聖パウロ 
エティエンヌ・トロクメ 
加藤隆 訳 
文庫クセジュ 
白水社

文庫クセジュは自然科学系は全然ダメであるが、その他は優れた著作が多い。神学者によるこの書も、パウロに関する一般向けの優れた解説であり、著者の最後の著作である。フランス人特有のきどっと表現ではないのが何よりも救いである

キリスト教とは奇跡を信じる宗教であり、キリスト=数々の奇跡を起こしたが故に神の子、「悔い改めよ」は全人類に向けた言葉ではなく、「(同胞よ=ユダヤ人よ=省略されているに過ぎない)悔い改めよ」である。

パウロはイエス程ではないが奇跡を起こすことができたので実質的なキリスト教の創始者。p36の記述が決め手であり、パウロと他の原始キリスト教指導者の決定的な差である。
かつ、中世ヨーロッパの修道院は、世界中のあらゆる宗教の中で唯一聖職者が労働を行っていた。
ルイスマンフォードが指摘した資本主義の源流は、中世ヨーロッパの修道院にあるという視点の根源は、テントづくり職人でもあったパウロにあったんだ、初めて知った。

p7 
パウロが独立して伝道活動を行ったのは12年程の期間

p8
13通の手紙からなる書簡集を作り上げた。 【著者によれば、うち3つはパウロの弟子によるもの、確実にパウロの手によるのはローマ人への手紙 他7書簡、 パウロかどうかは確定していないのが2書簡、どういうわけか一つが抜けている】

p14 
ローマの商業的政治的な重要性が大きくなると、ローマにコスモポリタンな人々が集まるようになる。そこには何十万人ももユダヤ人たちが含まれていた

p16 
パウロの生年と没年はわからない

p22 
パウロはベニヤミン族の出身だといっていたユダヤ人の両親から自分は生まれたと述べている。

p23 
パウロの父親がローマ市民であることは、使徒行伝で確認されている。パウロ自身は自分にローマ市民権があるとは述べていない

p24 
使徒行伝によって私たちはパウロのユダヤ名がサウルであることを知ることができる

p30 
一人のユダヤ人にダマスコの道での出来事が生じた。しかし、彼はこの時ユダヤ教を捨てたのではない。
パウロはイエスがイスラエルに待望されていたメシアであるという確信を得て

p34 
復活したイエスは最初の弟子たちに対してのと同様、パウロにも表れ、

p53 
これまでキリスト教徒たちのグループは、当時は内部が大変多様だったユダヤ人共同体の枠内に作られていた

p65 
パウロは結婚していなかった。ただし、彼がずっと独身だったか、妻に先立たれたかはわからない。 
パウロは可能な時には、テントづくりの職で必要な費用を賄っていた

p85 
パウロは教えの活動をしただけではないということが使徒行伝で確認されている。奇跡を起こす者としても彼は有名になり、人々は彼が触れた手巾や衣服を手に入れて、病人の皮膚にあて、あらゆる種類の病気から病人を癒そうとした

p94 
パウロはこの儀式に神秘的な深い意味を付与している。水中に全身を潜らせることはキリストの埋葬と結び付けられ、水から出てくる者は復活者の生命に結びついた新しい生命に招かれている。従って、洗礼は

p123 
ただし、一つのことは確実だと思われる。それはパウロが62年から68年の間にローマで殉教したということである

p124 
ローマ市民であるパウロは、おそらくオスティア街道で剣によって処刑されたのであり

p130 
今日では紀元後70年の神殿崩壊以来のユダヤ教がこの上なく多様なものであり、隣接する諸宗教の多くの考え方を同化する能力があったことが明らかとなっており、パウロは以前に考えられていた以上に、ユダヤ的な人物だということになっている

p133 
ユダヤ教では、神の超越性が大変強く感じられていたので、神と人との間を仲介するものの存在が必要だと考えられていた。天使たちはずっと以前から知られていた

p151 
労働という行為は、ギリシャ・ローマ的古代においては、ほとんど全面的に奴隷だけに限定されていたが、パウロは労働を驚くほど断固たる調子で、全ての信者に勧めている。テントづくりの職人であったパウロは

p157 
パウロこそ「キリスト教の創始者」とされるべきだとされるが、果たしてそうなのだろうか。彼らによれば、イエスはユダヤ教の改革者に過ぎないのである。
パウロは何人もいるキリスト教創始者のうちの一人に過ぎない