梅原猛の「歎異抄」入門
プレジデント社
2005年 第7冊
p11
実は、一般の人に歎異抄が知られるようになったのはほんの最近、今からわずか、7,80年前の明治の末のことに過ぎないのだ
p12
歎異抄は長い間、本願寺の文庫の中で秘められたまま、一般の人は勿論宗門の学者にさえ、その存在はよく知られていなかったのである
p13
清沢満之が歎異抄に注目し、それを熱愛し賞揚して以来、俄然、宗門の人たちばかりでなく、広く一般の人にも知られるようになった
p40
親鸞が法然の弟子となったのは
1201
親鸞29歳の時であった
p84
第5条
【現代語訳】親鸞は亡くなった父母の追善供養のためにだと言って念仏をしたことは一度もございません
p159
第10条
【現代語訳】念仏は人間のこざかしい理性でもって理解できませんと、親鸞上人がおっしゃっていました。
プレジデント社
2005年 第7冊
善人なをもて往生をとぐ、いわんや、悪人おや
①このあまりにも有名な上手い表現は、著者の唯円=絶対他力本願からすれば当然である。善人という表現自体に既に一部自力本願が含まれている。
②歎異抄10条のメモした現代語訳は私には、単なるバカげた逃げ口上にしか思えない。漢文からして、「阿弥陀仏に帰依します」と何度も言うこと自体=念仏は、信仰告白であるが、肝心の信仰内容とは無関係である。「アッラーに帰依します」「イエス・キリストに帰依します」でも同じである。私にはさっぱりわからない。
①このあまりにも有名な上手い表現は、著者の唯円=絶対他力本願からすれば当然である。善人という表現自体に既に一部自力本願が含まれている。
②歎異抄10条のメモした現代語訳は私には、単なるバカげた逃げ口上にしか思えない。漢文からして、「阿弥陀仏に帰依します」と何度も言うこと自体=念仏は、信仰告白であるが、肝心の信仰内容とは無関係である。「アッラーに帰依します」「イエス・キリストに帰依します」でも同じである。私にはさっぱりわからない。
p11
実は、一般の人に歎異抄が知られるようになったのはほんの最近、今からわずか、7,80年前の明治の末のことに過ぎないのだ
p12
歎異抄は長い間、本願寺の文庫の中で秘められたまま、一般の人は勿論宗門の学者にさえ、その存在はよく知られていなかったのである
p13
清沢満之が歎異抄に注目し、それを熱愛し賞揚して以来、俄然、宗門の人たちばかりでなく、広く一般の人にも知られるようになった
p40
親鸞が法然の弟子となったのは
1201
親鸞29歳の時であった
p84
第5条
【現代語訳】親鸞は亡くなった父母の追善供養のためにだと言って念仏をしたことは一度もございません
p159
第10条
【現代語訳】念仏は人間のこざかしい理性でもって理解できませんと、親鸞上人がおっしゃっていました。
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