中世は核家族だったか
民衆の暮らしと生き方

西谷正浩
吉川弘文館
2021年

①寛喜の飢饉は1230年(寛喜2年)から1231年(寛喜3年)に発生した大飢饉であり鎌倉時代を通じて最大規模とされる。

元史には下記を明記している。従って、朝鮮半島でも同様にモンゴル軍侵攻と飢饉の重なり。
「1231年 モンゴル軍高麗侵攻。モンゴルの使者を高麗が殺害、モンゴル軍侵攻し40もの城を破壊、高麗王は弟を人質として差し出し降伏」


②寛正の飢饉は長禄・寛正の飢饉(ちょうろく・かんしょうのききん)は、長禄3年(1459年)から寛正2年(1461年)にかけて日本全国を襲った大飢饉。

③正嘉の飢饉(しょうかのききん)1258年(正嘉2年)6月の長雨とその後の冷夏に加え、旧暦8月10日に上陸した大型台風のため全国的大凶作となり最初の飢饉が発生し、冬から翌年の1259年(正元元年)夏にかけても凶作が続いた。(以前のウキペディア記事では日本史上最大の飢饉と明記していたが、その記述が変更されている)

高麗史によると1252年~1259年にモンゴル軍は高麗へ連年侵攻している。その後、高麗史の記述を嘘を抜きにして読めば、1259年、高麗は元に完全降伏。翌年1260年フビライが即位し大元ウルス成立している

以上からして、1230年、1259年(原因は火山噴火噴煙によることが確実)と2回もモンゴル軍侵攻と飢饉の重なりが生じている。やはり間違いなく、13世紀半場頃に、朝鮮人DNAに集団としての異常性が生じたと断定してよい。


p1 
家族構造の大変動が中世に起きた。中世には、新しい家族システムとして日本的な家制度が出現したのである。 
従来は結婚した子供はみな独立していたが、一人の跡取りが親元に残るようになり、また、相続制度も、子供たちに財産を分与する分割相続性から、一子が家長の地位と家産を独占的に継承する単独相続制に移行した。
武家社会では 
室町時代ごろに一般化したとみられる 
庶民層においても 
江戸時代後期には全国的に家社会が構成された

変貌する社会 
日本の社会は14世紀ないし15世紀を分水嶺にに大きな変貌を遂げたといわれる

p16 
日本中世を代表する大飢饉に寛喜の飢饉と寛正の飢饉がある

p80 
中世では分割相続が社会のルールであった

p106 
中世前期の民衆社会は平等主義的であって、兄弟間に権威や財産相続において明確な差別は存在しなかった

p152 
中世は核家族だった 
中世には階層を超えて親子二世代夫婦不同居の原則が根強く存在していた

p205 
中世には結婚した男女は生家を出て自分の家を持つという強い慣習(核家族規範)が存在した。