近世の日朝関係
日本学士院会員 田 代 和 生


さすが👍の一言

はじめに─徳川時代以前の対馬宗氏

対馬は日本と朝鮮の間に位置するが、九州博多よりも朝鮮半島に近く、海上約 50km 先に朝鮮半島の南端を肉眼で見ることができる。

島の90%近くは嶮しい山林 で占められ、耕作地が乏しいため、住民たちは貿易に頼って生計を立ててきた。

初めは惟宗氏と称していたが、対馬の領 国支配を進めるかたわら、朝鮮政府と利害を一致させて通交貿易の独占化をはか り、それとほぼ並行して「宗」姓を名乗るようになった。

1443年、宗氏 は朝鮮との間で約条(agreement)を結び、年間50艘の使船を派遣できる権利を獲 得し、さらにこの使船運営から生じる権益支配権(使船所務権)を、土地の代わり に家臣たちに与えることで島内基盤を固めていった。

また時には、足利将軍や守護 大名大内氏などの名前を騙り、貿易額の増大など交渉を有利に導くための工作を弄 して、16世紀中頃には日朝間の通交者は対馬宗氏とその関係者のみという状態に なった。

1 .徳川時代初期の日朝関係

朝鮮との講和交渉から通信使来日に至るまでの様々な交渉を行ったのは、 幕府ではなく、中世から日朝間の通交貿易を独占してきた対馬宗氏である。断絶し た両国の関係修復は、貿易で生計をたててきた対馬の人々の死活問題でもあった。

対馬から派遣された講和を乞う使節は、初めのうちこそ殺害されて帰国すること がなかったが、そのうち先の戦役で抑留されていた者を送還するようになると、朝 鮮側も漸く交渉に応じようとする気配を示しだした。

朝鮮に援軍として駐留してい た明軍が1600年に引き揚げ、日本との交渉に直接干渉することが無くなったことも あり、その 2 年後から相ついで対馬の動向を偵察し、講和の可能性を探ろうとする 使節が朝鮮から派遣されてきた。

時機到来とみた宗義智らは、1604年、対馬に滞在 していた朝鮮使節を説得して京都へのぼらせ、徳川家康・秀忠(1579-1632)父子 に伏見城で接見させることに成功した。

家康は大層喜 び、宗義智にあらためて「朝鮮御用役」として講和交渉の進展に尽力するよう命じ、 功績として対馬の本領以外に九州肥前の地に2,800石を加増し、江戸への参府は三年に一度で良いといった特権を与えた。

学士院会員殿はボケたのか?家康の時代に参勤交代制度はなかった。従って、家康が「江戸への参府は三年に一度で良い」とすることなどあり得ない

講和の動きが最終段階に入るころ、朝鮮側は通信使を派遣するための条件とし て、先に家康の国書を謝罪の意を込めて送るよう通達してきた。戦後初めての国書 を、それも先に出すということは、当時の外交上の慣習として相手国に恭順の意を 示すことになる。幕府がこうした要求に応じる筈はないとみた宗義智らは、この重 大な時期を乗り切るために、「家康国書」なるものを島内で偽造して解決をはかる ことにした。

1606年、これが朝鮮へ届けられ、その翌年通信使(朝鮮側の呼称は「回 答使」)の派遣が決定した。

また通信使が持参する国書は、復書の体裁で書かれて いたため、これを往書に書き替えなければならなかった。

このほか偽造国書の存在 を窺わせるような文面を削除したり修正するなどして新たな偽造国書を作成し、こ れを途中ですり替えることで、表面的には何事もなかったように通信使の行事を終 わらせて修好回復を達成した。

やがて1609年、朝鮮国と宗氏の間で新たな約条が締 結され、宗氏の特殊権益を保証する形で念願の貿易再開にこぎつけることができた。

2 .「柳川事件」と日朝関係の改変
 国書の偽造と改ざんといえば大変なことのようにみえるが、先述したように対馬 では中世から足利将軍の名を騙った偽使を何度も派遣し、そのつど足利将軍の印鑑 「徳  有  鄰  」の印影を模した偽造国書を作成していた。

国書の偽造は対馬秘蔵の伝統的荒技であったといえる。

また1590 年、秀吉が受け取った国書も朝鮮国王の印鑑「爲 政  以  徳 」を模した偽造国書であり、 統一政権成立後は朝鮮側の国書偽造にまで及んでいた。

徳川時代の国書偽造は1606 年に始まり、三回の通信使来日期(1607・1617・1624年)やその他の交渉事を合わ せると、全部で10通余りの偽造国書が徳川将軍や朝鮮国王へ渡されたとみられる。
朝鮮側の官僚、とくに日本語通訳官が加担していることもあって、対馬島主・重 臣・外交僧が三位一体となって結束すれば、そう簡単に露顕することはなかった。

江戸生まれの重臣柳川調 興 (しげおき) (1603-1684)は、幼少期を家康・秀忠・家光の 側近くに仕えたことから幕閣に強いコネを持ち、さらに父智永代に家康から所領を 賜ったことで将軍直参の旗本としての意識が強かった。

しだいに新たな島主宗義 よし 成(1604-1657)との間に確執を深め、やがて1633年、調興は重大な内部告発、すな わち通信使が将軍へ奉呈した朝鮮国書は改ざんされたものであると老中へ直訴した (これを「柳川事件」という)。

丁度このころの幕府は、外国との貿易を管理しや すい直轄地長崎に集中させ、武士が貿易を行うことを禁じ、さらに日本人の海外渡 航を禁止するなど、いずれも宗氏が行ってきた朝鮮との通交貿易に逆行する対外政 策を次々に打ち出していた。

柳川氏の告発は、唯一、一族が関与しない1624年度の 通信使関係に限られており、このことからみると、宗氏の排除後、「旗本柳川氏」 が幕府の管理する日朝関係を取り仕切ろうと画策したものと考えられる。

 幕府の裁決は、1635年、江戸城において将軍家光ならびに御三家、諸大名、旗本 衆ら臨席のもと、宗義成と柳川調興を対決させたのちに下されることになった。

 結果は、柳川氏側の敗訴となり、宗氏側に味方した外交僧玄方(1588-1661)も有罪、 しかし意外にも両人ともに流罪という軽い処分で、それぞれの配所へ送られていっ た。いっぽう宗義成は無罪とされ、今後も日朝関係の諸事にあたるよう言い渡され た。

中世からの伝統的手法をとる複雑な日朝外交の構図から、宗氏を除外すること が不可能であることを幕府自らが認めた形である。

国際関係の統制強化をはかって いた時期、大名宗氏が温存されたことは、日朝関係の独自の形態が今後も継続され ることを意味していた。幕府は、審理の対象を柳川氏が直訴した1624年度の偽造国 書のみとし、これ以上の捜査を行うことなく事件の早期決着をはかった

 この「柳川事件」を契機に、幕府は新たな外交僧の任命と将軍の国際称号の改変 を行った。まず国書の偽造・改ざんを防ぐために、幕府の許可を得た京都五山の僧 侶がこれを担当することになった。

また将軍の呼称としては、これまで幕府 は中国皇帝の冊封を意味する「日本国王」号の使用を避けてきた経緯があり、事件 後新たに「日本国大君」号を創案した。これに加えて日本側の文書にはすべて日本 年号を用いさせ、なるべく早い時期に、新しい書式での国書を携えた通信使を来日 させるよう宗氏へ命じた。

3 .二重構造の日朝外交

 1630年代から1640年代にかけて、徳川幕府は外国との関係を整備し、日本の交流 相手国を中国(明・清)、オランダ、朝鮮、琉球の 4 か国に限った。

このうち将軍 との間で対等な国書を交換できたのは、朝鮮国王だけである。

中国との関係は、国 家間の交流を避けることで日本を冊封体制の枠外に置き、オランダ(東インド会社) と同様、長崎に入港する私的通商関係だけにとどめた。

また琉球は、「異国扱い」 としながらも、事実上は薩摩藩(島津氏)の支配下に置かれており、ここからの外 交文書が将軍に宛てられることはなかった。

したがって朝鮮との外交は、徳川時代 を通じて唯一の「将軍の外交」であった。

いっぽう徳川氏にとってこの「異国からの使い」は、1610年に始まる琉球使節の 参府と同様、将軍権力の強大性を「外」から証明してくれる絶好の機会であり、同 時に「内」からの対将軍認識をたかめる絶大な効果をあげることになった。

通信使 来日が決定すると、幕府はただちに沿道の諸大名へ宿泊所や休憩所の設定を命じ、 全国の大名へも所領の石高に応じて饗応、警護、船や人馬の供出などを義務づけた。 往復の道中はもとより、江戸滞在中も最高級の応接基準をもって接待し、約半年の 日程をかけて朝鮮の都(漢城)と江戸を往復する間に、この国家的な大行事は、諸 大名から農村部に至るまで日本国中に鳴り響いたのである。

 華やかな「将軍の外交」を背後で支えていたのが、「宗氏の外交」である。幕府は、 徳川時代を通じて通信使に匹敵するような使節を一度も朝鮮へ派遣することなく、 本来は国が行うべき外交交渉までも宗氏及びその支配機構である対馬藩へ一任して いた。

対馬からの使節は、朝鮮佂山に置かれた日本人居住区倭館へ入り、正月に始まる季節ごとの挨拶、両国内の種々の外交折衝、日本の国内情報の伝達、通信使の 来日要請から送り迎え、救助された両国漂流民の送還といった様々な名目のもと、 延べ人数にすると 1 年間に500人以上の使節員が派遣される規定であった。


この構図のなかで対馬藩は独自の役割を一任され、その経済 的な保証として日朝貿易の独占権を手中に収めることになった

4 .倭館貿易の実態

日朝間の実務外交や貿易は、朝鮮半島の南端、佂山浦に設けられた倭館で行われ た。
倭館とは、本来は日本から派遣された使節を応接するための客館であったが、 1678年佂山の草梁に約33万㎡の新倭館が設置されてから、 公館あるいは商館 (factory)としての機能も兼ねるようになった。

33万㎡=約10万坪=東京ドーム約7個分である。対馬藩における密貿易に対する処罰について
 ーー『罰責』 掲載の判決の紹介を中心にーー守屋浩光によると、対馬藩の目を盗んでの密貿易には
5年間「朝鮮渡 差留」という刑罰がある。即ち、倭館は、密貿易罪人が倭館で雑役に従事する刑罰の場所でもあったのだ

朝鮮への渡航船は、1609年の約 条で年間20艘に制限されたが、その後副船・臨時船・小船などを用いた対馬藩によ る増加策が実施され、1710年代には年間平均80艘の渡航が可能となるなど、実質的 な航行数の拡大化が進められていった。
 
日朝貿易は、封 進(朝鮮国王への朝貢貿易)、公貿易(朝鮮政府との貿易)、私貿 易(朝鮮商人との相対取引)の三形態からなる。


封 進と公貿易は、年に 1 回、総額を公木(朝鮮の上質木綿)で決済する方式がとられ、 さらにその一部を朝鮮米(年間約1,200トン)に振りかえたことから、米穀生産の ない対馬にとって貴重な食糧輸入となった。

私貿易は、月に 6 回、倭館の開市大庁 に朝鮮商人が商品を持ち込むが、封進・公貿易と異なって数量や商品の規定はな く、互いに最も利益ある商品が交換された

新倭館完成後、まず朝鮮側からの 提案で参加資格者を政府公認の特権商人20名(後に30名)にしぼり、これに呼応し て対馬藩側も私貿易専従の役人(元  方  役  )を10名、商人の中から選抜した。これに よって対馬藩は私貿易の藩営化を達成し、日朝貿易の経営の主眼は莫大な利益をも たらす私貿易のほうへ注がれるようになった。

1684年-1710年までの27年間、元方役が記録した私貿易帳簿が国立国会図書館に 現存する。
これによると、輸出・輸入のピーク年には銀計算で6,000貫目( 1 貫目 =3.75kg)の取引があり、これは同じ頃、幕府が規定した中国貿易の額に匹敵する。
全期間を平均するとオランダ貿易の額に匹敵する3,000貫目だが、これに定額制の 封進・公貿易額の約1,000貫目が加わるため、日朝貿易の全体額はかなりの規模で あったことが分かる。

私貿易で取引された商品は、輸出の大半が幕府の鋳造した上 質な銀貨幣(銀の純度80%)で、これが貿易全体の60%以上を占めていた。残りは、 朝鮮で入手が困難な銅や錫などの鉱産資源、水牛角(武器・工芸品・薬用)、胡椒 (調味料・薬用)、明礬(染料)、スオウ(染料)などの東南アジア産品、またタバ コ、キセルといった日本から朝鮮へ伝わった喫煙慣習に必要な商品も含まれてい た。

。輸入品は、80% が中国産の生糸(主に白糸)・絹織物、20% が薬用の朝鮮 人参で、前者は京都で、後者は江戸で、いずれも輸入値の数倍で売れる貴重品ばか りだった。

おわりに
 徳川時代後期(18世紀後半)になると、国益を重視した輸入品の国産化政策が実 施され、薬用人参も生糸も、かつてのように利益を生む商品ではなくなった。

 日朝貿易の輸出の大半を占めていた銀は1750年代に途絶し、19世紀には朝鮮側通訳官 と密約をかわして年間約400kg-1,000kg を輸入するようになった。

【18世紀後半からは、対馬藩と朝鮮との貿易は事実上は消滅したと考えてよい。その時期は、概ね1710年以降であろう。即ち、江戸時代の初めから~1710年までの100年間は、対馬藩の主要財源は貿易、その後は、幕府への「ゆすり、たかり」の類である。こんな連中を日本人の範疇に含めるべきなのであろうか?代々対馬に住む者のDNAを調べれば確実に日本人とはかなり異なるはずである。現在でも対馬の多くの土地を韓国人どもが取得している

貿易規模は官営貿 易と同程度で、昔日のような利潤は望むべくもなかった。

財政維持のため対馬藩がとった手段は、商人からの借金以外に、幕府から事ある ごとに資金援助をあおぐことであった。

防衛上の見地から対馬藩援助の必要性と正当性を 訴えて米 3 万石(金67,000両相当)の支給にまで増大させている。


参考文献
中村栄孝『日鮮関係史の研究』下(吉川弘文館、1969年)
田代和生『近世日朝通交貿易史の研究』(創文社、1981年)
三宅英利『近世日朝関係史の研究』(文献出版、1986年)
ロナルド・トビ(速水融・永積洋子・川勝平太訳)『近世日本の国家形成と外交』(創 文社、1990年)