マヌ法典
渡部信之
東洋文庫

ヒンズー教の聖典であるマヌ法典を読む時、インドの長い停滞の根本原因は、ヒンズー教にあると確信するに至る。宗教には、少なくとも信徒間では平等であると考える場合が多くイスラム教がその典型である。しかし、儒教・ヒンズー教の場合、「ヒトは等しい存在ではない」という大前提がある。
インドで暮らす人々は、まともな人間であれば、インドを離れ他国で暮らす以外にこのバカげたと言いきれるマヌ法典=ヒンズー教から逃れる手段はないであろう。


第一章 世界の創造
本来的な正しい生き方(ダルマ)
世界の始まりとブラフマンの誕生
p22
姿が見えず常住で有と非有を本質としている原因ーーーそこから生まれたかの者はこの世でブラフマンと呼ばれる

ブラフマンによる世界創造
p25
諸世界の繁栄のために、口、腕、腿及び足から、ブラーフマナ、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラを生じさせた

世界の宗教は創世神話を伴う場合が多い、しかし、このようなヴァルナ=身分を明記している創世神話はヒンズー教以外には知りうる範囲では存在しない。アーリア人のインド侵入によって生まれた創世神話であるが、これこそがインド社会の根本問題でありその解消は絶対に不可能である。インドの全ての後進性がこのマヌ法典に凝縮されている

四身分れぞれに特有の使命が分配される
p35
ブラーフマナには教授と学習、祭儀を行うこと、他人にのために祭儀をすること、贈り物をすること、贈り物を分配することを配分した
クシャトリアには、人民の守護、贈り物をすること、祭儀をすること、学習、感官の対象への無執着を結び付けた
ヴァイシャには、家畜の守護、贈り物をすること、祭儀をすること、学習、商いの道、金貸及び農耕を分配した
シュードラには主はただ一つの職務・行動しか命じなかった。前述の身分に対して妬むことなく奉仕することである

ここで述べられているのは男性のみが対象である。女性に関してはp310で「マヌは女たちに、[創造に際して] 寝台、座席、装飾品、愛欲、怒り、ひねくれ、敵意、悪行を配分した」としており、女性をヒトの一種とは見なしていない。世界の宗教の中で、これほどの女性蔑視観は類例を見ない。儒教を宗教として扱えば、一番近いがこれほどまでにひどくはない。インド人女性はすべからくインドを逃れるべきである

第二章 正しい生き方(ダルマ)の源
幼児期
学生の生き方
ブラーフマナの場合、受胎後8年目に入門式を行うべし

p69
<長幼の序の基準>
ブラーフマナの間での年長は知識に基づく。クシャトリアの場合には武勇、ヴァイシャの場合には、穀物や財産、シュードラの場合には年齢に基づく
彼の頭が白いゆえに年寄りなのではない。実に年若くとも学んでいる者を神々は年寄りと見做す

p77
この世で男を堕落させることが女の本性である。それ故に賢者たちは女たちに心を許さない

第三章 家長の生き方ーーブラーフマナ
結婚
最初の結婚においては同一身分の娘が推奨される。しかし、愛欲から行動する者には順に以下のようなつがいてもよい
シュードラはシュードラの女、ヴァイシャはシュードラの女と自己の身分の女、クシャトリアはそれら両者(シュードラ及びヴァイシャの女)と自己の身分の女、そして最初に誕生した者(ブラーフマナ)は彼女らと自己の身分の女

これでは、バラモンもシュードラの女と結婚できることになるが続いて、

ブラーフマナとクシャトリアの」両者に対しては、窮迫時においてすら、いかなる話においてもシュードラの妻は語られていない。

シュードラの妻を寝台に上がらせるブラーフマナは地獄に落ちる。彼女に息子が生まれた時にはブラーフマナであることを失う

マヌ法典で原語は知らないが、地獄というサンスクリット語が出てきている

p93
父親、兄弟、夫、夫の兄弟は、多幸を望むならば、女たちを敬い、飾り立てるべきである。
女たちが敬われるとき神々は満足する。しかし敬われないときには一切の祭儀は果報をもたらさない

祖霊祭

第四章 家長の生き方(続き)
生計手段
p130
ブラーフマナは人生の四分の一を師の下で過ごした後、結婚して人生の四分の一を家で過ごすべし
ブラーフマナは窮迫時でないときは、生き物に害を与えずに、あるいは害しても最小限にとどめて生計を立て、生活すべし

p136
妻と一緒に食事してはならない。食事中の彼女を見つめてはならない。

p143
欲深く、教えに逆らって行動する王から贈り物を受け取る者は以下の十一の地獄を次々とめぐる


第五章 家長の生き方(続き)
禁止される飲食物

p171
ニンニク、ニラ、玉ねぎ、茸及び汚物から生じたものは。ブラーフマナにとって食しえないものである

p177
生き物を殺害することなく肉を手に入れることは決してできず、一方生き物の殺害は天界に導かない。それ故に、肉を避けるべし。

死・誕生によって引き起こされる汚れと清め
p178
子供(3歳未満)が死んだとき、全親族は不浄となる

p192
女の生き方
幼くとも、若くともあるいは老いても、女は何事も独立に行ってはならない。たとえ家事であっても。
子供の時は父の、若い時は夫の、夫が死んだときは息子の支配下に入るべし。女は独立を享受してはならない

第六章 老後の生き方
p198
ブラーフマナは【翻訳が意味不明である】心を定め、正しく感官を制御して森にすむべし

p203
森で人生の第三区分を過ごした後、執着を捨て去り、人生の第四区分を遍歴すべし。

第七章 王の生き方

第八章 訴訟の十八主題

第九章 訴訟の十八主題(続き)
p308
子供の時は父が守る。若い時は夫が守る。おいては息子が守る。女は独立に値しない。

p310 女の本性
この世において、女たちは注意深く守られていても、男に対する関心、移り気、そして生来の薄情から夫を裏切る

マヌは女たちに、[創造に際して] 寝台、座席、装飾品、愛欲、怒り、ひねくれ、敵意、悪行を配分した

p321 結婚年齢
30歳になった時に好ましい12歳の娘を、あるいは24歳の時に8歳の娘を娶るべし。

p323
兄弟は集まって父の遺産を等しく分配すべし

p355 ヴァイシャの生き方
ヴァイシャは清めの儀式を終えて妻をめとった後は、商業と家畜の守護に専心すべし

p356 シュードラの生き方
家長で評判の高いブラーフマナに仕えることが至福をもたらすシュードラの最高の生き方である

第10章 雑種身分の生き方
p358
二度の誕生を有する3身分は自らの職務に専心し学習すべし。しかし、彼らのうちでブラーフマナが教示すべし。他の二者はしてはならない。これは確立された決まりである

4番目のシュードラは一度のみの誕生を有する者である。第五番目の身分は存在しない。

p359 雑種身分
【細かく規定しているがバカバカしいので省略】

p369 アーリヤと非アーリヤの混血による子供
非アーリヤの女にアーリヤから生まれた者は諸々の資質によってアーリヤとなり得る。非アーリアの男からアーリアの女に生まれた者は非アーリアである
これらの両者とも清めの儀式を受ける資格はない

恐らくはマヌ法典の核心と言える箇所である。「清めの儀式を受ける資格はない」は、事実上は、シュードラ又はアウトカーストを意味するであろう。

何のことはない牧畜民であるアーリア人の原住地(黒海沿岸とされている)に地理的に近いイラン方面からインドに侵入したアーリア人による単なるアーリア人優越主義がマヌ法典=ヒンズー教に過ぎない。Youtubeで明らかにアーリア系インド人女性を見たことがあるが肌色が白ければ欧米人と完全に同じであった。言い換えれば、単なるヒトの外観、ヒトの「見た目」による区別を身分=ヴァルナとしているに過ぎないのがヒンズー教である。従ってヴァルナ間の混血=アーリア人と非アーリア人の混血を極度に恐れている。

アーリア人優越主義のインド人と低い知能のおバカ韓国人は、両者とも「外観至上主義」という意味で似ている、しかしインド人の場合には、同一ジャーティ内では遺伝的均質性が極めて高いという特質を有する以外には私の知る限り遺伝的異常性は見られない。(あるかもしれないが・・・)
これに対し、朝鮮人の場合には、アメリ食品医薬品局による全ゲノムシーケンス論文及び韓国人によるSNP分析論文からみて確実に非同義変異比率が他の民族集団に比べて高いという致命的な遺伝的欠陥を有する極めて特異な集団であり、異常の発生時点は恐らくは13世紀であろう。両者が歴史的に共有しているのは女性をヒト扱いしないという点である。p369の記述でメモする気をなくした。

abnormal
朝鮮人に関する遺伝的事実と同様に一般には全く知られていないことであるが、ブッダは確実にアーリア系インド人であった。アーリア人がインドに侵入しインダス川に定着したのは紀元前1500年頃、東進しガンジス川に流域に定着したのは遅くとも紀元前1000年頃とされおり、全ての仏典の原語がサンスクリット語=古典ギリシャ語と全く同じ系統の言語であることからして疑問の余地はない、単に日本人が知らないだけである。

第11章 窮迫時の生き方(続き)

第12章 終章

p436
大罪を有する者は多年の間恐ろしい地獄を巡り、それを終えた後、以下の輪廻を得る。
ブラーフマナ殺しは、犬・豚・驢馬・駱駝・牛・羊・鹿・鳥
の母胎に入る
害することを好む者は肉食動物となり

p448 マヌの教えの秘儀
アートマンのみが一切の神々である。一切はアートマンの中に存在する

p500 解説
マヌ法典
およそ紀元前2世紀から紀元後2世紀の間に
編纂された