中国はいかにチベットを侵略したか
マイケル・ダナム
山際 素男 訳
講談社インターナショナル
2006年
p39
【著者のインタビューに対する証言】
中共軍の侵略以前は比較的平穏でした。国民党の兵隊たちは文字通り負け犬で
兵隊の多くはアヘン吸飲者、
チベット人と戦おうというなんて言う気は初めからありませんでした
p39
【著者のインタビューに対する証言】
1932年8月ダライ・ラマ13世は既にこのことを予言していました。”遠からずチベットは崩壊するだろう。ダライ・ラマもパンチェン・ラマも父も息子も、聖職者達も消えてしまい忘れ去られてしまうだろう。僧侶も僧院もことごとく消滅し、国土も政府も取り上げられ、敵に仕えるか、さもなくば物乞いの如く世界をさすらうであろう。全てのものは苦悩の底に沈み、恐怖におののき、昼も夜も不幸な影を引いてゆかねばならないだろう”
p40
【著者のインタビューに対する証言】
ダライ・ラマ13世の予言を知らぬチベット人はいません
p56
【著者のインタビューに対する証言】
1950年代当初の中共兵は違ったね。
中共兵は実によく統制がとれていた。略奪や脅迫をしない最初の中国兵だった。
チベット騒乱とは無関係であるが、これこそが国共内戦に勝利を収めた最大の要因であることは間違いない。軍事的にはソ連が関東軍から接収した38式歩兵銃約70万丁と重機関銃約1万丁をそのままそっくり、毛沢東に引き渡したのが決め手である
p57
【他書からの引用。ロバート・フォード 「赤いチベット」】
他のアジア諸国と違ってチベット女性の社会的地位は高く、自分の財産を持ち、家のことを取り仕切っていた。
特筆すべきは、女性が地域の統治権を持っていたことであり、首長が若死したりすればその寡婦が実力を発揮し権力を維持した。
男性の4分の一が僧侶
p80
1951年
17カ条協定書
彼らはいやおうなくその文書に著名させられた
この協定では、チベットは中国の一地方とする内容である。協定冒頭に画像のように明記されている。本書によれば、この協定は中国に派遣された者の越権行為であるとのこと。形式論はともかくこの協定が有効な時点では、中国サイドからみればチベット騒乱は、完全な内乱に過ぎないことは100%間違いない。少なくとも、1959年まで有効であった協定文冒頭から見て、チベット独立自体を完全放棄することを明記しているからして、むしろチベット側に非があると断定するしかない。
清朝時代の一時期にパンチェン・ラマが清朝皇帝の帝宮の1カ所に住んでおり、あくまで名目上は、乾隆帝などの清朝皇帝は、(モンゴル民対策の意味もかねて)ラマ教信者を装っていたことは知っていたが、「君臨すれども統治せず」方式であった。何故、理屈屋であった毛沢東が、「君臨すれども統治せず」方式を止めたのかは本書でも明らかではない。

日本語のウキペディア記事から
1959年、ダライ・ラマ14世はラサを脱出、インドへ亡命した。その途上、国境の手前でダライ・ラマ14世はチベット臨時政府の発足と十七か条協定の正式破棄を宣言した。これにより、中国側も国務院総理周恩来の名義で「原西藏地方政府を廃止した」と布告し、これより十七か条協定は消滅した。
p92
【著者のインタビューに対する証言】
1952年初頭には既に2万人の中共軍がラサ周辺に配置されていました
p126
【著者のインタビューに対する証言】
妻・娘・尼僧たちは繰り返し強姦されまくった。特に尊敬されている僧たちは狙い撃ちにされ、尼僧と性交を強いられたりもした
性交を強いられたとあるが、そのためには男性側が勃起しなければならない。男性目線では、勃起した以上は強いられた性交ではない。中国人の怜悧性を痛感する
p127
【著者の見解】
この残虐行為を止める者はおらず、もし地獄がこの世に存在するとしたら、それはまさに1956年の東チベットそのものであった
p131
【ダライ・ラマ自叙伝からの引用】
東チベットは常軌を逸した暴走状態になり、中央チベットもそれにひきづられようとしていた
p199
CIAは事態の進展をただ見守るしかなかった
p212
ラサの反乱は2日間続いた。
マイケル・ダナム
山際 素男 訳
講談社インターナショナル
2006年
作家であり、よくいる世界放浪者の写真家が、今日のようにYoutube、インスタではなく、チベットに関する幾人かの亡命チベット人の証言と他書からの引用などで書き上げた書である。
本書で初めて知ったのは、1958年前後のチベット騒乱にアメリカのCIAが相当程度に関与していた点である。わざわざ、チベットから事実上のテロ訓練のためにチベットから沖縄経由でサイパンの米軍基地で訓練までして、チベットへはパラシュート降下で戻っている。人員的にはごく少数とわいえ驚いた。しかし、チベット騒乱はアメリカのCIAが引き起こしたというわけではない。英語原題は「ブッダの戦士達」である
この書によって、ダライ・ラマの生まれ替りである後継者の子供をどうやって選定するのかについて私なりの答えが出た。本書によれば、現在のダライ・ラマ14世には、年の離れた成年僧となっていた実兄が2名いるそうである。(現在では既に死去されているであろう)
従って、チベット仏教の活仏であるダライ・ラマは、正当な手続きの場合には、複数名の成人した僧を兄としてもち、かつ、複数名の兄が頭脳明晰で評判の良い僧侶である場合に、その最年少の兄弟の3歳~4歳の子を選ぶのだ。当たり前だが、選ばれた子が成長してどうしようもない愚物となる可能性は、相当程度に少なくなる。ゼロではないが・・・・。
現在のダライ・ラマ14世も頭脳明晰でダライ・ラマでなくとも相当程度の政治家になり得る者であることは間違いない。私なりのダライ・ラマの生まれ変わり者選定方法の答えが出た。誰でも思いつきそうな手法であるが、選ばれた子が成長してどうしようもない愚物であった場合には、恐らくは完全に内密に毒殺され、同様の手順で生まれ変わり者を選定すればよいのである。ひょっとすると、民主主義国家以外の場合には、血縁によらない指導者選定における最も合理的な手法かもしれない。従って、清朝時代のポタラ宮殿には15歳頃まで成長しておバカと判明したダライ・ラマ毒殺担当者が歴代確実にいたはずである。外部にはその情報は漏れることはないものの、歴代ダライ・ラマの死去時の年齢一覧表があれば、私の推定が正しいかどうかが判明する
本書で初めて知ったのは、1958年前後のチベット騒乱にアメリカのCIAが相当程度に関与していた点である。わざわざ、チベットから事実上のテロ訓練のためにチベットから沖縄経由でサイパンの米軍基地で訓練までして、チベットへはパラシュート降下で戻っている。人員的にはごく少数とわいえ驚いた。しかし、チベット騒乱はアメリカのCIAが引き起こしたというわけではない。英語原題は「ブッダの戦士達」である
この書によって、ダライ・ラマの生まれ替りである後継者の子供をどうやって選定するのかについて私なりの答えが出た。本書によれば、現在のダライ・ラマ14世には、年の離れた成年僧となっていた実兄が2名いるそうである。(現在では既に死去されているであろう)
従って、チベット仏教の活仏であるダライ・ラマは、正当な手続きの場合には、複数名の成人した僧を兄としてもち、かつ、複数名の兄が頭脳明晰で評判の良い僧侶である場合に、その最年少の兄弟の3歳~4歳の子を選ぶのだ。当たり前だが、選ばれた子が成長してどうしようもない愚物となる可能性は、相当程度に少なくなる。ゼロではないが・・・・。
現在のダライ・ラマ14世も頭脳明晰でダライ・ラマでなくとも相当程度の政治家になり得る者であることは間違いない。私なりのダライ・ラマの生まれ変わり者選定方法の答えが出た。誰でも思いつきそうな手法であるが、選ばれた子が成長してどうしようもない愚物であった場合には、恐らくは完全に内密に毒殺され、同様の手順で生まれ変わり者を選定すればよいのである。ひょっとすると、民主主義国家以外の場合には、血縁によらない指導者選定における最も合理的な手法かもしれない。従って、清朝時代のポタラ宮殿には15歳頃まで成長しておバカと判明したダライ・ラマ毒殺担当者が歴代確実にいたはずである。外部にはその情報は漏れることはないものの、歴代ダライ・ラマの死去時の年齢一覧表があれば、私の推定が正しいかどうかが判明する
p39
【著者のインタビューに対する証言】
中共軍の侵略以前は比較的平穏でした。国民党の兵隊たちは文字通り負け犬で
兵隊の多くはアヘン吸飲者、
チベット人と戦おうというなんて言う気は初めからありませんでした
p39
【著者のインタビューに対する証言】
1932年8月ダライ・ラマ13世は既にこのことを予言していました。”遠からずチベットは崩壊するだろう。ダライ・ラマもパンチェン・ラマも父も息子も、聖職者達も消えてしまい忘れ去られてしまうだろう。僧侶も僧院もことごとく消滅し、国土も政府も取り上げられ、敵に仕えるか、さもなくば物乞いの如く世界をさすらうであろう。全てのものは苦悩の底に沈み、恐怖におののき、昼も夜も不幸な影を引いてゆかねばならないだろう”
p40
【著者のインタビューに対する証言】
ダライ・ラマ13世の予言を知らぬチベット人はいません
p56
【著者のインタビューに対する証言】
1950年代当初の中共兵は違ったね。
中共兵は実によく統制がとれていた。略奪や脅迫をしない最初の中国兵だった。
チベット騒乱とは無関係であるが、これこそが国共内戦に勝利を収めた最大の要因であることは間違いない。軍事的にはソ連が関東軍から接収した38式歩兵銃約70万丁と重機関銃約1万丁をそのままそっくり、毛沢東に引き渡したのが決め手である
p57
【他書からの引用。ロバート・フォード 「赤いチベット」】
他のアジア諸国と違ってチベット女性の社会的地位は高く、自分の財産を持ち、家のことを取り仕切っていた。
特筆すべきは、女性が地域の統治権を持っていたことであり、首長が若死したりすればその寡婦が実力を発揮し権力を維持した。
男性の4分の一が僧侶
p80
1951年
17カ条協定書
彼らはいやおうなくその文書に著名させられた
この協定では、チベットは中国の一地方とする内容である。協定冒頭に画像のように明記されている。本書によれば、この協定は中国に派遣された者の越権行為であるとのこと。形式論はともかくこの協定が有効な時点では、中国サイドからみればチベット騒乱は、完全な内乱に過ぎないことは100%間違いない。少なくとも、1959年まで有効であった協定文冒頭から見て、チベット独立自体を完全放棄することを明記しているからして、むしろチベット側に非があると断定するしかない。
清朝時代の一時期にパンチェン・ラマが清朝皇帝の帝宮の1カ所に住んでおり、あくまで名目上は、乾隆帝などの清朝皇帝は、(モンゴル民対策の意味もかねて)ラマ教信者を装っていたことは知っていたが、「君臨すれども統治せず」方式であった。何故、理屈屋であった毛沢東が、「君臨すれども統治せず」方式を止めたのかは本書でも明らかではない。

日本語のウキペディア記事から
1959年、ダライ・ラマ14世はラサを脱出、インドへ亡命した。その途上、国境の手前でダライ・ラマ14世はチベット臨時政府の発足と十七か条協定の正式破棄を宣言した。これにより、中国側も国務院総理周恩来の名義で「原西藏地方政府を廃止した」と布告し、これより十七か条協定は消滅した。
p92
【著者のインタビューに対する証言】
1952年初頭には既に2万人の中共軍がラサ周辺に配置されていました
p126
【著者のインタビューに対する証言】
妻・娘・尼僧たちは繰り返し強姦されまくった。特に尊敬されている僧たちは狙い撃ちにされ、尼僧と性交を強いられたりもした
性交を強いられたとあるが、そのためには男性側が勃起しなければならない。男性目線では、勃起した以上は強いられた性交ではない。中国人の怜悧性を痛感する
p127
【著者の見解】
この残虐行為を止める者はおらず、もし地獄がこの世に存在するとしたら、それはまさに1956年の東チベットそのものであった
p131
【ダライ・ラマ自叙伝からの引用】
東チベットは常軌を逸した暴走状態になり、中央チベットもそれにひきづられようとしていた
p199
CIAは事態の進展をただ見守るしかなかった
p212
ラサの反乱は2日間続いた。
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