中国女性の20世紀
近現代家父長制研究

白水 紀子
2001年
明石書店

本書によれば、日本の江戸時代と中国の清朝時代とでは結婚制度も妾も全く異なる
①中国の清朝時代には、嫁は貰うものではなく、完全に「媳とは買うもの」であった。極論すれば、儒教影響下の中国では女性は基本的には売買の対象であったといえる。
②中国の妾とは、日本とは全く異なり、正確には第二・第三夫人である。正妻は第一夫人。この点に関しては、日本の最高裁に相当する裁判所の判例を引用。
③この書の記述は、歴史資料ではなく、自伝的な小説・普通の小説に依拠している場合が多い。

p20
民国時期(1912~1949)の中国女性の経済的地位は当時の世界基準に照らしても著しく低い

p23 この童養媳の風習は、将来の息子の嫁として、娘を幼くして安いうちに買い取っておくもので、その起源は古く、すでに宋元の時代に記録に見ることができる。 
民国時期には若い娘の4割が童養媳であるとするもの、また江西省や福建省のある県では一時期に8~9割に達したという報告も見られる。

p29 
【童養媳の風習】結局は1950年の新婚姻法とその後の大衆運動によってようやく長い歴史に終止符が打たれたのだった

p48 
自伝あるいはそれに近い文学作品を通して具体的な考察を進めたい

p78 
ここでは前者の、最高権力者としての寡婦の系譜を、20年代から90年代に至る文学作品を通して概観してみたい

p130 
貧しい家の場合は、この有無にかかわらず、再婚の際に得られる聘財(へいざい、寡婦の身価)目当てに、つまり寡婦を売って「金儲け」するために再婚は広く行われ、また「やや豊かな家」では
特に男子がいない場合には、一族間で継嗣選定を巡るトラブルを避け、かつ寡婦の持つ遺産を奪うために強制再婚が行われることが多かったこと、

p132 
寡婦となった女性が実家に戻ることは基本的にはあり得ず、夫家において守節するか、あるいは夫家の決めた再婚に従うかのいずれかであった

第五章 
民国時期の畜妾制
p184 妾は「その家長とは法律上の婚姻関係にはないが、事実上の家族の一員として認められ、その家長は扶養の責を負い、家長亡き後は(中略)その継嗣が扶養の義務を負う」【民国3年の中国の最高裁の判例】
中国社会では一夫一妻多妾制は、1950年の婚姻法によって蓄妾の禁止が明文化されるまで続いたと考えてよい
蓄妾制は祭祀を継承すべき男系子孫の断絶を防ぐために不可欠であると考えられてきた。日本のように家名や家業を継ぐことを第一義とする家制度では、相応しい男子がない場合には、妾を置かずとも婿養子や養子縁組などで家の存続を図ることができたが、男系の血筋を重んじ、「異姓不養」を原理とする中国では正妻に継嗣が生まれない場合にはまず妾を置くことでその解決が図られたのである。

p187 
妻妾の地位の差は時代が古いほど大きく、「上代において、妾とは一般に女奴を意味する言葉であった」といわれる。かつての中国における妾の地位の低さを知る格好のテキストに「紅楼夢」(清、18世紀中葉)がある。それには、妾の実家とは親戚づきあいが生じないこと、離婚・売買・譲渡は主人の自由に任されていたこと、また妾の手当てが女中の2倍程度で

p189 
蓄妾に関する正確な統計はないが、一般に中国の南方に妾は多いといわれており
1930年代初めの広東河南地区の例でみると、家数3200に対して妾数1070、つまり3軒に一人の割合で妾がいたことが報告されている

p190 
中国北方の農村では蓄妾数は極めて少なく 
全体の1~2%に過ぎない