中国文明の歴史 8
明帝国と倭寇
間野 潜龍
1967年刊行 新人物往来社
2000年 中央公論社 により再刊行

必要な点は、メモした、朝鮮史の箇所重要


p31
【林 語堂 氏(中国人研究者)】氏はさらに具体的に分析して、トルコ種とみられる唐朝は別として

p58
この世を穢土(えど)と見て浄土に憧れる思想に、阿弥陀信仰がある。

p123
この小作人政権における官吏の俸給は、史上最低とされる。最高で月80石ポッキリ。最下で月5石
俸給の高かった宋では、最高が月に銅貨300貫、銀では300両以上、
月とすっぽんほどの違いがある
一方、明では農民を大切にした

p124
元の時の税の請負制
現物税であったことは、銀を追放するため、言い換えれば商人の台頭を抑えるためであった
銅貨は鋳造したが民間には遣わせなかった

p126
宋は、その商本主義の国策から、また元に至っては例の熱狂的な銀収奪策から、いずれも外国貿易を推し進めた。

p131
元帝国内部の一封建領主の感があった高麗も
フビライカーン以来、高麗王妃は元帝室から出るという習わしとなった。一方、当のフビライカーン側では、元帝室の家法として、高麗女性を卑しんで、その宮廷には高麗女性を入れないという、しきたりを定めていた

p132
むかしから、朝鮮の女性には気を許すなと言われたが、危氏もついに本性を現した。彼女は本国から多くの高麗美人を呼び寄せ、権勢のあるモンゴル大臣の家に送り込んだ
そのせいもあって、宮廷の女官の大半は高麗女性で、宦官もまたしかり、

p142
朝貢規定が作られた。交際は原則として皇帝と国王の間に限られる。鎖国によって民間同士の交わりはあり得ないからである。
国王を詐称するものがるから、その身分証明書がいる。それを防ぐためのものが、表分と勘合制であった。表分は国王が派遣した使者が持っていく正式な外交文書である。それには規格があって、皇帝が国王にさずけた印跡と明の年号が書いてなければならぬ。この表分がないと一切入国できない。実は、この表分の有無、或いは表分の形式が、国体観の違いを反映して、日本との間で大揉めに揉めたのである
勘合の制とは、割符のことで
【支給されたのは】15ヵ国となった。ほとんどが南海諸国で、それ以外は日本だけだった

p143
明は国によって寄港地を指定する。浙江の寧波は日本、福建の泉州は琉球、広東の広州はチャンパ・シャムその他の南海諸国である

p150
前期倭寇の主な舞台は朝鮮半島の南部で、時代的には高麗の末期に当たる

p155
李成桂はこれと並行して、倭寇の首領たちに直接働きかけ、優遇策をもってその帰順を勧めた。これが投下倭といわれるものである。やがてその数は増し、土地を与えられ、職を貰い、中には中枢部の官吏にすらなった。ために李朝財政を圧迫したほどである。これらの投下倭は
生活難にあえいだ対馬人が多かったのも自然の成り行きだろう

【「投下倭」 としている以上は、朝鮮王朝実録で検索すれば、出てくるはずである。しかし、中国の検索サイト(朝鮮王朝実録と中国正史他検索可能。明史も検索できる)、台湾の検索サイト(明実録、清実録、明実録の猿真似記録=朝鮮王朝実録の3つのみ検索可能)の両者で検索しても、「投下倭」 では全く検索ヒットしない。即ち、「投下倭」とは、実在しない朝鮮人どもが作り上げたいつものファンタジーに過ぎない。酷い話であり、朝鮮人どもを何とかしろ!の一言に尽きる。精神面での完全なDNA異常民族の面目躍如である。】

p157
倭寇 中国を襲う
前期倭寇の持つ政治性が見られる
彼らは
海賊衆であった

IMG_0939

p158
日明交渉
明の太祖は
倭寇の鎮圧を要請した

p161
そののちも倭寇はやまなかった

p163
洪武七年6月に来た足利義満の使者は、表分がないので退けられた。

p164
このあと連年入明する日本使者の国書が、書式にかなわぬとか、無礼であると難癖をつけられて退けた。
国交正常化が一向に軌道に乗らぬ上、一方、倭寇は絶えずやって来るとあって、
太祖は意を決して
征討軍を差し向ける書を送った

p165
太祖は日本征討を思いとどまった

p205
国書の形式は「日本准三后道義、書を大明皇帝陛下に奉る」となし、
明よりの漂着者を送還した
道義は義満の法名である
太祖の時、征夷将軍源義満の名で使いを出し、拒否されたが
建文帝は
寛大な政治方針をとったから
答礼使を出し
義満を正式に日本国王に封じ
義満はこの後日本国王道義の名をもって、明と通交した


p207
【義満の子、】義持は突如国交断絶を図り
明使を引見せず、その都度、追い返した

p257
全ての国が朝貢してくるのに、日本だけが久しくこないとあって、琉球を介してその旨を伝えさせた。
その結果が、永享4年(1432)の遣明船となったのである
【義持の次の将軍義教】
この永享遣明船は5隻の船団からなり、持船主は、1号が将軍家、2号が相国寺、3号が山名家【以下略】
こうして貿易は再開された

p173
明の常備軍の数は洪武26年以後は、180万以上あり

p174
唐朝は藩鎮によって弱められたが、なお300年続いた
太祖が目を付けたのもこの点にある。
各王を辺境に定住させ

p183
燕王の手兵はモンゴル兵を交えた歴戦の精鋭部隊である

p197
永楽帝はしきりに宦官を使った

p254
寧波の変
嘉靖二年(1523)
寧波で大内・細川の使者が互いに殺傷するという大事件が起きた
この頃になると、勘合貿易の経営権は足利将軍の手を離れて、細川・大内両家の手に帰し、この二者は互いにその主導権を争った。
大内側では
細川方を襲い12人を殺害した
倭寇に備えた明の将兵を殺害したり捕えたりして海に逃れ去った。この公然たる暴挙に明の官民は手をこまねいてだ一人は向かうものがなかった。これは日本人に中国人くみやすいと思わせたのであろう。この異変はまさに後期倭寇の発端とみなしえよう

p267
頚部主事に唐枢は
「海寇と商人はもともと同一のもので、貿易が通じると海寇は商人に変わり、禁じられると商人は海寇に早変わりする」
この言葉は後期倭寇の性格一面を良く表している

p271
唐枢によると「今、海寇は数万と言われ、みな倭人といっているが、その実、日本人は数千に過ぎず、その他は皆中国の人民である。」
と指摘している。これが後期倭寇の実際である

p280
倭寇の七割までが不逞の中国人とあっては手の施しようがなかった。
奥地侵入の新記録
都会の占領である


IMG_0940