江戸時代の朝鮮通信使
李 進熙
1992年 刊行
講談社学術文庫

この者は、1929年生まれである。1992年時点で63歳であり、略歴には明治大学文学部講師とあるが真実かどうか調べること。バカバカしいの一言であるが、講談社学術文庫は、時々酷いのがある

講談社は本来は、絶版とするべきであろうが、在日韓国人どもが狂喜乱舞して大喜びする内容である


p3
徳川幕府が「鎖国」の対象としたのはキリスト教のヨーロッパ諸国と中国であって、朝鮮国とは正式な国交を結んでいたのである


①その通りであれば、朝鮮の船が出島以外の他の港にも来ていなければならない。しかし、そのような事実は全くない。
②中国船は、出島に非常に頻繁に来ていたことは、外国人の記述でも複数著作で書かれている
③江戸参府随行記 東洋文庫 ツユンベリー
p50
「長崎港
ここに入港し貿易を営む許可を得ているのは、全地球上の民族の中で中国人とオランダ人だけである」
p64
「中国人には幕府参上の旅は許されていない」

④ツユンベリーだけではなく、鎖国当時に来日したオランダ人は例外なく、朝鮮通信使をもって、朝鮮は中国だけではなく、日本にも朝貢していると思い込んでいる。
冒頭、このようなに明言しているが、その後の記述では、「国交を結んでいた」旨の具体的な内容は一切ない
⑥日本風俗備考 フィッセル 沼田次郎、庄司三男 訳 東洋文庫 昭和53年
p96
蝦夷、朝鮮及び琉球の領土をも加えて、全国土の人口は3400万を下らぬ数字であると言われており

第二章 地誌と地形
p121
朝鮮人たちは新しい将軍即ち君主の代替わりの機会にのみ、江戸を訪問することを許されているのであるが、その使節も将軍の名において応対されたのである

p122
朝鮮人は日本人と比べて科学と文明の進歩において遥かに劣っており、同じ水準に無いことは、彼らの生産物によって、また時々日本に海岸に漂着して長崎に運び込まれる朝鮮船によって、極めて明瞭に示されている。その船の構造は、鋼、鉄、及び木製のあらゆる器具類と同様に極めて欠陥の多いものである。

p123
朝鮮は自然の産物は豊かであるが、住民たちは生活に必要な以上はほとんど利用しないし、金属類の細工については貧弱な知識しか持っていないように見受けられる

このオランダ人若者は勘違いしている点もあるが、決定的な点は、赤字引用にあるように多数の朝鮮船が出島に来ていたことを一切書いてはいない。この若者は。9年間も出島に滞在し日本人女性との間に子供までもうけたのである。

⑥朝鮮通信使の李氏朝鮮における1~3回目の正式名称は、下記の通りであるが、そのことには全く言及しておらず、知らないようである、特に、1回目は相当数の陶工等を連れて帰っているにもかかわらず、一切言及がない。

朝鮮通信使 仲尾宏 
p33
多くの日本残留被虜人の事実調査と早期の送還を実現することも任務の一つとして明記されることになった
第1回並びに第2,3回の使節団の名称は、「回答兼刷還使」と称されるのが通例である
p43
(第一回目)以後の通信使派遣については、日本から先に使節派遣を国書の形式で要請することとされ、この形式はその後2回踏襲された。それらはいずれも対馬の強い策謀によって実現した。

p74
今までの対馬が携えてきた国書が偽作または大幅に改ざんされたものであることを知った以上、


p14
海遊禄
【著者は、ほぼ全て海遊禄の記述=朝鮮通信使の記述としており、他の製述者の李氏朝鮮時代の記録を一切参照していない】

p31
家康の国書を偽造して送ったのだが
今度は「回答」形式の朝鮮の国書をそのまま秀忠に差し出せないのである

p32
善隣関係は1868年の明治維新まで保たれる
【正式国交ではなく、善隣関係と明記。上手い嘘と騙しである】

p284
19世紀の朝鮮では悪政と凶作が続き、通信使の派遣どころか、対馬や草梁倭館に給付する綿布や米の調達さえ困難を極めた

【①対馬藩は、山地ばかりの為、米作は島民の食糧を賄うレベルでは絶対にできない。これが真実であれば、対馬藩の米は、朝鮮からものものであったことになる
②草梁倭館を朝鮮王朝実録で検索しても、全くヒットしない。即ち、正式名称ではない
③対馬藩による倭館では当然ではあるが、ヒットする。対馬藩が幕府の目を盗んで密貿易を行い、米が出来ない=食料不足が宿命である対馬の欠点を補っていたと推定される。
④ただし、対馬藩は、表向きは、幕府の意向通りに建前上は、朝鮮との密貿易を取り締まる立場にあった。しかし、事実上は、その必要性から黙認又は事実上の推奨と見て間違いない。マイナーレベルのテーマの為、論文は少ない。
以下ぐらいしかない。それにしても、対馬藩は明らかにおかしい・=対馬の人々のDNA?

対馬藩における密貿易に対する処罰について 

古文書が語る竹島問題

近世の日朝関係日本学士院会員 田 代 和 生

近世に於ける対鮮密貿易と対馬藩

森 克己
九州大学大学院人文科学研究院
1950
この朝鮮人は、上記論文ぐらいは当然知っていたはずである。?