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物語 江南の歴史
もう一つの中国史
岡本隆司
中公新書
2023年

17世紀において、四川省で人口の激減があったことを初めて知った。
貴州省は現在でも少数民族居住地であるが、恐らくは、四川省も漢民族ではない少数民族が多数居住していたと思われる。

清朝は、村松和也氏の苗族民話集の解説によれば、苗族等の貴州省少数民族に対しては事実上の絶滅政策をとっていたはずであり、四川省についても同様であったのかもしれない。康熙帝、雍正帝、乾隆帝 時代の清朝の異なる側面である。

現在のウイグルに対しても同様の絶滅政策がとられていると考えてよい。

p25
清朝の支配が確立していった。それでも騒乱は終わらない
傷跡の最も深かったのが四川である。1630年代からおよそ半世紀で、四川省全省で700万人近くの犠牲者を出し、50万程の住民しかいなくなった。そんな数字を挙げる学説もある

人口の95%近くが失われたことになる。学説ではなく、恐らくは事実であろう

p26
いきさつはどうあれ、四川は17世紀の危機を経て、人煙の絶えた荒野が広がる結果となった。
以後1世紀の長きにわたって、膨大な移民を吞みこんでいく


p27
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p34
呉越同舟時代の江南の風俗について、
「被髪」「文身」「左衽」(さじん)という習俗があった。いずれも住民の身なりで、髪を結わずザンバラにし、体に入れ墨をし、襟を左前で合わせる、と特筆するのは、やはり中原人には奇態な習俗だからである

史記によれば次の記述がある

 史/正史/史記/世家 凡三十卷/卷四十三 趙世家第十三(P.1779)..[底本:金陵書局本] 

王遂往之公子成家,因自請之,曰:「夫服者,所以便用也;禮者,所以便事也。聖人觀鄉而順宜,因事而制禮,所以利其民而厚其國也。夫翦髮文身,錯臂 左衽 甌越之民也。黑齒雕題,卻冠秫絀,大吳之國也。



p96

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アジアと欧米世界
世界の歴史 25
加藤 祐三
河北 稔

内容的には優れている

p26
【コロンブスを例に挙げ、当時の西欧の船が全長約25m程度に対し、同じ時代の中国の船は全長では5倍近い旨記述した後】
こるほどの技術力(造船技術)を持つ中国が何故海洋から後退したのか。何故19世紀の欧米列強の進出に敗退したのか

p119
当時の世界ではかつてヨーロッパの歴史家が想定したような商業の発展したヨーロッパと発展の遅れたアジアというような図式が全く間違いであることが解る。商業はむしろアジアにおいて成熟期を迎えていた。
ヨーロッパ人はアジアでは自ら新たな貿易ルートを開拓するなどということは、その必要もなければ、可能性もなかったのである。彼らはただ従来の広域貿易ネットワークに新参者として参入するだけで充分だったのである。

p122
1520年代末でポルトガルの人口は100万ないし140万と見積もられているが

p132
スペイン領アメリカが世界経済にとって決定的な意味を持つようになったのは銀山の開発によってであった

p133
洪水となった銀はヨーロッパ各地の経済に影響を与え、さらにヨーロッパを通り越して中国を含むアジア各地に流れその土地で滞留した。中国が銀納の租税制度を採用したのはそのためである
中国史マニアの私としては?と感じる面もある。


p210
産業革命を生んだ奴隷貿易
奴隷貿易と奴隷制プランテーションの収益が産業革命の資金源となったこと
これも有名であるが、正しいかどうかは不明

p243
実際にはイギリスが世界の工場であった時期はごく短く、その繁栄はむしろロンドンのシティを中心とした金融の力によってもたらされたと考えられる。
イギリスは早くから商品の取引、つまり貿易の収支は赤字であったが、これを海運業などのサービス、と資本輸出の収益など国際金融の黒字で補った結果、全体としては経常収支を黒字に保つことが出来たのである
この点については学生時代から知っていた。有名である

p265
イギリスでは都市化が急速に進行し、茶が労働者の食品となりつつあったことから、その輸入は激増を続けた。イギリス側の赤字は膨れ上がり、インドで阿片を製造して専売制を採用、これを対価とする方法が急激に発展したのはこのためである。1800年頃には概算で300トンくらいの阿片が中国に落ち込まれていたが。1830年代末にはその8倍くらいになっていた。このため中国では阿片中毒者が激増し、深刻な社会問題となったうえ、逆に対イギリス貿易が中国側の赤字となってしまい、銀の流出が続いた。
既に阿片取引からの収益は英領インド植民地の収益の6分の1にも達していたうえ、茶の輸入はイギリス民衆の生活にとって不可欠となっていた

紳士ずらしたイギリス人の悪辣さが明確に示されている。会田雄二氏がアーロン収容所で明言している内容と同じである

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p315
中国の対英貿易は1827年を境として、これまでの茶輸出に依存した輸出超過から阿片輸入に伴う輸入超過に転化した

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南京戦
閉された記憶を訪ねて
元兵士102人の証言

松岡 環 編著
社会評論社
2002年

①同じ松岡氏による中国側証言集と一致するのは、便衣と呼ばれる中国服=民間服を着た男性(多くは敗残兵であったろう)と女性子供が入り混じった集団が長江に逃げた際に、区別せずに機関銃を照射した点である。
②明らかに異なっているのは、中国側証言集では、手にタコがある・頭に帽子の跡があるなどの一応の検査をして敗残兵かどうかを区別し、敗残兵と見做さなければ、南京占領後に良民証が交付されたとしている反面、この証言集ではそのような一応の検査すら全く行わず、男という男は全て殺害したと証言している点である。

この証言集のほぼ全員が16師団の兵士であるからして、第16師団では、南京城内にいる中国人男性は、全て敗残兵と見做して、殺害したようである。他師団と異なり、本当に酷い話である。

p37
南京の防衛に当たった中国軍は
10万から15万人と言われている

p38
この時点での南京城市区の人口は中国軍兵士を除いてなお50万人前後がいたと推計されている

p58
揚子江に逃げる中国人を撃ち殺す
船・いかだ・材木につかまって逃げる女性子供をを含む中国人避難民に機関銃小銃を。
同じ編者の中国側証言集と一致する

p62
城内で死体の跡片付け
女子供の死体もたまに見ましたな。ほとんどが男でした

p73
逃げるのは兵隊だけやない。男の子もいれば女の人もいる。
お構い無しにめくらめっぽう連続発射

p107
南京には、ようけ慰安所があって

p110
慰安所は
南京
陥落後すぐできたと思う

p159
家を一軒一軒調べ男を捕まえた
「男見たら殺せ」この命令だけは今でもようおぼえとる

p221
家を1軒1軒調べて男なら全部引き出した

p233
男という男は捕まえました




支那古典學の研究法に就きて
内藤湖南
大正六年二月發行「東方時論」第二卷第二號

經學とは儒教の経典研究。驚いたのは、明においては、その改竄がなされていた点であり、初めて知った

支那の古典學は、第一は經學であるが、それにも漢魏以來明清に至る各時代には、その時代々々の特色があつたが、大體に於て古典學の研究は唐宋から起つたと云つても宜い。 

唐人に至りて始めて經典に疑問を挾むの風が起り、宋に至つて盛んになつた。殊に朱子の一派の人などに至りては、經典の改竄までも敢てする樣になつたのである。勿論その頃の研究は、まだ學問の組織が十分に發達して居なかつた爲めに、その改竄といふものも常識で判斷して居る丈のことで、

宋人の餘弊とも見るべきは明人で、彼等は自分の心を師として、濫りに古典を改竄し、本文の増減をも心の儘にしたのである。

清朝人は宋以來古書改竄の餘毒に懲りて、漢学派と云ふ者が起り、つとめて舊文を墨守する方向に傾き、殊に經書に至りては少しも改竄しないと云ふ立場から研究した爲めに、研究法も非常に完備して、近來西洋でする科學的古典學の研究と全く同樣になつたのである。

經書を疑はぬと云ふ規矩は殊に古代史の研究に一方ならぬ支障を來したのである。即ち歴史の研究法から見れば、どうしても疑はねばならぬことも、經書に明文があると云つて、其の疑惑をその儘に存置すると云ふのが、清人の學弊である。

併し近代になつてからは、公羊學が盛になつて、その結果として從來許鄭の學を根柢として、經書の解釋に於いて、其説を疑はぬことにして居た家法を破つて、公羊學の流行した西漢の後までは疑つても宜いと云ふことになつた。

尚書左傳など云ふ者を始めから確かな者と信じて、その成書の源委、事歴等に就いて何等の疑ふ所がなく、古史官の書いたものだから、是れ以上確かな者がないと斷じ、それ以外の古書は皆尚書や左傳に引當てゝ、それに合ふ所を事實とし、合はぬ處を否定すると云ふ樣な譯で、斯る研究法はどちらかと云へば、漢代の王充が著した論衡などに比してさへも常識を缺いて居る。

今殷墟の遺物で見れば、その多くは石器、骨器の類であるが、多少銅器が出て居る、それ故支那の文化史はいまだ銅器時代から以上を見ることが出來ないが、此際銅器の全く出ない古蹟が發見さるれば、支那文化の起源が幾千年前にあるか、或は何時代に當るかを研究し得るのであるが、遺憾ながら未だ發見されない。

要するに、研究の方法も定めず、單に部分的の考證を事として居ては、いつまでたつても、信用するに足る結論を得ることが出來ない。

老子化胡經
桑原隲藏
明治四十三年十二月『藝文』第一年第九號所載)

明治時代において、本地垂迹説は桑原氏のように考えられていたのであろう。


佛教の支那に將來されたのは、普通に東漢の明帝の永平十年(西暦六七)の頃と認められ、

東漢の末から三國時代にかけて、一方では佛教が漸く民間に流通するし、又一方では道教が次第に組織されるに從ひ、始めて道佛の衝突が起り、兩晉・南北朝・隋・唐時代は申すに及ばず、宋・元時代までかけて、絶えずこの兩教は衝突した。

支那の佛教にとつて、道教は第一の法敵であつた。佛家で三武の厄と稱する、佛教に尤も激しき迫害を加へた帝王は、何れも道教信者である。

老子化胡經』とは、老子が西域印度へ出掛けて、幾多の胡國を教化したことを書いたもので、西晉の惠帝の頃に、道士の王浮(或は王符に作る)といふ者の僞作に係る。

波羅門哲學と對比すると、兩者の間に尠からざる類似がある。故に歐洲の學者は多く老子は印度の影響を受けたものと信じて居る。甚しきは老子その人も印度より支那に移住して來たものとさへ信じて居る

老子は晩年に中國を後に西方に往つたといふ傳説もあり、殊に老子が天竺に往つて佛教を唱へたといふ説も行はれて居ること故、之を大成して『老子化胡經』を作つたのである。

もと一卷の『化胡經』が十卷に増加したのみならず、『化胡經』の内容も隨分變化して居る。最初は老子自からが釋迦を教へたといひ、後には老子が釋迦と生れ變つたといひ、又その弟子の尹喜を釋迦と生れ變らしたなど、説は區々になつて居る。

老子化胡經』が公にされてから、道佛二教の爭は實に火の手を擧げた。道士は之にて敵の死命を制すべき屈竟の武器を得たりとて、頻に『化胡經』を振り廻はす。釋迦は老子の弟子である。弟子は固より先生に劣る。老子は中國人の爲に道教を説いた。佛教は胡人の爲に立てた法である。中國人にして佛教を奉ずるのは、いはゆる蠻夷擾夏ものな

今日歐洲の印度學者の説にも、比較的よく接近して居る。之によると釋迦は孔子と同時、老子よりはやや後輩で、然もその年代相及ぶといふのが事實らしい。


佛教徒は道教の祖師老子を佛弟子とするのみに滿足せず、更に儒家の祖師たる孔子、その高弟顏子を始め、聖人といふ聖人は殘らず味方に引き入れてゐる。

されば佛教徒が南北朝時代から、支那の聖賢を菩薩の化身として、佛教側に引き入れたことが明白である。明槩が三皇・五帝・孔・李・周・莊みな菩薩化身と主張して居るのは、化身説を極端まで應用したものである。

この手段がやがて平安朝時代にわが國に輸入されて、本地垂迹説となり、わが國では支那よりも一層の成功を見得たのである。 

本地垂迹の説は、普通に傳教大師や弘法大師によつて創唱されたものとなつて居る。この二人は何れも入唐した。唐時代は道佛二教の爭の盛な時であるから、この二人も支那の僧侶が老子や孔子を菩薩扱にして、宗勢を擴張した先例を見て、歸朝の日に之を我が國に應用したのであらうと想像される。

化身説を利用して、神佛の調和を計らんとする傾向は、傳教・弘法の時からあつたので、これは支那から輸入したものであらうと想像される。十分の調査をして居らぬから、斯には單に想像というて置く


支那歴史的思想の起源
内藤湖南
「支那史學史」京都大学支那史学史講義

公羊の三世?


私の支那史學史といふものは、抑〻それを始めましたのは大正三年頃でありますから、今から十九年廿年前、、

縁起譚が古傳説の重要な部分を占めてゐることが分りますが、幸ひに公羊傳なり左傳なりの中にやはり縁起譚的のものが遺つて居る所からして、之によつて支那の古代史の體裁、古代史の考へも分るやうになると思ひます。これが一つであります。

これが即ち因果思想即ち古代の歴史思想の大變重大なことであると思ひます。  

これらのことは、どちらかと申しますといふと、儒教の方では、孔子の時代、或はそれ以後、段々さういふ考へが薄らいで居つたやうで、孔子などは隨分さういふ古代思想に對しては明白な謀反氣を出して居られるやうですが、墨子などには餘程この古代思想が純粹に遺つて居りまして、墨子の書には隨分かういふ奇怪な思想、即ち鬼神など


其の次になりますと、今度はこれらの原始的歴史思想がもつと洗煉されて、綜合的史學思想と言つてもよいやうなものが出來て來るのであります。

かういふ風に考へますと、支那の歴史的思想の起源、段々發達して來た迹といふものは、第一實際の事實に於て三代といふ王朝の變り目を感じたこと、それから禹が水土を平げてその上に國をつくつて以來、三代の變化があつたといふことの考へが行はれて居ること、それから社會的なことと致しましては禮俗の變化、宗教的な考へとしては災祥・卜筮・夢の人事との因果關係、さういふ風な色々な思想が根源になりまして、それから最後に綜合的な史學思想即ち孟子の一治一亂、公羊の三世といふやうな思想に發達をして來たといふことになるだらうと思ひます。


勿論それらの歴史思想と、それに出て來る所の事實とを綜合して、さうして立派な歴史を作り上げたのは、それは漢の時代の司馬遷でありまして、史記の十二諸侯年表の序の贊に、自分の歴史を作つた所の由來を述べて居りますので、これに古來の歴史の思想なり、材料なりを蒐める方法を言つてあります

女眞種族の同源傳説
内藤湖南
大正十年七月發行「民族と歴史」第六卷第一號

大正時代において、ジェシンは、朝鮮人どもとは無関係なことがシナ学者には既に知られていた

契丹即ち遼の時代には、女眞種族を大體三通りに分けてあつた。一つは生女眞、一つは熟女眞で、今一つは非生非熟女眞である。

生女眞といふのは、即ち契丹種族に化せられぬ所の、在來の風俗を守つて居つた女眞で、主に今の松花江沿岸地方に居たのである。非生非熟女眞はその南方にいて、即ち松花江の支源に當る輝發江の沿岸に居た者をいふのである。。熟女眞といふは、契丹の太祖阿保機時代に、女眞が寇をすることを恐れて、女眞の豪族數千家を分けて遼陽の南方に置いた。即ち今の滿洲の復州・岫巖地方に當る處に置いたので、之を合蘇欵とも曷蘇館とも稱して居た。

生女眞は騎射が非常に上手で、地が方千餘里、戸數が十餘萬あり、それが皆山谷の間に住居してゐると云はれてゐ

以上は女眞の中の異つた種族が最初分れた所の事實を、後になつて其子孫に傳へられた傳説によつて語られるまでには、如何に其中途で變化をしたかといふことの概略である。即ち曷蘇館が初め女眞から分離したのは、事實に於ては、其敵たる契丹人の壓迫を受けて、一部分が移住させられたのであるにも拘らず、後世になると、僅か百餘年を經過する間に、既に眞の事實を忘れて、兄弟が個々別れ〳〵になつて、高麗から移つて來たといふやうな話に變化して居る。而してこの女眞族の如きは、比較的遲く國を建てた爲め、隣接した地方に、それよりも古く國を建て、記録によつて史實を傳へた國があるから、其の他種族の確實な記録によつて、このやうに詳細にその變化の樣子を知ることが出來るのであるが、是の如き變化は、之を他の種族の同種の傳説を研究する場合の參考とすることが出來るのであらうと思ふ。其は縱令其傳説を持つた種族よりも古い種族があつて、其當該種族の事實と傳説とを側面から證據立てることがなくても、是と類似したことは、大體に於て事實と傳説とが同樣の變化を經て居るものであると判斷する材料になるのである



然しこの女眞族の同源説の如きは、一方に隣接して居る先進の民族がある爲に、事實と傳説との間に變化を生じた形跡が歴々と分る。此の證跡を應用すると、古傳説の中にある所の同源説を、大體に於て謬なく判斷することが出來るであらうかと思ふから、其參考の爲に試に此の一篇を書いて見たのである

概括的唐宋時代觀
内藤湖南
大正十一年五月發行「歴史と地理」第九卷第五號

大正時代において、既にこの研究水準に到達した点に驚く


貴族政治は六朝から唐の中世までを最も盛なる時代とした。

この貴族政治は唐末より五代までの過渡期に廢頽して、これに代れるものが君主獨裁政治である。

この制度は宋以後漸次發達して、明清時代は獨裁政治の完全なる形式をつくることゝなり、國家に於ける凡ての權力の根本は天子一人これを有して、他の如何なる大官も全權を有する事なく、君主は決して如何なる官吏にも其職務の全權を委任せず、從て官吏は其職務について完全なる責任を負ふ事なくして、君主一人がこれを負擔する事となつた。。

君主は一族即ち外戚從僕までも含める一家の專有物で、從てこれ等一家の意に稱はないと廢立が行はれ、或は弑逆が行はれた。

廢立も容易に行はれず、弑逆も殆んどなくなつた事は宋以後の歴史は其然るを證明する

支那は人民の參政權を認むるといふことは全くなかりしも、貴族の階級を消滅せしめて、君主と人民と直接に相對するやうになつたのは、即ち近世的政治の状態となつたのである。唐代では一ヶ年に五十人位より及第しなかつたが、明以後、科擧の及第者は非常に増加して、或時は三年に一度であるけれども、數百人を超え、ことに應試者は何時でも一萬以上を數ふる事となつた。



明以後には全く宰相の官を置かぬ事になり、事實宰相の仕事をとれるものは殿閣大學士であつて、これは官職の性質としては天子の祕書役、代筆の役で、天子を輔佐し、其責任を分ち、若くは責任を全く負擔する古代の宰相の俤はなくなり、君權のみが無限に發達した

勿論、中書・門下・尚書三省ともに大官は皆貴族の出身であるので、貴族は天子の命令に絶對に服從したのではない。夫故に天子が臣下の上奏に對する批答なども、極めて友誼的で、決して命令的でない。

然るに明清時代になりては、批答は全く從僕などに對すると同樣、ぞんざいな言葉遣ひで命令的となり、封駁の權は宋以後益々衰へ、明清に在りては殆んどなくなつた。

唐代では一ヶ年に五十人位より及第しなかつたが、明以後、科擧の及第者は非常に増加して、或時は三年に一度であるけれども、數百人を超え、ことに應試者は何時でも一萬以上を數ふる事となつた。

唐と宋との時代に於て、あらゆる文化的生活が變化を來したので、此他にも微細に個人的生活を觀察すると、其何れもの點に、此時代に於ける變化の表れたことを認むるが、今はかくの如き微細の點を述べる事は避ける。

要するに支那に於ける中世・近世の一大轉換の時期が、唐宋の間にある事は、歴史を讀むものゝ尤も注意すべき所である。

東洋人の發明
桑原隲藏

大正三年十二月刊『中等學校地理歴史教員協議會議事及講演速記録』所載)

講演の中で、桑原氏は、中国文化の西欧への伝播及び西欧文化の中国への伝播がいずれもアラブ世界を通じてなされたことを指摘している。流石である。


東洋人の發明と云ふ中で、第一に注意すべきは印刷のことであります。支那の印刷術は何時出來たかと云ふと、いろいろの議論がありまして、今日でも學説が一定して居る譯でもありませぬ。併しながら普通では隋の時分に出來た、少くとも隋の開皇十三年(西暦五九三)に出來たことになつて居ります

この陀羅尼の印刷といふものが、今日世界に現存して居る印刷物の中で、最も古くて尤も年代の確なものであることは、爭ふべからざる事實であります。

活版即ち活字版で、これは普通の木版の印刷よりも一層便利で、一層世界の文化に貢獻したものであります。この活版も矢張り支那人によって發明されたので、即ち北宋の仁宗の慶暦年間(西暦一〇四一─一〇四八)に、畢昇と云ふ人が發明したのであります。

西洋の印刷の歴史は、遙に東洋のそれに後れて居ります。西洋の印刷の歴史は西暦十四世紀以後に限ります。今日西洋に現存して居る古代印刷の標本も、十五世紀以前のものはないといふことであります。

ポーロが東洋から持つて來た土産物の中に、當時元で盛に使用した紙幣があつた。此紙幣は無論印刷したものでございます。元の前に國を建てた女眞の金でも、矢張り印刷した紙幣を使用して居ります。今日世界に現存して居る紙幣で一番古いのは、金の貞祐年間(西暦一二一三─一二一七)に發行された紙幣であらうと思ひます。勿論これも印刷されたものであります

活版の方になりますと、西洋の方で普通活版の發明者と云はれて居る、オランダのコスターやドイツのグーテンベルグなどの出たのは、十五世紀でありまして、支那で活版を發明した畢昇より四百年ばかり後の人であります。

捕虜の中に唐の紙漉職工がありましたから、サラセンの大將は、この紙漉職工を使役して、中央アジアのサマルカンドといふ都で、初めて製紙工場を建て、其所で那風の紙を製造することに着手した。是が唐の玄宗の天寶十載すなはち西暦七百五十一年のことで、サラセン國に紙の製造の傳はつた起源であります

羅針盤も、先づ支那で發明されたものらしい。實は羅針盤の發明や傳播の歴史は、まだ十分に研究されて居りませぬ。

そこで以上申述べました歴史上の事實──大部分は趙翼の『※餘叢考』によつたので、私自身はまだ根本的に調査せぬ所もあるが──によると、鐵砲や火藥は、宋人が先づ之を使用して金を苦しめ、金人は又之を使用して蒙古を苦しめて居るのであるから、どうも宋人が最も早く火藥や鐵砲の使用を知つて、之が金人・蒙古人と傳はつたものと想はれるのであります。

(第一) 單に發明といふ點から申せば、長い歴史をもつて居る東洋人は、必ずしも西洋人に劣らぬかも知れぬ。印刷や製紙や羅針盤や火藥の外に、商業の方面では、爲替や紙幣の發行、工藝の方面では、※器や漆器の製造なども、先づ支那で發明されたものらしい。近來の支那人は、例の自惚根性から、あらゆる世界の文化や文明は、支那から始まつた樣に主張するものもある。列國平和會議(弭兵會)なども支那が開祖で、已に二千四五百年前の春秋時代に實行されて居る。赤十字社の事業も、同時代から支那で實行されて居る。新聞紙の發行も、議院の開設も、支那が家元であるかの如く吹聽する者も居る。勿論これらは相當に割引を要し、その儘に直に贊成する譯には參らぬが、兔に角東洋人の發明は、中々大したものに相違ないと想はれる。が併し一歩退いて考へると、どうも東洋人の通弊として、研究心に乏しい結果、折角の發明も發明榮えせぬものが尠くない。製紙や印刷や羅針盤や火藥の發明は、大なる發明ではあるが、惜いことには、その家元の東洋では、發明後幾百千年を經ても、依然としてその舊態を脱却せぬ。

東洋人の發明したものでも、西洋人の手を經ぬ間は、十分にその效力を發揮することが出來ぬ有樣であります。

支那の文化──從つて幾分日本・朝鮮の文化──の發達を調べるのに、西域を度外視しては、その眞相を盡し難い程であります。

現行の東洋史は、主として支那を中心として、多くの場合、西域の事實は除外される傾になつて居る。これは授業時間の制限や、その他の理由があつて、已むを得ざる點もありませうが、併し之が爲に中等教育で歴史の教授に當られる人々まで、西域のことといふと、全然無關係のやうに考へて、實際以上にこれを輕視する傾向を見受けるのは、如何のものかと思ふ。

支那の宦官
桑原隲藏
大正十二年八月三─五・七日『大阪毎日新聞』掲載

桑原氏の著述は、面白い。特に、有力宦官が明時代には、妻帯していた旨の記述が印象的であった。

桑原氏が気づいていないのは、宦官が跋扈したのは、中国皇帝の政務における閉鎖性にある点だ。私は毛沢東の暴露的な伝記を読んで初めてきずいたが、毛沢東は、50台後半から60歳代には、他の中国共産党幹部と日常的には接触はあまりなく、主に、届いた文書へのコメント形式で中国最高指導者として統治していた。ただし、実務の大部分は、周恩来

過去の王朝時代も同様に、基本的には、皇帝の政務は、文書への返答形式であり、実際には頭の切れる宦官が皇帝に変わり、返答内容を作成していたのだた。例外として、雍正帝は自分で書いたようである

宦官は必ずしも支那の專有物でない。古代の西アジア諸國、ついでギリシア、ローマにも宦官が使役された。マホメット教國では、一般に宦官を使用した。

我が日本の如く、古來宦官の存在せぬ國は、寧ろ珍しい方である。朝鮮や安南なども、支那の風を傳へて宦官を置いた。獨り我が國は隋・唐以來、盛に支那の制度文物を採用したに拘らず、宦官の制度のみを輸入せなかつたのは、誠に結構なことと申さねばならぬ。

支那の宦官が何時代からはじまつたかは、正確に知ることが出來ぬ。されど周時代には、已に宮刑が五刑の一に加へられて居り、宦官も存在して居つた。

東漢・唐・明の三代が、宦官の尤も權力を振ふた時代で、この三代の中でも、唐が一番甚しい。唐の中世以後は、大臣の任免は勿論、天子の廢立すら宦官の意の儘であつた。

當時宦官を指して定策國老と呼び、之に對して皇帝を門生天子と稱した。定策國老とは、試驗官に當る國家の元老といふ意味で、門生天子とは、その試驗官の檢定で、及落を決定せらるる受驗生の天子といふ意味である。

隋時代以後宮刑が廢止となると、宦官の供給が種切れとなる。從つて隋唐以後の宦官は、志願者で補充するのが原則となつた。

四川や嶺南の如き、邊裔の蠻民を捕獲して宦官とすることもある。唐の玄宗時代の有名な宦官の高力士の如き、廣東南邊の蠻僚出身である。明の英宗時代に、貴州方面の苗族を征伐して捕獲した、小童千五六百人を宦官とした事實もある。

また元・明時代には、高麗・女眞・安南出身の宦官が、尠からず支那宮廷に奉仕して居つた。

朝鮮では明の皇帝の聖旨を奉じ、容姿閑雅、性質悧發な火者三十五名を選拔して、支那へ貢進し、その後も再三同樣の貢進をして、

元時代には蒙古の政府は高壓的に、高麗(朝鮮)から宮婢や宦官を貢進させて居る。故に元時代の宦官に、高麗出身が尠くない。

故に隋・唐以後に於ける宦官の出身を檢すると、(一)志願者、(二)死罪輕減者、(三)蠻人の捕虜(外國産の奴隷)、(四)外國人の貢進と、大體四種に區別することが出來る。就中主要なものは勿論第一の志願者で、十の八九まではこの出身であつた。

支那の宮廷には、多い時は一萬二三千人、少き時も三千人位の宦官が居る。

子孫の蕃殖を絶つ如き行爲は、尤も嚴重に取締らねばならぬ。故に歴代の政府は、表面上自宮者を禁止して居る。明時代にも政府は可なり嚴重な制裁を設けて、民間の自宮者を禁止して居るが、それは看板若くば一時だけのこと、實際に於ては殆ど厲行されなかつた。

或る者は音樂家となり、或る者は俳優となる。内廷に戲園(舞臺)があつて、ここに時々演藝が試みられるが、その出演者は皆宦官に限る。或る者は料理人に、或る者は理髮者に、或る者は苑丁となる。降つては洗濯人・水汲人・掃除夫となるものもある。その他夜警に當る者、護衞に當る者もある。内廷一切の雜務は、宦官で處理するのである。彼等を取締る首領として、總管や副總管を置く。

明の太祖は歴代の成敗に鑑みて、宦官の處置に意を用ゐ、その數も百人以下に止め、禄を輕くし位を低くし、内臣の政事に干渉する者は斬罪に處すべしといふ、嚴しい掟を鐵板に刻り付けたる、所謂十字の鐵牌を官門に樹てたが、その鐵牌の未だ銹を生ぜざる間に、宦官の員數も勢力も驚くべく増加して、明の天下は半ばは宦官に滅ぶ結果に至つた。

割勢手術の不完全なる故か、又は他の理由によるか、古來の歴史を見ると、宦官宣淫の事實が尠くない。後魏の孝文帝の皇后馮氏は、宦官の高菩薩と密通した。唐の高力士は帶妻せし上に、他の貴婦人とも通じたと傳へられて居る。中世の宦官に、妻妾を有せし者が多い。殊に明時代を甚しとする。明代の有力な宦官は、帶妻を普通とした。宦官として遊郭に出入し、若くは宦官同志の間に、婦人を爭奪するなど、醜穢なる事實が、明代の記録に疊見して居る。

位置の安全を圖るのが、支那官場の常態となつて居る。殊に天子が宴樂に耽る場合や、太后が垂廉の政を行ふ場合には、宦官に對する心附けの必要なること申す迄もない。宦官が發財致富の根源はここに在る

不思議なことは、支那の政治家や經學者などに、殆どこの秕政の根源たる宦官の廢止を主張した人がない。尚古思想の強い支那人は、『書經』や『詩經』に宦官を是認してあるといふ理由で、又嫉妬心の強い彼等は、婦女監視には中性の宦官が必要であるといふ理由で、宦官の弊害を知りつつ、矢張りその保存を主張する。『資治通鑑』の作者たる司馬光の如き達識家でも、宦官は全廢すべからず、但しその位置を低下し、その取締を嚴重にすべしといふ

元時代の蒙古人
桑原隲藏
明治三十八年六・七・十月『明治學報』所載

桑原氏がこの明治の時点でドーソンを読んでいるのかどうかは不明であるが、概ね正確な記述であり、驚いた。今日のモンゴル史研究者ですら知らない点もあるだろう。
当然であるが、アラビア語文献は全く知らない。漢字文献と3名のいい加減な外国人の見聞録によっている

元時代に於ける蒙古人の風俗を知るのに何が一番の材料であるかといふと、それは當時のヨーロッパ人の旅行記を讀むのであります。

その中にいろいろ澤山ありまするけれども、先づ Plan Carpin 又は Plano Carpini それからもう一つは William of Rubruk 又は Gulielmus de Rubruquis といふのがあります。それから三番目は Marcopolo 有名な人であります。

一番さきのプラノ・カルピニといふ人は千二百四十五年にヨーロッパを發しまして千二百四十七年にヨーロッパへ歸つて來たのであります。丁度足掛け三年の間不在であつたのです。

次ぎのウィリアム・ルブルック、此人はフランスのサンルイと云ふ王樣の命令に依て蒙古の方へ行つたのですが、これは成吉思汗の孫で、定宗の次に立つた憲宗の時に行つたのです。此人は今申す通りヨーロッパを出發したのが千二百五十三年で千二百五十五年にヨーロッパへ歸つて來ましたので、矢張り三年掛つて居りますが、此人の蒙古に居つたのは前のプラノ・カルピニよりも少し長くして千二百五十三年の十二月から翌年即ち千二百五十四年の八月まで、それですから足掛け九ヶ月居りました。
九ヶ月の間蒙古の状態を能く視察しました。

一番後のマルコ・ポーロといふ、是は諸君も能く聽いて居るだらうと思ひますが、歐洲を出發したのが千二百七十一年で、歐洲へ歸つて來たのが千二百九十五年であります。二十五年ばかり歐洲を留守に致しました。十七歳の折りに出發しましたから四十二歳位の時分に歸つて來たのです。蒙古に居つたのは千二百七十五年から千二百九十二年まで十八年ばかりであつて、此人が一番長かつた。けれども此人は千二百七十一年から九十五年まで、兔も角も自分の家即ちイタリーのベニスですが、其處へ二十五年目に歸つて來る。

【天幕について】其入口の方向は前申す通り必ず南向きである。それは何故かと云ふと是れは蒙古人に限つた譯ではない。北狄は皆さうである。匈奴人でも突厥人でも囘紇人でもさうである。若し南向きでなければ、屹度東向き、西と北の方には決して入口を設けない。何故と云へば蒙古地方で吹く雨風は大抵西の方向か北の方向に定つて居りますから、夫故に南と東へ開け置けば結構です。

蒙古人には盜人がない。蒙古人はまるで盜人といふことはしませぬ。後に申す通り蒙古人は絶えず他國へ侵入して物を掠奪する、戰爭をすると必ず敵の財産を掠奪するけれども、蒙古人と蒙古人の間では盜人をし合ない。蒙古人は鍵とか錠といふものを知らない。是れは皮倉庫だから鍵をおろして置かうといふ、そんな考へは起こらぬ。開け放して置いても盜人がない。だから斯うして置いても差支ないのであります。

事実ではないであろう。家畜泥棒は当然いる

衣服及び頭飾の話 蒙古人が着ます衣服は、夏は絹或は木綿の物を使ひます。それは大抵支那からして輸入されるのであります。木綿はペルシアからして輸送される。

蒙古人は辮髮です。その辮髮も一種特別なであります。この辮髮する人種といふものは現今の清朝人も其一つで、又蒙古人よりずつと前には、支那内地へ國を建てた、南北朝時代の北朝の拓跋魏などは索虜と呼ばれた位だから勿論辮髮をやりましたが、どんな風にしたか委細には知れないのであります。蒙古人も辮髮をしましたが、其の辮髮の仕樣人が餘り注意せぬですけれども、一寸面白い、蒙古人は頭髮を大半剃り落します。唯前額の上だけ前髮を殘します。この前髮は眉毛の邊まで垂れる。

大きな、今日で言ふ朝鮮人の帽子に似たやうな物を冠ります

飮食の話 先づ飮物の方から申しますと、蒙古人は冬の間は米或は小麥などから拵へた所の飮料を飮みます。それは多く支那の方から輸入されます。時に依ると葡萄酒も多少飮む。それはペルシアから輸入される。けれどもそれは極めて少量で、彼らの一般に殊に夏の間に用ゆるのは馬の乳です。馬乳です。

蒙古人は一體さきに申す通り極めて少量の食物しか取らぬのですから、食物に對しては非常に儉約するですから、お客樣に對しても百人位のお客さんを招んで置いて、唯一つの小豚か何かを一疋殺すです。それですからなかなか皆に渡らぬ位である。

戰爭の話 
蒙古人は平素は無論牧畜が職業です。いざ戰爭と云ふと其平素牧畜をやつて居つた蒙古人が皆徴發されて兵隊になる。兵隊には給料がありませぬ。何年やつても外債を起す必要はない。何故だと云ふと只で働かせるから。その代り戰爭に行きますと、それには分捕品を分けて遣る。戰爭に行つたら必ず分捕物をする。分捕りをする爲に戰爭

戰爭の時になりますと蒙古人は一人で澤山の馬を連れます。平均十八頭位連れます。乘るのは一時に十八頭に乘るのではない。一頭に乘つて疲れれば代へる。ですから速力は他國人の想像することの出來ない程早いです。敵を襲撃したりするに頗る都合がよい。それから前に申した通り蒙古人は極めて物を少量しか食ひませぬから是れが戰爭のとき非常に都合が好いのであります。のみならずどんな物でも食ふのですから是れは尚更戰爭中には都合が好いのです。

前に言ひました所のプラノ・カルピニといふ人の記録によると、蒙古人は毎朝稗の粉に水を混ぜた物を一杯飮んで、一日を過ごす。稗の粉に水を混ぜて、それを一杯飮んで、もうそれで一日何にも食はない。とても外國人では想像することの出來ない程小食である。一日や二日必要に應じて何にも食はずとも平氣である。二日位絶食しても決して何とも言はない。鼻歌を唄つて平生の通りで嬉々として居るといふことです。

これは、単に外国人の見聞録に過ぎない。この量では、カロリーが絶対的に不足する

それから愈〻戰爭といふことになりますると、蒙古人は必ず冬を選ぶです。秋から冬春の初めまで掛けてが蒙古人の戰爭時期です。夏の間は決して戰爭しませぬ。夏の間は休戰の時期です、其理由はいろいろある。一體蒙古人は馬へ乘つて戰ひますから馬は夏の間草の茂つたときに十分休息をさせるです。馬の肥ゆるのは秋に限つて居ります。是れは蒙古に限つたことではなく、匈奴以來すべて北狄といふものが支那へ入つ來るのは秋に限りますから支那人は北狄の侵入を防ぐことを防秋と書く位です。

秋の初めになりますると馬が肥えますから其時を利用するです。それが冬に戰爭をする理由の一つ。もう一つは蒙古人は暑氣を非常に厭ふ。それが第二の理由。それからもう一つは冬は五穀などの收穫を終つたときで何處の國でも一番百姓の富んで居る時であるから其の時に行くと一番掠奪品が多い。  

蒙古の軍隊の組織は十人長、百人長、千人長、一萬人長といふ風にして十進法で十人に一組長を置き、百人に一組長を置く、千人に一つ、萬人に一つ。

それから各兵の持つて居る武器は無論弓矢を第一とします。蒙古兵の戰場へ行く時は必ず一人毎に弓二張、矢は箙に三杯だけ持つて行く。

根拠は不明であるが、矢の数が少なすぎるように思える。1杯30本としても100本前後に過ぎない

其外には鑢を用ゐます。鑢は何にするかといふと鏃などの損んだときにそれを研いだり、或は武器の損じたときにそれを研ぐ。それから篩を持つて行きます。其篩は他國へ行つて、水の惡い所では泥水を掬つて泥を取つて後の水を飮む爲に、即ち水漉の用に供する爲に、其篩を持つて行きます。それから鍵繩を持つて居ります。鍵繩は城へ登るとき必要でありますから持つて居る。それから團隊として天幕を持つて居ります。其外には皮の袋を持つて居る。此皮の袋といふのが種々な場合に必要があるのです。それから石を投げる器械。支那人は礮といふ字を用ゐますが日本の撥釣瓶みたやうな仕掛けで大きな石をそれで撥て、城の所へどんと石を投げる。今日で言ふ攻城砲の代りに石を投げる器械、即ち礮を持つて居る。それからもう一つは石油を投げる。石油の壺を投げる器械があります。今日で言つたら爆裂彈の代りです。石油を一杯詰めて城の中へ投げる。さうすると向ふへ行つてぽんと彈くです。それを持つて居りますし、それから石を入れる袋を持つて居ります。是れは城の隍を埋める時に用ゐます。其外に廣い梯子を用意します。それだけは大抵持つて居ります。 

愈〻戰爭を開始するときには大臣會議(蒙古人のいふクリルタイ Kuriltai)を開きます。それには蒙古の王族、大臣、それから各部屬の長などが皆集ります。夫れに依て今度は何處の國を征伐すべきか、其國を征伐するに付ては何時頃から出立して、どういふ手段を取るか又軍隊の分け方、何人程兵を繰出すとか、總大將は誰かといふ其他一切の事を、クリルタイで定めます。それが愈〻定りますと云ふと出陣する。

それから討つ所が定まりますと、殆ど蒙古の習慣として先づ自分の討たんとする國へ使者を派出して降参を勸める。其方は斯く斯くの不都合があるから吾々が征伐しやうと思ふが、潔く降參をしろと勸告する。降參に潔くもない筈です(笑聲起る)。それが第二の順序であります。第三番目には愈〻降參をする、仰せの通り承知を致した、降參を潔く致すと云ふと、さうすると相當な金穀を納めさす。貴樣の所は人口是れ程あつて盛んな所であるから、それに應じて何萬圓出せとか、幾千の家畜を出せと云つて、必ず出すべきだけの財産を命ずる。若しも先方が勸誘に應ぜず、又は此方から命じた財産を納めぬと、始めて其處を討ちに行く。それからして愈〻先方と戰爭をする時分には、僞つて逃げて伏兵に陷らしめるのが蒙古人慣用の手段であります。

敵の城を陷れたときは、先づ第一其城へ楯籠つた中から美術家と職工──大工とか左官──其美術家と職工だけは先づ救出します。蒙古人は美術家と職工を非常に大切に致しますから外のものは皆殺してもこれだけは助けます。それは助けて矢張り分捕品として皆に分けて遣る。貴樣の所には美術家が七人大工が五人といふ風に分けて遣る。天子の所有になるのは蒙古へやつて仕舞ひます。それから其次には身體の屈竟な戰爭にも使へるし總ての工事に使へるといふやうな若い奴を引張り出してそれを捕虜にして、それから此次の城を討ちに行く時に使用します。何時でも蒙古人は何處かの城を討たうといふときは、先の一番近傍の城で捕虜にした奴を前列の先鋒に置くのです。向ふの奴は困る。自分の所へ敵が來た、そらと云うて一同武器をとつて見るとかねて昵懇の味方の奴が前列に出て來て憫れな風をして居るからどうしても城から十分材木を投たりする勇氣が鈍るです。

蒙古兵は先鋒にはつい近傍で捕虜にした若い奴を使つて、前に申す通り礮を置く築山をこしらへるとか敵陣に接近しての土木工事、危險なことは皆捕虜にさす。蒙古人自身は危險少なき後方で先鋒の者は退却しては往けないなどいうて監督ばかりして危險な所へは寄りつかない。捕虜となつて働かされて居る奴は退却すると殺すと云ふので、何方にしても殺されるからまあ些とでも働いて活かして貰はうといふので働く。城の方を守つて居る人は愈〻困る。憎い蒙古人なら殺して見たいけれども、影も形も見えなくつて、一番危險な目前に居る奴は同國人とか隣りの城の親類みたやうな者ばかりでありまするから、非常に張合がない。だから日本でも俘虜が七八萬も來ましたから、些とは蒙古人流を試みるのも宜いかも知れない(笑聲起る)。それからして蒙古人は酷いです。愈〻目的の城を陷れて此處で新たに俘虜が出來ますと前にこき使をした捕虜は皆殺して仕舞ひます。一體蒙古の兵は世界をあの通り征服しましたけれども、

蒙古は今でも人口は少いから其時分でも多くはない。其時分戰爭へ出られる人は三十萬餘ですから、それを無暗に戰鬪線へ出して殺しては世界を征伐することが出來ない。だから先鋒へ俘虜を出して使役し、新たに捕虜が出來ると前の捕虜を殺す。それは屈竟な奴を殘して置くと謀叛を起す危險があり、さらばとて十分監督するには人數を要する譯ですから用がなくなれば敵人は皆殺して仕舞ひます。殺して仕舞へば監督の兵を置く必要がないから、それから其新たに取つた俘虜を又土木工事に使つて又更に俘虜が出來ると前に使つた俘虜を殺して仕舞ふ


弘安の役に來ました敵軍は十四萬人で、支那の方から來たのが十一萬人、それから高麗の方から來たのが三萬でありますから都合十四萬でありますが、其内蒙古人は今申した通り海戰では弱蟲、從軍して來た支那人は蒙古の下に居ることを好まぬ、高麗などは有難迷惑で居りますから、夫等の者どもは十分力を盡す譯はない。其故勝敗の數は初めから分つて居りま。蒙古人は水戰には非常に弱いのであつて、朝鮮と蒙古と戰爭をしたことがありますけれども其時分朝鮮の王樣が朝鮮半島を一寸離れた其處にも見えるといふ位の江華島へ逃込んだので、蒙古の軍隊が其處を三十年も攻めたが降すことが出來なかつたと云ふ位に蒙古兵は水上は弱いです。隨分話が長くなり私も疲れましたから是だけにして置きます。











毛沢東の対日戦犯裁判
中国共産党の思惑と1526名の日本人

大澤 武司
中公新書
2016年

①毛沢東と周恩来の凄みを改めて痛感せざるを得ない
②三光作戦という中国語が何故日本で広まったのか?三光ではなく三滅作戦ならわかるが?その理由はベストセラーになった「悪魔の飽食」と同様に光文社にあったことを知ると同時に、
推測ではあるが、この戦犯裁判の影響も大きかったと思われる

中国人民解放軍は、少なくとも、1945年までは、略奪・婦女暴行を全く行わない長い中国史上初の軍隊であった。

p1
【1949年の中華人民共和国建国時点で】1500名を超える日本人戦犯が拘留されていたことはあまり知られていない

p3
96%にあたる1017名は裁判とほぼ時を同じくして基礎を免除され、釈放された。有罪とされた戦犯も最高で20年の懲役刑にとどまり、死刑や無期懲役もなく、その刑期にはソ連と中国での拘束期間算入された

p10
1950年
「中国人民に対する罪」を犯したとされる日本人戦犯969名が
ソ連から中国に引き渡された

p46
シベリア抑留中、ソ連は一貫して彼らを捕虜として扱ってきた

p49
中国は一貫して彼らを戦犯として扱ってきたがその後も抵抗は続いた

p89
毛沢東は日本人を軍国主義者と日本人民に分け、
日本人民も中国人同様に日本軍国主義の被害者であり、両国の人民は団結・交流することが可能だと考えた

p111
【戦犯裁判検察官の人名】周恩来から日中関係の将来を大局的に考える「深謀遠慮」から日本人戦犯の寛大処理が筆であると諭され

p162
毛沢東の対日戦犯裁判は1956年
の判決をもって終わった

p179
「三光ーー日本人の中国における戦争犯罪の告白」
は1957年
光文社出版されると20日間で主犯の5万部を売りつくし、2か月で20万部を売り上げた

その後に同様に「悪魔の飽食」が同じ光文社から出版されており、当然読んではいる。三光は、どう見ても中国語であり、光文社書籍の影響力の大きさが分かる







支那人の文弱と保守
桑原隲蔵
大正五年五月『支那研究』所載

ここで言う文弱とは、単に中国史では軍人は如何に軍功抜群でも尊敬されないという程度の趣旨に過ぎない。

支那人にも無論その民族性がある。支那人の尤も顯著なる民族性は、文弱的であること、保守的であることである

支那人が平和的文弱的である原因は種々あらうが、その主要なるものを擧げると、次の如くであらうと想ふ。 

1.支那人の先天的性質がむしろ文弱的である。 
2.支那人の間に行はれた古來の學説は、一般に平和思想を鼓吹した。

先づ儒教を觀ると、その祖師たる孔子は、弟子の子貢に治國の要件を尋ねられた時、足食、足兵、民信之の三箇條を擧げて居る。即ち一國に財政と軍備と、上下の信用が必要であると答へた

孔子と前後して出た老子の如き、墨子の如き、何れも極端な平和主義を説いて居る。

かかる國柄であるから、支那では古から軍人となることを不面目として、兵役に就くのを非常に嫌忌する。

人が参集する場所には、必ず禁止喧嘩と掲示してある。實際支那人は口喧しいが、決して手出しはせぬ。吾が輩の支那留學中、殊に北支那留學中には、殆ど支那人の掴み合を見たことがない。非常な權幕で口論する場合でも、手出しはせぬ。稀に掴み合を始めても、我々日本人から見ると、極めて悠長なもので、傍で見て居ても齒癢さに堪へぬ程である

支那では唐時代から武廟といふものが出來た。之は孔子の文廟に對して、周の太公望といふ軍師を本尊として、軍の神と崇めたもので、歴代の名將をもここに從祀してある。軍人の位置の低いのは、決して唐時代に限つた譯ではなく、支那歴代を通じての現象である。

支那の諺に好鐵不打釘、好人不當兵といふことがある。他に使途のない人間が兵役に就くべく、滿足の人間は決して軍隊に入るべきものでないといふ意味である。

兵役を苦にし、戰爭を厭ふ支那人は、概して外國に對して侵略を行はぬ。支那人は古代から華夏と誇稱して、四圍の異族を東夷・西戎・南蠻・北狄などと排斥して居るけれど、特別の場合の外は、決して之に兵力を加へぬ。

上古から支那人の文明が、その四隣の異族の間に卓越して居つた。故に支那人は古から自國の文明を自負し、之を唯一絶對のものの如く妄信して、その維持保存に力を用ゐた。この慣習が第二の天性となつたのである。

支那人の間に久しく偉大なる勢力を有して居つた儒教そのものが、保守尚古的である。孔子も述而不作、信而好古というて居る。

古人や先例に託すれば、支那人は容易に得心するから、この弱點を利用して、惡事をなし遂げる者が支那に多い。

しかしこの方法が案外好評であつたので、その以後支那の革命は、大抵この似而非なる禪讓の形式を採つて居る。その裏面を窺ふと、或は願後身世世、勿復生天王家(劉宋の順帝)といひ、或は願自今以往、不復生帝王家(隋の恭帝)といひ、似而非なる禪讓の犧牲となつた君主の境遇、眞に憐むべきものがあつても、兔に角形式の上では、堯舜の先例その儘になつて居れば、それで支那人は承知する。

支那人は一般に模倣は上手であるが、應用が不得手である。之は勿論彼等の先天的素質にもよることならんが、一つは古人の手本のみに重きを置く、いはゆる依樣畫胡蘆といふ、後天的原因も亦與つて力が多いことと思ふ。

それも畢竟先例に重きを置くと同樣、型に捉はれ易い氣質をもつて居るからである。 三十餘年間支那に居つたスミスといふ米國の宣教師は、曾て支那の教師は無冠の帝王であると評したことがある。支那では教師の一擧一動は、すべて學生の手本となるからである

支那人は一般に精神よりも、形式に重きを置く傾向がある。これも彼等の保守氣質と關係せしめて、説明することが出來る。上に述べた通り、支那人は先例を重んじて之を固執する。

支那人の妥協性と猜疑心
桑原隲蔵
(大正九年三月四─八日『大阪毎日新聞』所載)底本:「桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑」岩波書店   1968(昭和43)年2月13日発行

中国人論として秀逸であり、現代中国における毛沢東の影響力の大きさを痛感する。
しかし、その暴露本的伝記からみて、毛沢東自身もやはり、政治的には妥協、暗殺を恐れる猜疑心の塊であったことは間違いない

支那人は尤も妥協性に富んで居る。妥協は確に支那人の一つの國民性と申して差支へない。個人としても國家としても、支那人はよく妥協を行ふ。元來が文弱で、殊に打算に長ずる支那人は、小にしては爭鬪、大にしては戰爭、何れも危險の割合に、利益が伴はぬ事を夙に承知し、成るべく之を避けて妥協を好む譯である。兔に角支那人は大抵の場合よく妥協を行ひ、寧ろ極端まで妥協を濫用する傾向をもつて居ると思ふ。

妥協の流行は官界でも民間でも相違はない。支那では流賊でも馬賊でも、山賊でも、海賊でも、少し手剛いと見ると、政府は多くの場合、之を退治するよりは、先づ之と妥協する。

大本營では強硬説が主張せられ、戰線では妥協説が歡迎されるのが、支那古今の常態である。之には種々内面の理由もあるが、支那人は一身の利害の爲には、苟合妥協を濫用して恥づる所を知らぬことも、確にその一大原因と認めねばならぬ。彼等は軍用金を手に入れる目的で、心にもない強硬説を主張するが、目的さへ達すれば、その本性を發揮して、妥協を主張するのである。

女眞人や蒙古人や滿洲人との妥協は兔に角、一八六〇年に英・佛軍の北京進撃の時にも、明治三十三年に聯合軍の北京占領の時にも、北支那人は外國軍隊の前に順民の旗を掲げ、徳政の傘を獻じたではないか。絶えず異族の侵略に暴露さるる支那人には、此の如き態度は一つの必要なる處世法かも知れぬが、日本人などより觀れば、奇怪の念を禁ずることが出來ぬ。

支那政府の態度も亦同樣である。絶えずその邊疆を剽掠し、又は侵略する北狄種族に對して、兵力を以て抵抗することを敢てせぬ。或は宗女を與へ、或は金帛を贈り、或は土地を割いて彼等の歡心を買ひ、彼等の掠奪を緩和するのが、歴代慣行の政策であつた。この妥協の犧牲となつて塞外に嫁する宗女を、唐時代には和蕃公主と稱した。宋以後は流石にこの和蕃公主を廢止したが、その代り一層惜氣もなく土地を割讓して居る。

革命を起して滿人(清朝)より獨立した時の檄文に、「漢人實耕、滿奴食之。漢人實織、滿奴衣之」と憤慨の辭を連ねてあるが、かかる事實は決して清朝時代に限つた譯でない。支那は二千餘年の古代から、無理横暴な北狄ともよく妥協して、彼等の寶藏金庫たることを我慢して居る。

西漢の初め匈奴が跋扈して支那政府がその處置に閉口した時、洛陽の才子として當代に聞えた賈誼が、その智嚢を傾けて對匈奴策を建てた。その對匈奴策とは、要するに五餌を以て匈奴を誘ふといふに過ぎぬ。五餌とは耳・目・口等の餌を設け、酒色や利禄で匈奴人の大部分を中國に誘致するをいふ。その一餌は盛裝せる幾十の美人をして、中國に來降せる匈奴人の左右に侍せしめ、匈奴人を肉團の捕虜

支那の政治や教育は、儒教を看板として居るけれど、その官制は法家の説に本づく所が多い。法家は人性を惡と豫斷して、之が警戒に重きを置く。法家の極意は、臣下同志をして相掣肘牽制せしめ、無力なる臣下をして、君權を脅かすことなからしむるに在る。法家の思想を繼承する支那歴代の官制は、官吏を信頼するよりも、むしろ官吏を猜疑

官吏は大抵蘇模稜の流亞と思ふ。近代の曾國藩の如きも、拙進而巧退の五字を以て、官場成功の祕訣と申して居る

宦官の弊害の顯著なるに拘らず、何れの時代──最近の民國時代を除き──でも之を廢止したことがなく、又その廢止を主張した學者すら殆ど見當らぬ。

中性又は無性の宦官でなければ、安心出來ぬといふ心理状態に基くものと思ふ。

妥協性と猜疑心、これが實に支那人の二大痼疾である。






桑原実蔵
大正十三年三月十九日稿・『東洋學報』第十四卷第一號所載)

中国における食人の風習については、黄文雄氏の著作で知ってはいたがが、既に大正時代から日本ではシナ学者は知っていたのだ

支那人が古來人肉を食用した事實に就いては、何等の疑惑を容れぬ。さて更に一歩を進めて、支那人が人肉を食用する動機をたづねると、中々複雜で一樣でない。
(一)飢饉の時に、人肉を食用する場合、
(二)籠城して糧食盡きた時に人肉を食用する場合、
(三)嗜好品として人肉を食用する場合
  (四)憎惡の極、怨敵の肉を噉ふ場合、
(五)醫療の目的で人肉を食用する場合

の五種に區別することが出來る

飢饉の時人肉を食用する場合。
申す迄もなくこの場合が一番普通である。所が支那殊に北支那では、頻繁に飢饉が起る

道光二十九年(西暦一八四九)の凶荒には、一千三百七十五萬人が餓死し、光緒三四年(西暦一八七七─一八七八)の饑饉には、九百五十萬人が餓死したと傳へられて居る(Rockhill; Inquiry into the Population of China.{Smithsonian Miscellaneous Collections, Vol. 47, Part 3}pp. 313, 316)

籠城して糧食盡きた時に、人肉を食用する場合

人肉の風習を有する支那人は、若し彼等が重圍の中に陷つて、糧食盡くる際には、人肉を以てその不足を補充するのが、古來殆ど一種の慣例となつて居る。支那人が臺灣を占領した時代には、近く日清戰役の頃まで、臺灣在住の支那人間に、島中の蕃人の肉を食用する風習が行はれ、蕃人の肉が豚肉同樣に市場に公賣されたことも稀有でなかつたと、千八百九十六年一月發行の『Hongkong Daily Press』に見えて居る(Ball; Things Chinese. pp. 128-129

嗜好品として人肉を食用する場合。

こは勿論特別の場合に限る。所が支那では、この特別なるべき場合が、存外頻繁に起るから驚く。

憎惡の極、怨敵の肉を噉ふ場合。

唐の則天武后時代の酷吏に來俊臣がある。酷吏の代表として後世にまで聞えて居るが、この來俊臣が後に棄市せられた時、民衆は爭うてその肉を割食した。

支那人が臺灣を占領した時代には、近く日清戰役の頃まで、臺灣在住の支那人間に、島中の蕃人の肉を食用する風習が行はれ、蕃人の肉が豚肉同樣に市場に公賣されたことも稀有でなかつたと、千八百九十六年一月發行の『Hongkong Daily Press』に見えて居る(Ball; Things Chinese. pp. 128-129

醫療の目的で人肉を食用する場合。 

唐時代から現時に至るまで約千二百年に亙つて、隨分廣く行はれて居る。この人肉を瘵疾の良劑として紹介したのは、唐の開元時代の明醫、陳藏器の『本草拾遺』にはじますといふ

我が日本人の間には、支那傳來と思はるる迷信に本づき、療病の目的に、人肉を使用した極めて稀有の場合を除き、記録の上では殆どこの蠻風が見當らぬ

兔に角日本人が飢饉の場合、籠城の場合に、人肉を食用したといふ確證が見當らぬ。


食人肉の風習は隨分廣く世界に行はれて居つたが、支那の如き世界最古の文明國の一で、然も幾千年間引續いて、この蠻風を持續した國は餘り見當らぬ。

真実の中国史 1949-2013
黄文雄
2013年
ビジネス社

p213は、オブラートに包んだような表現ではなく直接的であり、事実上はそのとおりである。
しかし、黄さんですら、現代中国に対する鋭い目線が見られない。毛沢東や鄧小平には勝てないようである。


p107
21世紀の中国の運命あるいは進路を決めたのは、1989年の6・4天安門事件だった。現在の中国指導者たちには、もし天安門事件に関する鄧小平の決断がなかったら、今日の中国は無かったと考えている者が多い

p190
南モンゴル、
新疆に対する中国人の大量植民は日本の人口に匹敵する1億2000万以上にのぼる

p200
中華文化でインドに流入したものは一つもない

p213
マックスウェーバーによれば、孔子の話はインデアンの酋長から村人に語る世間話のようなもの


独裁の中国現代史
毛沢東から習近平まで
楊 海英
文春新書

楊氏の指摘で、朝鮮戦争初期の中国軍が、大部分国民党政府軍の投降兵であったことを知った

p78
なぜ中国共産党は国民党との国共内戦に勝利することが出来たのでしょうか
中国共産党は日本軍との直接対決を回避し兵力を温存していたのです

p80
ソ連は
日本軍から押収した近代的な兵器をほぼそのまま中国共産党に引き渡したのです

p94
1949年に突如制定された戸籍制度です
中国共産党は農村に生まれた人に農村戸籍を与え他の地域に移り住むことを禁じました

p101
毛沢東が最初に朝鮮戦争に派兵した中国人民解放軍の実態です、実はその多くが台湾に逃げられずに中国共産党に帰順した旧国民党政府軍軍だったのです。
これによって子飼いの共産党軍は温存できます

p199
かつての中華帝国のイメージは言ってみれば同心円です
それに対し中国共産党は前途を均一な赤色に塗ろうとしましたその象徴的な表れが人民公社であり、少数民族への同化政策です

p212
中国には3つの独裁がります第一に指導者による独裁。毛沢東を典型として
次に中国共産党による独裁です。
三つめは漢民族による独裁です




周恩来最後の10年
ある主治医の回想録

張 佐良
早坂 義征 訳

日本経済新聞社
1999年

周恩来に対する絶賛しか書かれていないが、それが実情であれば仕方ない

p49
周恩来は毎日深夜あるいは明け方膨大な書類の山を抱えて寝室に入る

p61
秘書たちの話では
封筒の表面に「周恩来親展」と書かれ秘書は開封できず必ず周恩来の処理が必要となる

p90
文革の時期、周恩来は実に多くの古参幹部
知識人らを擁護した
四人組は彼を「中国最大の保守派」とか「保守派の黒幕」と呼んで非難した

p154
周恩来は数十時間働き

p164
周恩来のやることは細かく厳密であった。なんでも「実事求是」(事実に基づいて真実を求める)の精神でやる

p180
周恩来の一生は大局に気を配り、党と人民の最高の利益を守り、そのためにはどんな犠牲も払い、それをもって自分の生命としたと言える



新版 日中戦争
和平か戦線拡大か

臼井 勝美
中公新書
2000年

①何故、双方とも宣戦布告しなかったのか?という一番肝心の点=アメリカ中立法による ことを全く触れてはいない。致命的な欠点である
②日中戦争での死者は、陸軍・海軍陸戦隊合計で約40万にも達する。この数値のみ意味がある

p110
【参謀本部は、1939年】今後は占拠地拡大を企図せず、占拠地拡を安定確保を主目的とする「治安地域」と抗日勢力殲滅施策を主とする「作戦区域」に区分した

p111
1939年9月シナ派遣軍総司令部設置

p128
【1940年】11月現在のシナ派遣軍の兵力は
総計72万8000人

p141
【1941年時点で】51個師団に増強されていたが、そのうち27個師団は中国に、13個師団が満州に配置されていたのである

p208
国民政府軍 死亡者数 1,328,501
中共軍 160,603

p211
厚生省援護局の1964年3月1日作成の表によれば【日中戦争の死亡者数は】
陸軍 38万5200人 海軍 1万9400人(1937年7月7日~45年8月14日まで)
(8月15日以降)
陸軍 5万4000人 海軍 700人




南京事件
虐殺の構造

秦 郁彦
中公新書
2007年 増補版

アジア歴史資料センターから見つけた南京事件関係資料の一部をメモしておく
必要な時に、再度検索する

n1

シナ派遣軍総司令部作成である
n2


①この資料は、作成者から見て確実に正しいと思われる
②上海の強固な防除陣地を突破されてから、たったの8日間で南京城内に突入している
③南京城内に突入したのは、第6師団と114師団である。上級部隊は、いずれも上海派遣軍ではなく、急遽上海戦線に投入された第10軍(俗称:柳川兵団)である

*第6師団の聯隊管区は、熊本、大分、都城、鹿児島
*第114師団の聯隊管区は、水戸、宇都宮、高崎、松本=関東一円が聯隊管区

n3

④著者は何故、事実上の軍紀崩壊に至ったのか?について、答えが無いようである。
私は、上海での兵員損害が非常に大きく、(=心理的側面であり、中国戦線でかつてない程の犠牲者が出たため、復讐の念が生じた)かつ、上海~南京城内突入までたったの8日しかなかったこと(=中央軍の逃走兵が多数南京城内に逃げ込んだと考えた)が理由と推察する。

上海・南京間は約300Kmもある。1日40kmの当時の通常の行軍速度であろうが、蒋介石中央政府直轄の中央軍は、上海~南京間でほぼ無抵抗であったことは確実である。即ち、中央軍が多数南京城内に逃げ込んだ可能性が極めて高い=良民証の交付を受けられずに殺害された者の数が増える可能性が高い。従って、犠牲者数も多くなり、5万~6万人程度の可能性が高い。もっと多いかもしれない

⑤第6師団長が、戦犯裁判で死刑となったのは、指揮官として当然である。
反面、ほぼ同じであろう114師団長(福岡県出身)は、驚くべきことに、戦後に小倉市長を務めている。第6師団のみが、良民証発行(=手にタコが出来ているだけで、中央軍兵士と見做し殺害)したとは到底考えられない。中国側120人の証言集を読んだ記憶がよみがえり、胸くそ悪い。

毛沢東だからこそ、不問に付して、日中国交正常化となったと考えるべきである。
反面、ありもしない従軍慰安婦物語を創出し、我々日本人の名誉を国際的にも汚し続けている韓国人どもを絶対に許すべきではない。クソー!中国人と朝鮮人どもの決定的な差である。

韓国人ども、従軍慰安婦物語創出の最大の被害者である吉見先生に謝罪せよ!吉見先生は貴様らの証言を信じただけに過ぎない。歴史学者である以上、当然のことである。しかし、韓国人ども、貴様らは、完全な精神面でのDNA異常集団である。疑問の余地など全くない




p168
良民証(居住証明証)を公布された市民は約16万人(老人、女、子供を除く)とされたが

p192
軍服を脱ぎ捨てて民間人の服装に着替え、市民の間に逃げ込んだり、ゲリラ化する便衣兵(隊)は中国軍特有の存在だったが、一般市民との区別は容易ではなく、日本軍はてこずった

p208
南京の住民人口については、南京市政府が1936年末に調査した100万6968人という統計がある
同じ統計で1938年8月の人口は30万8546人と約3分のⅠに激減している

p212
埋葬死体数は両団体合わせて計1万5千5百という数字が良く引用される

p214
筆者としては
3.8~4.2万


暗黒大陸中国の真実
ラルフ・タウンゼント
田中秀雄 訳

芙蓉書房出版
2004年

1931年~1933年まで中国の副領事として勤務したアメリカ人の著作であると表紙の裏の著者略歴ではしている。しかし、英文ウキペディアによれば、上海副領事勤務はたったの2カ月間に過ぎず、その後福州で同様に副領事として1933年まで

帰国後は国務省を辞めている。この書籍は当時のアメリカでベストセラーとなったと英文ウキペディアではしている。 原題:Ways That Are Dark: The Truth About China

アメリカで出された恐らくは初めての嫌中本であろう。中国人に関する記述は概ね正確である。
しかし、南京事件を中国軍中の共産軍の仕業としているのは、あまりにも酷い


p62
人類共通の人情がない中国人

p91
中国で長くいる英米人に「中国人の性格で我々とは最も違うものを挙げてください」と訊いたら、ほぼ全員が躊躇なく「嘘つきです」と答えると思う

p178
世界最高水準の教育を受けながら思想家が出ない不思議な国
【ここでいう世界最高水準の教育とは、アメリカのハーバードなどの名門大学の卒業生が中国人数千人もいるという意味であり、中国国内の教育の事ではない】

p233
【アヘン中毒について】
常習者3000万~5000万
8人に一人か12人に一人の割合である

p238
1790年イギリス(いわゆる東インド会社だが)は阿片4000箱を中国に持ち込んだ
英国船がインドから持ち込む阿片が圧倒的であったが


モンゴル帝国のユーラシア統一
アジア人物史 12~14世紀
2023年
集英社

この書の次の内容は決定的である

世界各地の年輪データを分析した結果、1257年5~7月にインドネシアのサラマス山で巨大な噴火があり、噴出した硫酸エアロゾルが成層圏に達して太陽光を遮って日射量を低下させ、その後の数年間、北半球各地で寒冷化が発生したという。日本では1258~1259年に冷夏による不作で大飢饉が発生し、これは「正嘉の飢饉」として知られ、1259年には暴雨洪水も起きている。

日本における在日コリアンどもの朝鮮史美化運動家どもは気づいてはいないが、モンゴルの高麗侵攻により当時の朝鮮半島で人口の少なくとも85%以上が喪失したことは確実であるが、その現象の原因は、①上記の一次的寒冷化②モンゴル軍の30年以上に及ぶ断続的高麗侵攻の2点にあると推定される。1258年~1260年にかけて朝鮮半島で想像を絶する大飢饉が発生したことは確実である
下記は 朝鮮と日本の自他認識
─ 13〜14 世紀の「蒙古」観と自己認識の変容 ─

井 上 厚 史

北東アジア研究. 別冊2017-09-13 から

2021-04-07



第一章 宇野伸浩

聖武親征録は著者不明の漢文で書かれた暦書であるが
「集史」と一致する箇所が多く、資料的価値が高い。岡田英弘「チンギスハーン」(1986年)はこの二つの暦書を重視して書かれた本であり、「集史」はロシア語訳を利用している。筆者は「集史」のペルシャ語原文に当たり、さらに「集史」のチンギスカン紀だけではなく、「部族誌」の情報も重視して即位する前のテムジンの姿を史料に忠実に描いてみたい。そこから浮かび上がったチンギスカンは、若くして草原のリーダーとして活躍し、モンゴル高原の諸部族を統一して帝国をきづいた英雄チンギスカンではなく、若い時は部族間の争いに苦しみ、ケレイト王国の家臣となってチャンスをつかみ、ケレイト王国の王位を簒奪し、近隣の王国を倒して帝国を建国し、即位した男である。そして、武人としての能力より、人々を組織するオーガナイザーとしての能力に優れ、文字や宗教や商業の必要性をよく理解していた人物である

【「集史」のペルシャ語原文を読んだとの記述に驚嘆した。ドーソンは確かに「集史」原文を読めた。しかし、日本で「集史」を原文で読める者がモンゴル史研究者に初めて現れた点が貴重である。宇野伸浩氏は現在は広島修道大学教授であり完全なモンゴル史専門家である】

p6
チンギスカンが生まれた12世紀のモンゴル高原は、トルコ系の遊牧民の世界からモンゴル系の遊牧民の世界へ変化していく過程にあった。突蕨、ウイグルというトルコ系遊牧民がモンゴル高原を支配していた時代は、モンゴル部族はモンゴル高原東部の大興安嶺に居住する小さな集団に過ぎなかった。
トルコ系の遊牧民が西へ移動し、イスラム世界にトルコ系の人々が進出するにつれて、モンゴル高原ではモンゴル系の遊牧民が勢力を拡大していった。12世紀にはモンゴル高原に3つの王国があった
中央の
モンゴル系の
ケレイト王国
その南のゴビ砂漠にトルコ系のオングト王国、その西のアルタイ山脈にトルコ系のナイマン王国

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p12
ケレイト王国周辺には、モンゴル部族と同じような遊牧社会の遊牧民として、タタル部族、メルキト部族、オイラト部族
このうち特にタタル部族がモンゴル部族にとって宿敵であった

p75
近年の古気候学の研究によると、世界各地の年輪データを分析した結果、1257年5~7月にインドネシアのサラマス山で巨大な噴火があり、噴出した硫酸エアロゾルが成層圏に達して太陽光を遮って日射量を低下させ、その後の数年間、北半球各地で寒冷化が発生したという。日本では1258~1259年に冷夏による不作で大飢饉が発生し、これは「正嘉の飢饉」として知られ、1259年には暴雨洪水も起きている。

第二章 松田孝一
p82
【アリクブケとフビライの】抗争中にクビライはイラン遠征中の弟のフレグ、中央アジアチャガタイ家の当主のアルグを自派に引き込むべく帝国の分割支配の提案を行い、それがもとで帝国は事実上領域分割されるに至った


p123
【襄陽陥落後】長江沿いの南宋側のおびただしい数の都市はモンゴル側に次々に投降、流血なく制圧された。首都臨安も同様に無血開城であった

p143
総じてクビライ配下にはモンゴル人は少なく、漢人軍事力に依拠していたと理解される

第三章 大塚 修
【集史の著者は】ユダヤ教徒の医者の一族であったと考えられている

第五章 横手 裕
中国の道教は明代以降、正一教と全真教の二大会派に分かれて伝承され今日に至る、
現在中国大陸の道士と道観の全体を統括する組織として中国道教協会があるが

p311
道教は古来不老不死の神仙になることを目指し、その実現のためにさまざまな技法が説かれてきた
練丹術は最も良く知られた方法と言ってよいであろう。

第8章 森平 雅彦

p447
1270年末クビライは
高麗における屯田の設置を宣告し
6000名規模の屯田軍を発足させた

p450
元軍1万5000名と
高麗軍5300名により第一次日本遠征が決行された

p452
このような一方通行の通婚は、トルコ系のオングト鮒馬家やウィグル鮒馬家など、元の他の非モンゴル系の鮒馬家とも共通する

【森安氏も触れているが、退位→再び即位が何度も繰り返されている。どこをどう見ても、後期の高麗は独立国とは言えない】

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p455
第一次日本遠征後も高麗は駐留する元軍への物資補給に苦しんでいたが、兵員に高麗の女性をめあわせることまでが求められた



毛沢東の私生活 上・下
李 李綏 著
アン・サースートン 協力
新庄哲夫 訳
1994年
文芸春秋

原著も1994年刊行であり、中国では出版が認められていない。しかし、私が受けた印象は、著者の「願い・思い」とは裏腹に、完全に客観的に見て、誰が見ても毛沢東は、まさしく「抜山蓋世」の英雄、10億を超える人口を有する中国最高指導者として真の意味で、最適任であったというものである。確かに、大躍進政策という、経済素人の毛沢東が進めた政策により、3000万~5000万人もの平年に比べての超過死亡者が生じている。従って、功績六、罪四は多分正しいが、恐るべきことに、このタイプの表現自体が元々は毛沢東の鄧小平への評言であったことをこの伝記により知った。(文化大革命という美名の名で展開された事実上の当時の中国共産党高級・中堅幹部への「反腐敗運動」については、毛沢東の「罪」で」あるか否か?は私には解らない)

恐らくは、中国政府は躍起になってこの優れた伝記の出版を止めようと圧力をかけたに違いない。毛沢東が中国にとって極めて優れた政治家であったという私の印象は、主に、下巻の最後あたりの記述からである。出版差し止めを諦めた中国政府が別手法を採用し、毛沢東の私生活が暴露されることはやむを得ないが、少なくとも政治家としては非常に優れていた旨の印象を読者にあたえるように、記述の一部を改ざんする様に出版社に申し入れ、それが実現した可能性もある

習近平は、少しでも毛沢東に近づきたいのであろう。習近平の「反腐敗運動」は成功しつつあるのかもしれない。しかし、米中対立が激化している中、その主原因が習近平にあることも確実である。やはり、毛沢東とは器が違う。
この毛沢東の私生活を余すことなく描き切った貴重な記録によれば、
①毛沢東は、道教による若い中国人女性との性交が生気をもたらすと信じていたせいか?その性生活は極めて放縦であった。また、非常に優れた、かつ、極めて冷酷な権謀術数家であり、暗殺を恐れてその居所は、警護隊責任者しか知らなかった。性格的には、冷血漢そのものであった。
(著者は、幾分遠慮して書いているが、明朝の創始者である朱元璋と同じような、まさしくバケモノと言ってよい人物であったようである。)
②知能は、その直前に至るまで極めて鮮明であった。しかし、最後の頃は、女性機密秘書を通じてのみ指示を出していた
③毛沢東は、中国の史書をよく読んでいた
④毛沢東は、著者が毛沢東に仕え始めた頃は、他の中国指導者との直接接触はあまりなく、主に文書でのやり取りであった
⑤林彪が逃亡した際に、周恩来が撃墜を提案したが、毛沢東は拒否した
⑥鄧小平を中国最高指導部に呼び戻したのは毛沢東である
⑦華国鋒を次期指導者に選んだのも、毛沢東自身である。(周恩来へ後を任せる旨毛沢東は明言していたが、周恩来の健康状態がそれを許さなかった)
⑧周恩来は、一貫して毛沢東の忠実な部下であった。
⑨若い頃の毛沢東の生活は、時には30時間以上も、眠らずに過ごし、その後睡眠をとるなど、およそ規則正しい生活とはかけ離れたものであった。=常人ではなかった客観的なデータである
⑩妻の江青など後に4人組と称された者らを排除したのも、事実上は確実に毛沢東である。

上巻
p13
毛との関係は張玉鳳が一番長く
毛沢東が日々、目を通して所見を付け加えるおびただしい文書類の受領、送達という責務を張玉鳳がひきつぎ、また毛が視力を失ったあとも彼女が文書類を読んで聞かせた。
主治医として私はいつでも面会を許されてが、私を除く人たちは張玉鳳を通さねばならなかった。

p14
主席のろれつの回らない言葉を理解できるのは張だけだという事実

p120
【中国指導部の】意思疎通は頻繁に交換された文書類に加筆されるコメント(評言)を通じてしか
【毛沢東と】党最高幹部との行き来、相互訪問など一切なかった。

p131
私は幾度も、主席が若い女の子の手を取り、その部屋に連れ込んで後ろ手にドアを閉める光景を目撃している

p144
彼は80歳まで生き延び、健康かつ性生活の面でも活発でありたいと意を決していたのだ
主席は
インポテンツ治療と長命持続の新たな手を見つけるよう厳命した

p145
1960年代の初期に主席の権力が新たな高みに達すると、インポテンツの苦情が消え失せた

p146
毛沢東という人物は、人が良く陰謀をたくらむと非難するが、何を隠そう御当人が超一流の権謀術数家だったのである

p147
24時間、いや36時間か48時間も一睡もしないで起きていたりする。その後は10時間か12時間ぐらい続けて眠りこけ

p148
体内時計は昔からどこかが来るっていなのではないだろうか

p166
毛沢東に友がなく、通常の人間的な接触から孤絶していたというのも事実である
毛沢東には人間的な感情が欠落しており、従って愛することも、友情を抱き、思いやりを抱くこともできないのであった
私はしまいまで主席の冷血漢ぶりが理解できなかった

p167
毛沢東を何よりも夢中にさせ、大半の時間をさかせたのは中国の歴史であった。彼は
24史を愛読した

p172
主席は人民が数百万も餓死しつつあるのを知っていた。毛はそんなことを少しも意に介さなかったのである

p176
毛沢東はひっきりなしに旅行した。北京にいる方が少なかった

p253
1956年の晩夏あたりに、毛沢東は私に国家主席を辞任するつもりだと初めて打ち明けた。私はその言を信じなかった
3年後の1959年に初めて公になり、実現されるのである

p254
この辞任劇は党の最高幹部ーー特に主席が疑惑を抱いていた劉少奇や鄧小平らーーの忠誠心を試すための政治的戦術でもあった


下巻
p43
遂に飢饉が中南海にまで襲ってきていたのである
食糧の配給は月に穀物7キロにまで減らされていた
妻のリリアンもまた栄養失調に襲われ

p45
毛沢東はこの飢饉に対して一つだけ譲歩を行った。肉を食べるのを止めてしまったのである
【毛沢東は確かに皇帝であった。しかし、中国正史における皇帝とは異なる行動をとっている】

p60
北京の状況は目に見えて悪化していた。通りにはほとんど人影もなく

p69
67歳の毛は
毛が帰依した道教の説くところによれば、
長生きと活力をつけるためというのを口実として
乱交

p97
党の最高幹部が1961年の5月と6月に北京で再会した時には国は深刻な状況に陥っていた

p140
主席が妻の江青を政治の表舞台に導きいれたのは

p243
【文化大革命で】1967年1月になると、中国は大混乱の真っただ中にあった
毛沢東は造反派の側に立った

p272
主席の旧スタッフでも年配の人たちは私と同じ悩みを持っていたのではなかろうか。毛沢東の私生活を知れば知る程、尊敬の心が薄れていくのであった

p276
国家主席の劉少奇は毛沢東が第8回党大会の誤りと見做す責任をそっくり押し付けられ
鄧小平もまた追放されたのであった

p278
周恩来は中国のどの最高幹部よりも毛沢東に忠実であり続けた

p279
周恩来は抜け目のない政治家であり、毛沢東が江青を批判して不仲が進んでいながらも彼女がやはり毛沢東にとって最も気心の知れた輩下だ、ということを他の誰にも、阿して見抜いていたのである

p283
林彪が権力の絶頂に近づくにつれて、全中国は軍事国家化していった
1969年
中国全土は戦時体制に突入する

p285
「アメリカとソ連は違う」と毛沢東は説明した

p286
毛沢東は私に電報を見せた
主席は喜んでいた
「ニクソンはきっと本気だろう」

p302
主席専用列車の服務員だった張玉鳳が変わって仕えることになり

p304
1970年12月毛沢東の健康は十分に回復し

p306
主席は軍内部に自らの支持基盤を固める必要が生じた。林彪の人事は専ら中央に集中していた。

p310
周恩来は搭乗機にミサイル攻撃を加える羊毛主席に進言する。毛沢東は拒否した

p314
報告書によれば、林彪
クーデター計画にとりかかっていた
一味はさっそく毛主席の暗殺計画にとりかかる

p319
毛沢東が自分の手で失脚させた人々の返り咲きを計画しているな、と私は勘づいたのであった

p322
主席は周恩来に失脚した多くの人たちの名誉回復の作業を一任した

p329
「私が死んだあとは君が全てをとりしきってくれ」
「私の遺言だ」

p338
中国はまさしく歴史の転機に立っていたのである
ニクソン大統領の訪中
毛沢東を全快させるのにあと3週間しかなかった

p341
毛沢東の意識不明は我々にとってかつてない危機一髪だった。
周恩来首相に連絡が行く。首相はショックのあまり失禁してしまい

p345
首相は私にこうつけ加えた「頼む。主席が元気で大統領と会えるようにしてくれたまえ」

p349
毛沢東はニクソンが気に入った。「あの男は本音で話をする」

p352
このように毛沢東は米中関係が滑らかなものになるとは予測しなかった。次なる世代の世界の新しい指導者は、この世代が作り出した諸問題を解決しなければならないだろうとした。
【この部分の記述は、中国政府が出版を認める代わりに、原著で挿入させた可能性がある。このくだりを入れずに出版すれば命はないぞ!式の脅しがされたのかもしれない】

毛沢東の以上のような国際的な潮流の分析は、あらゆる点で的を得ていた。ニクソンの訪中は、まさしく、新中国承認の連鎖的な反応を引き起こした
9月に田中角栄首相が北京を訪れたのである

p357
毛は80歳に近づいており

p360
毛沢東の頭は少しも変わることなくはっきりしていた。周恩来の手術の許可を出そうとはしなかったが、そのかわり周の後釜探しにとりかかるのである。鄧小平を復帰させる機が熟したのである

p362
江青は
首相に対し新たな攻撃を発動させる
周恩来は現代の孔子として非難されたのだった

今なお変わることなく周は毛沢東に忠実であった。日常的な行政の責任を負いながら
いまや張玉鳳が主席の”玄関番”であり、主席と面会するのが難しくなっていた。

p363
江青一派が全面的と言っていい程の支配権を確立したかに思われると、毛沢東は両派のバランス回復に乗り出した

p364
【毛沢東の会議での言葉として】
「あの男には決断力がある。これまで70%の良いことをし、30%の良くないことをした。しかし私が呼び返した男は諸君の古い上司であり」

p365
江青の「批林批孔」運動は失敗に帰したのである
すると毛沢東は江青を批判した

p367
1974年7月、私たちは毛沢東の死が迫っていると教えられる

p371
私どもが主席の健康問題を討議している間にも、政治局は会議を開く。後で耳にしたのであるが、毛沢東は再び江青を痛烈に非難して妻とは政治的に距離を置き、江青らが
上海4人組を結成したことに警告を発した

p379
毛主席は国家の日常的な運営で鄧小平が周恩来を助ける必要があると考え、その起用を主張してやまなかった
【この記述は、p379の本文の*(アスタリスク)の後にとってつけたように書かれている。100%確実に著者による記述ではなく、出版時の中国政府の要求に応じて出版社がいれたものであろう。著者ではなく、出版社であろう

p391
江青とその一派は教条主義であり、毛はいまや彼らを糾弾したのであった

p405
周恩来の後任が誰になるか人々は不安がった。鄧小平が攻撃にさらされている状況下で、多くの人々は江青派の王洪文が新首相に指名されるだろうと予測した。ところが誰もが驚いたことに、毛沢東は華国鋒を首相代理兼第一副主席に推薦したのである。
主席の頭脳は今なお健在だったのである。この指名は江青とその一派への痛撃であった。党最高指導部は、古参の長征組幹部(経験主義者たち)と主席が教条主義と非難した若い世代の過激派とに分裂していた。だからこそ、いずれにも属さない人物を首相に指名したのであった

p408
鄧小平は再び追放され、華国鋒が周恩来の後任として首相の地位に就く

【本書は下記の記述で終わっている】
p438
私は医師としての生涯を毛沢東と中華人民共和国にささげたが、今の私には国家もなければ家もなく、故国では歓迎されざる人間となっている。私はリリアンと自由を愛する人々の為に、そして深い悲しみの内に本書を執筆した。毛沢東の独裁体制が人々に与えた恐るべき結果の記録として、またその政権下で生きた善良でかつ有能な人々が生き延びるためにいかに自己の良心に背き、理想を犠牲にすることしいられたかという記録として、本書が語り継がれることを私は願ってやまない

読む年表 中国の歴史
岡田英弘
2012年
ワック出版局

優れた内容である。東京外大教授という文献資料には恵まれないが、言語に関しては研究に有利なポストにいたことが大きいのであろう

p39
殷人の自称は「商」で、殷人即ち商人である

p85
後漢の中国の総人口は、140年の統計では4915万220人だった。
三国の合計は500万人ということになる。つまり黄巾の乱から半世紀後、中国の人口は10分の一以下に激減した。これは事実上漢族の絶滅と言ってよい

p115
中国では話し言葉の発音はあくまで漢字の読み方とは別個の系統のものであって、漢字の読音は、普通の中国人にとっては意味の分からない、全く人工的なものであった
元々抽象的な表現に向いていない漢字の性質

p142
漢語には形而上的・思想的な、目に見えない精神的なものを表す語彙はほとんどないに等しい
【まさにその通りであり、自由・文化といった漢字は、明治時代以降に日本から中国に逆輸入されてものである】


p154
任地に派遣されて地方知事は原則として無給だった
中国では官僚は原則として無給である
官僚の収入の大部分は田祖を取り立てた残りである
もう一つの知県の収入は裁判である

p176
ハングルの元となった新モンゴル文字
パクパ文字がある
フビライがハーンになると、パクパに国師の称号と王印をさづけ、新しいモンゴル文字を作ることを命じた

パクパ文字は
高麗王国に伝わり、その知識が基礎となって、
ハングル文字

p184
フビライハーン、元の行政組織を定める
中国式の要素がほとんどなかった遊牧帝国


モンゴル帝国は多数の領主(ウルㇲ)の集合体で、元々全体を統治する中央政府は無く、それらの領主の中で筆頭の地位を占めたのがフビライ家の元朝皇帝だった。その元朝でもフビライハーンは唯一の領主ではなかった
定住地帯は、その地域の征服時に参加した皇族や将軍たちに分け与えた領地・領民がモザイク状に入り交じり、その間にハーンの直轄領が散在しているという状況だった
元朝が、あたかも遊牧民が作った中国式の王朝であるかのような誤解があるが、実際には元朝は純然たる遊牧帝国で、中国式の要素はほとんどない。ただ、漢字でつづった官職名を使っていたというだけなのだ

p186
モンゴル帝国が膨張に次ぐ膨張を続けた理由は、匈奴帝国以来の遊牧王権の性格にあった。一度成立した王権を維持するためには、君主は部下の遊牧民の戦士たちに絶えず略奪の機会を与えるか、財物を下賜し続けなければならない。そうでなければ、独立性の強い部下たちはたちまち他の君主に乗り換えてしまうかので、政界征服の為の戦争を続けることが、部下を満足させる最も手っ取り早い方法であった


南京戦
切り裂かれた受難者の魂
被害者120人の証言

松岡 環 編著

①「日本兵は南京市内で男女子供を無差別に殺害し、強姦・掠奪・放火を行った。」云々式の証言については、強姦・掠奪・放火、特に強姦について証言が明らかに集中している

「日本兵は南京市内=南京城内で男女子供を無差別に殺害」はこの証言集では、

*「p76の証言」。 ただし、遠望であり、女・子供が多数いた旨の証言記述はない。南京城内ではない。

*「p111の証言」。 老若男女と証言している。しかし、証言後半では、伝聞としてではあるが、「生き残った人の話から、一般市民もいましたが、多くは八十八師団の兵士だったということでした」とハッキリ明言している(=敗残兵が大部分であり、その中に民間人が紛れ込んで逃げようとしていたと考えてよい。南京城内ではない。)

「p297の証言」。 男女と証言。ただし、遠望であるものの「みんな一般の平民でした」と明言している。南京城内ではない。

の3ヶ所のみである。全て南京城内ではない。(ただし、どの聯隊・師団かは不明であるが、若い中国人男性全員の殺害命令が発出された可能性が高い)

従って、【日本兵は市内で男女子供を無差別に殺害】は、ほぼ確実に事実ではない。(正直なところ、私はほっとした。)もしも本当であれば、120人中の3人しか見ないことは絶対に100%確実にあり得ない。かつ、3人中の1人が見たのは、事実上は逃げ遅れた中国軍八十八師団の逃走であり、実質残るのは、女性1名、男性1名が遠望した2証言に過ぎず、いずれも南京城内ではない。

この点は、編者の人が期待しているのとは全く逆の結果となるが、証言が正しいとしてすら、【日本兵は市内=南京城内?で男女子供を無差別に殺害】が歴史的事実ではないことは完全に確認でき、ほっとした。

③証言の内容は、従軍慰安婦証言集と全く異なり、疑問に感ずる証言内容がほとんどない。朝鮮人という、歴史上「高潔の士」がただの一人も存在しないという、まさしく人類史上稀に見る邪悪かつ劣悪な連中の実にバカげた証言とはハッキリ異なる。この証言集の内容は、ほぼ事実であると断定しうる

李 容洙 証言 強制連行された朝鮮人慰安婦たち P139より
「私たちは、主に特攻隊の相手をしました。(略)陸軍なのか海軍なのか空軍なのか区別できませんでした」

精神面での完全なるDNA異常民族どもよ!以下の通りだ!いい加減にせよ!
*第二次大戦当時、日本には空軍など存在しない
*当時、陸軍と海軍の慰安所は、完全に別々であった。陸軍と海軍が共有している慰安所など吉見義明中央大学名誉教授の労作である従軍慰安婦資料集からみて絶対に存在しない。陸海軍両者が使用していたのは、慰安所ではなく、単なる完全な売春宿だ。「海軍めしたき物語」にでてくる。
*当時の陸軍と海軍の軍服は全く異なる。バカでもチョンでもわかる

④この証言集によれば、
*捕虜とすべき中国兵は全員殺害=日本側記録と一致。しかし、この点は他の戦線と異ならない。
*民間人の中に、多数の敗残兵が含まれていると考えたため、「手にタコがある」・「頭に帽子の線が残っている」 の2点のいずれかの外観を有する兵役適齢中国人男性は、全て一律に中国兵と見做し、殺害されたことは絶対に確実である。なお、日本側旅団長の手記の記述内内容と完全に一致している。

⑤以上から、この証言集から、南京事件とは、類例を見ない規模での中国兵捕虜大量殺害及び中国兵と見做した中国人民間人男性の極めて大規模な大量殺害 事件と思われる。殺害されたのは、数的には、捕虜よりも中国人民間人男性の多かったであろう。=敗残兵探しが、証言によれば最低でも1カ月程度以上続いたようである。数万人規模で兵役適齢中国人男性が殺害されたと考えられる。(戦犯裁判資料では15万人程度であるが、遺体収容期間考えて、南京事件以外の遺体を多数含み、数値に関しても、遺体収容隊の人員数が不明であり、水増しされている可能性がある。)




南京虐殺


南京虐殺2


第一部 松岡 環
p47
紅卍字会とその他の埋葬組織

正式呼称は、世界紅卍字会南京部会である。紅卍字会は「道院」という新興宗教団体の社会事業組織である。
南京陥落後、12月22日より中国人の遺体の収容埋葬作業を開始する。この会は専門の収容埋葬隊を組織し、作業時には紅卍字ののぼりを持ち、従事する者は紅卍字のマークの入いった衣服を着るかあるいは腕章を着けていた
作業は1938年10月末まで行われ、その遺体埋葬数は合計で4万3071体になったことが南京軍事法廷及び極東国際軍事法廷に報告されている

崇善堂も南京陥落前に難民区に入り、薬や米を送るなどの慈善事業をしていたが、陥落後、「崇字埋葬隊」を組織し、遺体の収容作業をはじめた。従事する者は白地に崇善堂の字がはいいったチョッキをていた。作業期間は、1937年12月26日から38年5月1日までで、収容埋葬遺体の総数は、11万2267体であったことが、先の二つの法廷に報告されている

【この証言集は、地域ごとにまとめる編集法をとっており、大文字は地域・地点名】

第二部

1.揚子江の北側 8人

【この地域について、集団単位での殺害証言は一切ない】

2.揚子江の南側 17人

p76【女性、見た】
中国人は、6・70人くらいごとに一列に並ばされていました。みんなで数百人はいたでしょう。そこにいた人々は一般民衆の服装でした。軍人ではなかったようです。
機関銃の音
虐殺場面を見たのは私一人でした

p102【男性、兵士であり殺されかけたが九死に一生】
旧暦の9月の初めに軍隊に入り
日本軍の捕虜になりました
日本兵のやり方は三人一組で河に向かって進ませ、銃殺しました

p111【男性、兵士であったが下記。現実に見た】
私たちの部隊は南京を逃れようとしました。
中島部隊の砲台があり、日本軍が何度か来きましたが。「良民証」を持っていたので危害は加えられませんでした。この良民証は我々の中にいた安という班長が、日本軍が入ってきたときに日の丸を掲げて、お願いして彼らから貰ったものでした。
我々は日本軍が入城する前に洞窟に逃げ込んでいました。
私たちのその時の服装は、一般民衆が着る服に代えていました。その服には、「天蘭」と会社の名前が書かれた布がついていました

揚子江で軍艦からの掃射を見ました。人々が川を渡っていました
【川の水深は不明であるが、軍艦とは、他の証言と合わせて見れば、陸軍が徴発した小型船に機関銃を搭載した船と考えてよい。?】
老若男女様々な人々でした。板切れにつかまって河を渡る人もいました。びっしりと浮かんだ大勢の人々が撃ち殺されていきました。夜になると、機関銃の音が聞こえてきました。
その虐殺から逃れてきた3人が洞窟に逃げ込んできました。
3人とも血だらけでした。彼らを着替えさせました。軍服を脱がし、そこらに転がっている民間人の死体から服を脱がせ、それを着せました。その3人が言うには、日本軍は機関銃で掃射した後、まだ生きている人を銃剣で刺し殺し、最後にはガソリンを撒いて焼き殺したそうです。傷を負っていても死んだふりをして、日本兵の隙をついて逃げて来たということでした
何日かして、
父を探すために母と連れ立って大渦子の方に探しに行きました。あたり一面死体の山でした。
焼け焦げた死体がずっと続いていました
生き残った人の話から、一般市民もいましたが、多くは八十八師団の兵士だったということでした。
洞窟には1ヶ月くらいいました

p114【男性、兵士であり殺されかけたが九死に一生】
国民党に捕まって兵士にされました。
機関銃による掃射

p117【男性、民間人である。居住地が下記のため、警官と一緒くたにされて殺されかけた】
そのあたりは国民党の要人の住まいでした
日本軍は国民党の警察官の帽子とベルトを外させて揚子江に投げ捨てました
周りには
機関銃

3.南京城内国際安全区(難民区)32人

p148【女性、父は殺されている】
日本兵は父の頭を調べ、帽子をかぶった跡があったため、中央軍だと疑い、父を逮捕しました

p179
【男性、民間人。
南京入城後、若い民間人男性は概ね逃げているはずだから、残存している若い男性は全て中国兵であると推定して、どの師団又は聯隊かは不明であるが、上記推定に基づき、若い男性
全員を実際には中国兵残存兵であるから全員殺せ!と命令を出した聯隊又は師団があったことは確実と思われる

日本軍は入城して数時間経ってから大虐殺をはじめました。
三人の武装した日本兵がやってきて男たちの手を検査しました。その時私はひっぱられないで無事でした
日本兵はよくやってきて男を引っ張っていきました。
日本兵に出くわし、私たちを捕えて4台のトラックに分けて載せました。
私が乗せられたのは最後の一台(4台目)でした。みんな若い男たちでした。前3台のトラックは先に行ってしまいました。そして最後の1台だけが上海路まで行きました。今の南京大学の後ろのあたりです。当時そこに畑がありました。私たちはそこで降ろされ、畑の中に集められました。
若者たちの人数は、七・八十人いました。突然、機関銃掃射が起こりました。弾を受けて私も気を失って倒れ増した。後でわかったことですが、この時生き残ったのは私一人だったということでした。その後死体収集の紅卍字会の人がやってきました。血まみれの死体を運ぼうとして手足を引っ張ると、息をしているのでその時私が生きていることが解り、助けてくれたのです。

p192【男性、民間人】
良民証配布の)手続きの時には掌を見せ、それで中国兵か否か判別されました


p193【男性、民間人】
日本軍が南京に入城して直ぐと思いますが、この難民区にもやってきました。日本軍は男を全部外に連れ出し、列を作らせました。それで帽子の跡、手のひらや肩のタコなどを調べました。少しでも疑いのある者を劣から引き出して別に集めました。残った者には、良民証を支給しました。

p198【男性、民間人】
難民の中に国民党の連長(中隊長)が紛れ込んでいました。
日本軍入場後1週間ぐらいたった時です。
良民証を貰え仕事にもつけることを張り紙を見て知りました
手に「たこ」のある者、頭に帽子をかぶっていた跡がある者は中国兵とみなされて別の場所に連行されました
数百人単位でいました
機関銃を掃射する音

p201【男性、民間人、実際に見てはいない】
日本兵が南京に入って3日目
翌16日
兵隊の容疑の検査をはじめました
帽子の跡がないか、手にたこがないかと調べられました。私は帽子の跡がないので助かったのです
機関銃で殺されたのだろうとみんな噂しあっていました

4.南京城内の中南部 21人
【どうゆうわけか、この地区について、集団殺害の証言は無い】

p243【女性】
敗残兵狩り
家の仕事は羊毛の手織りの仕事だったので、手に「たこ」が出来ていました。それが兵士の証拠だと言われ、兄はその場で殺されました

p246
翌年(1938年)の秋ごろに南京に戻りました
この頃でも日本軍は至る所で花姑娘探しをしていました。

5.南京南郊外 城外南部 26人

p297【男性、民間人】
日本軍は物を奪うだけでなく大勢の人を機関銃で殺すのを私は見ました。(以下、絵をかいて説明している)日本人が来て半月ぐらいした後の事です。私たちが住んでいる家の近くで日本軍の大虐殺を見ました。たしか、朝の8時ごろでした。日本軍は秦淮河の堤防に避難民千人ぐらいを跪かせているのが見えました。
機関銃で掃射
男も女もゆっくり倒れていくのが見えました
被害に遭った人々はこの村の人ではなく、山の方から逃げてきた避難民の様でした。みんな一般の平民でした。
死体がその後どうなったのかはわかりません。私は怖くてそんなところには近づけなかったのです
【千人ぐらいという証言から、遠望であることは間違いない。「山の方から逃げてきた」という証言内容は?近くには、山と呼べるほどの地形は無いと思われるが?】

p299【男性、民間人】
60~70人程の国民党軍が降伏したのです
日本軍がエンジン付きの船の上から機関銃で全員を射殺しました
南京入城から2・3日後の事です


p301
最初に南京にはいいってきた部隊が最もひどかったです

p305【男性、民間人、警官と間違われて捕まった模様】
日本兵に捕まりました
日本軍が制服を着た200人ぐらいの国民党側の警官を連行してきてならばさせていました。私はその最前列にいました
機関銃掃射はしばらく続き

p309
【1938年】4月頃世間が落ち着いた後に良民証を貰いました

p319
南京城内がやっと落ち着いてきたと聞いて、南京に戻りました。春節を過ぎたことです

p322
日本兵は3日程封じ込めていた捕虜を放し、彼らが監獄の入り口を出たところで、銃剣で刺していました。刺してもなかなか死なないので、今度は銃をバンバンと発砲して殺しました

【南京事件のウキペディア記事によれば、下記であるが、実際には投降兵を殺害したことは確実。証言の方が正しいと考える

①第6師団45連隊(包囲用の別動隊)は揚子江南側の下関で約5500人を収容し即日釈放している
②歩兵第41連隊は14日夕、江興洲で2350人を釈放している

この書籍掲載図によれば、南から南京へ近づいたのは、第6師団、
第114師団、第9師団

6.南京城より遠い郊外(六徴県、六合県、江寧兼県)15人
【大量殺人の記載はない】

第三部

省略

岩波講座 世界歴史 10
モンゴル帝国と海域世界
12~14世紀

現時点での最高水準の論文集

宇野伸浩
初期グローバル化としてのモンゴル帝国の成立・展開

p10
モンゴル帝国はケレイト王国を土台として成立した可能性が高い
クリルタイにおいて重要事項を決定する文化は、ケレイト王国からモンゴル帝国に継承されて可能性が高い

p14
キリスト教を受容し、王がキリスト教徒の名前を持つようになっていたケレイト王国の宮廷では、東シリア教会の宗教儀礼が行われていたことが想像される
モンゴル帝国において急速な西方への拡大が起きた要因は、モンゴル帝国以前に西アジア文明の要素がモンゴル高原にまで到達するというグローバル化がある程度まで進み、

従って、モンゴル帝国の征服活動によってグローバル化が始まったのではなく、

p25
ブロードブリッジはチンギスカン家の婚姻関係の分析に力を入れている
二つのタイプがあり、二人の男性が自分の姉妹を互いに嫁がせあう姉妹交換婚と、妻の兄弟の息子に自分の娘を嫁がせる婚姻、即ち妻との婚姻のお返しに次世代で娘を嫁がせる交換婚があった。コンギラト族とオイラト部族はこの交換婚をチンギスカン家との間で繰り返していた

p32
モンゴル帝国の出現そのものが、それ以前から始まっていたグローバル化の産物であり

ユーラシア・海域世界の東西交流におけるモンゴルインパクト
四日市 康博

p41
モンゴル帝国
単なる遊牧帝国ではなく、定住世界と遊牧世界を共に包括した遊牧・定住複合帝国であった

p66
バクダッドがモンゴルの侵攻によって再起不能なほど衰退したという事実は確認できない。むしろ、その巨大な人口から支出される膨大な税収はイル・ハン朝の財政を支えることとなった


モンゴル支配下の中国と多民族国家
飯山 知保

p107
モンゴルの統治は、在来の文化・宗教伝統の庇護とその実践者の登用、金国・南宋の官制や行政機構の継承、その一方での自らの政治慣習・文化的伝統による様々な制度や統治原則の多層的な併存とにより特徴づけられる


トルキスタン・トルコ系諸集団とモンゴル帝国
松井 太

p133
モンゴル高原に覇を唱えていた遊牧ウイグル帝国が西暦9世紀半ばに崩壊し、数十万のウイグル遊牧民が諸方に分散したことを契機として、ユーラシア平原のトルコ系遊牧集団は玉突き状に移動して中央アジア・西アジアの定住農耕地帯に進出した。

朝鮮王朝が編纂した高麗史書にみえる元の日本侵攻に関する叙述

孫衛国
(南開大学歴史学院、中国天津、300350) [原文は中国語、翻訳:宋剛(北京外国語大学)]

高麗史によれば、文永の役:徴用数合計14,700

要旨: 朝鮮王朝は建国初期から、編年体で『高麗史』を編纂しようと努力を重ねてきたが、 実現できなかった。李朝世宗の勅命により、高麗朝の歴史を紀伝体で編纂し、139 巻の 『高麗史』を仕上げ、朝鮮王朝に正統性を付与した。『高麗史』における元の日本侵攻 に関する記載は、高麗の自主性を強調し、高麗が元王朝の要求に巧妙に対応したことを 表わし、高麗が提供した軍隊の食糧、人力などを細かく記録している。そして、高麗を 裏切って元王朝に投降した高麗人を「反人」と見なして、「叛逆伝」に収めたことから は、高麗が宗藩関係のもとで独立自主を求めようとした意識と努力が伺える。


『元史』と日本史書と比べて、『高麗 史』に見える元の日本東征に関する記述は極めて偏っている。東アジア三国の歴史事件 に関して、「一国史」の枠から抜け出し、「東アジア史」の目線から考査してから初め て、歴史の真相に近づくことができる。

一、 朝鮮王朝が『高麗史』を編纂した意図と経緯

最初は編年体で高麗の歴史編纂の仕事を展開した。太祖四年(1395)、李成桂は鄭道 伝に『朝鮮王朝実録』などの史料をもとに、編年体の『高麗国史』の編纂を命じ、全 37 巻の『高麗国史』が仕上がった。今この本は失われている。

この本の史論は『高麗史節要』に大量に取り入れられ、後世に伝わった。そして、後の 高麗史の編纂のための基礎を築き上げた。

世宗五年(1423)、世宗は卞季良、柳 観、尹淮などに史書の改編を命じた。
翌年に、『讎校高麗史』世宗三十年(1448)に、この史書は 初めて印刷された。多くの史料を取り入れたが、主旨が明らかではないから、後年、本 の発行は停止した。しかし、この本は『高麗史』と『高麗史節要』の編纂のための、豊 富な資料を提供している。5が完成したが、意見が一 致せず、発行できなかった。

編年体を紀伝体に切り替えた。

6 編年体で編纂する場合、朝鮮王朝の正統性を確立しに くい。太祖は建国の当初から、編纂の仕事を始めたが、数代を経て、幾つかの史書を編 纂したにもかかわらず、朝鮮国王の意に適うものはない。紀伝体で再編集するしかな い。

(1451)八月に、『高麗史』の再編修が完成した

全書は目次 2 巻、世家 46 巻、志 39 巻、表 2 巻と列伝 50 巻からなり、合計 139 巻である。

そして、金宗瑞は紀伝体『高麗 史』に基づき、編年体で書き直した。翌年の二月に、『高麗史節要』が完成した。全 書、35 巻である。二冊の本により、高麗王朝の歴史の編修を通じて、朝鮮王朝の正統性 を確立する目的が実現した。

『高麗史』は国王に関する内容を「世家」に編入し、藩属国としての地位を表明した が、宋、元など中国皇帝の年号ではなく、高麗国王の在位年数を以て編年体で記述し た。これにより、高麗王朝の相対的独立性を表した。高麗王朝は建国して以来、相次い で五代、宋、遼、金王朝の皇帝の年号を使用していた。

高麗の元宗から、モンゴルの年 号を使用したが、忠烈王によって李成桂の政権が覆されるまで、元王朝の年号を使い続 けた。高麗は中国の諸王朝と付き合ってきた。

朝鮮王朝の官撰史書『高麗史』では、歴代の高麗王の記述が天子を意味する 「本紀」ではなく、諸侯の歴史をさす「世家」となっている。藩王としての地位を表し たが、『高麗史』は、中国皇帝の年号ではなく、高麗国王の在位年数を以て編年体で記 述した。

この折衷の方法によって、高麗の藩属国としての地位を認めながら、完全には 臣服せずに、独立自主の意識を持っているという朝鮮王朝の基本的な認識をはっきりと 表明した。以上のように二つの意識の結合は『高麗史』編纂の基調となった。

二、『高麗史・世家』における元による日本進攻の史料の選択や編纂の原則

第一、戦争の準備段階で、元王朝の理不尽な要求に対し高麗がやむを得ず対応したこ とを全面的に記述している。

元宗十二年(1271)正月に、「モンゴルは日本国信使秘書の趙良弼及び忽林赤、王国 昌、洪茶丘など四十人を遣わした」13。そしてフビライの詔書を持ってきた。彼らはモ ンゴル帝国が高麗を経由し、日本へ派遣した最初の使者団であり、実際に二回に分けて 派遣されている。

史料の中に、 洪茶丘が郊外へ迎えに行った高麗国王元宗を見ても「拝謁しなかった」14ことを特筆し た。即ち、洪茶丘が臣下として国王へ拝礼しなかった。この件を取り上げ、洪茶丘の傲 慢な態度をよく表し、高麗君臣と朝鮮の史官の不満を引き立てた。

中書省から公文書を承り、元軍が鳳州に屯田し、農耕用牛、器具、種や軍隊用食糧 の準備の命令を受けた。農耕用牛は、前に上奏した通り、弊国の都には家畜を農耕に 使う人が殆どいない。他の地域には家畜を飼う農耕民がいるが、多くても一か二匹に 過ぎない。貧乏な人は大抵農具(耒耜)を以て、或は牛を借りて耕作する。今、牛等 の家畜は、全羅道食糧の運輸のため、餓死や疲労で大半を失った。元来弊国の農民は 多くの農耕用器具を持っていないが、要求を達成できなくても、出来るだけの数を揃 えるように努めた。種は、農民が毎年耕作して、租税を納めて、食糧とする。・・・

軍隊用の食糧について、弊国の貯蔵した食糧は逆賊に奪われたもの以外、全部駐屯す る軍隊や馬そして討伐の軍隊に提供し、使い切った。国内外からの賦税や徴用は農民 の大負担となり、生計すら問題になったが、さらに、種や餌がたくさん徴用された。 秋に軍隊用の数万碩はどこから調達すべきだろうか。15

明朝の初期、高麗に、毎年処女と火者の貢進 を求め、宦官を派遣した。それは当時の朝鮮王朝にとって、耐えられない大きな負担で ある。16それゆえ、『高麗史』を編纂するときも、その史実を重点的に記述し、藩属国 としてのやむをえない気持ちを表しながら、藩属国としての反抗も表現した。その反抗 は大した効果を得なかったが、朝鮮王朝が自主意識を持っていて理不尽な待遇に甘んじ ている訳ではない証拠である。

討伐の経緯は「忠烈王世家」に簡略に記述されてい る。

一回目の日本遠征にあたり、高麗は受動的に元王朝の要求に対応せざるを得なかっ た。
二回目の日本遠征に当って、高麗の国内は積極的に参加し、その意思決定に加わろ うと試みて、出来るだけモンゴルの将軍の権限を制限し、高麗への影響を最小化する

二回目の日本遠征を決定する時に、高麗の国王忠烈王は大都にいって自ら皇帝の命令を 受けた。『高麗史』に意思決定の過程は次のように書かれている。

忠烈王は7つの希望条項を上奏した:
一、我が軍は耽羅を鎮戍(鎮守)する兵を以 て、東征を補うこと;
二、高麗、漢の両軍より、寧ろ蒙軍を以て前線に立てること;
三、洪茶丘の職任を加えず、臣も亦、征東行中書省の事を管轄すること;
四、小国の 軍官、みな牌面(勲章などの類)を賜ること;
五、漢の地浜海の者を梢工、水手に充 てること;
六、按察使(地方行政監察官)を遣わして、百姓の疾苦を見させること;
七、臣が自ら合浦に到って、軍馬を閲送をすること。18

よって、高麗の国王は日本遠征に参加することを非常に重視し、大臣を皇帝に拝謁さ せ、自ら東征の命令を受けたいと上奏してもらった。他の臣下を通して勅命を受けるの ではなく、直接に命令を受けることで、主導権を握ろうとした。

忠烈王の 意図は明らかであり、日本遠征において、他人に牽制されたり、日本遠征のため、政敵 に権力を握られ、高麗の国政に影響を与えたりするようなことを避るために、忠烈王は 主導権を握ろうとした。『高麗史』はそれに重点をおいて記述している。

フビライは忠 烈王の希望条項を採用しなかったが、忠烈王の意見は重視した。

第二次日本遠征の前に、高麗の国王は積極的に対応し、主導 権を握るために行動を取った。これらの行動や変化は『高麗史』に詳しく記述されている。そこから高麗王朝が宗主国の元王朝に対する抗争やお茶を濁す態度が伺える。ま た、高麗王朝が独立自主を獲得しようとする意志が明らかである。

第二、高麗が戦争のために大量の人力、食糧、馬の餌などを消耗した。それが高麗に まざまな困難を齎したことは『高麗史』に詳しく記述された。

職人など三萬五千人あまりを徴用させ、造船所 に派遣する。当時、駅站に往来する人が後を絶たず、徴用等の負担が大きく、期限が迫 っている。人々を苦しませる」20。

この史料には高麗王朝が軍隊の食糧を集める為に、取らなければならない方法が記載 されている。

第一、この史料から、二回目の日本遠征の間に、軍隊の食糧を集める為 に、高麗王朝の国王から、庶民まで皆定量の食糧を徴収し、前線の軍需を確保したこと が伺える。

第二、日本遠征は高麗社会のあらゆる面に損害をもたらし、すべての人に影 響が出てしまったことがよく表明されている。

一回目の日本遠征の前に、モンゴルの軍 隊は高麗で駐屯し、食糧を生産し、軍隊の食糧準備のための高麗の負担を軽減した。


二 回目の日本遠征の前には、モンゴルの軍隊は駐屯しなかったから、高麗の王朝は全国民 を動員し、すべての国民が食糧を寄与した。

第三、『高麗史』は特に「兵志」に、軍隊 の食糧を集める問題について述べている。「世家」の部分に、軍隊の食糧など物資の供 給が詳しく述べられていることを裏付けるものである。この部分の史実は注目すべきで ある。

準備の状況を報告した。「弊国は兵戦九百艘,梢工水手一 万五千人,正軍一万人を用意した。兵隊の食糧は漢の計量単位で表示する場合、十一万 石、他の物資や機械なども数えられないほど用意した。全力を尽くし、聖恩に報い る。」24

第三、『高麗史・忠烈王世家』は二回の日本遠征の経緯について、簡略に説明した。 記載の史実は高麗の将軍を中心とした。

元十一年(1274)年十月、日本は元麗連合軍第一次の日本遠征を「文永の役」と呼 ぶ。『高麗史・忠烈王世家』にこの戦争についての記述は数行しかない。

冬十月乙巳に、都督は金方慶を、朴之亮、金忻を知兵馬事、任豈を副使に任命す る。金侁を左軍使、韋得儒を知兵馬事、孫世貞を副使、金文庇を右軍使、羅裕、朴 保を知兵馬事、潘阜を副使に任命し、三翼軍を呼ばれる。都督は元の都元帥忽敦、 右副元帥洪茶丘、左副元帥劉复亨などと一緒に、モンゴルや漢軍二万五千、我が軍 八千、梢工と水手六千七百、戦艦九百艘余りを率いて日本を討伐し、一歧島に到達 し、千人余りの敵を殺し、軍隊を分けて別々の道を進み、倭は退却した。殘骸が 累々とし、夕方になってようやく停戦した。夜、暴風雨に遭い、戦艦、巌崖に触れ て大敗し、金侁が溺死した。25

元十八年(1281)、日本は元王朝の第二次遠征を「弘安の役」を呼ぶ。『高麗 史・忠烈王世家』に今度の日本遠征についての記載は数行しかない。

七年五月戊戌に、忻都、茶丘及金方慶、朴球、金周鼎等は戦艦を率いて日本を討 伐した。 癸亥、行省総把報:当月二十六日、諸軍は一歧島へ向かい、忽鲁勿塔船軍一百十 三人、梢手三十六人は暴風に遭い、方向を失った。郞将柳庇を派遣し、元王朝に事 情を報告した。 六月壬申に、金方慶等は日本と戦って、三百人余りの敵を殺した。翌日再び戦闘 し、範文虎は戦艦三千五百艘と十万余りの軍隊を率いて戦った。暴風雨に遭い、軍 隊は全部溺死した。 八月己卯に、别将金洪柱は合浦から出発し、行宫へ東征群戦敗の知らせを報告し た。元帥などは再び合浦に戻った。

同じ月に、忻都、茶丘、範文虎などが帰還し、元王朝の軍隊で犠牲になった数は 十数万以上である。

十一月壬午、各道は東征軍九千九百六十人、梢工水手一万七千二十九人を派遣 し、生還者は一万九千三百九十七人しかない。26 

二つの史料を総じて見れば、次の結論が得られる。

第一、簡略な記述は『高麗史・忠烈王世家』が日本遠征の戦争を重視していないこと を裏付ける。あるいは、戦争の経過は注目される重要な歴史事件ではない。

 第二、簡略な記述だが、どんな内容が記載されているかは注目すべきである。高麗の 軍隊の将軍たちや制度整備の状況などが重点的に紹介された。初回の日本遠征におい て、八千人しかない高麗の軍隊は、左、中、右という三部分に分けて、それぞれの将軍 によって指揮されたと記載されているが、元王朝の将軍については手短に触れただけで ある。人数から見れば、高麗の軍隊はごく一部しか占めていないが、『高麗史』におい ては、高麗の軍隊に重点を置いて記述されている。第二次の日本遠征の記述にも高麗の 将軍たちを重点的に紹介し、日本遠征に参加した高麗の将軍たちの名前が紹介されただ けでなく、本に記載される唯一の勝ち戦は高麗将軍金方慶が指揮した高麗の軍隊による ものであり、敵軍の三百人を殺した。元王朝の戦争状況については、敗戦しか触れてい ない。そして、「蛮軍」と呼ばれる範文虎が率いるモンゴルの軍隊に対し、軽蔑の意を 表した。

第三、具体的な戦争状況についての記述は簡略であり、二回の敗戦にも「暴風」が言 及された。

初めての日本遠征には「一歧島に到達し、千人余りの敵を殺し、軍隊を分け て別々の道を進み、倭は退却した。殘骸が累々とし、夕方になってようやく停戦した。 夜、暴風雨に遭い、戦艦、巌崖に触れて大敗し」と記載されている。日本を討伐し、最 初は勝ったが、夜からものすぎ暴風雨となり、「暴風雨」に負けた。いわゆる「神風」 のことである。

第二回に「暴風に遭い、方向を失っ」て、「暴風雨に遭い、軍隊は全部 溺死した」。東征失敗の直接な原因ともいえる。



第四、二回戦争の記述とも、具体的な損失が言及された。史料の第一段落には、戦艦 の大部分が沈没すること以外、左軍使「金侁が溺死した」事も特筆された。
「金侁」は 高麗の最高指揮官であった。



。後の『年表』には、「十月、金方慶と元の元帥忽敦、洪茶 丘などは日本を討伐し,一歧で戦敗し、犠牲になった兵士は一万三千五百人以上」27。上 記史料の第二段落に元軍の死傷状況に関するデータがたくさんある。そのデータは元軍 の東征の死傷状況を明らかにした。

以上のことから、『高麗王・忠烈王世家』のその戦争に関する記述において、高麗軍 隊は主役であり、モンゴルの軍隊は単なる脇役にすぎず、日本の海戦も背景にすぎな い。史料の選択は、『高麗史』の主体意識を明らかに表している。『高麗史』はこの戦 争を全面的に記述するのではなく、高麗の軍隊の役割を示し、選択を経た書き方であ る。

三、『高麗史』日本遠征における高麗の将軍たちに関する記載

『高麗史』において、元王朝に投 降し、高麗に損害をもたらした人の多くは「叛逆伝」に編入された。

洪福源は洪茶丘の父であり、「叛逆伝」に編入された。『高麗史』には洪茶丘伝がな いが、「洪福源伝」の中に、洪茶丘の悪行が記載されている。

その後、洪福源は高麗の人質永寧公綧のモンゴル人の妻に失礼な行動を 取ったから、死刑に処された。

元宗二年(1261)、フビライが即位した後、洪福源の冤罪を晴らし、彼の息 子洪茶丘に父の職務を継承させた。「帰服した高麗軍隊と百姓を統率する総管である」 33。それ以来、洪茶丘は元王朝の官僚であり、高麗の出身という点から、高麗の関連事 務の処理を任された。洪茶丘は高麗に同情することもなく、いつも高麗を困らせるか ら、高麗の君臣たちは洪茶丘を恨んでいる。

高麗の国王忠烈王はかなり洪茶丘を憚っていた。彼はフビライに洪茶丘を元王朝に呼 び戻してほしいと進言し、高麗に置いてはいけないと表明した。「洪茶丘がいる限り、 国を治めにくい!洪茶丘は軍隊事務だけを担当すべきだが、国家政務まで勝手に口を挟 んだ…(中略)…元王朝が軍隊を弊国に置くなら、鞑靼の軍隊或は漢軍を派遣してくだ さい。しかし、洪茶丘の軍隊は、呼び戻してください。」34忠烈王から見れば、洪茶丘 が勝手に国政に介入し、独断専行するから、忠烈王は国を統治するすべもない。だか ら、自ら皇帝に洪茶丘を呼び戻してほしいと進言した。

洪福源、趙彝が『叛逆伝』に編入される反面、金方慶は肯定すべき対象として取り上 げた。金方慶は兵部尚書翰林学士まで担当した。二回にわたる日本遠征において、金方 慶は高麗の軍隊の最高責任者であり、その伝記は二回の戦争について詳しく描写してい る。一回目の東征について、「金方慶伝」は次のように述べた。

第二次日本遠征の状況については、『金方慶伝』で次のように述べている。

七年三月、日本遠征へ出発した。方慶は先に義安軍に軍隊を検閲し、後で国王 も合浦に来て諸軍隊を検閲した。方慶と忻都、茶丘、朴球、金周鼎などが出発し、 日本の世界村大明浦に到達し、檄文を以て通事に知らせる。周鼎先は倭人の軍隊と 交戦し、諸軍隊も戦場に加わり、郞将康彦(康師子)等が死んだ。六月、周鼎、球、 朴之亮、荆万户等は日本の軍隊と交戦し、三百人以上の敵を殺した。日本の兵士が 急に攻め込み、官軍を破り、茶丘は馬を捨てて逃げた。王万户は横から進攻し、五 十人余りの敵を殺し、日本の軍隊が退却して、茶丘は命が助かった。翌日再び戦っ たが、戦敗した。軍隊の中で疫病が広がり、死者は三千人を超えた。忻都、茶丘な どは戦況は不利であり、かつ範文虎は時機を遅れたことを考慮に入れ、軍隊の撤退 を議論した。「勅命によれば、江南軍と東路軍を派遣し、其の月に一歧島に到達すると見込んでいる。今南軍はまだ着いてないが、我が軍隊が先に到達し、数回も戦 って戦艦や食糧を大量に消耗した。どうするべきだろう?」という。

方慶は黙り込 んだ。十日以上経ったが、議論は進展を遂げていない。方慶は「勅命により、三ヶ 月の食糧を用意したが、今は一ヶ月の食糧がまだ残っている。南軍が進攻する時を 待って、必ず敵軍を破る。諸将軍は異議を出す勇気がない。その後、文虎が十万以 上の軍隊や九千艘の船を率いて到達した。八月、暴風に遭い、蛮軍は全部溺死し た。朝夕で死体は浦に流れて浦を塞いだ。死体を踏んで浦を通ることもできる。遂 に軍隊を撤退した。」38

この二つの史実に対する描写は、東征の戦場のもう一つの姿を明らかにしている。幾 つかの特徴がある。

第一、元王朝の東征の記載の中で、『高麗史』における最も詳しい 史料であり、「忠烈王世家」の記載より詳しいし、細部の記述がたくさんあってより具 体的である。

第二、この史料では、金方慶がまるで戦争の決め手のようである。


第三に、この史料は『高麗史』の他の史料と同じであり、高麗の軍隊の戦場での様子を 表している。『高麗史』だけでは戦争の状況を全面的には把握できない。高麗の軍隊に 関する内容は朝鮮王朝当局が作り出したものであり、大げさで、作り話とも疑われる。

実際に、史料の偏っている表現を無視して、戦争の立場から見れば、元王朝が戦争を起 こし、高麗はやむを得ず元の先棒を担いだだけである。高麗の軍隊は単なる補助的な役 割を果たしていて、戦争の勝負を決めわけがない。

従って、『高麗史』の一部の内容は 大げさであり、作り話の部分すらある。例えば、金方慶と元帥の対話は本当の話だとは 考えられない。朝鮮王朝の歴史の編集者が、これらの会話を知るわけがない。たとえ高 麗王朝が関連の書類や資料を残していても、そんな対話が記録されるわけがない。従っ て、合理的な想像を通じて、金方慶の戦争での重要性を誇大し、彼を輝かしく表現して いる。『高麗史』の関連記述には、多少このような大げさな部分がある。


四、終わりに

 誠にフランスの歴史学者ミシェル・ド・セルトー が述べた通り、官撰の歴史の編纂は国家理性によって成し遂げたものである。「現存の 材料に基づいて、専門の手法を以てある「環境」における諸要素を「処理」し、緻密な 記述を作り上げた。」39従って、この史料は朝鮮王朝の史官によって構築されたもので あり、明王朝が編纂した『元史』や日本の関連史書の記載とは大きく異なる。


『高麗史』と『元史』を比べたら、様々な相違点に気付くはずである。例えば、洪茶 丘が金方慶を誣告する案件について、『高麗史』には金方慶は功績を上げて賞賜を貰 い、朝廷の官員たちに排除され、叛逆の罪と誣告され、「(洪)茶丘は高麗を憎んでい て、高麗を中傷しようを企てた。方慶を陥れることを聞いたら、中書省に調査を依頼す る。」40洪茶丘は様々な手を講じて、金方慶を迫害しようとした。金方慶は苦しめら れ、フビライは尋問した後に、金方慶のでっち上げの罪名を晴らした。『元史・高麗
伝』には「十四年正月、金方慶などが反乱し、皇帝は確信し反乱を鎮圧するように命じ たが、また忻都、洪茶丘に軍隊を整えさせた」41と記載されている。この伝記では金方 慶を反乱と見なし、『高麗史』では洪茶丘が金方慶を罪に陥れる。両者は正反対の見方 を示している。『高麗史』と『元史』において、様々な記述は矛盾していて、金方慶案 件は典型的な例である。『高麗史』において、金方慶は重臣と見なされ、彼のために立 伝したが、『元史』に金方慶は反乱の容疑者とみなされた。洪福源は『元史』に功臣と 見なされたが、『高麗史』の「叛逆伝」に編入された。


 

逆転の大中国史
ユーラシアの視点から
楊 海英
文芸春秋
2016年

太平天国、黄巾の乱等著者のいうとおり

p13
 黄河文明がシナ中心地域(現在の河南省周辺)で起こったのは事実だが、考古学による研究が進むにつれ、その古代文明と現在の「中国人」とでは、文化的にも人種的にも断絶している事実が明らかになっている(この点については、詳しくは第一章参照)

p29
日本とヨーロッパで分権的な封建性が生じたのに対し、シナでは皇帝による一元的な権力の在り方が正統とみなされてきた

p30
海洋文明への脱皮を図る中国

p115
モンゴル人は匈奴を「フンヌー」と呼ぶ。モンゴル語でフンとは人間の意味であり、その複数形がフンヌーである

p124
両者の類似性は、東はモンゴル高原から西は黒海沿岸まで、ひとしく均質的に、短剣と言った武器類、馬車と馬具類にも見られる

p125
スキタイの遺物を現在最も多く収蔵しているのはロシアのエミルタージュ美術館である

p127
紀元前450年から紀元前423までのパジルク二号古墳
興味深いのは、モンゴロイド(黄色人種)もコーカソイド(白色人種)も区別なく出土することだ

p136
今日の考古学の世界では、匈奴・フン同源・同族説が主流となりつつある

p146
道教の八百万神には観音菩薩もいる(写真25)

p149
法輪功と道教の類似性
道教の精神は現代中国にも染み付いている
福禄寿は不老不死の象徴だ

p150
「毛沢東の私生活」【毛沢東の主治医の著作】
毛沢東は少女と性行為をすれば不老不死になるという道教の教えを固く信じ、かつそれを実践した。

p158
現在中央アジアには多くのテュルク系の人々からなる国家郡がある。カザフスタンとキルギスタン。ウズベキスタンととトルクメニスタン、アゼルバイジャン、それからトルコ共和国だ。彼らは皆テュルク系の言語を話すが、近代的な国家を持たないのはウイグルだけである

p163
552年
モンゴル高原の覇者であったモンゴル系の柔然を倒し、テュルク(突厥)帝国を作り上げている

p186
胡桃、胡瓜、胡麻、胡椒、これらはすべて西アジアの粛仏・食物であり、ゾクト人など西方から訪れた人々が伝えたものだ。胡坐も西から伝わった

p242
1970年代
【文革の影響で】20歳前後の大学受験生は無学の世代なので、筆記試験を受けても問題が解けない。私は当時中学生でその試験監督の手伝いをしたのでよく覚えている
今の習近平主席と同じ世代の人たちである

p251
パクパ文字とは、チベット文字の一種の表音文字で、のちに高麗王国にもこのパクパ文字が伝わる

p268
チャイナドレスの事を中国では「旗(漢字でない)」チーパオという。「旗人のドレス」という意味だ。チャイナドレスは漢人の民族衣装ではなく、満州の女性が来ていたドレスなのである

p273
「漢民族」が支配した時期には、宗教弾圧や他民族の暴動が絶えなかったことである。シナ人が治めた王朝のほとんどが、信仰の自由を認めようとしなかった

p273
民衆の反乱によって王朝が滅んできた。多くの場合、その引きがねとなったのは、宗教への弾圧である
黄巾の乱

p276
道教は中国の土着的な信仰の集大成と言った感がある。その最大の特徴は。圧倒的な現世への執着である。他の宗教の多くが、死をも問題にし、死後の世界で救いを求めるのに対し、中国人が求めるのは、お金や出世といった生きているうちに得られる現世利益である

p288
宋の時代には世界の三大発明と言われる火薬と羅針盤、活版印刷が発明された。
この小さな規模で、シナ人のみの「民族国家」を作ることが「漢民族」には最も適していると断じていい


p293
【中国の信者数】キリスト教徒の数は1億3千万~1億5千万と言われ、将来世界最大のキリスト教国になるという見方まで出ている。イスラム教徒は1200万を超えている

p294
漢人は何故宗教を恐れるのか?
道教の世界観は、「天帝思想」と呼ばれ、頂点に天上界をおさめる天帝がいて、天帝に命じられた皇帝が現世をおさめるという構造となっている。
宗教団体が多くの信者を集めるということは、彼らの思想では、反体制勢力が革命の準備をおこなっているようなものである

p297
中国では政権が不安定になると、地下に隠れていた宗教団体が反乱とおいう形で姿を現す



中国文明の歴史 8
明帝国と倭寇
間野 潜龍
1967年刊行 新人物往来社
2000年 中央公論社 により再刊行

必要な点は、メモした、朝鮮史の箇所重要


p31
【林 語堂 氏(中国人研究者)】氏はさらに具体的に分析して、トルコ種とみられる唐朝は別として

p58
この世を穢土(えど)と見て浄土に憧れる思想に、阿弥陀信仰がある。

p123
この小作人政権における官吏の俸給は、史上最低とされる。最高で月80石ポッキリ。最下で月5石
俸給の高かった宋では、最高が月に銅貨300貫、銀では300両以上、
月とすっぽんほどの違いがある
一方、明では農民を大切にした

p124
元の時の税の請負制
現物税であったことは、銀を追放するため、言い換えれば商人の台頭を抑えるためであった
銅貨は鋳造したが民間には遣わせなかった

p126
宋は、その商本主義の国策から、また元に至っては例の熱狂的な銀収奪策から、いずれも外国貿易を推し進めた。

p131
元帝国内部の一封建領主の感があった高麗も
フビライカーン以来、高麗王妃は元帝室から出るという習わしとなった。一方、当のフビライカーン側では、元帝室の家法として、高麗女性を卑しんで、その宮廷には高麗女性を入れないという、しきたりを定めていた

p132
むかしから、朝鮮の女性には気を許すなと言われたが、危氏もついに本性を現した。彼女は本国から多くの高麗美人を呼び寄せ、権勢のあるモンゴル大臣の家に送り込んだ
そのせいもあって、宮廷の女官の大半は高麗女性で、宦官もまたしかり、

p142
朝貢規定が作られた。交際は原則として皇帝と国王の間に限られる。鎖国によって民間同士の交わりはあり得ないからである。
国王を詐称するものがるから、その身分証明書がいる。それを防ぐためのものが、表分と勘合制であった。表分は国王が派遣した使者が持っていく正式な外交文書である。それには規格があって、皇帝が国王にさずけた印跡と明の年号が書いてなければならぬ。この表分がないと一切入国できない。実は、この表分の有無、或いは表分の形式が、国体観の違いを反映して、日本との間で大揉めに揉めたのである
勘合の制とは、割符のことで
【支給されたのは】15ヵ国となった。ほとんどが南海諸国で、それ以外は日本だけだった

p143
明は国によって寄港地を指定する。浙江の寧波は日本、福建の泉州は琉球、広東の広州はチャンパ・シャムその他の南海諸国である

p150
前期倭寇の主な舞台は朝鮮半島の南部で、時代的には高麗の末期に当たる

p155
李成桂はこれと並行して、倭寇の首領たちに直接働きかけ、優遇策をもってその帰順を勧めた。これが投下倭といわれるものである。やがてその数は増し、土地を与えられ、職を貰い、中には中枢部の官吏にすらなった。ために李朝財政を圧迫したほどである。これらの投下倭は
生活難にあえいだ対馬人が多かったのも自然の成り行きだろう

【「投下倭」 としている以上は、朝鮮王朝実録で検索すれば、出てくるはずである。しかし、中国の検索サイト(朝鮮王朝実録と中国正史他検索可能。明史も検索できる)、台湾の検索サイト(明実録、清実録、明実録の猿真似記録=朝鮮王朝実録の3つのみ検索可能)の両者で検索しても、「投下倭」 では全く検索ヒットしない。即ち、「投下倭」とは、実在しない朝鮮人どもが作り上げたいつものファンタジーに過ぎない。酷い話であり、朝鮮人どもを何とかしろ!の一言に尽きる。精神面での完全なDNA異常民族の面目躍如である。】

p157
倭寇 中国を襲う
前期倭寇の持つ政治性が見られる
彼らは
海賊衆であった

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p158
日明交渉
明の太祖は
倭寇の鎮圧を要請した

p161
そののちも倭寇はやまなかった

p163
洪武七年6月に来た足利義満の使者は、表分がないので退けられた。

p164
このあと連年入明する日本使者の国書が、書式にかなわぬとか、無礼であると難癖をつけられて退けた。
国交正常化が一向に軌道に乗らぬ上、一方、倭寇は絶えずやって来るとあって、
太祖は意を決して
征討軍を差し向ける書を送った

p165
太祖は日本征討を思いとどまった

p205
国書の形式は「日本准三后道義、書を大明皇帝陛下に奉る」となし、
明よりの漂着者を送還した
道義は義満の法名である
太祖の時、征夷将軍源義満の名で使いを出し、拒否されたが
建文帝は
寛大な政治方針をとったから
答礼使を出し
義満を正式に日本国王に封じ
義満はこの後日本国王道義の名をもって、明と通交した


p207
【義満の子、】義持は突如国交断絶を図り
明使を引見せず、その都度、追い返した

p257
全ての国が朝貢してくるのに、日本だけが久しくこないとあって、琉球を介してその旨を伝えさせた。
その結果が、永享4年(1432)の遣明船となったのである
【義持の次の将軍義教】
この永享遣明船は5隻の船団からなり、持船主は、1号が将軍家、2号が相国寺、3号が山名家【以下略】
こうして貿易は再開された

p173
明の常備軍の数は洪武26年以後は、180万以上あり

p174
唐朝は藩鎮によって弱められたが、なお300年続いた
太祖が目を付けたのもこの点にある。
各王を辺境に定住させ

p183
燕王の手兵はモンゴル兵を交えた歴戦の精鋭部隊である

p197
永楽帝はしきりに宦官を使った

p254
寧波の変
嘉靖二年(1523)
寧波で大内・細川の使者が互いに殺傷するという大事件が起きた
この頃になると、勘合貿易の経営権は足利将軍の手を離れて、細川・大内両家の手に帰し、この二者は互いにその主導権を争った。
大内側では
細川方を襲い12人を殺害した
倭寇に備えた明の将兵を殺害したり捕えたりして海に逃れ去った。この公然たる暴挙に明の官民は手をこまねいてだ一人は向かうものがなかった。これは日本人に中国人くみやすいと思わせたのであろう。この異変はまさに後期倭寇の発端とみなしえよう

p267
頚部主事に唐枢は
「海寇と商人はもともと同一のもので、貿易が通じると海寇は商人に変わり、禁じられると商人は海寇に早変わりする」
この言葉は後期倭寇の性格一面を良く表している

p271
唐枢によると「今、海寇は数万と言われ、みな倭人といっているが、その実、日本人は数千に過ぎず、その他は皆中国の人民である。」
と指摘している。これが後期倭寇の実際である

p280
倭寇の七割までが不逞の中国人とあっては手の施しようがなかった。
奥地侵入の新記録
都会の占領である


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中国という神話
習近平 偉大なる中国と言う嘘
楊 海英
文春文庫
2018年

新しい視点を提供してくれた。

p4
中国政府も、内陸アジアの安定こそが一党独裁体制の維持と経済発展のカギを握ると認識している

p6
海洋への覇権主義的な海洋進出を進める現在の北京当局と異なり、中国は紀元前から西の大陸にあごがれてきた

p28
【父の夫人女性を息子が夫人とする】「義理の息子」との結婚は、内陸アジア遊牧民社会の婚姻パターンの一つで、レヴィート婚と呼ばれる

p31
一般的にユーラシアの遊牧民社会では、女性の地位が高く、財産を管理する立場にあった

p35
唐が漢民族の王朝ではないことは歴史学会では常識となっている

p41
1966年から文化大革命が勃発すると
当時人口150万弱のモンゴル人に対し、中国政府は34万人を逮捕し、2万7900人が殺害され、12万人に身体障碍が残った

p135
「内モンゴルは中国の一部ではなく、植民地である」との見方は現在でも、モンゴル人の政治的地位を分析するのに有効である

p172
レーニンとスターリンは諸民族に自決権を与えそれを憲法にも書きこんでいたので、1991年にソ連邦が崩壊したときに、諸民族は自決・独立できたのである

p175
ウイグル人は中国人を「黒大爺」と呼ぶ
漢字で「黒大爺」と表現することで、「やくざ」とも同義となり、ウイグル人の素朴な心情を代弁する呼称となった

p180
1959年に人民解放軍がチベットを侵略した時の死者数は、青海省では住民の50%まで上るし、男性がほとんど「絶滅」したところもあった。チベット自治区でも1953年に280万だった人口が1964年には250万人に減少している

p197
ウイグル人は中央アジアのテュルク系の民族である。テュルク系の民族はユーラシアの東西に分布し、その総人口は7億人以上にのぼる。このテュルク系諸民族の大家庭の中で、唯一つ、ウイグルだけが独自の民族国家を擁していない。他の同胞たちは独立国家か、ロシア連邦(旧ソ連邦)内で自治共和国を形成してきた

p201
唐が、鮮卑拓跋系の王朝だったことは今や常識である。だが、鮮卑拓跋系であっても「シナ化」することは、他のアジアの諸民族に極端に嫌われていたのも事実である

p215
いわゆるシルクロードは単なる幻想に過ぎないと歴史学者は以前から批判してきた。ことの発端は19世紀末、ドイツの地理学者リヒトホーフェンが「ザイデンシュトラーセン」(絹の道)と書いてしまった「失敗」からこの空想は生まれた。
日本人はありもしない「絹の道」に壮大なロマンを抱くようになった(杉山正明 「遊牧民から見た世界史ーー民族も国境も超えて」1997年)

p217
私の手元に1通の公文書がある。新疆ウイグル自治区教育庁が10月に出した通達で、自治区内の小中学校でウイグル語教材の使用を全面的に禁止する内容である

日本人には信じられないだろうが、新疆ではまた刀狩も実施されている。包丁を購入するには実名で登録するだけではなく、レストランなどでもチェーンでまな板につなげたものしか使えない







銃後の中国社会
日中戦争下の総動員と農村

奥村 哲、笹川裕司

岩波書店 2007年

必要な点は、メモした。動員数は1000万以上 

p2
日中戦争中のほぼ8年間に
約1405万人の青年男子が徴兵され、このうち約1204万人が各部隊に配属された

p4
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p13
本書の主な舞台である四川省

p18
戦時地方行政機構の概要
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p102
【徴兵数を確保するための】地域内の貧しい弱者を狙う拉致の蔓延
このような状況が後の富裕層を打倒対象とした中国共産党の土地改革を受容する社会条件の形成につながっていくのである

p109
中国軍の平均死傷率は23%、

p232
国民政府の場合
1941年から抗戦が終了する1945年までの5年間における四川省の年次別食糧徴発量の平均値は約90.8万トンである。この数字を100とすると、人民共和国初期の四川省の場合、農業税だけを徴収していた各年度の指数は、1950年が234、1951年が243、1952年が301となる。
以上のような、両政府間の食糧徴発量における隔絶の程度は衝撃的である

p252
中国の場合、空前の規模で行われた戦時徴発を支える末端行政の統治能力は極めてルーズであり、それを受け止める社会の側にも受け皿となる組織性は乏しく、国民意識の浸透も弱かった。そうした社会条件が、ただでさえ過酷な戦時徴発を極めて不均等で粗暴なものにしたのである
一言で言えば、銃後の中国社会は、社会秩序そのものが崩壊しかねないし深刻な様相を呈していたのである

p269
1998年の夏、国史館という台湾の歴史文書館で中国国民政府の糧食部檔案(戦時食糧政策に関する行政文書)を初めて閲覧


中国史 下 近世~近現代
富谷 至  森田憲司 編

必要な点は、メモした。

五代・契丹・宋・金
p3
沙陀
トルコ系遊牧民

p4
中原「五代」政権のうち、この後唐に始まる後晋、後漢、後周と北宋の各王朝は、いずれも沙陀あるいはその配下の軍団を背景に持つ軍人が建国しており、一連の「沙陀王朝」とみなすことが可能である

p21
北宋の軍隊は大多数が募兵制で雇われた傭兵部隊だったため

p51
木版印刷の技術は8世紀にはすでに発明されていたが、10世紀から11世紀にかけての北宋の時代に本格的に普及するようになる

p55
この時代のユーラシア東方各国における宗教に係わる共通現象として、仏教の隆盛を上げることが出来る。なかでも契丹では仏教の流行がとりわけ顕著で

p57
各王朝で大蔵経が盛んに出版されるようになる。
開宝蔵は高麗、西夏、大越、日本など仏教が盛んな周辺諸国に下賜され、高麗では11世紀前半に下賜された開宝蔵をもとにして大蔵経を出版している(高麗大蔵経)。契丹でも11世紀半ばに大蔵経が出版された(契丹大蔵経)

元 村岡 倫
p113
マルコポーロ
中国の史書にはその名は全く登場しない

明 中島楽章
p131
14世紀、ユーラシア全体を厳しい寒冷化
ユーラシア全域が「14世紀の危機」と呼ばれる混乱期に入った

p136
「朝貢無くして貿易無し」という原則が明朝の対外政策の基本となった。
洪武14年(1381)
全国の総人口は6000万人弱だった。ただし、衛所の兵士などが含まれていないので実際の総人口は7000万人を超えていたようだ。それでも北宋末期の総人口が1億人以上だったのに比べれば、戦乱や天災により3分の2に減少していたことになる

p141
元朝の財政が、専売税・商税・関税などに大きく依存していたのに対し、明朝はあくまで農民からの穀物と労役の徴発に基づく農業帝国だった

p145
1403年
足利義満が明朝に朝貢使節を送り、翌年には正式に「日本国王」に冊封されている。朝鮮王朝や琉球王国に加え日本も明朝の朝貢国となり、冊封体制に組み込まれたのである

【「冊封体制に組み込まれた」の記述は、完全に誤りである。
中国文明の歴史 8
明帝国と倭寇
間野 潜龍
1967年刊行 新人物往来社
2000年 中央公論社 により再刊行

p142
朝貢規定が作られた。交際は原則として皇帝と国王の間に限られる。鎖国によって民間同士の交わりはあり得ないからである。
国王を詐称するものがるから、その身分証明書がいる。それを防ぐためのものが、表分と勘合制であった。表分は国王が派遣した使者が持っていく正式な外交文書である。それには規格があって、皇帝が国王にさずけた印跡と明の年号が書いてなければならぬ。この表分がないと一切入国できない。実は、この表分の有無、或いは表分の形式が、国体観の違いを反映して、日本との間で大揉めに揉めたのである
勘合の制とは、割符のことで
【支給されたのは】15ヵ国となった。ほとんどが南海諸国で、それ以外は日本だけだった

p143
明は国によって寄港地を指定する。浙江の寧波は日本、福建の泉州は琉球、広東の広州はチャンパ・シャムその他の南海諸国である

p163
洪武七年6月に来た足利義満の使者は、表分がないので退けられた。

p164
このあと連年入明する日本使者の国書が、書式にかなわぬとか、無礼であると難癖をつけられて退けた。
国交正常化が一向に軌道に乗らぬ上、一方、倭寇は絶えずやって来るとあって、
太祖は意を決して
征討軍を差し向ける書を送った

p165
太祖は日本征討を思いとどまった

p205
国書の形式は「日本准三后道義、書を大明皇帝陛下に奉る」となし、
明よりの漂着者を送還した
道義は義満の法名である
太祖の時、征夷将軍源義満の名で使いを出し、拒否されたが
建文帝は
寛大な政治方針をとったから
答礼使を出し
義満を正式に日本国王に封じ
義満はこの後日本国王道義の名をもって、明と通交した


p207
(義満の子、)次の将軍)義持は突如国交断絶を図り
明使を引見せず、その都度、追い返した

p257
全ての国が朝貢してくるのに、日本だけが久しくこないとあって、琉球を介してその旨を伝えさせた。
その結果が、永享4年(1432)の遣明船となったのである
(義持の次の将軍義教が)
この永享遣明船は5隻の船団からなり、持船主は、1号が将軍家、2号が相国寺、3号が山名家(以下略)
こうして貿易は再開された






p152
明朝の財政の運用も次第に現物から銀にシフトしていった。1530年代には
輸送コストが低い銀や綿布で代納することが認められた

p160
中国の総人口は、明初には約7000万人だったが、明末にはほぼ倍増し、清末には4億人に達した

清 岡本隆司

民国・現代 石川禎浩

中国史研究の手引き 森田憲司
p303
全国漢籍データベース





中国史 上 古代~中世
富谷 至・森田憲司 編

必要な点は、メモした。

総論 富谷 至
p5
論語の使用漢字は1500字あまり

p6
前漢末の統計によれば
5959万4978人
漢代では500人に一人が役人であった


p7
人口は天宝14年(755)段階で5291万9309人
150人に一人が何らかの意味で役人であった

p17
中国を武力で追って攻撃支配し、いわゆる漢人ーー上述のごとく、隋唐以降はもはや漢人王朝とは言えないのだがーーの国家を滅ぼして成立した王朝であった。

p28
殷は本来、都城の名前である。甲骨文では殷は「商」と自称しており、中国では商代・商王朝と言う呼び方が普通である

p30
甲骨文で、殷王朝は「大邑商」と自称している。殷王朝の都城が「大邑」であり、それが王朝そのものだったわけである
殷王の支配が恒常的に及んだのは、恐らくは今日の河南省北部・河南省南部あたりに限られ、

河南省北部・河南省南部は
a




p34
「天」の崇拝は周人に始まり、王は後に「天子」とも呼ばれるようになり、

秦・漢 鷹取祐司
p66
焚書令の目的は学者による政府批判の封じ込めなのであって、儒学弾圧だけを目的としているわけではない

p73
高祖末時点での郡国59の内、漢王朝の直轄郡はわずかに18であり、帝国領の2/3は王国領が占めていた
王朝と王国はほぼ対等の存在であって、郡国制とは漢皇帝を首長とする連合王国体制と考えるのが実態に近い

後漢・三国鼎立 角谷常子

p118
後漢王朝は、前漢以来育っていた各地の豪族の中から、南陽の劉氏が勢力を拡大し、他の豪族の協力を得て成立したものである。しばしば、豪族連合政権などと呼ばれるのはそのためである

p122
宦官、外戚、知識人官僚という後漢政治を特徴づける3つの勢力の権力争いと言う構図が出来上がっていくのである

p129
後漢の皇帝の即位年を見ると、明帝30歳、章帝19歳、和帝10歳、殤帝100日余り、安帝13歳、順帝11歳、沖帝2歳、質帝8歳、桓帝15歳、霊帝12歳、献帝9歳

p148
後漢末から三国期は、それまでの儒教一尊から、儒教・仏教・道教三教並立へ移行した時代である

p152
仏教がいつ中国に伝来したのかは定かではないが、前漢末から後漢初期の間と考えられている。

p153
道教の定義やその起源には議論があるが、およそ現世利益的性質を持つ民間信仰で

魏晋南北朝 藤井律之

隋・唐 辻井正博

p216
隋代の根本史料は初唐に編纂された「隋書」しかなく
州ー県の二級制は、清末に至るまで維持されることになった

p228
東突厥は一時滅亡した。情勢の変化を見て取った鉄勅(チュルク)諸部の君長たちは、直ちに長安で太宗に謁見し、「天可汗(テングリ・カガン)」の称号を奉った

p231
太宗が崩御すると武才人は出家して尼僧となったが、3年後
高宗の後宮に「昭儀」として迎えられ

p243
(758)「権塩法」即ち塩の専売制が導入された

p244
【両税法について】耕地面積と戸等に応じて銅銭と穀物を徴集する制度

p260
士庶の別と良賤制は隋唐王朝の制度を貫く原則である

p267
隋唐王朝は鮮卑系の遊牧国家の系譜を引く。
全く異質の論理を持つ人々が支配層となった北魏では貴族のあり方も変容し、隋唐王朝でもそれは引き継がれた







毛沢東の大飢饉
史上最も悲惨で破壊的な人災 1958-1962
フランク・ディケーター
中田治子 訳
草思社
2011年


メモすべき点は下記

p11
1958年から1962年にかけて少なくとも4500万人が本来避けられたはずの死を遂げたーーこれが本書の見解である

1958年から1962年の間に、犠牲者総数のおよそ6%から8%、数にして少なくとも250万人が拷問死おるいは尋問も受けずにその場で処刑された事実を推察することができる

p31
第二次大戦中の毛がスターリンから与えられたのは、飛行機一機の搭載されたプロパガンダ用の小冊子だけであった

p324
何故大暴動が起きなかったのか
飢餓が始まると腹をすかせた人々は自分が生き残ることで精一杯になり、造反や暴動どころではなくなるものだ。だが、党の档(とう)案館には飢餓の最後の二年間に多くの地下組織が存在したことを示す数々の証拠が残っている

p325
1959年3月に起きた暴動が武力鎮圧され、ダライラマの国外脱出という結末を招いた

p326
だが最悪時期に至っても体制が揺らぐことはなかった。
子細な反乱でも容赦なく鎮圧され厳しき処罰された

p406
档(とう)案館とその収蔵資料が完全に公開されるまで、我々はこの大惨事の全貌を知ることはできないだろう







中国人の宗教
マルセル・グラネ
栗本一男 訳
東洋文庫
1999年

翻訳で読んですらフランス人らしい気取った文章と内容である。驚くのは、
①出典を全く明示していない
②記述も一見、中国のどの時代を対象とし、どの地方を対象としているのか?が明らかではない
等々であり、日本では絶対に受け入れられない内容である

底の浅い内容は、注と参考文献と(歴史の場合は、)引用出典を見れば、すぐばれる。

原著では出典記載がないが翻訳者が苦労して探し出し、巻末にまとめている。それを見ると「農民の宗教」と題する第一章の出典は、ほぼ詩経である。詩経はあくまで詞に過ぎない。そこから、農民の生活や宗教など類推以外には絶対にわからない。にもかかわらず、農民民の生活について長々と書いている。他の章でも、詩経と礼記が出典の大部分を占めている。特に、道教に関する箇所については、著者は恐らくは何もわかってはいない。

これだけから見れば、くだらん内容のはずなのであるが、メモした内容は、恐るべきことに結果としては、すべて正しい。ホイジンガを読んだ際にも感じたが、フランス人やオランダ人はこの手の書籍を読むのに苦痛を感じなのであろうか?

p10
封建宗教の描写
現存する当時の文献の大部分が山東地方の魯の国のものであるので

p12
道教は中国固有の世界概念を示しているように見えるが、宗教としては公教がその硬直化の過程で追放した、民衆の習俗や伝統の逃げ場となった

第一章 農民の宗教
p16
都市生活と農村生活の対立は中国社会の根本的な特徴である

p17
(遅くとも紀元前8世紀かあるいはそれ以前に始まり紀元前2世紀に終わった)封建時代の初期から終わりに至るまで

p44
中国には神話が極めて少なく、神の姿が少ないことは特に顕著である

p52
貴族の生活
都市を持たない君主は無く君主のいない都市は無かった

p120
儒者
この公教が封建時代の宗教と異なっていた点は、これが特定社会階層に限られたものでなかったことで、ある意味では国民的宗教と言える

p197
仏教が中国で信用を勝ち得るに至ったことはまさに驚嘆すべきことであった

p198
中国人は迷信的実利主義とでも言うべき立場をはっきりとり、効能があれば何でも無制限に受入、全てを少しづつ試してみるが
しかし心の底で尊ぶのは伝統しかない

p209
信仰の大いなる志が宗教精神を形作ると考える人にとって、中国人はまさに宗教を欠いていると言えるかもしれない

p211
中国を観察している人たちの言うところでは、中国を支配する一つの信仰がある。それは聖霊に対する信仰で、この国のあらゆる階級の人が心の奥底に共通して持っているものであるとされる。仏教と道教の神学者が中国に神や悪霊の多神殿を与えたことは確実である

生活の世界歴史 2
黄土を開いた人々
三田村泰助
河出書房新社
1991年

内藤湖南から直接教えを受けた者による著作。さすがとしか言えないが、道教に関して初めて明確な説明に接することができた。他の者は誰も道教についてその本質を知らないのだ

p40
元では中央政府の直轄地を腹裏といい、それ以外の地方を10行省にわけた。
これらの地方行政区域は、その名称と共に明・清を経てほぼ現代にはで引き継がれている
ここに中国社会には、省を基盤とする郷土意識が発生し、強弱の違いはあるが、それが1個の伝統となった
【①腹裏はモンゴル語ではオングト②三田村氏はご存知ではないであろうが、朝鮮半島も、常設された征東行省である。高麗国王が、征東行省の長官であった】

p42
中国人も公務員になれた。それは事務専門の下級吏員、中国流にいうと「胥吏」である。しかしこれはいわゆる「品官」ではない。
これが劇的に明確になったのは元代からとされる

p53
明では洪武3年に科挙が開始され
特筆すべきは、この時東アジアにおいて中国文化の及ぶ国と見られた高麗や南の安南、占城(チャンパ)にも郷試を行うことを許していることである
朱子学が
国家公認の学説とされたところに明朝の文化政策の革新性が見られる

p62
中国では穀物の主なものを含めて五穀というが、その内容を漢代についてみると、「アワ、キビ、ムギ、ダイズ、アサ」の5種類でコメは含まれていない

p73
小作人を通常「佃戸」と呼ぶ

p83
「礼記」王制編は次のように言う
「東方を夷
南畝を蛮
西方を戎
北方を狄」

p92
【ヨーロッパと異なり東アジアでは専制君主制であった理由として】
東洋的専制君主の特色を挙げて、それが聖俗両権を持つことにあると述べたが

p97
明朝で制定された宗教儀礼の一端を見たわけだが、
極めて異様なものである点に気がつく
原始宗教の面影を持ついわゆる自然教とも言うべき性格と言える
未開な自然教に基づいて
皇帝が祭祀を行うのであろうか。しかし、実際はそうではない
皇帝の祭司そのものは儒教の礼制に基づいている

p122
中国において、易姓革命という思想はいつごろ成立したのであろうか。

p123
易姓革命思想は孟子の提唱するところであった
殷周にみられる祭政一致の政体では、王は上帝ないし天の祭祀権をもつことによって、号令権を行使しえた。そこでは、王は宗教を背景として、その正統性はゆるぎなきものとされた。しかし、その後に見られる周室王権の凋落は事態を大きく変えた。そのことはまた、天の信仰の在り方に反映した。

p124
戦国時代の激動期になると
天の信仰の喪失につながる
ここにおいて、人間の理性に補強されて天の復権が意図された。こうして成立したものが天明思想である。それは半ば信仰的、半ば理性的といった性格のものだろう。いずれにしても中国人は天を抹殺するわけにはいかなかったのである
彼らの農耕は全面的に天に依存し、生殺与奪の権は天の掌中にあったからである。このようにして再生した天明思想に基づいて、政治思想家の孟子は、易姓革命を説いた


p137
朱元璋は死の前年1397(洪武30)年に大明律を公布した。この法典は次の清に受け継がれ、前後550年もの間中国社会を規定したわけだが、さらに日本・朝鮮・安南の法令にも影響を与えた点では、東アジア的意義をもつものであった

p148
我が国の朝貢使節策彦の「入明記」

p152
明の実録では、このとき策彦たちを「日本王源義晴」の使者と記している。いうまでもなく室町幕府12代将軍足利義晴のことである

p183
康熙帝の調べによると、明末の宮女の数は9000人に及び

p197
大明律には「師巫の邪術を禁止す」という条項がある
この条文を読むと民間の低俗な巫の活動や既存の白蓮社などの宗教が何故死刑とか流罪といった重い刑罰にふれるのか理解に苦しむであろう
この種の宗教活動は中国社会では、常に反乱さらに革命につながる性格を持っていたからである

p215
中国における塩の専売制は漢において初めて施行され、以後断続的ではあるが清に至るまで、2000年間続けられた。中国以外の世界には全く例のないことである

p216
塩による収益は国家財政上どれくらいの比率を持つかと言えば。明代を例にとると
歳入の半ばを占めている
宋・元・清の場合もほぼ同じような比率であった

p219
塩の生産原価はあってないような低廉なものであったといえよう

p220
ここに私塩の利を求めて、宗教的秘密結社や侠客集団による組織的活動が活発化し、大規模な私塩網が結ばれ、

p223
海商王国と言われる福建
太祖は海禁令をしいた

p225
遠洋航海用の大型船舶が作られるようになったのは宋代と言われる
5、600人も載せるような5千石船が登場してきた

p236
物欲が革命のエネルギー
中国近世の反乱や革命の主因がほとんど物欲主義にあったと言ってよいであろう


p238
中国人は例えばキリスト教徒や仏教徒が信じるような現世と違った死後の世界の存在を一切認めないのである。彼らにとって確実にあるものは現世だけであった
中国人が異常なまでに生命に執着する理由は、ひとえにこの点にあった。ここから道教が生まれる。


現世主義
中国で作られた唯一の民間宗教は道教であるが、この宗教の最終目的は周知のように不老不死の選任になることとされる

p239
もともと宗教は現世を悪として否定し、そこから善なる未来像を描く図式を一般的とするものであるが、道教ではその逆に現世を肯定し、未来像を必要としないのである。ここに道教のユニーク性があり、一面中国人の徹底した現世主義を知ることができよう

p240
道教経典の「功課表」がある
葬式をしないで放置しておくとマイナス100点
兄弟が財産争いしないときはプラス12点


p285
近世中国農村の実体は正確には良く分からないというのが実情であろう。そうなった主な理由は記録がほとんどないからである。
清末に書かれたスミスの「志那の村落生活」(塩谷、仙波訳 生活社刊)をみると

p350
明の万暦の中頃
金瓶梅
【あらすじが書かれている】

p309
元来儒教の究極の目的は、理想的政治を行う人間の養成にあった

p312
以上が朱子学の素描であるが
ここに人間の平等性の根拠があり、それを背景に何人も聖人となりうる可能性を説いたのである
こうして朱子によって新たな儒教的世界観が創造されたのであった

p355
纏足
何故この奇習が普及したのかという真相に至っては到底理解しがたいことをはじめに告白しておこう

p364
ウィットフォーゲルの征服王朝説を紹介しよう
彼の説は主として西欧志那学者の説く吸収理論に対する懐疑から出発する。吸収理論とは
北方民族が中国に侵入しこれを支配した場合、政治的には中国を征服するが、文化的には逆に中国に征服され、挙句の果て中国社会に吸収されてしまうというものである





戦争の歴史 日本と中国
こんなに違う日中の戦争観
黄文雄
2007年
ワック株式会社

(1)中国正史検索サイトでの結果
人相食
中国正史サイトにて、膨大な量がヒットする。これだけで、研究者なら論文書くことができる
意外であるのは、清史稿が25カ所と最も多く、確かに、黄氏の長年の研究どおりの記述がある

*清史稿(籠城に伴う記述)
頃大凌河之役,城中人相食,明人猶死守,及援盡城降,而錦州、松、杏猶不下,豈非其人讀書明理盡忠其主乎?自今凡子弟年十五歲以下、八歲以上,皆令讀書

*明史(大干ばつに伴う記述)
是秋,陝西、山西大旱饑,人相食。停歲辦物料,免稅糧,發帑轉粟,

(2)明実録、清実録、朝鮮人どもの猿真似記録 検索サイトでの検索結果
人相食での検索結果
*朝鮮人どもの猿真似記録=朝鮮王朝実録では18カ所と意外に少ない。
*清史稿に人相食の記述が多いにもかかわらず、清実録が5カ所であるのは、清史稿の作成における意図的操作がなされたと考えるしかないように感ずるが、よくわからん???。
*中国清朝の公式記録である清実録では、検索で一つのページに清時代における災害・飢饉等の異常事態がまとめられている。

乾隆帝統治下で山東省全域で人肉食があったことが解り、イメージが覆る。省レベルでは、この1回きりであり、道光帝十三年は記述が曖昧過ぎる。(全国的なものであった可能性もある)

順治元年春,荊門大饑。冬,鄖縣大饑。二年,棗陽、襄陽、光化、宜城大饑,人相食 。三年,太平、瑞安、崇陽大饑。四年,蘇州、震澤、嘉定、太湖、潛山、石埭、建德、宿松、江山、常山大饑。五年春,廣州、鶴慶、嵩明大饑, 人相食 
康熙
三十七年春,平定、樂平大饑, 人相食 
四十二年夏,永年、東明饑。秋,沛縣、亳州、東阿、曲阜、蒲縣、滕縣大饑。冬,汶上、沂州、莒州、兗州、東昌、鄆城大饑, 人相食 。四十三年春,泰安大饑, 人相食 ,死者枕藉;肥城、東平大饑, 人相食 ;武定、濱州、商河、陽信、利津、霑化饑;兗州、登州大饑,民死大半,至食屋草;昌邑、即墨、掖縣、高密、膠州大饑, 人相食 

乾隆
五十一年春,山東各府、州、縣大饑, 人相食 
道光
十二年春,昌平饑。夏,紫陽大饑, 人相食 
十三年春,諸城、日照大饑,民流亡。夏,保康、鄖縣、房縣饑, 人相食 
十四年春,歸州、興山大饑, 人相食 
二十七年,南樂饑, 人相食 

咸豐二年春,日照大饑。夏,全縣大饑。六年,黃縣、臨朐饑。七年春,肥城、東平大饑,死者枕藉;魚台、日照、臨朐亦饑, 人相食 

同治
五年,蘭州饑, 人相食 
七年春,即墨、孝義廳、藍田、沔縣饑。夏,涇州大饑, 人相食



(3)検索語句の検討
一般的な表現として 相食 が最も適切であり、相食=人肉食である。これ以外に無い。
人相食、民相食、人至相食 等々があり、人を削除して、相食での検索がベストである

朝鮮人どもの猿真似記録 62ヶ所とヒット数多いが、調べて見ると、実際に人肉食が、あったと思われるのは3回から4回であるが、中国とは条件が全く異なるので、やはりというしかない

1


2



3

4



5

p36
【元寇に関する記述として】
中国史上、海を渡っての遠征はモンゴル人の元のみであった

p73
三千年の防衛思想を大転換した中国

p74
国家戦略を「守勢」から「攻勢」に転じたのである
この「戦略的国境」とは「戦略的国境は、国家民族の運命を左右するもので、大陸棚、公海、南・北極、宇宙3次元を含むものでなければならない」としている

p75
中国人民解放軍は1987年
「地理的国境」の考え方から「戦略的国境」の考え方への転換を主張し、鄧小平の支持を得て国防戦略が守勢から攻勢へと転換した
中国の国家戦略が「陸」から「海」に変わったのは中国三千年史のなかで、初めての戦略大転換であった

p193
「三光作戦」
この「光」とは「からっぽ」という意味の中国語であり、日本語などではないことから、これも中国人の創作であることが分かる

p233
中国は唐以降から食人の風習が定着しているので、人間が多元的な食物として発展していった。それは私が数十年かけて中国の古典を渉猟し、百以上の食人籠城戦を研究したことから得られた、中国兵糧の特質である

p237
軍隊が民衆を捕食するのは、唐末が最盛期である

p247
専ら弱者を捕食する「食人集団」も現れた。史書はそれを「餓族」あるいは「噉人族」「飢寇」と称する

p256
軍中で食用人間を飼育する「宰殺務」
五代の時代(907~960)軍中に「宰殺務」(屠殺係)の役職が設けられ、専門に「高等哺乳動物」である霊長類・万物の長を飼育し、食用に供したことが伝えられている







中国全史
6000年の興亡と遺産

マイケル・ウッド
須川綾子 訳
河出書房新社
2222年

単なるジャーナリストが書いたものとしては、良くできている。歴史というよりも、歴史上の人物に焦点を当てた内容であるが、朱元璋以外は割愛した。しかし、著者は、朱元璋がまさしくバケモノともいうべき側面を有する人物であったことを知らないようである

p18
【朱元璋についての記述】
p18
彼は商業を好まなかった。それどころか弾圧令を発したほどだ。
洪武帝は中国全土の村で110戸を一つのグループとした。その中の規模の大きな10戸が全戸の納税を管理し
11戸のそれぞれの長が里長となり、1年ごとの輪番制で里全体の責任者を務める
p29
15世紀になると
人口は2億人を突破した
世界の人口の4分の一から3分の一が明の支配下に集中していたのは驚くべきことだ

p36
明の法律では庶民を含めて誰でも皇帝に嘆願することが認められていた

p37
率直な陳情が認められる可能性は僅かだった
歎願者が厳しく罰せられる事態も後を絶たなかった

p46
明は女性作家の全盛期でもあり、現在出版されている選集には多数の女性作家が収められている

p96
1710年から編纂された「康熙字典」は約49000の文字を大量の引用や例証と共に説明しており

p157
【太平天国に関する内容として】
アヘン、タバコ、酒、纏足、売春、賭博を禁止し

p164
16年間の戦乱とそれが南部に及ぼした余波により、死者数は推定2千万~3千万にのぼるとされている

p192
1907年に中国で起きた飢饉は短い期間の出来事だったが、それでも2500万近い人命が失われた

p231
【文革に伴う飢饉について】
3600万人がなくなったと見積もられている。
中国の大飢饉は人類史上最悪ということになる

p286
習近平時代
現在人口の上位1%が国の富の半分を所有している

p299
訳者あとがき
ウッド氏は、BBCで歴史を題材としたドキュメンタリー番組を制作してきました



中国文明の歴史
岡田英弘 東京外国語大学名誉教授
講談社現代新書
2004年

2004年時点で東京外国語大学名誉教授であるからして、ずっと、東京外大学教授であったようである。 歴史とは完全に無関係の大学であり、教養課程で教えていたのであろう。変な勘繰りかもしれないが、支那学の長い研究史を有するフランスで出版された中国史の概要本を主に参考にして書かれたのではなかろうか?

p65
三、中国の官僚
原則として無給

官僚も小吏も原則として無休だということである、官僚はその地位を利用して適当に稼ぐものとされ、そのため賄賂はあまり程度が酷くない限り、合法であった

官僚の収入の大部分は田祖を取り立てた残りである

p150
二、新儒教
宋代にいたって、道教中心の思想体系はそのままに、ただ用語を古い儒教の経典のもので置き換えた新儒教が出現した。
朱熹の手によってこれが完成し、総合的にな思想体系となった。これが新儒教で、また宋学、朱子学、道学、性理学ともいう
新儒教は、万物の根源を理・気の二気とし、気よりも理に優位を与える理学を唱えた

p152
元朝が初めて1314年に朱子学の解釈を基準とした科挙を実施し、それ以来、新儒教は中国の国境となった

p153
三世紀の【いわゆる魏志倭人伝】以来、大陸では、日本列島は南北に細長く伸びて、華南の東方海上に達していると思われていた。それで、フビライ・ハーンは南宋に対する作戦の一環として、日本列島を占領して、背後から南宋を突こうと考え


岩波講座 世界の歴史 07 東アジアの展開 8~14世紀

下記メモ部分以外に目立つ箇所無し。岩波講座の歴史シリーズは、論文と一般向け著作の中間のような内容が多い

矢木教授は論文多数でろうが、検索するとどうゆうわけか?朝鮮史の転回点となったことは確実であるにもかかわらず、最も肝心の高麗へのモンゴル軍侵攻に関する論文が無いようである。

p276
【この部分は矢木毅、京大人文科学研究所教授、朝鮮中世史が専門】

朝鮮半島の人々は、数千年にわたる中国との交流を通じても、ついに自分たちの固有の文化や言語を失うことはなかった。これはほとんど奇跡といってよい程のことであるが、
中国本土と朝鮮半島を結ぶ「遼西・遼東」の地域ーー遼河の東西の地域ーーは古来必ずしも韓民族の支配する地域ではなかった。そうしてそのことは、中国本土と朝鮮半島を適度に引き離すことにもなった。しかし、この地域が契丹や女真などの北方民族によって支配されると、朝鮮半島の人々は大陸との陸路の交通路を失い、危険な海路による交通ーー具体的には山東半島を経由する北路と江南に直航する南路ーーとに頼らざるを得なくなった





大清帝国と中華の混迷
興亡の世界史17
平野聡
清朝におけるチベット仏教の影響に関する記述が印象的であった

p85
実際、イスラム教徒や貴州・雲南など非漢人からも科挙の合格者を輩出している

p88
漢字文明を生み出した「中原」の地である黄河の流域(厳密に帰せば。西の秦嶺山脈から東の淮河を結ぶ線から北)は、遠い古代においてはそれこそ豊かな森に包まれた水と緑あふれる台地であったらしい

p161
擁正帝は熱心なチベット仏教徒でもあり
皇太子時代に住んでいた邸宅をチベット仏教寺院に改装もしている

p189
乾隆帝は、
莫大な費用を投じて空前絶後のいきよいでチベット仏教寺院の新築や増築を進めた。

p243
1850年に発生した太平天国事件
2000万~4000万人に上ると言われる犠牲者


興亡の世界史 5
シルクロードと唐帝国
森安孝夫
2007年
講談社


メモ中の赤字・大文字が最重要である。非常に優れた研究者である阪大の森安教授ですら、李氏朝鮮が完全な奴隷制社会であったことを御存じでなないのだ! 古代ギリシャ、古代ローマは、同じ人種の被征服民、近代アメリカ合衆国南部、植民地時代のカリブ海沿岸諸島やブラジルは異なる人種がそれぞれ奴隷であった。

中国史書で古くは「生口」と表現される奴隷=奴婢制度は、日本では平安時代末期に禁止令により消滅、中国でも同様に、制度としては宋代には消滅している

精神面では完全なDNA異常民族であることが、遺伝学論文から見て100%確実である朝鮮人どもは、19世紀末まで完全な奴隷制社会を堅持していた。このこと自体が、まさに驚くべきことなのだ。

しかし、現在の日本では、在日朝鮮人どもの朝鮮史美化運動の影響により、李氏朝鮮が奴隷制社会であったことはほとんど知られていない。

私が、李氏朝鮮が奴隷制社会であったことを知ったのは、李氏朝鮮経済を専門とする宮嶋氏の著作からであるが、宮嶋氏や武田氏のDNAが日本人であったからこそなのである。恐らくは、推定で50%程度がパーソナリティー障害(憤怒調節障害=間欠性爆発障害)を有し、精神面では完全なDNA異常民族である在日朝鮮人どもによる必死の朝鮮史美化運動に対する鉄槌の一つとして、李氏朝鮮が奴隷制社会であったことがもっと広く知られるべきなのである

DNA異常民族どもは、現在は完全な「とどのつまり」にきており、2022年の韓国の合計特殊出生率は0.78という平時において絶対にありえない人類が未だかつて経験したことがないレベルにまで低下している。

何とかして、現在ロシアと戦争中のウクライナの2022年の合計特殊出生率の推定値を入手しよう。恐らくは、0.7程度であり、それによって、韓国社会がどれほど異常な社会であるのが、鮮明になるはずである。そして、そのような異常な社会を生み出す原動力は、朝鮮人どものDNAの異常性でしかありえないことは、容易に誰にでも想像しうるからであろう。

私が書いたFDAによる集団遺伝学論文=現代韓国人を韓国人以外の者が分析した唯一の論文についての解説記事は、正確な内容ではあるが、難しすぎて、一般の日本人には理解が極めて困難である。

しかし、李氏朝鮮が完全な奴隷制社会であったことの異様性は、恐らくは誰にでも、理解しうるはずである。精神面で異常なDNAを有する民族は、異常な歴史・異常な社会を形成せざるを得ず、集団遺伝学で言うところの負の自然淘汰により消滅せざるを得ない。しかし、現在の集団遺伝学の水準では、負の自然淘汰は、肉体面の形質のみでしか検証しえないのだ!

p15
唐代の人口は5000万。仏教僧侶は、お上の認可を上けていない私度僧を含めれ少なくとも万人を超えていたと思われるから、100人に一人が仏僧であったことになる

p30
トルコ民族の場合、唐代まではほとんどが黒髪、直毛、黒目のモンゴロイドであったが、

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p32
実は古い時代のウイグルが民族集団として活躍するのは唐帝国からモンゴル帝国の時代までであり、それ以後ウイグルの名前はいったん消滅する。ウイグルの流れをくむが、モンゴル時代以降徐々にイスラム化していった東トルキスタン東部のトルコ人たち、並びにそれよりも早くカラハン朝統治下のイスラム化した東トルキスタン西部のトルコ人たち
それが20世紀前半になって東トルキスタンの政治的統一に迫られた時、かつて栄光に包まれていたウイグルの名前を全体名称として採用するのである。つまり本来ウイグルではない旧カラハン朝統治下のカシュガル人・コータン人までもウイグルと呼ぶようになったのであり、古代ウイグル史を専門とする私に言わせれば、こうした新ウイグルは偽ウイグルである

トルコ民族のように、1民族が複数の人種からなることも往々にしてあるのである

p64
シルクロードとは決して線ではなく面である

p68
シルクロード貿易の本質は奢侈品貿易である

p90
ゾクト人の故郷・ゾクディアナ
ゾクディアナはユーラシア大陸のほぼ真中に位置し、パミール高原から西北に流れアラル海にそそぐアム河とシル河に囲まれ

p92
ゾクディアナは現在そのほとんどがウズベキスタン国に属するが

p94
ゾクト人は人種的にはコーカソイドであり、身体的特徴としてはいわゆる「紅毛碧眼」で代表されようが
言語は今では滅びたゾクト語である

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p138
唐は漢民族王朝ではない
近年では
隋・唐でさえ鮮卑系王朝とか「拓跋国家」などといわれている

p140
唐の世界主義・国際性・開放性は、もともと唐が漢民族と異民族の血と文化が混じり合うことによって生み出されたエネルギーによって創建された国家であるという本質に由来し

では唐帝国創建の中核を担った異民族とはいったい何者であったのだろうか。
鮮卑系集団であることは今や定説である

p182
漢語が宮廷言語・統治言語であったゆえに、私は隋唐を遼・西夏・金・元・清のようなレベルのいわゆる「征服王朝」と同列に置くことはしないのである

p237
奴隷はいたこと、奴隷制があったこと、そして奴隷制社会との3者は厳しく辨別されねばならない。人口の20%以上を奴隷が占める場合を奴隷制社会と定義するならば
古代ギリシャを世界史上最初の例として、古代ローマと近代アメリカ合衆国南部、さらには植民地時代のカリブ海沿岸諸島やブラジルなどが奴隷制社会に当たる


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p241
唐代の人民の身分は、「良」と「賤」に二大別された。これを良賤制という。良民は全て独立の戸籍を持つが、賤民は独立した戸籍を持たない

天下と天朝の中国史
岩波新書
壇上 寛

著者独自の視点で描いた中国通史。中国史マニアのくせに、漢の一文字がかつては侮蔑的意味合いを含むことを初めて知った。しかしながら、今日の日本では卑劣漢・悪漢などは、単に卑劣な男、悪い男を意味するに過ぎず著者の言う通りではない。ちなみに、中国の正史を検索すると確かに著者の言う通り悪漢という表現が初めて使用されるのは新五代史が初めてである。しかし、検索ヒット数は非常に少ない

p12
(五胡十六国時代)胡族は漢人のことを
蔑んだため、漢という文字が侮蔑的な意味で使用されるようになる。
後に人を面罵するときに悪漢、卑劣漢、痴漢など漢の文字を用いるのがそれだ

p46
五胡とは、匈奴・羯(けつ)、鮮卑、氐(てい)、羌(きょう)
氐(てい)、羌(きょう)がチベット系の民族だというのは、ほぼ定説となっている

p197
「明太祖実録」
かつて夷であった元も有徳の君主(クビライ)が天命を受けたことで、中国にはいいって中華の地を統治した。だがすでに徳を喪失して、夷に戻った現在、中華の地を去って新たに有徳の君主(朱元璋)にその地位を譲るべきである。元が異民族だから中国から放逐しようというのではない。

p240
古来、中国は夷を吸収して華とすることで領域を拡大してきた。もともと華と夷の両者を含む多民族複合国家が中国である


p251
南の中華
10世紀に独立して以来、中華王朝の冊封を受けながらも皇帝を称して独自の年号を建て
周辺諸国には
「南の中華」として上から目線で振る舞った
明や清を自国と対等な「北朝」と呼ぶなど、南の中華の矜持をかざして中国の向こうを張った
国内では大越という正規の国号を用いつつも、朝貢時には中国から命名された安南国の使用を甘んじて受け入れたからだ

p265
梁啓超
従来、多くの王朝が興亡したものの、日本国号のような時代を超えて呼称される国名が存在しなかった。そこで彼は天下の中心にあって文明の高い地域を漠然ととして指す中国という概念を新たに国民国家の名称とするように提唱し、後世それが受け入れられ次第に定着したわけだ



世界の教科書シリーズ②
中国の歴史
中国小学校社会教科書
大沼正博 訳

①鄭成功を民族の英雄として記述し絵入りで3ページにもわたって記述しているのには驚いた。しかし、鄭成功の母が日本人であった旨の記述はない
②全体の半分近くは、近現代史に当てられている
③記述内容は、存在が確定していない夏王朝等神話レベルを除けばほぼ完全に中国の歴史的事実と合致している。キチガイども=韓国の歴史教科書に見られるような独立戦争で朝鮮独立を自ら勝ち取った式の異常なレベルでの歴史の捏造・歴史の創出は全く見られない。韓国人という精神面での完全なDNA異常民族とは異なり、「我々は優秀な民族」式の記述は一切ない。中華(民族)という言葉すら登場しない。第3章で、紙・羅針盤・火薬等を紹介しているが、全て事実であり、キチガイどもとは全く異なる。
④中国が多民族国家であることを繰返し強調している内容であり、清・元についても正確に記述し、女直人(女真)、モンゴル人に漢民族が支配されたと云々式の記述も当然全くない
⑤明・宋という完全な漢民族王朝に関する記述が全くない。南宋によるモンゴルへの抵抗についても一切記述がない。歴代王朝について、記述しているのは、漢を除けば、全て漢民族以外の王朝である。唐については、現在では、漢民族王朝ではないというのが、日本では主流の考え方になりつつあるが、中国の歴史学会でも同様なのであろうか?。
⑥中国の小学生は、正しい歴史認識を持つであろうの一言に尽きる。やはり、韓国人という完全なDNA異常民族の精神面での異常性は、小学生向け歴史教科書を見ても明白そのものである。


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シリーズ 中国の歴史①
岩波新書
中華の成立 唐代まで
渡辺信一郎

第一章の参考文献として、篠田謙一編「ホモサピエンスの誕生と拡散」が記載されており、正確な記述は同書によると思われるが、大元は、斎藤教授の下記論文であり既にメモしている

遺伝 子か らみた東ユー ラシア人
斎 藤 成 也
地学雑誌 02年12月2日 受 理

問題 は中国の春秋 戦 国時代 と漢代 の2集 団である。前 漢末期 の臨淄集 団が,現 代 東 アジアか ら離 れて,中 央 ア ジアの 集 団の中 に入 り込 んでいる。 さらに,春 秋戦国時 代 中期 の臨 集 団は,明 確 に ヨーロ ッパ集団 と近 い関係 となってい る。

この集 団の遺伝 的近縁図 に つ い て も,い ろいろ な解釈 が あ りえるだ ろ うが, 当時の中国 には,現 在 とは遺伝 的にかな り異 なる 人々が あち こちに移 り住 んで いた可 能性 が あ る


2022-02-02 (3)


は、次のとおり

読み

音読み
訓読みくろむ」




p5
現代中国人のミトコンドリアDNAを分析してみると、南部ほどその多様性が大きく、北へ行くほど小さくなる。その結果中国大陸へ向かう人の移動経路は東南アジアから北方へと進んだという見解が主流となった

p6
2500年前の臨淄の人類集団は、現代ヨーロッパ人集団と現代トルコ人集団との中間に位置し、ヨーロッパ人類集団により近い存在だった。

また、2000年前の臨淄の人類集団は、現代東アジア人人類集団の外側に位置し、ウイグル人・キルギス人など現代中央アジア人集団に含まれるという

臨淄は、前11世紀半ば、西周の初めにチベット系の羌族に出自する太公望呂尚が治めた斉国の国都である。春秋時代はおろか、漢代の臨淄にも現代の漢族とは異なる人間集団が住んでいて、しかも感じを用い、古典漢語で文章を綴っていたのである

の字には少なくとも、コウ・ キョウ・ えびすの3種の読み方が存在する。
[中国語]Qiang

  • [歴]中国西北辺境、青海を中心に住んだチベット系の遊牧民族。
    戦国時代から中国の西北辺、今の甘粛・西蔵・青海方面に拠り、漢(Han)初、西羌(XiQiang)と呼ばれ、匈奴(Xiongnu)と連合して西境を侵す。
    五胡十六国時代には姚(Yao)(ヨウ)氏が後秦(HouQin)を建国。
    唐代には党項(Dangxiang)(タングート)の名で知られたが、吐蕃(Tufan)(トバン)に圧迫され、一部はその支配下に入り、他は寧夏(Ningxia)方面に移つり11世紀には西夏(XiXia)(セイカ)(1038~1227)を建てた。せいか(西夏)。
  • ちあんぞく(チアン族、羌族)



  • p21
    日本の研究者も二里頭文化とのかかわりから夏王朝の実在を説く人も多くなった

    p26
    文献上の伝説では
    紀元前1046年頃
    殷を滅ぼした

    p87
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    シリーズ 中国の歴史④
    陸海の交錯 明朝の興亡
    檀上 寛
    明史に関する恐らくは最も優れた解説であろう。明・清については、それぞれ、明実録・清実録がネット上で閲覧検索できるので、素人と専門研究者の差は事実上ない。

    朝鮮王朝実録は、明実録の真似をしたものに過ぎない。バカな韓国人は、朝鮮王朝実録のみが生の記録と考える場合が多い

    p19
    明の税制度は宋と同じ両税法で夏と秋に徴集されたが、特徴的なのは米・麦などの現物での納入が義務付けられたことだ

    p22
    都合10万人の犠牲者を出して明の絶対帝政は完成を見る

    p32
    朱元璋の政策は社会の予想をはるかに超えてあまりに苛烈かつ酷薄であった。元末の秩序崩壊を経験した中国社会は狂気と信念の非人間的な皇帝を明初という時代に生み出してしまったわけだ

    p43
    この反乱の最中に明が発令したのが海禁である。沿岸部の住民の出海を禁止して海上勢力との結託を防ぎ、海上の混乱を鎮定しようとしたわけだ

    p46
    朱元璋がここまで周辺諸国の朝貢にこだわった理由は他でもない。まずは国防上の理由に起因する。明からすれば周辺諸国をすべて朝貢国とし東アジアに国際秩序を確立せねば安全保障は担保されない。なかでも日本を冊封して臣下にすることは、倭寇の被害に悩む明にとり必要不可欠であった。日本招撫に何度も失敗しながら朝貢を求め続けたのは、日本を手なづけ倭寇の被害をなくすためであった

    p50
    海禁は第一次的には海防を目的とし、沿岸部の治安維持こそ明朝の最大関心事であった。だが、民間貿易の禁止で国家の貿易独占という格好の事態が生じ、
    さらに周辺諸国がこぞって朝貢したため、国際秩序の形成・維持にも大きく貢献した
    海禁と朝貢制度が連結して一つの国家システムが形成された訳で

    p79
    現物経済から銀経済へ
    15世紀中葉になると社会構造にも変化が兆だす。

    p80
    民間では禁令に反して銀使用が盛んになっていった。

    p86
    明の朝貢一元体制は長城と海禁とで華と夷を分離し、朝貢制度によって改めて華夷の統合を図る巧みな方策であった。
    もとより明朝は民間人が自由に出国することを禁止しており

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    p92
    日本が10年1貢・船数3隻・人員300人に制限されたのは、景泰4年(1453)に船数9隻・人員1200人で入貢した第11次遣明使節の時だと言われる



    草原の制覇 大モンゴルまで
    シリーズ 中国の歴史③い
    岩波新書
    古松 崇志

    中国の史書に依拠した従来の手法ではなく、中央ユーラシアという視点が必要なのは当然であるが、文字資料が極めて少ないはずだ


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    p9
    アジア史研究ではここ20年余りの間にこれを一つの歴史世界と見る「中央ユーラシア史」という歴史研究の枠組みが定着している

    p20
    要するに中国本土の歴史は、狩猟民・遊牧民の軍事力を中核とする王朝国家の支配

    p35
    突厥碑文によれば古代テュルク語で唐のことを拓跋がなまった「ダブガチ」と呼んでいた。草原の遊牧民の間では、唐朝は「拓跋」だと認識されていたのである

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    p74
    中央ユーラシアの遊牧王朝に共通する特徴として、複数の遊牧民族がそれぞれの集団のまとまりを保ちつつ連合する部族連合体を作り、中核となる部族の指導者が君主となるという構造があげられる



    物語 中国の歴史 中公新書
    寺田 隆信

    中国の史書に依拠したのか?不明であるが、楽浪郡は、ほぼ朝鮮半島全域として、地図上に表示している。

    p16
    殷王朝は祭政一致国家であり

    p21
    いわゆる「殷周革命」であるが、その年代については諸説あって一致しない。大体前1050年頃であると考えられている

    p24
    共和元年(前841)は中国元年

    p66
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    p142
    則天武后
    太宗亡き後尼となっていたところを高宗に見いだされ、寵愛を受けて皇后となり
    父親の妾を妻にするなど、儒教の倫理からすると到底考えられない不倫行為であるが北方遊牧民族の間では普通に行われていた習俗であり、唐の王室が漢胡混血の家系ではないかと疑われる根拠ともなっている

    p156
    唐は20代をもって、この年、907年に滅んだのである
    漢代以来の系譜を誇った貴族制度もここに消滅し、以来、再び史上に姿を現すことはなかった

    p160
    新王朝を宋と称し
    漢魏の際以来何度も繰り返された禅譲劇は史上から永久に姿を消した

    p163~p165
    第一に庶民の活躍した時代である
    第二に政治的には皇帝独裁政治の時代であった
    第三に貨幣経済の時代である
    第四は新しい文明の展開である
    学問、文学、絵画、陶磁器の分野は勿論
    第五は民族主義の時代であった点である。漢人が初めて民族的自覚を持っに至ったのは宋代であり


    江南の発展南宋まで シリーズ中国の歴史②
    丸橋充拓
    岩波新書

    人口分布の南北比が、強い印象を与える。

    はじめに
    国家が垂直的一元的な君臣関係を社会の末端まで貫き、横つながりを断ち切ろうとする。それが中華帝国の「国造りの論理」であった

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    p87
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    【人口推定根拠については、本文中で何ら記載がない。事実に近い数値であろう。杉山氏の推定記述とも合致する。】

    p177

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    苗族民話集
    昭和49年(1974年)東洋文庫
    村松一也

    民話自体は読んではいない。解説部分のみメモする。恐らくは、村松の解説が私が入手した範囲では一番詳しいミャオ族の日本語で書かれた歴史であり、簡易な記述が正しいのであれば、現在のミャオ族には紀元前1000年頃に長江中流域から下流域に広く分布していたであろうミャオ族の遠い祖先のDNAはあまり引き継がれていないはずである。清朝時代に明らかにボトルネックが生じている。ボトルネック効果により、全く偶然に現代日本人にあまりにも近い状態となった可能性も否定しきれないが、どう見てもミャオ族の遠い祖先が日本人の起源である可能性は否定しきれない。しかし、言語があまりにも違い過ぎるため、可能性は低いかもしれない。解説の最後に資料一覧があり、この時点でのほぼ全てを網羅していると思われる
    下のPCA図は、日本人がバラけ過ぎているが、苗族が明らかに現代日本人に最も近い!しかもnature掲載論文なのだ

    2022-03-04

    p407
    現代ミャオ語は、漢語と同じ単音節の孤立語
    語順も漢語と同じ
    漢語と一番違う点は、修飾成分を中心語の後ろに置くことだ。赤い花を「パン(花)ラ(赤い)」という【ミャオ語の一方言だそうだ

    p411
    宋から元にかけて、
    現在のミャオ族の直接の祖先と思われる集団に対して初めて苗という呼び名が登場する
    この時代から
    現在のヤヲ族とミャオ族とに分化するのである

    p412
    明に服属したミャオ族は漢族から熟苗と呼ばれた。あくまで自立して漢族になじまぬミャオ族は生苗と呼ばれる

    p413
    貴州の「生苗」地区には、清の征討軍が入り、6年に及ぶ残酷な「生苗」皆殺し作戦を展開した。この時、最も激しく抵抗したのは
    いわゆる黒苗たちであった
    清朝の支配者は、ミャオ族の女性の服装の色が部族系統によって違うのに目を付けミャオ族を黒苗、白苗、青苗、紅苗、花苗の5種に分類した。
    男の服装は漢族とほとんど同じだ

    【1735年~1736年に】
    重税に耐えかねて
    ミャオ族村落が一斉に蜂起した

    p414
    1224のミャオ族の村落が焼き払われ、40万人のミャオ族が死ぬという悲惨な結果に終わった。死者の大部分は餓死であったという

    【著者によれば
    1795年~1806年 同様の蜂起
    1855年~1872年 ミャオ族農民戦争。およそ百万のミャオ族が死亡したと伝えられている


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