毛沢東の私生活 上・下
李 李綏 著
アン・サースートン 協力
新庄哲夫 訳
1994年
文芸春秋

原著も1994年刊行であり、中国では出版が認められていない。しかし、私が受けた印象は、著者の「願い・思い」とは裏腹に、完全に客観的に見て、誰が見ても毛沢東は、まさしく「抜山蓋世」の英雄、10億を超える人口を有する中国最高指導者として真の意味で、最適任であったというものである。確かに、大躍進政策という、経済素人の毛沢東が進めた政策により、3000万~5000万人もの平年に比べての超過死亡者が生じている。従って、功績六、罪四は多分正しいが、恐るべきことに、このタイプの表現自体が元々は毛沢東の鄧小平への評言であったことをこの伝記により知った。(文化大革命という美名の名で展開された事実上の当時の中国共産党高級・中堅幹部への「反腐敗運動」については、毛沢東の「罪」で」あるか否か?は私には解らない)

恐らくは、中国政府は躍起になってこの優れた伝記の出版を止めようと圧力をかけたに違いない。毛沢東が中国にとって極めて優れた政治家であったという私の印象は、主に、下巻の最後あたりの記述からである。出版差し止めを諦めた中国政府が別手法を採用し、毛沢東の私生活が暴露されることはやむを得ないが、少なくとも政治家としては非常に優れていた旨の印象を読者にあたえるように、記述の一部を改ざんする様に出版社に申し入れ、それが実現した可能性もある

習近平は、少しでも毛沢東に近づきたいのであろう。習近平の「反腐敗運動」は成功しつつあるのかもしれない。しかし、米中対立が激化している中、その主原因が習近平にあることも確実である。やはり、毛沢東とは器が違う。
この毛沢東の私生活を余すことなく描き切った貴重な記録によれば、
①毛沢東は、道教による若い中国人女性との性交が生気をもたらすと信じていたせいか?その性生活は極めて放縦であった。また、非常に優れた、かつ、極めて冷酷な権謀術数家であり、暗殺を恐れてその居所は、警護隊責任者しか知らなかった。性格的には、冷血漢そのものであった。
(著者は、幾分遠慮して書いているが、明朝の創始者である朱元璋と同じような、まさしくバケモノと言ってよい人物であったようである。)
②知能は、その直前に至るまで極めて鮮明であった。しかし、最後の頃は、女性機密秘書を通じてのみ指示を出していた
③毛沢東は、中国の史書をよく読んでいた
④毛沢東は、著者が毛沢東に仕え始めた頃は、他の中国指導者との直接接触はあまりなく、主に文書でのやり取りであった
⑤林彪が逃亡した際に、周恩来が撃墜を提案したが、毛沢東は拒否した
⑥鄧小平を中国最高指導部に呼び戻したのは毛沢東である
⑦華国鋒を次期指導者に選んだのも、毛沢東自身である。(周恩来へ後を任せる旨毛沢東は明言していたが、周恩来の健康状態がそれを許さなかった)
⑧周恩来は、一貫して毛沢東の忠実な部下であった。
⑨若い頃の毛沢東の生活は、時には30時間以上も、眠らずに過ごし、その後睡眠をとるなど、およそ規則正しい生活とはかけ離れたものであった。=常人ではなかった客観的なデータである
⑩妻の江青など後に4人組と称された者らを排除したのも、事実上は確実に毛沢東である。

上巻
p13
毛との関係は張玉鳳が一番長く
毛沢東が日々、目を通して所見を付け加えるおびただしい文書類の受領、送達という責務を張玉鳳がひきつぎ、また毛が視力を失ったあとも彼女が文書類を読んで聞かせた。
主治医として私はいつでも面会を許されてが、私を除く人たちは張玉鳳を通さねばならなかった。

p14
主席のろれつの回らない言葉を理解できるのは張だけだという事実

p120
【中国指導部の】意思疎通は頻繁に交換された文書類に加筆されるコメント(評言)を通じてしか
【毛沢東と】党最高幹部との行き来、相互訪問など一切なかった。

p131
私は幾度も、主席が若い女の子の手を取り、その部屋に連れ込んで後ろ手にドアを閉める光景を目撃している

p144
彼は80歳まで生き延び、健康かつ性生活の面でも活発でありたいと意を決していたのだ
主席は
インポテンツ治療と長命持続の新たな手を見つけるよう厳命した

p145
1960年代の初期に主席の権力が新たな高みに達すると、インポテンツの苦情が消え失せた

p146
毛沢東という人物は、人が良く陰謀をたくらむと非難するが、何を隠そう御当人が超一流の権謀術数家だったのである

p147
24時間、いや36時間か48時間も一睡もしないで起きていたりする。その後は10時間か12時間ぐらい続けて眠りこけ

p148
体内時計は昔からどこかが狂っているのではないだろうか

p166
毛沢東に友がなく、通常の人間的な接触から孤絶していたというのも事実である
毛沢東には人間的な感情が欠落しており、従って愛することも、友情を抱き、思いやりを抱くこともできないのであった
私はしまいまで主席の冷血漢ぶりが理解できなかった

p167
毛沢東を何よりも夢中にさせ、大半の時間をさかせたのは中国の歴史であった。彼は
24史を愛読した

p172
主席は人民が数百万も餓死しつつあるのを知っていた。毛はそんなことを少しも意に介さなかったのである

p176
毛沢東はひっきりなしに旅行した。北京にいる方が少なかった

p253
1956年の晩夏あたりに、毛沢東は私に国家主席を辞任するつもりだと初めて打ち明けた。私はその言を信じなかった
3年後の1959年に初めて公になり、実現されるのである

p254
この辞任劇は党の最高幹部ーー特に主席が疑惑を抱いていた劉少奇や鄧小平らーーの忠誠心を試すための政治的戦術でもあった


下巻
p43
遂に飢饉が中南海にまで襲ってきていたのである
食糧の配給は月に穀物7キロにまで減らされていた
妻のリリアンもまた栄養失調に襲われ

p45
毛沢東はこの飢饉に対して一つだけ譲歩を行った。肉を食べるのを止めてしまったのである
【毛沢東は確かに皇帝であった。しかし、中国正史における皇帝とは異なる行動をとっている】

p60
北京の状況は目に見えて悪化していた。通りにはほとんど人影もなく

p69
67歳の毛は
毛が帰依した道教の説くところによれば、
長生きと活力をつけるためというのを口実として
乱交

p97
党の最高幹部が1961年の5月と6月に北京で再会した時には国は深刻な状況に陥っていた

p140
主席が妻の江青を政治の表舞台に導きいれたのは

p243
【文化大革命で】1967年1月になると、中国は大混乱の真っただ中にあった
毛沢東は造反派の側に立った

p272
主席の旧スタッフでも年配の人たちは私と同じ悩みを持っていたのではなかろうか。毛沢東の私生活を知れば知る程、尊敬の心が薄れていくのであった

p276
国家主席の劉少奇は毛沢東が第8回党大会の誤りと見做す責任をそっくり押し付けられ
鄧小平もまた追放されたのであった

p278
周恩来は中国のどの最高幹部よりも毛沢東に忠実であり続けた

p279
周恩来は抜け目のない政治家であり、毛沢東が江青を批判して不仲が進んでいながらも彼女がやはり毛沢東にとって最も気心の知れた輩下だ、ということを他の誰にも、まして見抜いていたのである

p283
林彪が権力の絶頂に近づくにつれて、全中国は軍事国家化していった
1969年
中国全土は戦時体制に突入する

p285
「アメリカとソ連は違う」と毛沢東は説明した

p286
毛沢東は私に電報を見せた
主席は喜んでいた
「ニクソンはきっと本気だろう」

p302
主席専用列車の服務員だった張玉鳳が代わって仕えることになり

p304
1970年12月毛沢東の健康は十分に回復し

p306
主席は軍内部に自らの支持基盤を固める必要が生じた。林彪の人事は専ら中央に集中していた。

p310
周恩来は搭乗機にミサイル攻撃を加えるよう、毛主席に進言する。毛沢東は拒否した

p314
報告書によれば、林彪
クーデター計画にとりかかっていた
一味はさっそく毛主席の暗殺計画にとりかかる

p319
毛沢東が自分の手で失脚させた人々の返り咲きを計画しているな、と私は勘づいたのであった

p322
主席は周恩来に失脚した多くの人たちの名誉回復の作業を一任した

p329
「私が死んだあとは君が全てをとりしきってくれ」
「私の遺言だ」

p338
中国はまさしく歴史の転機に立っていたのである
ニクソン大統領の訪中
毛沢東を全快させるのにあと3週間しかなかった

p341
毛沢東の意識不明は我々にとってかつてない危機一髪だった。
周恩来首相に連絡が行く。首相はショックのあまり失禁してしまい

p345
首相は私にこうつけ加えた「頼む。主席が元気で大統領と会えるようにしてくれたまえ」

p349
毛沢東はニクソンが気に入った。「あの男は本音で話をする」

p352
このように毛沢東は米中関係が滑らかなものになるとは予測しなかった。次なる世代の世界の新しい指導者は、この世代が作り出した諸問題を解決しなければならないだろうとした。
【この部分の記述は、中国政府が出版を認める代わりに、原著で挿入させた可能性がある。このくだりを入れずに出版すれば命はないぞ!式の脅しがされたのかもしれない】

毛沢東の以上のような国際的な潮流の分析は、あらゆる点で的を得ていた。ニクソンの訪中は、まさしく、新中国承認の連鎖的な反応を引き起こした
9月に田中角栄首相が北京を訪れたのである

p357
毛は80歳に近づいており

p360
毛沢東の頭は少しも変わることなくはっきりしていた。周恩来の手術の許可を出そうとはしなかったが、そのかわり周の後釜探しにとりかかるのである。鄧小平を復帰させる機が熟したのである

p362
江青は
首相に対し新たな攻撃を発動させる
周恩来は現代の孔子として非難されたのだった

今なお変わることなく周は毛沢東に忠実であった。日常的な行政の責任を負いながら
いまや張玉鳳が主席の”玄関番”であり、主席と面会するのが難しくなっていた。

p363
江青一派が全面的と言っていい程の支配権を確立したかに思われると、毛沢東は両派のバランス回復に乗り出した

p364
【毛沢東の会議での言葉として】
「あの男には決断力がある。これまで70%の良いことをし、30%の良くないことをした。しかし私が呼び返した男は諸君の古い上司であり」

p365
江青の「批林批孔」運動は失敗に帰したのである
すると毛沢東は江青を批判した

p367
1974年7月、私たちは毛沢東の死が迫っていると教えられる

p371
私どもが主席の健康問題を討議している間にも、政治局は会議を開く。後で耳にしたのであるが、毛沢東は再び江青を痛烈に非難して妻とは政治的に距離を置き、江青らが
上海4人組を結成したことに警告を発した

p379
毛主席は国家の日常的な運営で鄧小平が周恩来を助ける必要があると考え、その起用を主張してやまなかった
【この記述は、p379の本文の*(アスタリスク)の後にとってつけたように書かれている。100%確実に著者による記述ではなく、出版時の中国政府の要求に応じて出版社がいれたものであろう。著者ではなく、出版社であろう

p391
江青とその一派は教条主義であり、毛はいまや彼らを糾弾したのであった

p405
周恩来の後任が誰になるか人々は不安がった。鄧小平が攻撃にさらされている状況下で、多くの人々は江青派の王洪文が新首相に指名されるだろうと予測した。ところが誰もが驚いたことに、毛沢東は華国鋒を首相代理兼第一副主席に推薦したのである。
主席の頭脳は今なお健在だったのである。この指名は江青とその一派への痛撃であった。党最高指導部は、古参の長征組幹部(経験主義者たち)と主席が教条主義と非難した若い世代の過激派とに分裂していた。だからこそ、いずれにも属さない人物を首相に指名したのであった

p408
鄧小平は再び追放され、華国鋒が周恩来の後任として首相の地位に就く

【本書は下記の記述で終わっている】
p438
私は医師としての生涯を毛沢東と中華人民共和国にささげたが、今の私には国家もなければ家もなく、故国では歓迎されざる人間となっている。私はリリアンと自由を愛する人々の為に、そして深い悲しみの内に本書を執筆した。毛沢東の独裁体制が人々に与えた恐るべき結果の記録として、またその政権下で生きた善良でかつ有能な人々が生き延びるためにいかに自己の良心に背き、理想を犠牲にすることしいられたかという記録として、本書が語り継がれることを私は願ってやまない