東方ユダヤ人の歴史
H・ハウマン
平田達治 荒島浩雅 訳
鳥影社 1999年
第一部ユダヤ人の為の避難所としてのポーランド
p14
132年から135年
【ローマ帝国がユダヤ人の】反乱に勝利した後
ユダヤ人はエルサレムに足を踏み入れることを禁じられた
この時二つの大きな流れが形成された
放浪の動きの一つは北アフリカを経由してスペイン、即ちセファラードへ向かっていた。
これらのユダヤ人はセファルディームと名付けられた。彼らはヘブライ語の純粋な発音を保持していた
第二の重要なグループは、トルコ、ギリシャ、イタリアを経由して中欧に達した。
主要な目的地ドイツが中世のラビ文学ではアシュケナスと呼ばれていたことから、
アシュケナジームと名付けられた。彼らは後に全ユダヤ民族でも、また東欧におけるユダヤ人でも最大多数を占めることになった
p19
1096年の第一次十字軍をきっかけに、最初の大規模な迫害の波がドイツと中欧とを覆った。1146年から1147年にかけての第二次十字軍の時にもこれが繰り返された
往々にして、ユダヤ人を殺害することで借金から逃れたいという経済的動機が決定的要因を成していた。こうした迫害は、「黒死病」、即ちペストが大流行した1348年から1349年にかけて起きたポグロム(訳注:集団によるユダヤ人襲撃)において頂点に達した。
p21
服装規定は先のとがった帽子から、男性の服につける黄色い輪である「ユダヤ人の染み」や、女性の為の青い縞柄のヴェールにまで及んでいた
p22
ヨーロッパのたいていの国々では、
規則的に起きる追放や国外追放が、こうした展開のーー当面のーー終着点を形成した
1290年のイギリスと南イタリア(シチリアを除く)
1394年フランス
1492年スペイン
1497年ポルトガル
が続いた
p27
反ユダヤ的措置の先駆けを成したのはカトリックの教会であった
p51
16世紀にはこのような諺も生まれた。「ポーランド共和国は農民の地獄、町人の煉獄、貴族の天国、ユダヤ人の楽園」
p54
1648年の大惨事
1648年4月コサックの大群が
ウクライナへ流れ込み
そこに駐留していたポーランド軍を全滅させた。この勝利の勢いを得て、ウクライナの農民が立ち上がり、コサックに合流した
ポーランド人住民、殊にユダヤ人住民のもとで、想像を絶する殺戮が展開されるに至った。少なくとも10万~12万5千人のユダヤ人が犠牲となった
p60
表面的に見れば事態は確かにポーランドのユダヤ民族の急速な「強化」に向かった。1764年には、既に75万人のユダヤ人が再びポーランド王国で生活しており
p149
1897年の国勢調査によれば、520万人のユダヤ人がロシア帝国に生活しており、人口の約4%を占めていた
【現在のポーランドの多くがロシア帝国領】
p194
結婚式の前には新婦は剃髪した
p245
1880年代以降のポグロムや迫害は、多くのユダヤ人にとって移住を決断する最終的なきっかけとなった
亡命者の最大多数はアメリカ合衆国へ移住していた。1881年から1914年の間に、二百万人以上のユダヤ人がアメリカへ移住した。
p246
1986年の段階でアメリカ合衆国には全ユダヤ人の44%が住んでいたーーアメリカの人口の2.4%にあたるーーが、イスラエルには27.5%が住んでいた
H・ハウマン
平田達治 荒島浩雅 訳
鳥影社 1999年
メモを読み返してみると、特に印象に残る点は無い
第一部ユダヤ人の為の避難所としてのポーランド
p14
132年から135年
【ローマ帝国がユダヤ人の】反乱に勝利した後
ユダヤ人はエルサレムに足を踏み入れることを禁じられた
この時二つの大きな流れが形成された
放浪の動きの一つは北アフリカを経由してスペイン、即ちセファラードへ向かっていた。
これらのユダヤ人はセファルディームと名付けられた。彼らはヘブライ語の純粋な発音を保持していた
第二の重要なグループは、トルコ、ギリシャ、イタリアを経由して中欧に達した。
主要な目的地ドイツが中世のラビ文学ではアシュケナスと呼ばれていたことから、
アシュケナジームと名付けられた。彼らは後に全ユダヤ民族でも、また東欧におけるユダヤ人でも最大多数を占めることになった
p19
1096年の第一次十字軍をきっかけに、最初の大規模な迫害の波がドイツと中欧とを覆った。1146年から1147年にかけての第二次十字軍の時にもこれが繰り返された
往々にして、ユダヤ人を殺害することで借金から逃れたいという経済的動機が決定的要因を成していた。こうした迫害は、「黒死病」、即ちペストが大流行した1348年から1349年にかけて起きたポグロム(訳注:集団によるユダヤ人襲撃)において頂点に達した。
p21
服装規定は先のとがった帽子から、男性の服につける黄色い輪である「ユダヤ人の染み」や、女性の為の青い縞柄のヴェールにまで及んでいた
p22
ヨーロッパのたいていの国々では、
規則的に起きる追放や国外追放が、こうした展開のーー当面のーー終着点を形成した
1290年のイギリスと南イタリア(シチリアを除く)
1394年フランス
1492年スペイン
1497年ポルトガル
が続いた
p27
反ユダヤ的措置の先駆けを成したのはカトリックの教会であった
p51
16世紀にはこのような諺も生まれた。「ポーランド共和国は農民の地獄、町人の煉獄、貴族の天国、ユダヤ人の楽園」
p54
1648年の大惨事
1648年4月コサックの大群が
ウクライナへ流れ込み
そこに駐留していたポーランド軍を全滅させた。この勝利の勢いを得て、ウクライナの農民が立ち上がり、コサックに合流した
ポーランド人住民、殊にユダヤ人住民のもとで、想像を絶する殺戮が展開されるに至った。少なくとも10万~12万5千人のユダヤ人が犠牲となった
p60
表面的に見れば事態は確かにポーランドのユダヤ民族の急速な「強化」に向かった。1764年には、既に75万人のユダヤ人が再びポーランド王国で生活しており
p149
1897年の国勢調査によれば、520万人のユダヤ人がロシア帝国に生活しており、人口の約4%を占めていた
【現在のポーランドの多くがロシア帝国領】
p194
結婚式の前には新婦は剃髪した
p245
1880年代以降のポグロムや迫害は、多くのユダヤ人にとって移住を決断する最終的なきっかけとなった
亡命者の最大多数はアメリカ合衆国へ移住していた。1881年から1914年の間に、二百万人以上のユダヤ人がアメリカへ移住した。
p246
1986年の段階でアメリカ合衆国には全ユダヤ人の44%が住んでいたーーアメリカの人口の2.4%にあたるーーが、イスラエルには27.5%が住んでいた
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