南京事件 新版
笠原 十九司
岩波新書
2025年
序
東京裁判判決ではつぎのような事実認定を行った。
中国人の男女子供を無差別に殺しながら、兵は街を歩き回り、
これらの無差別の殺人によって、日本側が市を占領した最初の2、3日の間に、少なくとも1万2000人の非戦闘員である中国人男女子供が死亡した。
恐らくは、上記が多くの日本人が有する南京事件への作られたイメージであろう。しかし、本書を読む限り、少なくとも、「中国人の男女子供を無差別に殺しながら」は、明らかに事実誤認であることが明白そのものとなった。何故なら、著者ですら、そのような命令が出されていたとは、一切書いていないからである。私の知る範囲でも、そのような命令は出されてはおらず、本書以外の中国側証言でも、上記は明らかに史実ではない。確かに、日本軍兵士の証言でも南京陥落後一部の兵士が老若男女・子供を問わず、殺害したケースもゼロでは無い。しかし、そのような命令が出されてはいなかったことが、本書で明確に確認しうる。出されていたのは、南京城内の民間人中国人青壮年男性・捕虜・軍服を脱いだ中国兵に対する事実上の殺害命令だけであった。東京裁判の「いい加減さ」が良くわかる。皮肉として。
日中全面戦争へ
現地海軍の謀略・大山事件
【小見出し】
海軍航空隊の戦略爆撃
p60
笠原 十九司
岩波新書
2025年
①本書冒頭で紹介している映像のオリジナルは下記サイトに出ているが、実際にはほとんど意味の無い映像であり、リンク画像も表示されない。
https://divinity-adhoc.library.yale.edu/Nanking/Photographs.html
②本書は今まで読んだ南京事件の著作中で最も優れている点に疑問の余地はない
③私見では、南京事件発生の諸要因は、下記要因が重なったことによる
*上海のドイツ人設計のトーチカを配置した強固な陣地突破に多大の犠牲者が出たことによる中国への一般兵士に感情的な強い反発=「戦友の仇を討つのだ」という感情と上海攻略戦の直後に、当時の中国首都であった南京攻略が引き続いて行われ、兵士の肉体的疲労は極限に達していたであろうこと。
*南京城内及び周辺地区には、便衣兵と呼ばれれていた軍服を脱いだ中国兵が多数残存し、一般人との外見上の見分けがほぼ不可能であったこと。
従って、日本側指揮官・一般兵にとっては、南京事件は、あくまでも残敵掃討という戦闘行為類似と表面上は捉えることが可能であったこと、言い換えれば、心理的負担が極度に少なかったこと。
(この書では、取り上げられてはいないが、南京城内において、婦女子まで含む虐殺は中国側証言でも極めて少なく、長江を中国兵=軍装した中央軍と一般人が混在して逃走・避難渡河する際に機銃掃射したとの証言が事実上は信頼できる唯一の証言である。幼児・婦女子・老人までも含む虐殺は心理的負担が大きいが、青壮年中国人男性を残敵と見做す場合には、兵士には戦闘行為の一種であるという幻想を抱かせ、心理的負担が大幅に軽減される)
*蒋介石軍=中央軍による「清野作戦」により、南京陥落後も必要以上の兵員が南京城内に10日間程度駐屯したこと。特にその後も駐屯した16師団が問題であった。
*中支那方面軍は、憲兵が極めて少なかったこと。下達した「注意事項」が実戦部隊ではほぼ無視されていたこと。(広い意味では、中国戦線全体について公式の宣戦布告がないため、軍政が実施されなかったこと。軍政=憲兵部隊が実施機関である。)
*1937年12月13日の南京陥落後、12月17日に行われた入城式までに中央軍残存兵の掃討命令が出されていたこと。
*蒋介石は、事実上は、指揮下の軍と南京城内・周辺の一般民を完全に見捨てる形で何らの措置を講ぜず(と私には思える)に当時の首都から逃走したこと。
https://divinity-adhoc.library.yale.edu/Nanking/Photographs.html
②本書は今まで読んだ南京事件の著作中で最も優れている点に疑問の余地はない
③私見では、南京事件発生の諸要因は、下記要因が重なったことによる
*上海のドイツ人設計のトーチカを配置した強固な陣地突破に多大の犠牲者が出たことによる中国への一般兵士に感情的な強い反発=「戦友の仇を討つのだ」という感情と上海攻略戦の直後に、当時の中国首都であった南京攻略が引き続いて行われ、兵士の肉体的疲労は極限に達していたであろうこと。
*南京城内及び周辺地区には、便衣兵と呼ばれれていた軍服を脱いだ中国兵が多数残存し、一般人との外見上の見分けがほぼ不可能であったこと。
従って、日本側指揮官・一般兵にとっては、南京事件は、あくまでも残敵掃討という戦闘行為類似と表面上は捉えることが可能であったこと、言い換えれば、心理的負担が極度に少なかったこと。
(この書では、取り上げられてはいないが、南京城内において、婦女子まで含む虐殺は中国側証言でも極めて少なく、長江を中国兵=軍装した中央軍と一般人が混在して逃走・避難渡河する際に機銃掃射したとの証言が事実上は信頼できる唯一の証言である。幼児・婦女子・老人までも含む虐殺は心理的負担が大きいが、青壮年中国人男性を残敵と見做す場合には、兵士には戦闘行為の一種であるという幻想を抱かせ、心理的負担が大幅に軽減される)
*蒋介石軍=中央軍による「清野作戦」により、南京陥落後も必要以上の兵員が南京城内に10日間程度駐屯したこと。特にその後も駐屯した16師団が問題であった。
*中支那方面軍は、憲兵が極めて少なかったこと。下達した「注意事項」が実戦部隊ではほぼ無視されていたこと。(広い意味では、中国戦線全体について公式の宣戦布告がないため、軍政が実施されなかったこと。軍政=憲兵部隊が実施機関である。)
*1937年12月13日の南京陥落後、12月17日に行われた入城式までに中央軍残存兵の掃討命令が出されていたこと。
*蒋介石は、事実上は、指揮下の軍と南京城内・周辺の一般民を完全に見捨てる形で何らの措置を講ぜず(と私には思える)に当時の首都から逃走したこと。
序
東京裁判判決ではつぎのような事実認定を行った。
中国人の男女子供を無差別に殺しながら、兵は街を歩き回り、
これらの無差別の殺人によって、日本側が市を占領した最初の2、3日の間に、少なくとも1万2000人の非戦闘員である中国人男女子供が死亡した。
恐らくは、上記が多くの日本人が有する南京事件への作られたイメージであろう。しかし、本書を読む限り、少なくとも、「中国人の男女子供を無差別に殺しながら」は、明らかに事実誤認であることが明白そのものとなった。何故なら、著者ですら、そのような命令が出されていたとは、一切書いていないからである。私の知る範囲でも、そのような命令は出されてはおらず、本書以外の中国側証言でも、上記は明らかに史実ではない。確かに、日本軍兵士の証言でも南京陥落後一部の兵士が老若男女・子供を問わず、殺害したケースもゼロでは無い。しかし、そのような命令が出されてはいなかったことが、本書で明確に確認しうる。出されていたのは、南京城内の民間人中国人青壮年男性・捕虜・軍服を脱いだ中国兵に対する事実上の殺害命令だけであった。東京裁判の「いい加減さ」が良くわかる。皮肉として。
日中全面戦争へ
現地海軍の謀略・大山事件
【小見出し】
海軍航空隊の戦略爆撃
p60
中支那方面軍独断専行で南京へ
【
章タイトルであり、経過が記されているが、最終的には、参謀本部は追認した。中国戦線でのいつものパターンである。
同じ著者の「日中戦争全史 上巻」によると下記のとおりであり、第10軍と上海派遣軍の上に、少数の幕僚と司令官だけで構成された中支那派遣軍=方面軍が乗っかっただけの編成であった点も、南京事件の一因であろう。軍紀の崩壊➕最上級司令部の脆弱性➕便衣兵という中国軍独特の兵士形態、これらの重なりが、南京事件の基礎的原因であり、蒋介石直接指揮下の中央軍残存兵=事実上は健康な青壮年中国人男性全員の殺害命令を発出することにつながった。
それにしても、中国人マニアの私の目からして、中国人の怜悧性と頭の良さは驚嘆😱するしかない。
便衣兵とは、事実上のゲリラ兵士である。即ち軍服を着た正規兵が簡単にゲリラ兵に転じることが出来る。しかも、このゲリラ兵は若壮年の中国人男性と事実上判別不可能である。そうであれば、日本側は、南京事件だけではなく他の戦線でも進撃途中で、兵士ではない民間人をも殺害せざるを得なくなる。
当然の結果として、中国民衆には多数のレイプと併せて、極めて強い反日本軍感情が巻き起こり、日中戦争を100%確実に中国側有利に展開することが出来る。
似た手法がベトナム戦争で用いられた、しかし、正規兵が軍服を脱いでゲリラ兵に転じるという手法ではない。元からのゲリラ兵が民間人に紛れ込むという手法である。中国人とベトナム人の知能の差=歴史の差 であろう。ガサでは、ハマスがベトナム戦争と同じ手法を取り、イギリス・フランスなどのパレスチナ国家承認というご褒美を得た。
このような、恐ろしいまでの冷酷・高知能の人々を相手に「甘ちゃんの日本人」が勝てるわけがない。
戦闘に勝てても、戦争には最終的に敗れる。同様に、南京事件を巡る老若男女・子供無差別の殺害などしていない等々の歴史宣伝戦にも勝ち目は全くない。恐るべき深謀遠慮としか言いようがない。便衣兵は確実に個々の兵士が自主的に行った行為ではなく、命令を受けて軍服を脱ぎゲリラ兵となったのだ。
だからこそ、南京事件では、頭に来た陸軍兵士が、心理的負担を感じずに若壮年の民間人を殺害したのだ!想像してみよ、上海から南京に進撃途中に草むらに潜む軍服を脱いだ便衣兵=ゲリラ兵に戦友が狙撃され亡くなった。日本人男性のほぼ全てが、くそー!となる。
やっと南京事件の本質に気づいた。大学院生の誰かが、記録が保管されている台湾で証拠=命令文を見つけて欲しい。
日中戦争全史 上巻 笠原 十九司
p284~286
中支那方面軍、独断で南京へ進撃
中支那方面軍は名ばかりの方面軍であった。
参謀長以下7人の参謀
通常の方面軍司令部が備えている兵器部・経理部・軍医部・法務部はなかった。法務部がないことは、麾下の軍隊の軍紀風紀を取り締まる正式の機関がなかったことであり、後述する南京事件の要因となる日本軍の軍紀紊乱を放任することとなった。さらに
兵站機関も備えていなかった。このことは南京事件の根本的な要因となる
中支那方面軍は、上海戦という地域限定の戦闘のために編成された部隊であり、更に奥地の南京攻略作戦を行うことは軍事常識からいっても不可能だったのである。参謀本部は
制令線(前進統制、進出制限を命令したライン)を指示し、上海戦で決着をつける作戦を明示していた。
【
章タイトルであり、経過が記されているが、最終的には、参謀本部は追認した。中国戦線でのいつものパターンである。
同じ著者の「日中戦争全史 上巻」によると下記のとおりであり、第10軍と上海派遣軍の上に、少数の幕僚と司令官だけで構成された中支那派遣軍=方面軍が乗っかっただけの編成であった点も、南京事件の一因であろう。軍紀の崩壊➕最上級司令部の脆弱性➕便衣兵という中国軍独特の兵士形態、これらの重なりが、南京事件の基礎的原因であり、蒋介石直接指揮下の中央軍残存兵=事実上は健康な青壮年中国人男性全員の殺害命令を発出することにつながった。
それにしても、中国人マニアの私の目からして、中国人の怜悧性と頭の良さは驚嘆😱するしかない。
便衣兵とは、事実上のゲリラ兵士である。即ち軍服を着た正規兵が簡単にゲリラ兵に転じることが出来る。しかも、このゲリラ兵は若壮年の中国人男性と事実上判別不可能である。そうであれば、日本側は、南京事件だけではなく他の戦線でも進撃途中で、兵士ではない民間人をも殺害せざるを得なくなる。
当然の結果として、中国民衆には多数のレイプと併せて、極めて強い反日本軍感情が巻き起こり、日中戦争を100%確実に中国側有利に展開することが出来る。
似た手法がベトナム戦争で用いられた、しかし、正規兵が軍服を脱いでゲリラ兵に転じるという手法ではない。元からのゲリラ兵が民間人に紛れ込むという手法である。中国人とベトナム人の知能の差=歴史の差 であろう。ガサでは、ハマスがベトナム戦争と同じ手法を取り、イギリス・フランスなどのパレスチナ国家承認というご褒美を得た。
このような、恐ろしいまでの冷酷・高知能の人々を相手に「甘ちゃんの日本人」が勝てるわけがない。
戦闘に勝てても、戦争には最終的に敗れる。同様に、南京事件を巡る老若男女・子供無差別の殺害などしていない等々の歴史宣伝戦にも勝ち目は全くない。恐るべき深謀遠慮としか言いようがない。便衣兵は確実に個々の兵士が自主的に行った行為ではなく、命令を受けて軍服を脱ぎゲリラ兵となったのだ。
だからこそ、南京事件では、頭に来た陸軍兵士が、心理的負担を感じずに若壮年の民間人を殺害したのだ!想像してみよ、上海から南京に進撃途中に草むらに潜む軍服を脱いだ便衣兵=ゲリラ兵に戦友が狙撃され亡くなった。日本人男性のほぼ全てが、くそー!となる。
やっと南京事件の本質に気づいた。大学院生の誰かが、記録が保管されている台湾で証拠=命令文を見つけて欲しい。
日中戦争全史 上巻 笠原 十九司
p284~286
中支那方面軍、独断で南京へ進撃
中支那方面軍は名ばかりの方面軍であった。
参謀長以下7人の参謀
通常の方面軍司令部が備えている兵器部・経理部・軍医部・法務部はなかった。法務部がないことは、麾下の軍隊の軍紀風紀を取り締まる正式の機関がなかったことであり、後述する南京事件の要因となる日本軍の軍紀紊乱を放任することとなった。さらに
兵站機関も備えていなかった。このことは南京事件の根本的な要因となる
中支那方面軍は、上海戦という地域限定の戦闘のために編成された部隊であり、更に奥地の南京攻略作戦を行うことは軍事常識からいっても不可能だったのである。参謀本部は
制令線(前進統制、進出制限を命令したライン)を指示し、上海戦で決着をつける作戦を明示していた。
南京進撃途中で重ねられた不法行為
p297
11月29日、武進は抗日、排日の根拠地であるため全町掃討し、老若男女を問わず全員銃殺す。敵は無賜の線で破れてより、
上記は、命令により実行されたことは間違いないと思われる。しかし、南京事件に関しては同種の命令は確実に出されていない。
近郊農村から始まった虐殺
【章タイトルであり、複数の兵士の事実上の手記の内容を書いている】
南京占領ーー徹底した包囲殲滅
p126
中支那方面軍司令部は、【いくつかの通達と命令】を下達した。これらには、南京城占領後、各師団の主力は城外区域に駐屯させ、城内には一部の軍紀厳正な選抜された部隊だけが入れることが明記されていた。以下に記す「南京城の攻略親は入城に関する注意事項」が徹底、遵守されていれば、南京事件は起こらなかったはずである。
p128
方面軍司令部は、馬の手綱に当たる法務部を備えていなかったため、【注意事項を引用】とあっても、それだけの憲兵部隊をもっていなかった。
p129
中国軍が強行した「清野作戦」
「清野作戦」とは、侵攻してくる日本軍の遮蔽物に使われる可能性のある建物を全て焼却してしまう、つまり、焼き野原作戦である。
村落と民家を強制的に焼き払った。
「清野作戦」の結果、食料掠奪と民家宿営に頼ってきた中支那方面軍の諸部隊は、城外区域に駐屯することができず、「注意事項」で厳禁された城内駐屯をせざるを得なくなったのである。
p146
日本軍の掃討から逃れるために残された方法は、自ら武装解除して兵隊に見せないようにすることだった
陸海両軍による残敵掃討
p151
第10軍司令官柳川平助中将はこう下命した
12月13日
一、集団な南京城内の敵を殲滅せんとす
一、各兵団は城内に対し砲撃はもとよりあらゆる手段を尽くし敵を殲滅すべし、これがために要すれば城内を焼却し、特に敗敵の欺瞞行為に乗ぜられざるを要す
中支那方面軍司令部の「注意事項」を無視した命令である。上海派遣軍第九師団の歩兵第六旅団長秋山少将は
次のことを指示した。
三、遁走せる敵は大部分便衣に化さるものと判断せらるるをもって、その疑いのある者はことごとくこれを検挙し適宜の位置に監禁す
四、青壮年はすべて敗残兵又は便衣隊と見做し、すべてこれを逮捕監禁すべし
入城式のための大殺戮
p195
功名心にはやる松井石根司令官と中支那方面軍が17日に入城式を強行することにしたため、日本軍は14日常から17日にかけて、南京城の内外で全軍をあげての徹底した「残敵掃討・殲滅」作戦を遂行することになった。
p201
この難民区に12型12日夜からの南京防衛軍の崩壊により、撤退する機会を失った多くの敗残兵が、武器を捨て、軍服を脱いで逃げ込んできた。
難民区の敗残兵狩りを担当したのは、第16師団と第9師団の部隊だった。
陸の孤島での犯罪と抵抗
p221
南京攻略戦に参加した多くの師団が、南京警備に残留した第16師団を除いて、新たな作戦区域を目指して、移動して行ったのは、クリスマス前後のことだった。
12月17日の段階で、南京城内にいた憲兵はわずか17名に過ぎなかった。
p223
入城式後に激発した強姦
【小見出し】
南京事件の全体的像ーー犠牲者総数を推定する
【著者は、南京爆撃を始点として算出するという奇妙な手法をよういている。】
p259
【筆者がアジア歴史センターで、日本軍記録を検索した結果を表1としてまとめているが、師団単位に合計した数値は、次のとおり。長江渡河中殺戮とあるのは、陸軍では第16師団のみ。海軍では、約2万を長江渡河中殺戮としている。本書では無いが中国側証言から見て、長江渡河中とは明らかに民間人混在である。
第16師団 約5.5〜6万
第13師団 約2.1万
第9師団 6670
第114師団 1500
第6師団 約1.8万
第5師団 約7300
陸軍小計 約11.4万
海軍第11戦隊 約3.2万
総合計 約14.6万
期間は、1937年12月10日から17日までである。
】
p260
可能性のある捕虜の全員殺害を想定すれば、10万人以上になる。
p269
軍民合わせた南京事件の犠牲者総数総数については、日本軍関係の資料からは、8万人以上或いは10万人以上、中国軍関係の資料からは約8万人、慈善団体等の埋葬資料からは18万8849人、あるいは21万8849人という数字が導きだされる。
私には、南京事件とは、何処をどう見ても、老若男女・幼児を問わず、片っ端から中国人虐殺ではなく、蒋介石指揮下の中央軍捕虜・軍服を脱いだ便衣兵・20才から45才位までの青壮年中国人男性 この3パターンの大量殺害事件のように思える。真に重要であるのは、長江渡河中を除いて、老若男女・幼児まで含む大量殺害は、どうも無かった点である。少なくとも、長江渡河中を除いて、そのような命令は出されてはいない。多くの日本人が勘違いしているのでは?なかろうか???そして、その原因は、戦前と報道内容を一変し、東京裁判とその内容を報じたまさしくマスゴミにある、マスコミではない。
p297
11月29日、武進は抗日、排日の根拠地であるため全町掃討し、老若男女を問わず全員銃殺す。敵は無賜の線で破れてより、
上記は、命令により実行されたことは間違いないと思われる。しかし、南京事件に関しては同種の命令は確実に出されていない。
近郊農村から始まった虐殺
【章タイトルであり、複数の兵士の事実上の手記の内容を書いている】
南京占領ーー徹底した包囲殲滅
p126
中支那方面軍司令部は、【いくつかの通達と命令】を下達した。これらには、南京城占領後、各師団の主力は城外区域に駐屯させ、城内には一部の軍紀厳正な選抜された部隊だけが入れることが明記されていた。以下に記す「南京城の攻略親は入城に関する注意事項」が徹底、遵守されていれば、南京事件は起こらなかったはずである。
p128
方面軍司令部は、馬の手綱に当たる法務部を備えていなかったため、【注意事項を引用】とあっても、それだけの憲兵部隊をもっていなかった。
p129
中国軍が強行した「清野作戦」
「清野作戦」とは、侵攻してくる日本軍の遮蔽物に使われる可能性のある建物を全て焼却してしまう、つまり、焼き野原作戦である。
村落と民家を強制的に焼き払った。
「清野作戦」の結果、食料掠奪と民家宿営に頼ってきた中支那方面軍の諸部隊は、城外区域に駐屯することができず、「注意事項」で厳禁された城内駐屯をせざるを得なくなったのである。
p146
日本軍の掃討から逃れるために残された方法は、自ら武装解除して兵隊に見せないようにすることだった
陸海両軍による残敵掃討
p151
第10軍司令官柳川平助中将はこう下命した
12月13日
一、集団な南京城内の敵を殲滅せんとす
一、各兵団は城内に対し砲撃はもとよりあらゆる手段を尽くし敵を殲滅すべし、これがために要すれば城内を焼却し、特に敗敵の欺瞞行為に乗ぜられざるを要す
中支那方面軍司令部の「注意事項」を無視した命令である。上海派遣軍第九師団の歩兵第六旅団長秋山少将は
次のことを指示した。
三、遁走せる敵は大部分便衣に化さるものと判断せらるるをもって、その疑いのある者はことごとくこれを検挙し適宜の位置に監禁す
四、青壮年はすべて敗残兵又は便衣隊と見做し、すべてこれを逮捕監禁すべし
入城式のための大殺戮
p195
功名心にはやる松井石根司令官と中支那方面軍が17日に入城式を強行することにしたため、日本軍は14日常から17日にかけて、南京城の内外で全軍をあげての徹底した「残敵掃討・殲滅」作戦を遂行することになった。
p201
この難民区に12型12日夜からの南京防衛軍の崩壊により、撤退する機会を失った多くの敗残兵が、武器を捨て、軍服を脱いで逃げ込んできた。
難民区の敗残兵狩りを担当したのは、第16師団と第9師団の部隊だった。
陸の孤島での犯罪と抵抗
p221
南京攻略戦に参加した多くの師団が、南京警備に残留した第16師団を除いて、新たな作戦区域を目指して、移動して行ったのは、クリスマス前後のことだった。
12月17日の段階で、南京城内にいた憲兵はわずか17名に過ぎなかった。
p223
入城式後に激発した強姦
【小見出し】
南京事件の全体的像ーー犠牲者総数を推定する
【著者は、南京爆撃を始点として算出するという奇妙な手法をよういている。】
p259
【筆者がアジア歴史センターで、日本軍記録を検索した結果を表1としてまとめているが、師団単位に合計した数値は、次のとおり。長江渡河中殺戮とあるのは、陸軍では第16師団のみ。海軍では、約2万を長江渡河中殺戮としている。本書では無いが中国側証言から見て、長江渡河中とは明らかに民間人混在である。
第16師団 約5.5〜6万
第13師団 約2.1万
第9師団 6670
第114師団 1500
第6師団 約1.8万
第5師団 約7300
陸軍小計 約11.4万
海軍第11戦隊 約3.2万
総合計 約14.6万
期間は、1937年12月10日から17日までである。
】
p260
可能性のある捕虜の全員殺害を想定すれば、10万人以上になる。
p269
軍民合わせた南京事件の犠牲者総数総数については、日本軍関係の資料からは、8万人以上或いは10万人以上、中国軍関係の資料からは約8万人、慈善団体等の埋葬資料からは18万8849人、あるいは21万8849人という数字が導きだされる。
私には、南京事件とは、何処をどう見ても、老若男女・幼児を問わず、片っ端から中国人虐殺ではなく、蒋介石指揮下の中央軍捕虜・軍服を脱いだ便衣兵・20才から45才位までの青壮年中国人男性 この3パターンの大量殺害事件のように思える。真に重要であるのは、長江渡河中を除いて、老若男女・幼児まで含む大量殺害は、どうも無かった点である。少なくとも、長江渡河中を除いて、そのような命令は出されてはいない。多くの日本人が勘違いしているのでは?なかろうか???そして、その原因は、戦前と報道内容を一変し、東京裁判とその内容を報じたまさしくマスゴミにある、マスコミではない。
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