アジアの独裁と建国の父
根本 敬
粕谷 祐子
彩流社
2024年
p64
金日成は
1945年10月14日に平壌で開催された集会で登壇している。
12月
金日成は早くも組織トップである責任書記に就任している。
p65
金日成はソ連派の協力を得て責任書記に就任して以降、
その過程にソ連軍政がいかに関与したかについては不明な点が多い。
現在の北朝鮮の愚かな🐖豚の祖父は、どこをどう見ても、やはり当時のコミンテルン=ソ連が選んだと思われる。重要なのは、ソ連の北朝鮮指導者選定が10月にまでずれ込んだ可能性が高い点である。適当な人材がいなかった可能性が高い。
突然、登場した若造を指導者に仕立てるには、輝かしい抗日運動の経歴創出が必要であった。
この書では一切書いてはいないが、東北抗日聯軍は中国共産党の抗日運動で指揮官は中国人であり、バカ豚の祖父が東北抗日聯軍の将校であった点までは恐らく事実であろう。
当時の中国共産党に対するコミンテルンの指揮力は、その後と全く異なり、極めて強い。そのくせソ連は1945年8月まで軍事援助を中国共産党に全く行っていない。ただし、その後関東軍から接収した全ての武器を渡している。この時点で国共内戦の行方が決まり、朝鮮戦争で中国が人海戦術をとりえた基本要因である。関東軍の1万丁近い重機関銃の影響が多きかったと思われる。
p91
1919年
フランス社会党に入党した。
この書で取り上げている者の中で、毛沢東とホーチミンだけが、建国の父の名に値するが、やはり、若きホーチミンはフランスで8年暮らしてやっと政治活動を始めている。その意味で、明らかにフランスの影響であり、この点は期間は短いが、周恩来、鄧小平らと異ならない。毛沢東だけが、やはり中国が生み出したバケモノであろう。朱元璋以来かもしれない。毛沢東のDNAを分析したい。
p92
1923年6月ホーはフランスを出てソ連に向かい、翌月初めにはモスクワに到着した。
p95
1941年
1911年にサイゴンの港を出てから約30年ぶりに祖国の地を踏んだことになる。
p246
李承晩
投獄されたが、釈放されて1905年に米国に派遣された。
【誰が、どの機関が派遣したのかについて、この部分の著者は一切書いていない】
この部分の著者は、長田という者からの孫びきしているが、そもそも日本語になっていない。二人ともDNAが日本人かどうかは知らんが、朝鮮半島史は、どこをどう見ても、朝鮮が日本国内であった戦前の方が研究水準が圧倒的に高い。
奴婢人口比一つとっても、バ韓国人はいまだに慶尚道大邸限定の四方博のデータに依存し、なおかつ、データを人口比ではなく、軒数比率で示して、19世紀には奴婢制度は事実上なくなったと、ば韓国人どもに信じこませている。私の推測が正しいのであれば、貴様ら朝鮮人どものDNA異常性の原因の一つが奴婢制であり、同父異母の者同士の意図せざる近親相姦が多かったのである。この部分の著者は当然知らんだろうが、Nature傘下の雑誌に奴婢人口に関する箸にも棒にもかからない、何故掲載されたのかが最大の謎である論文があるよ。大爆笑🤣。
1910年にプリンストン大学の博士号(Ph.D)取得した。
たった5年で、李承晩という天才詐欺師は当時もアメリカの超名門大学から博士号を得ている。この部分の著者は書いてはいないが、韓国では、李承晩は、私は李王朝の王族だと自称したと信じられている。嘘と騙し以外の何らの能力を有さない、悲しき人々である。李承晩は、アメリカの大学で博士号を得た初めての朝鮮人ということに、ば韓国=バカん国ではなっているが、当時は朝鮮人は日本人であったからして、日本人名で博士号を得た朝鮮人は当然他にもいたと思われるが、バカバカしいので調べてはいない。
学位論文は、米国が主導した「国際法上の中立」について論じたもので、指導教員は大学総長でもあったウィドロー・ウィルソンであった。ウィルソンはその後米国の第28第大統領に就任している。
この書で唯一意味があった内容である。通常は、総長が博士論文の指導教官となることなど、あり得ない。しかし、これすら史実であるかどうかは、自分で確かめるしかない。戦後の朝鮮史は、嘘と事実上の捏造だらけであり、全てを疑う必要がある。それを始めたのは、朝鮮史美化運動の創始者である朝鮮名でKである。司馬遼太郎さんのどうしようもない連中への強烈な皮肉を思い出す。僕は両班の子なんだ。
p248
李承晩は日本の植民地期のほぼ全てを米国で過ごした。
この生涯を嘘と騙しのみで生きたまさしく人類のクズと言い切ってよい生物については、そのことをよく示す最晩年の写真がかつては、ネット上にあった。画像は、この生物の過去の行いを極めてよく示している様に私には感じられ、非常に印象的であった。しかし、今、同じ画像が検索しても出てこない。
p249
45年12月に米国政府がソ連と協調して信託統治方式方針を出したのに対して、李承晩は即時独立運動を組織して大衆運動の指導者となった。
この書では書いてはいないが、何故、アメリカは30年もの長きにわたる信託統治を主張したのか?朝鮮人どもよ!分かるか?私には非常に良くわかる!

根本 敬
粕谷 祐子
彩流社
2024年
p64
金日成は
1945年10月14日に平壌で開催された集会で登壇している。
12月
金日成は早くも組織トップである責任書記に就任している。
p65
金日成はソ連派の協力を得て責任書記に就任して以降、
その過程にソ連軍政がいかに関与したかについては不明な点が多い。
現在の北朝鮮の愚かな🐖豚の祖父は、どこをどう見ても、やはり当時のコミンテルン=ソ連が選んだと思われる。重要なのは、ソ連の北朝鮮指導者選定が10月にまでずれ込んだ可能性が高い点である。適当な人材がいなかった可能性が高い。
突然、登場した若造を指導者に仕立てるには、輝かしい抗日運動の経歴創出が必要であった。
この書では一切書いてはいないが、東北抗日聯軍は中国共産党の抗日運動で指揮官は中国人であり、バカ豚の祖父が東北抗日聯軍の将校であった点までは恐らく事実であろう。
当時の中国共産党に対するコミンテルンの指揮力は、その後と全く異なり、極めて強い。そのくせソ連は1945年8月まで軍事援助を中国共産党に全く行っていない。ただし、その後関東軍から接収した全ての武器を渡している。この時点で国共内戦の行方が決まり、朝鮮戦争で中国が人海戦術をとりえた基本要因である。関東軍の1万丁近い重機関銃の影響が多きかったと思われる。
白頭山家系が北朝鮮の金王朝を世襲している点について、この箇所の著者は事実上何も書いてはいない。DNAが日本人かどうかは知らんが迷惑千万なことである。北も南も、嘘だらけであり、朝鮮人DNAの異様さを明確に示している。
p90
1911年
ホーチミンは
フランス商船の見習いコックとして祖国を離れた。
この時、21歳である。
この部分の著者さんよ、英語でコックは、日本語のチンポという意味だよ。
p90
1911年
ホーチミンは
フランス商船の見習いコックとして祖国を離れた。
この時、21歳である。
この部分の著者さんよ、英語でコックは、日本語のチンポという意味だよ。
p91
1919年
フランス社会党に入党した。
この書で取り上げている者の中で、毛沢東とホーチミンだけが、建国の父の名に値するが、やはり、若きホーチミンはフランスで8年暮らしてやっと政治活動を始めている。その意味で、明らかにフランスの影響であり、この点は期間は短いが、周恩来、鄧小平らと異ならない。毛沢東だけが、やはり中国が生み出したバケモノであろう。朱元璋以来かもしれない。毛沢東のDNAを分析したい。
p92
1923年6月ホーはフランスを出てソ連に向かい、翌月初めにはモスクワに到着した。
p95
1941年
1911年にサイゴンの港を出てから約30年ぶりに祖国の地を踏んだことになる。
p246
李承晩
投獄されたが、釈放されて1905年に米国に派遣された。
【誰が、どの機関が派遣したのかについて、この部分の著者は一切書いていない】
この部分の著者は、長田という者からの孫びきしているが、そもそも日本語になっていない。二人ともDNAが日本人かどうかは知らんが、朝鮮半島史は、どこをどう見ても、朝鮮が日本国内であった戦前の方が研究水準が圧倒的に高い。
奴婢人口比一つとっても、バ韓国人はいまだに慶尚道大邸限定の四方博のデータに依存し、なおかつ、データを人口比ではなく、軒数比率で示して、19世紀には奴婢制度は事実上なくなったと、ば韓国人どもに信じこませている。私の推測が正しいのであれば、貴様ら朝鮮人どものDNA異常性の原因の一つが奴婢制であり、同父異母の者同士の意図せざる近親相姦が多かったのである。この部分の著者は当然知らんだろうが、Nature傘下の雑誌に奴婢人口に関する箸にも棒にもかからない、何故掲載されたのかが最大の謎である論文があるよ。大爆笑🤣。
1910年にプリンストン大学の博士号(Ph.D)取得した。
たった5年で、李承晩という天才詐欺師は当時もアメリカの超名門大学から博士号を得ている。この部分の著者は書いてはいないが、韓国では、李承晩は、私は李王朝の王族だと自称したと信じられている。嘘と騙し以外の何らの能力を有さない、悲しき人々である。李承晩は、アメリカの大学で博士号を得た初めての朝鮮人ということに、ば韓国=バカん国ではなっているが、当時は朝鮮人は日本人であったからして、日本人名で博士号を得た朝鮮人は当然他にもいたと思われるが、バカバカしいので調べてはいない。
学位論文は、米国が主導した「国際法上の中立」について論じたもので、指導教員は大学総長でもあったウィドロー・ウィルソンであった。ウィルソンはその後米国の第28第大統領に就任している。
この書で唯一意味があった内容である。通常は、総長が博士論文の指導教官となることなど、あり得ない。しかし、これすら史実であるかどうかは、自分で確かめるしかない。戦後の朝鮮史は、嘘と事実上の捏造だらけであり、全てを疑う必要がある。それを始めたのは、朝鮮史美化運動の創始者である朝鮮名でKである。司馬遼太郎さんのどうしようもない連中への強烈な皮肉を思い出す。僕は両班の子なんだ。
p248
李承晩は日本の植民地期のほぼ全てを米国で過ごした。
この生涯を嘘と騙しのみで生きたまさしく人類のクズと言い切ってよい生物については、そのことをよく示す最晩年の写真がかつては、ネット上にあった。画像は、この生物の過去の行いを極めてよく示している様に私には感じられ、非常に印象的であった。しかし、今、同じ画像が検索しても出てこない。
p249
45年12月に米国政府がソ連と協調して信託統治方式方針を出したのに対して、李承晩は即時独立運動を組織して大衆運動の指導者となった。
この書では書いてはいないが、何故、アメリカは30年もの長きにわたる信託統治を主張したのか?朝鮮人どもよ!分かるか?私には非常に良くわかる!

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