日中戦争全史 上巻
対華21カ条要求(1915年)から南京占領(1937年)まで
笠原 十九司
㈱高文研
2017年
はじめに
p23
1937年7月7日盧溝橋事件
8月13日、上海特別陸戦隊と中国軍との間で第二次上海事変が開始され、華北の戦争は上海に拡大した。
13日の夜の臨時閣議で米内海軍大臣は陸軍の上海派遣を強硬な態度で決定させた。
政府は「北支事変」を「支那事変」と改名、日中戦争は海軍の思惑通り中国との全面戦争に拡大した
p33
日本は1941年夏の段階で、満州国の関東軍を除いて、約85万にも上る日本軍を中国大陸に投入していたが
序章
p55
日本の歴史書では約1000万の中国軍民が犠牲になったと記され、中国側の公式見解では約3000万の中国人が死傷したとされる(注3)
(注)「15年戦争小史」
中国人の死者は、「おおざっぱに約1000万人といわれる」と記している(260頁)
非常に狡猾な著者である。日中戦争全史と銘打って、日中戦争の決定版歴史書のつもりであるならば、最も重要な中国側死者数について、一次資料を調べ、特定地域のサンプルデータから中国全土の死者数を統計的に算出することは可能である。それらを全くせず、あまつさえ、他者の著作から引用して、約1000万などと平気で記述している。本書の価値を大幅に減じるとしか言いようがない。その意味において、この記述はかつての中核派のアジ演説と何ら異ならない。同様に私もいえる「おおざっぱに約20万人」
第1章 メモ省略
第二章
p148
反満反日ゲリラが武装できないように、農民や民間人が自衛のために所持していた銃器・弾薬の有償回収を推進する一方、隠匿武器の没収を強行した
当時の満州は都市部を除き農村部では一家に一銃レベルで、武器を所有していたことはよく知られている。この後に、古田博司訳の「金日成と金正日」現代アジアの肖像 6 除 大粛 岩波書店 で詳述されている東北抗日聯軍に関する正確な記述がある。私は上記書籍から自分で国立国会図書館のアジア歴史資料センターの資料を調べ、恐らくは本物であろう金日成の画像を見つけた。
回想録や他者の著作にのみ依存して書かれた本書の著者は、一次資料とほとんど格闘していないと思われる。非常によくいるタイプの「歴史学者もどき」である。
第3章
3.1936年に海軍が準備した日中戦争
日中戦争発動を陸軍に要請した海軍
いずれも小見出しである。この書籍の特徴と功績は、当時の海軍の動きをうまく描き出した点である
第4章
p219
2.海軍の謀略・大山事件から第二次上海事変へ
p254
4.陸軍の上海派遣軍派遣
陸軍2個師団の上海派遣
米内が
閣議で強引に決定させた
p255
参謀本部作戦部長だった石原莞爾は、「上海派兵は海軍が陸軍を引きずって行ったものといって差し支えない。・・・私は上海に絶対に出兵したくなかったが実は前に海軍と出兵する協定があった」
記述根拠は「石原莞爾中将回想応答録」である。
p259
南京渡洋爆撃と共に、海軍が日中戦争の全面化を企図したことは、第三艦隊第二艦隊が強行した、中国海上封鎖作戦によっても証明される
p264
対米戦に勝利するための軍備拡張が、日中戦争を隠れ蓑に利用して、容易に遂行できたということである。
私の知る限り、少なくとも米内は、その後第二次大戦開戦前の閣議で「アメリカ海軍と戦っても勝てる見込みはありません、ドイツ・イタリアの海軍など問題外」とハッキリと明言している。しかし、軍令部次長の近藤は、速戦即決なら可能性ありとしていた。当時の軍令部が一体全体何故マーシャル諸島方面を決め手となる戦域と考えたのか?は、私には分からないものの、現実にマリアナ沖海戦となった。
p284~286
中支那方面軍、独断で南京へ進撃
中支那方面軍は名ばかりの方面軍であった。
参謀長以下7人の参謀
通常の方面軍司令部が備えている兵器部・経理部・軍医部・法務部はなかった。法務部がないことは、麾下の軍隊の軍紀風紀を取り締まる正式の機関がなかったことであり、後述する南京事件の要因となる日本軍の軍紀紊乱を放任することとなった。さらに
兵站機関も備えていなかった。このことは南京事件の根本的な要因となる
中支那方面軍は、上海戦という地域限定の戦闘のために編成された部隊であり、更に奥地の南京攻略作戦を行うことは軍事常識からいっても不可能だったのである。参謀本部は
制令線(前進統制、進出制限を命令したライン)を指示し、上海戦で決着をつける作戦を明示していた
従来から南京事件の根本原因として「軍紀の崩壊」が指摘されてきた。この書の最大の功績?は、このあたりの記述にある。
p287
第10軍は
独断で南京追撃を敢行することを決定し
制令線を設定して奥地に侵攻することを禁じた参謀本部に対する明らかな命令違反であった
p288
多田参謀次長は戦線拡大を深く憂慮して、中支那方面軍参謀長あてに南京方面には進撃しないように電報を打った
私の知る限り、参謀本部の指示ラインを越えて現地軍が侵攻を続けることは第10軍に限らず中国戦線での常態であり、全ての場合、後で事実上は事後承認されている。南京の場合も100%完全に同じである。従って、下記の著者の見解は誤りである。
p291
正式な命令のないままに南京攻略戦が強行され、南京大虐殺事件を引き起こしていくことになる
8南京事件
大本営、南京攻略を下令
p294
多田参謀次長も同意せざるを得なくなり、大本営は
中支那方面軍の独断専行を正式に追認したのである
p295
中支那方面軍は糧秣のほとんどを現地で徴発するという現地調達主義をとった。
私の知る限り、現地強奪による食糧確保は中支那方面軍に限らず、中国戦線での常態である。兵站部門とは、弾薬と負傷兵用の医薬品運搬のみであり、しかもほぼ全て軍馬で運搬された。著者は今日の兵站と当時の陸軍の兵站の相違を知っているはずであるが?
記憶では「大本営は初秋の頃を期して」と下命している場合もある、即ち、食糧
下は自分で見つけた一次資料


第6師団は、西に迂回して南京に向かっている。
第16師団は、東から=上海から最短ルートで南京に向かっている。当時の常套手法である包囲殲滅
p296からp299
第16師団の牧原上等兵の日記を長く引用している。戦闘は皆無である。
南京進撃途中で重ねられた不法行為
p297
11月29日、武進は抗日、排日の根拠地であるため全町掃討し、老若男女を問わず全員銃殺す。敵は無賜の線で破れてより、
武進は、現在の中国常州市の武進区であり、上海と南京のほぼ中間にある。上の公式の一次資料の16師団の位置と合致する。句容は常州市の武進区よりも南京に近い。しかし、意図的に抽出した日記の一部ですら武進でのみ「老若男女を問わず全員銃殺す」であることがわかる。
松岡氏の中国側証言集でも、老若男女を問わず は、事実上、2例しかなく確実であるのは、長江を中国兵と民間人が混在して渡河した際の機銃掃射のみである
南京戦 切り裂かれた受難者の魂 松岡 環 編著
p304
蒋介石
12月7日早朝に南京を飛行機で脱出した。
p307
残的掃討作戦=大殺戮の開始
著者もさすがに 老若男女を問わず殺害 とは書いていない。
16師団33連隊、連隊管区は三重県、の同じ松岡氏の日本側証言集によれば南京入城直後は、16師団の場合、有無をいわさず、兵役適齢の中国人男性は全て殺害対象となった旨証言している。
その後即ち南京陥落直後の混乱が収束した後は、手にタコがある、頭に帽子跡がある場合には、良民証の発行対象とならず、殺害対象となった。重要なのは、敗残兵大量殺害は100%確実な史実であるが、老若男女問わずに大量殺害が史実であるかどうかである。どこをどう見ても、南京事件において、若男女問わずに大量殺害は発生していない。唯一の例外は、長江を渡って避難しようとしている一般民と敗残兵の混在状況における大量殺害のみである
対華21カ条要求(1915年)から南京占領(1937年)まで
笠原 十九司
㈱高文研
2017年
現代史は豊富な一次資料と証言から構成される。この書ですら、南京陥落直後に第6師団、第6師団が「老若男女問わず殺害」とは書いてはいない。
過去に読んだ松岡氏の中国側・日本側証言集とこの書から見ても、日本人・中国人の証言による現代史構成は可能である、しかし、朝鮮人ども場合にはその証言から現代史を構成することは絶対に不可能である。正常なDNAを有する人々と、人類史上極めてまれな今日至るまで集団として存続しえたことが奇跡的であるとも言える知能の極めて低いかつ遺伝的には異常に近いレベルで特異な人々との差であろう。南京事件に関して、韓国では絶対確実に、「老若男女問わず殺害」と書いておるであろう。遺伝的異常性に起因する低知能がその主原因であろう。

過去に読んだ松岡氏の中国側・日本側証言集とこの書から見ても、日本人・中国人の証言による現代史構成は可能である、しかし、朝鮮人ども場合にはその証言から現代史を構成することは絶対に不可能である。正常なDNAを有する人々と、人類史上極めてまれな今日至るまで集団として存続しえたことが奇跡的であるとも言える知能の極めて低いかつ遺伝的には異常に近いレベルで特異な人々との差であろう。南京事件に関して、韓国では絶対確実に、「老若男女問わず殺害」と書いておるであろう。遺伝的異常性に起因する低知能がその主原因であろう。

はじめに
p23
1937年7月7日盧溝橋事件
8月13日、上海特別陸戦隊と中国軍との間で第二次上海事変が開始され、華北の戦争は上海に拡大した。
13日の夜の臨時閣議で米内海軍大臣は陸軍の上海派遣を強硬な態度で決定させた。
政府は「北支事変」を「支那事変」と改名、日中戦争は海軍の思惑通り中国との全面戦争に拡大した
p33
日本は1941年夏の段階で、満州国の関東軍を除いて、約85万にも上る日本軍を中国大陸に投入していたが
序章
p55
日本の歴史書では約1000万の中国軍民が犠牲になったと記され、中国側の公式見解では約3000万の中国人が死傷したとされる(注3)
(注)「15年戦争小史」
中国人の死者は、「おおざっぱに約1000万人といわれる」と記している(260頁)
非常に狡猾な著者である。日中戦争全史と銘打って、日中戦争の決定版歴史書のつもりであるならば、最も重要な中国側死者数について、一次資料を調べ、特定地域のサンプルデータから中国全土の死者数を統計的に算出することは可能である。それらを全くせず、あまつさえ、他者の著作から引用して、約1000万などと平気で記述している。本書の価値を大幅に減じるとしか言いようがない。その意味において、この記述はかつての中核派のアジ演説と何ら異ならない。同様に私もいえる「おおざっぱに約20万人」
第1章 メモ省略
第二章
p148
反満反日ゲリラが武装できないように、農民や民間人が自衛のために所持していた銃器・弾薬の有償回収を推進する一方、隠匿武器の没収を強行した
当時の満州は都市部を除き農村部では一家に一銃レベルで、武器を所有していたことはよく知られている。この後に、古田博司訳の「金日成と金正日」現代アジアの肖像 6 除 大粛 岩波書店 で詳述されている東北抗日聯軍に関する正確な記述がある。私は上記書籍から自分で国立国会図書館のアジア歴史資料センターの資料を調べ、恐らくは本物であろう金日成の画像を見つけた。
回想録や他者の著作にのみ依存して書かれた本書の著者は、一次資料とほとんど格闘していないと思われる。非常によくいるタイプの「歴史学者もどき」である。
第3章
3.1936年に海軍が準備した日中戦争
日中戦争発動を陸軍に要請した海軍
いずれも小見出しである。この書籍の特徴と功績は、当時の海軍の動きをうまく描き出した点である
第4章
p219
2.海軍の謀略・大山事件から第二次上海事変へ
p254
4.陸軍の上海派遣軍派遣
陸軍2個師団の上海派遣
米内が
閣議で強引に決定させた
p255
参謀本部作戦部長だった石原莞爾は、「上海派兵は海軍が陸軍を引きずって行ったものといって差し支えない。・・・私は上海に絶対に出兵したくなかったが実は前に海軍と出兵する協定があった」
記述根拠は「石原莞爾中将回想応答録」である。
p259
南京渡洋爆撃と共に、海軍が日中戦争の全面化を企図したことは、第三艦隊第二艦隊が強行した、中国海上封鎖作戦によっても証明される
p264
対米戦に勝利するための軍備拡張が、日中戦争を隠れ蓑に利用して、容易に遂行できたということである。
私の知る限り、少なくとも米内は、その後第二次大戦開戦前の閣議で「アメリカ海軍と戦っても勝てる見込みはありません、ドイツ・イタリアの海軍など問題外」とハッキリと明言している。しかし、軍令部次長の近藤は、速戦即決なら可能性ありとしていた。当時の軍令部が一体全体何故マーシャル諸島方面を決め手となる戦域と考えたのか?は、私には分からないものの、現実にマリアナ沖海戦となった。
p284~286
中支那方面軍、独断で南京へ進撃
中支那方面軍は名ばかりの方面軍であった。
参謀長以下7人の参謀
通常の方面軍司令部が備えている兵器部・経理部・軍医部・法務部はなかった。法務部がないことは、麾下の軍隊の軍紀風紀を取り締まる正式の機関がなかったことであり、後述する南京事件の要因となる日本軍の軍紀紊乱を放任することとなった。さらに
兵站機関も備えていなかった。このことは南京事件の根本的な要因となる
中支那方面軍は、上海戦という地域限定の戦闘のために編成された部隊であり、更に奥地の南京攻略作戦を行うことは軍事常識からいっても不可能だったのである。参謀本部は
制令線(前進統制、進出制限を命令したライン)を指示し、上海戦で決着をつける作戦を明示していた
従来から南京事件の根本原因として「軍紀の崩壊」が指摘されてきた。この書の最大の功績?は、このあたりの記述にある。
p287
第10軍は
独断で南京追撃を敢行することを決定し
制令線を設定して奥地に侵攻することを禁じた参謀本部に対する明らかな命令違反であった
p288
多田参謀次長は戦線拡大を深く憂慮して、中支那方面軍参謀長あてに南京方面には進撃しないように電報を打った
私の知る限り、参謀本部の指示ラインを越えて現地軍が侵攻を続けることは第10軍に限らず中国戦線での常態であり、全ての場合、後で事実上は事後承認されている。南京の場合も100%完全に同じである。従って、下記の著者の見解は誤りである。
p291
正式な命令のないままに南京攻略戦が強行され、南京大虐殺事件を引き起こしていくことになる
8南京事件
大本営、南京攻略を下令
p294
多田参謀次長も同意せざるを得なくなり、大本営は
中支那方面軍の独断専行を正式に追認したのである
p295
中支那方面軍は糧秣のほとんどを現地で徴発するという現地調達主義をとった。
私の知る限り、現地強奪による食糧確保は中支那方面軍に限らず、中国戦線での常態である。兵站部門とは、弾薬と負傷兵用の医薬品運搬のみであり、しかもほぼ全て軍馬で運搬された。著者は今日の兵站と当時の陸軍の兵站の相違を知っているはずであるが?
記憶では「大本営は初秋の頃を期して」と下命している場合もある、即ち、食糧
下は自分で見つけた一次資料


第6師団は、西に迂回して南京に向かっている。
第16師団は、東から=上海から最短ルートで南京に向かっている。当時の常套手法である包囲殲滅
p296からp299
第16師団の牧原上等兵の日記を長く引用している。戦闘は皆無である。
南京進撃途中で重ねられた不法行為
p297
11月29日、武進は抗日、排日の根拠地であるため全町掃討し、老若男女を問わず全員銃殺す。敵は無賜の線で破れてより、
武進は、現在の中国常州市の武進区であり、上海と南京のほぼ中間にある。上の公式の一次資料の16師団の位置と合致する。句容は常州市の武進区よりも南京に近い。しかし、意図的に抽出した日記の一部ですら武進でのみ「老若男女を問わず全員銃殺す」であることがわかる。
松岡氏の中国側証言集でも、老若男女を問わず は、事実上、2例しかなく確実であるのは、長江を中国兵と民間人が混在して渡河した際の機銃掃射のみである
南京戦 切り裂かれた受難者の魂 松岡 環 編著
p304
蒋介石
12月7日早朝に南京を飛行機で脱出した。
p307
残的掃討作戦=大殺戮の開始
著者もさすがに 老若男女を問わず殺害 とは書いていない。
16師団33連隊、連隊管区は三重県、の同じ松岡氏の日本側証言集によれば南京入城直後は、16師団の場合、有無をいわさず、兵役適齢の中国人男性は全て殺害対象となった旨証言している。
その後即ち南京陥落直後の混乱が収束した後は、手にタコがある、頭に帽子跡がある場合には、良民証の発行対象とならず、殺害対象となった。重要なのは、敗残兵大量殺害は100%確実な史実であるが、老若男女問わずに大量殺害が史実であるかどうかである。どこをどう見ても、南京事件において、若男女問わずに大量殺害は発生していない。唯一の例外は、長江を渡って避難しようとしている一般民と敗残兵の混在状況における大量殺害のみである
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