クビライ・カアンの驚異の帝国
宮 紀子 
ミネルヴァ書房 
2025年 

発刊時点で53歳の京大人文研の助手さんによる著作。研究に専念できるので教授職には就きたくないのであろうし、きつい表現かもしれないが、「教え手」には明らかに不適格だから就くべきでもないと感じざるを得ない内容である。

読んでいる途中でどこかの雑誌に連載したものを加筆することなくそのまままとめたことはすぐわかったものの、通常は、相当程度に加筆・修正して1冊の書籍とする。

なおかつ、一次資料名も通常とは異なる表現を使用している。単に東方見聞録でいいのだ。だから、「教え手」には明らかに不適格である。著者は言語文(中国で使用される表現、日本では漢文という)の他に、ドーソンのようにペルシャ語を自由自在に読めるのであろうか?古いイタリア語も読めるのであろうか?そんなことはあり得ないであろう。
元史がバケモノ=朱元璋の命令で、たったの1年で中国語文献にのみ依拠して書かれた中国の正史中で最も杜撰と悪評の高い正史であること程度はご存知であろう。

p261
1232年 
トルイが用済み・厄介者とばかり毒殺されてしまったのである

記述根拠を知りたい。毒殺とする一次資料はないはずである

p262 
「ガザンの吉祥なる歴史」
「モンゴル秘史」

【著者によれば、オゴテイハーンに関する記述が正反対だそうである。「ガザンの吉祥なる歴史」の邦訳は出されていない、単にイルハン国のイスラム教徒となったガザンハンの一代記にすぎず、日本では通常は「集史」と呼ばれる世界史?の第一巻に過ぎない。フランス語訳書はでているが、日本語訳はない。
モンゴル秘史は神話的内容を含む、恐らくは
「集史」の「ガザンの吉祥なる歴史」も同じであろう

以下はウキペディア記事による

『集史』の編纂はイル・ハン国の宰相であったラシードゥッディーンが第7代君主ガザン・ハンの下命により、『モンゴル史』(ガザンの祝福された歴史 Tārīkh-i Mubārak-i Ghāzānī)を編纂したことに始まる。『モンゴル史』の完成(1307年)後、第8代君主オルジェイトゥ・スルターンの下命を受けたラシードはさらに世界史と地理誌を『モンゴル史』と合編し、『集史』(Jāmi` al-Tawārīkh)を完成させ、1310/11年に献呈した。成立時点における『集史』の構成は、第一巻「モンゴル史」、第二巻「同時代史」および「世界史」、第三巻「地理誌」の全三巻構成であった。その後も増補が行われ、さらに系図集が編纂され、「地理誌」を第四巻に繰り下げ、「系図集」を第三巻に組み込んだ全四巻構成となった。ただし、現存する『集史』諸写本の「目次(fihrist)」はことごとく三巻構成となっており、四巻本『集史』の実在は確認されていない。『集史』各巻のうち現存しているのは第一巻「モンゴル史」と第二巻のうちの「世界史」のみである。ただし、第二巻のうちの「同時代史」はカーシャーニー編『オルジェイトゥ史』(Tārīkh-i Ūljāytū)がその増訂版であると考えられる。また、「系図集」はラシード未監修の増補版が『五族譜』(Shu'ab-i panjgāna)であると考えられる。なお、「地理誌」は散逸した。】


p264 
ソルコクタニは
バトゥと連携しグユクを暗殺。

杉山正明による主張である。

p266 
モンケは即位後ただちにオゴテイ家とチャガタイ家の大粛清を行った。

p282 
さすらいのカアン
1330年、朝廷ではトゴンテムルを廃嫡すべく、 彼を高麗への島流し・幽閉処分に附した

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p283 
1332年トクテルがわずか4年の治世で崩御した。
7歳の
イリンジバルが即位したものの、何と1か月余りで崩御してしまった。
かくてトゴンテムルがカアンの宝座に座し

p284
【トゴンテムルが高麗の奇氏=オルジェイクドゥを寵愛した旨】
オルジェイクドゥは【自分が生んだ皇太子であるアユルシリダラ】
一刻も早くアユルシリダラをカアンにしようと画策し始める。度重なる災害によって、紅巾の乱をはじめ各地で解決すべき問題が多発していたにもかかわらず、政治闘争が優先されたのである

トゴンテムル、アユルシリダラ父子は、コンギラト鮒馬家はもとより、オングト、バヤウト等有力部族の后妃から後嗣をもうけなかった。これはいざというときに、幾重にも結ばれた血縁によるモンゴル諸王家と貴族の連帯、強力な軍団の支援を当てにできなくなったことを意味する。トゴンテムルはクビライの治世よりも長い年数をカアンとして過ごしたが、終わりにも”さすらいの日々”を送ることになる

著者は、大元ウルスを滅ぼしたのは、あくまで表面上は朝鮮人女であるとハッキリ書くべきである。アメリカ食品医薬品局論文が正しいのであれば、朝鮮人はほぼ異常と言えるDNAを宿している。私の推定が正しいのであれば、その異常性は明らかに13世紀=1259年前後の朝鮮半島の人口の大幅な減少(推定約85%減少)が主原因であり、13世紀半ば以降、朝鮮人はその宿すDNAの異常性により、知能は低く、「嘘と騙しにのみ長じた」異様な民族性が形成された。高麗の奇氏=オルジェイクドゥはその典型・象徴ともいえる朝鮮人女である。そして、今日、日本でも同様のことが起こっているように私には見える。まさしく、「現生人類のガン」とも言うべきであろう。がん細胞は正常細胞と異なり細胞分裂に事実上限界がないのが一つの特徴である。アメリカ食品医薬品局論文が正しいのであれば、朝鮮人は現生人類DNAに生じた一種のガンとも言うべき存在である。がんは撲滅されるべきである。

p295
モンゴル時代史研究者にとって 
元史 
モンゴル秘史 
ペルシャ語の「世界を開く者の歴史」、「ガザンの吉祥なる歴史」
フランス語、イタリア語、ラテン語等様々な版の「百万の書」(通称「東方見聞録」)
は基本中の基本資料であり


「世界を開く者の歴史」とは、通常は世界征服者の歴史のことである。

『世界征服者の歴史』(せかいせいふくしゃのれきし、ペルシア語: تاريج جهانگشای Ta'rīkh-i Jahān-gushāy)とは、『集史』などと並び、モンゴル帝国を語る上で重要な歴史書。モンゴル帝国の政治家・歴史家のジュヴァイニー(ジュワイニー)によって1260年に完成された。全3巻。原名はペルシア語でタリーヒ・ジャハーン・グシャー(イー)(Tārīkh-i Jahān-gushā(ī))という[1]。 1252年、のちにイルハン朝を創設するフレグの命令でモンゴル帝国の首都カラコルムのモンケの宮廷に派遣されたジュヴァイニーは、モンゴル帝国の広大さに衝撃を受けるとともに、その成立までの過程に関心を抱いた。そして友人からの勧めもあり、モンゴル帝国成立に至る歴史書の執筆を始めたのであった。途中、バグダードの戦いへの参戦とバグダード陥落後のバグダード太守任命などを経て、1260年に完成した