

1カ所だけ、南京事件の記述は同意しかねる。便衣兵の存在を記述せず、かつ、私が調べた範囲では=読んだ中国側及び日本側証言では、「老若男女無差別」の大量殺人は、長江を敗退する蒋介石直接指揮下の中央軍と一般人が混在して避難している状態での機関銃掃射のみであり、大量殺害されたのは、便衣兵の存在による兵役適齢の中国人男性と捕虜・投降兵が大部分であるはずだ。



弱国としての中国 
1920年代半ば中国はどのような国だったろうか
清朝以来の負の遺産である不平等条約体制は、相変わらずであり、その象徴とも言うべき租界は上海・天津などの大都市に依然存在し、中国に権益を持つ列強諸国の駐兵権もそのままであった。

大国としての中国 
1943年、蒋介石はF・ルーズベルト、チャーチルとの会談、いわゆるカイロ会談を行い、中国は「大国」の仲間入りを果たした。そして、1945年の国際連合成立の際、中国は晴れて常任理事国の一つとなった。20年の歳月を経て、非常任理事国さえおぼつかなかった国が今や国連の常任理事国、すなわち「五大国」の一国に変わったのである

p47 
北京は北平にそれぞれ改称された

p84 
近代以降中国民衆は、バラバラの砂ーー規律のない烏合の衆ーーと評されてきた

p101 
共産党には女性の真の開放を求めて入党する者も少なくなかった

p117 
毛沢東 
1930年 
社会調査によれば 
200字知っている 20% 
記帳できる 15% 
三国(三国志演義)が読める 5% 
手紙が書ける 3.5% 
文章が書ける 1% 
現在の中国では、農民の場合、1500字知っていることが知字の目安とされているから

p136 
長征以降杜絶してたモスクワとの電信連絡が正式に回復したのは、1936年6月から7月のことだったが

p178 
蒋介石にとって上海戦の狙いの一つは英米の積極的介入を引き出すことだったが

p179 
上海での積極交戦によって列強の介入を促すという所期の目的を果たすことは出来なかった

p182 
南京大虐殺の要因は 
多々あるが、
派遣軍の質の悪さも併せて指摘されなければならないだろう。即ち、上海戦に派兵され、引き続き南京攻略に当たった部隊は、予備役・後備役が多く占める編成だったのである。
対ソ戦を考慮する日本陸軍にしてみれば、現役兵中心の精鋭師団は温存しておかねばならず、
1938年8月のデータによれば、中国方面の10個師団の現役兵率は、僅か17%である。日本軍の中国における残虐行為は、南京大虐殺の他にも数知れないが、その背後には中国を侮った歪んだ軍変性があったといえるだろう。中国戦線での軍紀頽廃に頭を抱えた軍中央はその後、中国派遣軍の現役兵率を上げる措置を取っていくが

p184 
日本が占領地に直接の軍政をひかずこうした傀儡政権を表に立てざるを得なかったのも、これが戦争ではなく事変ゆえであった

p189 
【清朝を例とし】首都を占領されれば、たちまち屈辱的な講和条件をのんで屈服したのだが、この度の国民政府は首都どころか、要地をほとんど占領されても抗戦を止めなかった

p190 
明確な戦争指導方針のないまま行われたシナ事変は、はたして出口を失ってしまったのである

p201 
中国側はこれを三光作戦と呼んだが

p206 
蒋介石にとっても、抗日戦争が国際化していくことは、かねてより予測・期待していた事態であった

p207 
開戦前の日米交渉を祈るような気持ちで見守った蒋介石にとって、太平洋戦争勃発の報は、満州事変以来の中国の政略(日中問題の国際的解決)が苦難の果てに達成されたことを意味した