カテゴリ: 人類学

The Impact of Personality Traits and Acculturation on the Mental Health of Korean American Adolescents
Minjeong Kim et.al
2016

ABSTRACT

138 Korean American adolescents completed a demographic questionnaire, the revised Stephenson Multigroup Acculturation Scale, the NEO Five-Factor Inventory-3, and Achenbach & Rescorla’s Youth Self Report. 

1. Introduction

2. Methods

The sample included Korean American adolescents who were recruited from Korean churches, Korean language schools, Korean shopping malls and restaurants, mental health centers serving Asian and Pacific Islander communities, and websites for the Korean community in California.


3. Results

The sample included 138 adolescents. 57 participants (41%) were males and 81 were females (59%). The mean age of the participants was 14.43 years (10 - 19 years, SD = 2.09). 

Their length of residence in the US ranged from less than 1 to 18 years, with a mean score of 12.36 years (SD = 4.14).

About 61% of the participants reported that “their family had enough money but no extra”, and 36% reported that “they had more money than they need”.

Means and correlations for study variables with continuous scores are shown in Table 1

Table 1. Means and correlations for age, length of time in the US, acculturation, personality traits, and total mental health problems.

 Length of residence in the US was the only demographic variable that was significantly correlated with mental health problems. 



Table 2. Effects of time in the US, acculturation, and personality traits on mental health problems.
presents findings for Aim 1.
Although length of residence in the US was correlated with mental health in the bivariate analysis, it was not a significant predictor when scores for acculturation and all personality traits were entered in the second step. Consistent with preliminary bivariate correlations, only the 2 personality traits of neuroticism and agreeableness were significant predictors of mental health problems for the adolescents. Neuroticism (β = .63, p < .001) was positively associated with mental health problems, while agreeableness (β = −.18, p < .01) was negatively associated with mental health problems. The total model explained 52.6% of the variance in mental health problems (F (7, 115) = 18.24, p < .001).


西洋政治思想史
宇野 重規則
有斐閣アルマ basic
2013年

p29
ギリシャとローマの違い
同じような都市国家から出発したものの、ギリシャでは統一的な権力は現れず、諸ポリスの併存状態が続いたのに対し、ローマはイタリア半島を統一するのみならず、地中海周辺から東方へと至る大帝国へと発展していった。

その一因はギリシャとローマにおける市民の在り方の違いにある。ギリシャの場合、市民の地位は、そのポリスの市民を父に持つ成人男性に限られ、どれだけ長く暮らしても外国人が市民に加えられることはなかった。これに対しローマの場合には征服した国の市民にローマ市民権を与えることで、自らの軍事力を強化していったのである

p30
ローマでは共和制の全盛期においても貴族と市民の対立は続いており、ギリシャのように一足飛びにデモクラシーを実現することはなかった

p41
パウロはローマの市民権を持つユダヤ人であり、元々はパリサイ派に属する熱心なユダヤ教徒であった

p131
モンテスキューは主張した
第一は共和制である。これは人民の一部(貴族政の場合)、もしくは全体(共和制)が主権を持つ政体であり、原理は徳である
第二は君主制である。これは一人の君主の支配であるが、君主の恣意ではなく、法によって統治される政体である。具体的には君主と民衆の間に貴族が存在して政体を支える。原理は名誉であった
第三は専制制である。一人の人間がいかなる基本法に制約されることもなく、自らの恣意によって政治を行う政体であり、原理は恐怖であった

p132
モンテスキューは共和制は小国に、君主制は中位の国に、専制政は大国にふさわしいとした。ここからも、共和制を古代の都市国家、君主制を近代の領域国家、専制制をアジアの帝国に重ね合わせた


イザベラ・バード 旅の生涯
O.チェックランド
川勝貴美 訳
1995年 日本経済評論社

日本奥地紀行は、イザベラの主著とも言うべき著作であった。また、日本訪問当時は、ビショプ夫人ではなく、イザベラ・バードであったのだ

pⅳ
22歳から70歳まで、イザベラは大きな旅行を7回している

pⅶ
医師ジョン・ビショップと結婚した
ジョン40歳、イザベラ50歳の時である

p5
父エドワード・バードは
法廷弁護士をしていた【その後】
聖職に就いた

【伝記の内容から、やはりイザベラは当時の女性として今日の女性のような教育は全く受けてはいない。父が法廷弁護士であり、区分すれば、イギリスのミドルクラスの最上位に当たる階層の女性である】


p85
1878年6月~9月
日本==未踏の地へ

p107
マラヤ 1879年
イザベラはマレー半島を旅し

p138
1886年【夫が死去】

p167
1894年~1896年
朝鮮・中国北部

イザベラは朝鮮を合計4回訪問した。期間は合わせて9カ月である

p170
朝鮮各地を旅するのに通訳が不可欠だった。長老派教会の若き宣教師ミラーが救いの手を差し伸べた

p176
1895年1月に再び挑戦を訪れたイザベラは
国王夫妻に謁見した

p185
1895年 & 1896年
【中国訪問】

p205
モロッコ 1901年
【イザベラは訪問記を書いてはいない】

p217
1880年イザベラの日本奥地紀行
出版された

p230
1880年の秋に日本奥地紀行を出版すると直ちに批評家から喝さいを浴びた
【出版社の編集者からイザベラに宛てた手紙の内容として】
「長い間出版に携わってきましたが、これほどまでの勝算を得たことは初めてです。あなたをたたえる声でどれほどここが大騒ぎになっていることか、お伝えしようもありません。このような旅行記で1カ月の間に第3版が出るとは、今までなかったことです」

【巻末の年譜から】
1831年 生まれる
1856年 イギリス女性のアメリカ紀行(The English waman in America)出版
1859年 アメリカの宗教事情 出版
1869年 エデインバラ旧市街に関する覚書 出版
1875年 サンドイッチ諸島での半年 出版
1879年 女性のロッキー山脈生活記 出版
1880年 日本奥地紀行 出版【49歳】
1883年 黄金の半島 出版
1891年 トルコとクルデイスタンの旅 出版
1898年 邦訳では朝鮮紀行 出版【67歳】
1899年 邦訳では中国奥地紀行 出版【68歳】

ルポ 貧困大国アメリカ
堤 未果
2008年
岩波新書

ルポという前置きがついており、内容の薄さが印象的であった。

OECDが公表している乳幼児死亡率である
日本     1.7
フィンランド 1.8
スウェーデン 1.8
イタリア   2.3
デンマーク  2.4
韓国     2.4
オーストリア 2.7
ベルギー   2.9
ドイツ    3.0
オーストリア 3.3
オランダ   3.3
フランス   3.7
イギリス   4.0
カナダ    4.5
ロシア    4.9
ルーマニア  5.2
アメリカ   5.4

①イギリス以下の国は全て、国民皆健康保険制度を採用していると推定されるが調べてはいない

②アメリカの数値は、突出して高い。この女性のルポのとおり、無保険者と高額医療費の影響とみて間違いない。カナダについても、国民総健康保険制度を採用していないと推定される数値を示しているが、外務省のページでは国民皆健康保険制度を採用している旨。アメリカの制度面での特殊性が良く分かる

③乳幼児死亡率は、平均寿命に直結する。日本、キチガイども、アメリカ、ロシアについて次のとおり。
日本   84.5
韓国   83.6
ロシア  73.2
アメリカ 76.4

日本とアメリカの乳幼児死亡率の差である3.7を単純加算するとアメリカの平均壽命は80歳前後にも達する。しかも、黒人の方の場合、鎌形赤血球のヘテロ型頻度が高いため、結果的に、黒人の場合には平均寿命は短い。

以上から、
①白人富裕層(推定82歳前後)に限れば、アメリカ人と日本人で平均寿命について、差はかなり小さい。恐らくは、有意差はない。
②日本、フィンランド、スウェーデンの3か国は、乳幼児に限らず、過剰医療状態と推定して間違いない。イタリアをはじめとする他の国との差が際立っている。フィンランド、スウェーデンは人口600万以下の国である。日本とは同列に論じられない。従って、アメリカと同様に日本も制度面での特殊性が際立つ


p65
アメリカの乳児死亡率は、年間平均千人に6.3人という先進国でもっと高い割合だ

p70
日帰りする妊婦たち
入院出産費用の相場は1万5千ドルだ
【検索すると現在では1万9千ドル近い。】

p73
2007年1月時点でアメリカ国内には4700万の無保険者がおり
【検索すると現在では8~9%程度に過ぎない。クリントン政権時に対応したと思われる】

p188
戦争請負業界で、イラクは、「ゴールドラッシュ」と呼ばれている

朝鮮総連
その虚像と実像
朴 斗鎮
中公新書ラクレ
2008年


新潮社は、この人物について、

「1941年大阪市生まれ。大阪府立生野高校、朝鮮大学校政治経済学部卒。同経済学部教員などを経て、2006年よりコリア国際研究所所長。デイリーNK顧問を務める。著書に『北朝鮮 その世襲的個人崇拝思想』『朝鮮総連』『揺れる北朝鮮』などがある。」

ちなみに、この人物は、日本戦略研究フォーラムで講演している

<講 演>
「日米韓の民主主義同盟を礎に」 コリア国際研究所所長 朴 斗鎮氏 

ご紹介して頂きましたように、私は在日コリアンです。日本で生まれて日本で育ちました。今までの人生において、日本の学校を卒業し、朝鮮総連の運動に入って、そしてそこを卒業して、現在があるという、謂わば3つの人生を生きてきました。  そういう中で、朝鮮大学校で学生に教えていた時は「どうやって韓国を攻め落とすのか」ということを教えていたのですが、今は「どうやったら北朝鮮を民主化できるのか」ということで邁進しております。そういった視点から見ると、日韓の友好というのは非常に重要でありまして、日本戦略研究フォーラムから「それでは次のシンポジウムで、是非、講演をお願いしたい」と言われて今日参りました。 韓日の友好は東アジアにおける民主主義の礎  私が今日申し上げたいのは、韓日関係を好転させなければならないということです。先ほど先生方がお話しされたように、韓日関係が現在のような厳しい状況になったことは、私の記憶の中でもありません。  今、在日韓国人が本国(韓国)に行っては「何とか少し柔軟になってくれないか」と話をしております。実は、12月の安倍総理の靖国参拝までは、朴槿恵大統領が若干押し切られるような状況になっていたのです。

まるで、民団支持者のような言い回しである。うまく騙したつもりなのであろう。

ところが、中公新書の著者紹介では
「68年から75年まで朝鮮大学校政治経済学部教員を務めた後、㈱ソフトバンクで孫正義氏と共にパチンコ経営企画に携わる。その後、経営コンサルタントを経て(以降省略)

①いずれにせよ、朝鮮労連の熱心な活動家であったこの人物が、何故、朝鮮労連を離れたのか?については、この書籍でも一切言及すらしてはいない
②㈱ソフトバンクで孫正義氏と共にパチンコ経営企画に携わる点については、確認できなかった
③日本を明確に「敵」と言い切っているのだからして、逆に、朝鮮総連が敵国人であることは明白であるにもかかわらず、朝日新聞は、在日韓国・朝鮮人に関する報道を概ね3日に1回のペースで、報道し続けている。当然好意的な内容である。
④この人物は、算数すらできないらしい。
p111
今や朝鮮学校は100校程となり、児童生徒・学生数は1万人を切るところまで来ている
従って、このバカの言う通り、朝鮮学校=朝鮮総連支持者のみ入学であれば、朝鮮総連構成者又は支持者は、ひと家族4人として、40万人程度となる、恐らくは、この人員数が、精神面では完全なDNA異常集団であることが明確な朝鮮人連中のうち、「我々は優秀な民族と自己陶酔している」連中、即ち「甘い日本人をうまく騙せる連中」の概数である。

しかし、
*p63
朝鮮総連は
現在、特別永住権者の10%程度の四万人にまで落ち込んでいる

一桁違う。私の知る範囲では、朝鮮学校には民団支持者も多く入る。朝鮮人ども同士のつながりができるので、社会人となった後、有利なのだ。大学は、普通の大学に入る場合が多いはずである。
下の研究者が書いた論文では、生徒総数は明らかではなかった
在日朝鮮人散住地域における教育戦略としての朝鮮学校選択
ポストコロニアルな社会的排除との関係において

宮 﨑 理 

⑤この人物に講演依頼した日本戦略研究フォーラムと名付けた団体に対する疑念が生じざるを得ない。ウェブサイトを見ると、全体としては問題ないが、一部は?マークの可能性が高い。
⑥現在、丸谷と名乗る人物に関し日本戦略研究フォーラムに別件で問合せ中であるが、回答まだ来ない。




p24
1960年当時私は朝鮮総連傘下の
に所属し専従活動をしていたが

p25
在日の特別永住者を出身別に見ると、慶尚道主身者が一番多く、済州道出身者がそれに続くのだが

p30
「大逆事件」で投獄された朴烈が
初代団長には朴烈が就いた

p51
朝鮮総連は最盛期には
50万人に及ぶ巨大組織
法人格はない
長い間朝鮮総連中央本部の財産管理を行ってきたのは、「(株)関東興業」という会社だった。
(株)朝暘商会など様々な会社名と個人名で財産を管理している

p54
帰国運動によって朝鮮総連には莫大な資産と資金、そして多くの人材が集まり、隊列を急拡大させることになる

p62
私は帰国せず朝鮮総連の青年活動家になってゆくのだが、あの時の興奮は今も忘れられない。
60年代の初期には、総評、創価学会、総連の「三そう」の一つとして日本社会で大きな影響力を行使した

p63
朝鮮総連は
現在、特別永住権者の10%程度の四万人にまで落ち込んでいる

p68
朝鮮総連の力の源泉は、過去も現在も朝鮮学校とそのネットワークインフラ(組織網)にある
朝鮮大学校卒業生は一万五千人以上となっている

p81
私が朝鮮大学校に入学したのは62年4月である


p89
こうした教育内容は「敵地区(日本)内の教育」ということで、出来るだけ外部に知られないようにした

p111
今や朝鮮学校は100校程となり、児童生徒・学生数は1万人を切るところまで来ている

p118
しかし過去も現在も日本を「敵地」と規定する朝鮮総連は財務内容を公開しない





Visual book of the brain
脳 大図鑑

監修
河西春郎 他
2022年




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人類学大図鑑
Visual book of the anthropology
Newton
2022年

ニュートン編集部が、掲げた気温の長期変動表は、恐らくは正しいであろうからして、1万年単位で見れば、地球温暖化は、むしろ歓迎すべきであるという結論にならざるを得ない

 エジプト人は、皮膚色は、変わっていないことがわかった

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何故ヒトの脳だけが大きくなったのか
人類進化の最大の謎に挑む

濱田 穣 京大霊長類研究所助教授
講談社 ブルーバックス
2007年

ヒトは高い体脂肪率という他の哺乳類に見られない独特の特徴を持っている
この書籍とは無関係であるが、20世紀末の「苦難の行軍」と北朝鮮が呼ぶ食糧難の時代に新生児~12歳頃までを過ごした人々が、現在は成長し、北朝鮮軍に確実に多数存在する。

言うまでもなく、身長は相当程度に低いであろうし、同様に、知能にも確実に影響が出ているはずである。懸念されるのは、大佐クラス以上の高級将校は、平壌で生まれ育ったであろうかして恐らくはあまり影響を受けていないものの、 食糧難の結果としての低知能の中級将校(大尉~中佐クラス)が偶発的な衝突を韓国軍との間で起こさないか?という点である。

p194
兄弟と自分
「最も最近の共通祖先」は両親だ。従兄弟と自分の間で「最も最近の共通祖先」は祖父母だ
こう考えると、チンパンジーとヒトとの系統関係も理解して頂けるだろう

第8章 脳のインフラとしての脂肪
p214
ヒトは高い体脂肪率という他の哺乳類に見られない独特の特徴を持っている

p219
新生児では体重の15%を脂肪が占めている

p227
病気と脂肪の関係
脳の発達にとっても、身体の成長にとっても、更に生命にとってもピンチである
身体に貯蔵している脂肪エネルギーが有効になるのだ。だから、新生児の15%、そして幼児期の25%という高い体脂肪率は
脳の健全な発達を保証するためである

p223
幼児・子供期の」ニホンザルやチンパンジーでは体脂肪率は非常に低く、多くても5%程度である


Brain size, IQ, and racial-group differences:Evidence from musculoskeletal traits

J. Philippe Rushton*, Elizabeth W. Rushton

Intelligence 31 (2003) 139 – 155

先行研究紹介が極めて印象的で、大文字にしておいた部分は、7歳以下の子度を対象としたものであり、計測が正しいのであれば、白人・黒人・東洋人(事実上は中国人)の間の生物学的な差を認めざるを得ない。7歳時点でのIQテストは、完全に有効であり、ほとんど環境の影響を受けない。

しかし、
日本人による測定では、1326cm3(容積)、重量では1,350~1,400とされている
日本人は、白人よりも小さい値である。体格差がそのまま反映されている。
ただし、日本人の脳容量に関する論文が、日本語・英語で、論文検索1ページ目でヒットしない

②女性の脳容量は、体格差から明らかに男性よりも小さな値であるのに、IQテストの結果に明確な差が存在しないことは言うまでもない。

③このため、EQ=encephalization quotientという下記の式を使う

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④この論文では上の式によりEQ値算出しており、白人・黒人・東洋人(事実上は中国人)の間に差が生じている

⑤しかし、霊長類を対象にしたb場合には、EQなど意味がないとする引用数の多い下記論文がある。霊長類ではEQではなく、脳容量の絶対値が重要だそうだ。ヒト以外の霊長類では恐らくは正解であろう

Overall Brain Size, and Not EncephalizationQuotient, Best Predicts Cognitive Ability acrossNon-Human Primates

⑥しかし、②からヒトにはあてはまらない

⑦重大なのは、韓国人どもは、脳容量を決定している遺伝子の一つである可能性が高いNBPF1遺伝子、NOTCH2NL遺伝子に大量の韓国人ども固有の変異を有していることである。特に、NOTCH2NL遺伝子のSNPは、ヒトとチンパンジー(=3歳児程度の知能)の差の原因である可能性が高いのだ。(小頭症の疾患原因遺伝子は、ASPM遺伝子である)

Abstract

A review of the world literature on brain size and IQ by Rushton [Rushton, J. P. (1995). Race, evolution, and behavior: a life history perspective. New Brunswick, NJ: Transaction] found that African-descended people (Blacks) average cranial capacities of 1267 cm3 , European-descended people (Whites) 1347 cm3 , and East Asian-descended people (East Asians) 1364 cm3 . These brain size differences, containing millions of brain cells and hundreds of millions of synapses, were hypothesized to underlie the race differences on IQ tests, in which Blacks average an IQ of 85, Whites 100, and East Asians 106.

Across the three populations, the ‘‘ecological correlations’’ [Jensen, A. R. (1998). The g factor. Westport, CT: Praeger] between brain size and the 37 morphological traits averaged a remarkable r = .94; r = .94.

 If the races did not differ in brain size, these correlations could not have been found. It must be concluded that the race differences in average brain size are securely established. As such, brain size-related variables provide the most likely biological mediators of the race differences in intelligence.

1. Introduction

Among individuals, intelligence is related to brain size. This has been documented in about two dozen studies using magnetic resonance imaging (MRI) to measure brain volume.
 
Altogether there are now about 15 studies on over 700 subjects showing that individuals with larger brain volumes have higher IQ scores.

The races differ in average brain size and this shows up at birth. Rushton (1997) analyzed the enormous US data set known as the Collaborative Perinatal Project.

 It recorded head circumference measurements and IQ scores from 50,000 children followed from birth to age 7 (Broman, Nichols, Shaugnessy, & Kennedy, 1987).

 The results showed that at birth, 4 months, 1 year, and 7 years, the East Asian children in the study averaged larger cranial volumes than did the White children, who averaged larger cranial volumes than did the Black children.

Within each race, the children with the larger head sizes had the higher IQ scores and by age 7, the East Asian children averaged an IQ of 110, White children an IQ of 102, and Black children an IQ of 90.

Moreover, the East Asian children, who averaged the largest craniums, were the shortest in stature and the lightest in weight, whereas the Black children, who averaged the smallest craniums, were the tallest in stature and the heaviest in weight. Therefore, the race differences in brain size were not due to body size.


Many are surprised to learn that the races differ in brain size (e.g., Brody, in press; Graves, 2002; Kamin & Omari, 1998; Lieberman, 2001) and they question how reliable the evidence is.

In fact dozens of studies from the 1840s to the 1990s, using different methods on different samples, reveal the same strong pattern.

Four different methods of measuring brain size— MRI, endocranial volume measured from empty skulls, wet brain weight at autopsy, and external head size measurements—all produce the same results.

Using MRI, for example, Harvey, Persaud, Ron, Baker, and Murray (1994) found that 41 Africans and West Indians had a smaller average brain volume than did 67 Caucasians.

Their study found that East Asians, Europeans, and Africans averaged cranial volumes of 1415, 1362, and 1268 cm3 , respectively. 

  More recently, Ho, Roessmann, Straumfjord, and Monroe (1980) found in an autopsy study of 1261 American adults, that 811 White Americans averaged 1323 g and 450 Black Americans averaged 1223 g—a difference of 100 g. Since the Blacks and Whites in the study were similar in body size, differences in body size cannot explain away the differences in brain weight.

A final way of estimating brain size is by cranial volume calculated from external head size measurements (length, width, height).

The results again confirm the racial differences.

 In the most comprehensive of these studies, Rushton (1992) calculated average cranial capacities for East Asians, Whites, and Blacks from a stratified random sample of over 6000 U.S. Army personnel. The East Asians, Whites, and Blacks averaged 1416, 1380, and 1359 cm3 , respectively.

2. Method

The three populations under consideration have mean absolute cranial capacities of African Americans (1356 cm3 ), European Americans (1371 cm3 ), and East Asian Americans (1383 cm3 ). These cranial sizes are taken from the stratified random sample of over 6000 U.S.

The average EQ is defined as 1.0. Monkeys and apes have large brains relative to their body size (EQs = 1.0 to 5.0). Human EQs are over 6, which is about three times larger than would be expected for a typical primate of our body size. Although alternative exponents have been debated, the most widely used equation is:

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3. Results

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Absolute and relative brain size (Traits 1 and 4) intercorrelated 1.00, and both correlated with a mean r of .94 (median = 1.00) across the 37 traits. They showed similar high correlations across the separate trait categories, viz., on 11 cranial traits

Brain size correlated with the 31 traits that remained with mean Pearson and Spearman correlations of .96 (median = 1.00).

4. Discussion

As brain size increases from 1356 to 1383 cm3 across the three racial groups, 37 musculoskeletal traits vary accordingly with a remarkable mean r = .94, r = .94.


Nonetheless, it is noteworthy that the correlations with racial differences in brain size are as high for the 12 lower limb traits (Traits 30–41; r = .98) as they are for the 11 cranial traits (Traits 5–15, r = .91).


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Fig. 3. With increasing brain size there are decreases in the postorbital constriction and temporalis fossae, which are indentations to allow the temporalis and masseter muscles, the large jaw-closing muscles, to run through and close the heavy jaw. East Asians average less postorbital constriction than do Whites, who average less postorbital constriction than do Blacks.

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Fig. 4. With increasing brain size there is decreased prognathism and a flatter face. Muscles are no longer available to hold up a heavy forward jutting jaw. East Asians average a flatter face than do Whites, who average a flatter face than do Blacks. 

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Fig. 5. With increasing brain size, there is increased bicondylar breadth of the mandible, a widening of the upper back-of-the-jaw, which provides its attachment to the cranium. East Asians (left) average a wider upper back-ofthe-jaw than do Whites (right), who average a wider upper back-of-the-jaw than do Blacks (not shown). A similar pattern is observed for the lower jaw.


THIRTY YEARS OF RESEARCH ON RACEDIFFERENCES IN COGNITIVE ABILITY
J. Philippe Rushton  Arthur R. Jensen
Psychology, Public Policy, and Law 2005, Vol. 11, No. 2, 235–294

注目されるのは、この論文の引用数の多さである。2022年4月時点で783もある。

①黒人と白人・東アジア人のIQの差は、事実として認めざるを得ない。反面、白人・東アジア人の差は?である。何故なら、16世紀頃以降の歴史と完全に矛盾する。事実と仮定すれば、IQの分布が異なるはずである。

しかし、「我々は優秀な民族」という極めて奇妙な自己陶酔型パーソナリティー障害者集団である韓国人ども場合には、外国人によるIQテストを小学生に行う場合には、ほぼ確実に前日に事前にIQテストを行い低い者を欠席させるであろう。この論文では、香港が異様に高い数値であるが、同様のことが行われている可能性がある。日本人については、多分されてはいない。

②IQの相違の原因として、この論文メモで赤字にしておいた箇所が著者らの主張である。
出アフリカ後の自然環境の差に起因するというあまりにも、粗雑かつ乱暴な根拠に過ぎない。



The culture-only (0% genetic–100% environmental) and the hereditarian (50% genetic–50% environmental) models of the causes of mean Black–White differences in cognitive ability are compared and contrasted across 10 categories of evidence:

the worldwide distribution of test scores, g factor of mental ability, heritability, brain size and cognitive ability, transracial adoption, racial admixture, regression, related life-history traits, human origins research, and hypothesized environmental variables. 

 The new evidence reviewed here points to some genetic component in Black–White differences in mean IQ.

Section 1: Background

Jensen’s (1969) article was covered in Time, Newsweek, Life, U.S. News & World Report, and New York Times Magazine. His conclusions, the theoretical issues they raised, and the public policy recommendations that many saw as stemming directly from them were dubbed “Jensenism,” a term which entered the dictionary.

【Jensenismに関しては、現在では否定的見解が、主流である。英文ウキペディアから
Despite such defenses, however, the current scientific consensus is that genetics do not explain IQ differences between racial groups.[14][15][16][17][18]
  1.  Ceci, Stephen; Williams, Wendy M. (1 February 2009). "Should scientists study race and IQ? YES: The scientific truth must be pursued"Nature457 (7231): 788–789. Bibcode:2009Natur.457..788Cdoi:10.1038/457788aPMID 19212385S2CID 205044224There is an emerging consensus about racial and gender equality in genetic determinants of intelligence; most researchers, including ourselves, agree that genes do not explain between-group differences.
  2. ^ Hunt, Earl (2010). Human Intelligence. Cambridge University Press. p. 447. ISBN 978-0-521-70781-7.
  3. ^ Mackintosh, N. J. (2011). IQ and human intelligence (2nd ed.). Oxford: Oxford University Press. pp. 334–338, 344. ISBN 978-0-19-958559-5OCLC 669754008.
  4. ^ Nisbett, Richard E.; Aronson, Joshua; Blair, Clancy; Dickens, William; Flynn, JamesHalpern, Diane F.; Turkheimer, Eric (2012). "Group differences in IQ are best understood as environmental in origin" (PDF)American Psychologist67 (6): 503–504. doi:10.1037/a0029772ISSN 0003-066XPMID 22963427. Retrieved 22 July 2013.
  5. ^ Kaplan, Jonathan Michael (January 2015). "Race, IQ, and the search for statistical signals associated with so-called "X"-factors: environments, racism, and the "hereditarian hypothesis"". Biology & Philosophy30 (1): 1–17. doi:10.1007/s10539-014-9428-0ISSN 0169-3867S2CID 85351431.



Section 2: The Two Conflicting Research Programs

Here, we review the research on Black–White difference in average IQ published since Jensen’s (1969) now 36-year-old article.



Section 3: Mean Race–IQ Differences: A Global Perspective

Around the world, the average IQ for East Asians centers around 106; that for Whites, about 100; and that for Blacks, about 85 in the United States and 70 in sub-Saharan Africa.

On the Differential Aptitude Battery, by age 6, however, the average IQ of East Asian children is 107, compared with 103 for White children and 89 for Black children (Lynn, 1996).


The correlations between IQ and reaction times for the five countries are summarized in Table 1.

Table1

2023-04-09
Note.
Data in this table are reconfigured from IQ and the Wealth of Nations (p. 67, Table 6.2), by R. Lynn and T. Vanhanen, 2002, Westport, CT: Praeger. Copyright 2002 by R. Lynn and T. Vanahanen. Adapted with permission. a r  reliability. * p .05.

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Figure 2.
Mean response times of 10-year-old Black, White, and East Asian children on the Math Verification Test for Multiplication, Subtraction, and Addition. Redrawn by A. R. Jensen from data in Jensen (1993;

Section 5: Gene–Environment Architecture and Mean Black–White IQ Differences

Dozens of twin, adoption, and family studies have confirmed the high heritability of intellectual and behavioral traits, and even reaction time tasks, within a race (Bouchard, 1996; Bouchard & Loehlin, 2001; Deary, 2000; Plomin et al., 2001).
Jensen & Whang, 1994). Copyright 2002 by A. R. Jensen. Reprinted with permission.

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Figure 3. Estimated proportions of the total IQ variance attributable to genetic and environmental (shared and nonshared) effects. Note that only the nonshared (or within-family) environmental variance remains relatively constant across the entire age range. From “Behavioral Genetics of Cognitive Ability: A Life-Span Perspective,” by M. McGue, T. J. Bouchard, Jr., W. G. Iacono, and D. T. Lykken, in R. Plomin and G. E. McClearn (Eds.), Nature, Nurture, and Psychology (p. 64), edited by R. Plomin and G. E. McClearn, 1993, Washington, DC: American Psychological Association. Copyright 1993 by the American Psychological Association. Reprinted with permission.


Section 6: Race, Brain Size, and Cognitive Ability

Section 7: Mean Race–IQ Differences and Transracial Adoption Studies

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Section 8: Mean Race–IQ Differences and Racial Admixture

Section 9: Mean Race–IQ Differences and Regression to the Mean

Section 10: The Race–Behavior Matrix

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Note. From Race, Evolution, and Behavior: A Life History Perspective (p. 5), by J. P. Rushton, 2000, Port Huron, MI: Charles Darwin Research Institute. Copyright 2000 by J. P. Rushton. Adapted with permission.



Section 11: Mean Race–IQ Differences and Human Origins

The currently most commonly accepted view of human origins, the “Out-ofAfrica” theory, posits that Homo sapiens arose in Africa about 150,000 years ago, expanded northward beyond Africa about 100,000 years ago, with a European– East Asian split about 41,000 years ago (Cavalli-Sforza et al., 1994; Stringer & McKie, 1996). In Cavalli-Sforza’s (2000) maximum likelihood tree devised on the basis of molecular genetic markers, the most distant group was the Africans, with Europeans and Asians being closer. 

r. It has been proposed that the farther north the populations migrated out of Africa, the more they encountered the cognitively demanding problems of gathering and storing food, gaining shelter, making clothes, and raising children successfully during prolonged winters (Rushton, 2000).

As these populations evolved into present-day Europeans and East Asians, the ecological pressures selected for larger brains, slower rates of maturation, and lower levels of testosterone—with concomitant reductions in sexual potency, aggressiveness, and impulsivity; increases in family stability, advanced planning, self-control, rule following, and longevity; and the other characteristics listed in Table 3.

The fact that the three-way pattern in IQ, brain size, and other traits is not unique to the United States but occurs internationally is consistent with a single, general (genetic–evolutionary) theory, whereas culture-only theory must invoke a number of highly localized, specific explanations.

Section 12: How Well Have Culture-Only Theories of Mean Race–IQ Differences Held Up?

Culture-only hypotheses have not explained the mean Black–White group differences in IQ. (They have especially not explained the findings on East Asians.)

One early view was that the mean Black–White group difference in IQ was due to the then obvious differences in (segregated) school facilities (Myrdal, 1944).

Section 13: Evaluating the Culture-Only and the Hereditarian Research Programs

Section 15: Implications for Public Policy







 


Whole Brain Size and General Mental Ability: AReviewJ.

Philippe Rushton & C. Davison Ankney

© 2009 The Author(s). Published by Taylor & Francis.

知能と脳容量に関するレビュー論文である。第一区分を遺伝学論文としておく
紹介されている論文中に4万名ものサンプルを有する論文がある。図5では、

①6歳時点(脳容量)
アフリカ系アメリカ人1,134
ヨーロッパ系アメリカ人1,154
アジア系アメリカ人1,167

②成人
アフリカ系アメリカ人1,362
ヨーロッパ系アメリカ人1,378
アジア系アメリカ人1,392

これを、アフリカ系アメリカ人を基準とすると
③6歳時点
アフリカ系アメリカ人1.00
ヨーロッパ系アメリカ人1.0176=1.76%
アジア系アメリカ人1.0291=2.91%

④成人
アフリカ系アメリカ人1,362
ヨーロッパ系アメリカ人1.0117=1.17%
アジア系アメリカ人1.0220=2.2%

*アフリカ系アメリカ人とアジア系アメリカ人の6歳時点での差はかなり大きい。本文中でも著者2名が言及しているように、両者の体格の差を考慮すれば、実際には差がもっと大きい。サンプル数の多さから見て、実際に1%~3%の差があると認めざるを得ないことになってしまう。

*しかし、
①日本人による測定では、1326cm3(容積)、重量では1,350~1,400とされている
アフリカ系アメリカ人1,362よりもさらに少ない容積値である

②日本人に比べ白人の方が、脳重量は思いとする著作が存在する

体格差を考慮すれば、①②は極めて自然なことである。
従って、サンプル数は多いものの元データ論文の脳容量数値は?である。引用論文の測定方法を調べる必要なないであろう

身長、体重、脳重量(又は脳容量)、頭全周長さ、頭高さ、の5つを統合したデータでなければ全く意味がない。黒人は、頭幅と頭高の比が、東洋人に比べて、大きいと推定される。

従って、このレビュー論文は学術論文としては無価値に近い。紹介されている4万名のサンプルがある論文を探そう



 We review the literature on the relation between whole brain size and general mental ability (GMA) both within and between species.

Among humans, in 28 samples using brain imaging techniques, the mean brain size/GMA correlation is 0.40 (N = 1,389; p < 10−10); in 59 samples using external head size measures it is 0.20 (N = 63,405; p < 10−10).

In 6 samples using the method of correlated vectors to distill g, the general factor of mental ability, the mean r is 0.63.

Finally, we examine brain size and mental ability from an evolutionary and behavior genetic perspective.

This is our fifth review of the relation between brain size and general mental ability (GMA; Rushton & Ankney, 1995, 1996, 1997, 2007).

THE BRAIN SIZE/GMA RELATIONSHIP Introduction

Darwin’s cousin, Sir Francis Galton (1888), was the first to quantify the relation between brain size and GMA in living people. He multiplied head length by breadth by height and plotted the results against class of degree in more than 1,000 male undergraduates at Cambridge University. He reported that men who obtained high honors degrees had a brain size 2%–5% greater than those who did not.

Years later, Karl Pearson (1906) reanalyzed Galton’s data using the correlation coefficient he had invented for this type of analysis; he found r = 0.11.

Following World War II (1939–1945) and the revulsion evoked by Hitler’s racial policies, craniometry became associated with extreme forms of racial prejudice. Research on brain size and intelligence virtually ceased, and the literature underwent vigorous critiques (Gould, 1978, 1981; Kamin, 1974; Tobias, 1970). However, as we shall show, modern studies confirm many of the earliest observations.

Reaction Time Measures


2023-04-07
Figure 1. Mean brain weight for 4-year age periods in various subgroups. Brain weight is plotted at midpoint of each age period (e.g., the point at age 6 years represents the average for subjects between 4 and 8 years;

White men, open triangles;
Black men, solid triangles;
White women, open squares;
Black women, solid squares).
Differences in brain weights among various groups become apparent at age 6 years. (From Ho et al., 1980, p. 636, Figure 2.)

AGE DIFFERENCES Brain Size

Autopsy studies show that brain mass increases during childhood and adolescence and then, beginning as early as 20 years, slowly decreases through middle adulthood, and finally decreases more quickly in old age (Dekaban & Sadowsky, 1978; Ho et al., 1980; Pakkenberg & Voigt, 1964; Voigt & Pakkenberg, 1983).

Cognitive Ability
General intelligence shows concomitant increases during childhood and adolescence and then (slow) decreases between ages 25 and 45, and (faster) decreases after age 45.

SOCIOECONOMIC POSITION DIFFERENCES Brain Size

Nineteenth- and early twentieth-century data from Broca (1861) and others (Hooton, 1939; Sorokin, 1927; Topinard, 1878) suggested that people in higherstatus occupations averaged a larger brain or head size than those in lower ones.

Cognitive Ability

IQ test scores are significantly correlated with the socioeconomic hierarchies of modern Europe, North America, and Japan (Herrnstein & Murray, 1994;Jensen, 1998).

POPULATION GROUP DIFFERENCES

Brain Size


2023-04-07 (1)
Figure 5. Mean cranial capacity (cm3) for African Americans, European Americans, and East Asian Americans from birth through adulthood. Data for birth through age 7 years from the U.S. Perinatal Project; data for adults from the U.S. Army data in Figure 4. (From Rushton, 1997, p. 15, Figure 2. Copyright 1997 by Ablex Publishing Corp. Reprinted with permission.).


Rushton (1997) analyzed population group differences from birth to age 7 years using measurements of head circumference and GMA gathered on 40,000 children by the U.S. Collaborative Perinatal Project (Broman et al., 1987). The results showed that at birth, 4 months, 1 year, and 7 years, the East Asian children averaged larger cranial volumes than White children who averaged larger cranial volumes than Black children (Figure 5).Within each group, children with larger head sizes obtained higher IQ scores.

Moreover, the East Asian children, who averaged the largest craniums, were the shortest in stature and the lightest in weight, whereas the Black children, who averaged the smallest craniums, were the tallest in stature and the heaviest in weight; the differences in brain size were not due to body size.

照葉樹林文化とは何か
 東アジアの森が生み出した文明
 佐々木高明
中公新書

確かに、文化の共通性は認められる。しかし、関東以北は、照葉樹林帯ではない。
根拠の浅い内容であり、かつて、一世を風靡した同じ中公新書の騎馬民族国家論同様に、20年後には、100%確実に顧みられなくなるであろう。
下図の地点は、大部分が、少数民族居住地であり、例えば、中国のイ族は、奴隷制であった。文化の根本的な共通性などない。 

緯度と標高から、照葉樹林帯としているようであるが、くだらないの一言に尽きる

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p93
照葉樹林帯に共通する文化的特色の数は極めて多い。
我々は、これらの共通する文化的特色の存在によって特徴づけられる文化のまとまり(文化クラスター)を照葉樹林として捉えてきた。

p33
ネバネバした特有の味覚をもつモチ性の食品が、この地域一体で広く好まれていることである。

p34
インドやチベットあるいは華北の黄河流域に住んでいる人たちは、このようなネバネバするモチ性の食品を嫌ってきた。

北部九州の縄文~弥生移行期に関する人類学的考察(2)
中橋 孝博,飯塚  勝
Anthropological Science (Japanese Series) Vol.116(2), 131–143, 2008
(平成 20 年 9 月 6 日受付,平成 20 年 10 月 10 日受理)

縄文晩期における九州全体の縄文人人口について、小山論文では表55を掲げ1万人と見積もっている。(弥生時代には10万6,300人に急増)

この論文によれば、その1.5%=150人が渡来しただけでも、その800年後の人口増加と弥生人が多数を占める状態は、人口の妥当なレベルでの緩やかな増加を前提とした場合でも、何らの矛盾なく説明しうることが明らかとなった言ってよい

私が考えているように、種もみをもって、明らかに移住目的で九州北部に到達した人々は、現代韓国人とは遺伝的には完全に異なる少数の人々であるという視点を強力に支持する内容の論文である

中国の淮河~長江までの沿岸部で水田耕作を行っていた遺伝的には現代中国人とは完全に異なる、恐らくは、現代苗族の一部の特定集団に遺伝的に近い少数の(氏族)集団が、故地での混乱を避けて、山東半島から朝鮮半島へ渡ったものの、そこには既に朝鮮人どもが生息しており、同様の激しい衝突を避けて再度海を渡り、九州北部に到達した。

従って、比喩的に言えば、朝鮮半島を経由したのではなく、朝鮮半島を通過した。即ち、朝鮮半島には、一世代以上(=概ね25年以上)定着することはなく、20年以下の短期間で、再度、九州北部へ種もみをもって移住してきた。

幸いにも、移住先の九州北部では、小山論文によれば人口密度は1平方km当たり1人以下であり、多少の軋轢はあったものの、スムースに定住・人口増加した。そして、土着の縄文人と混血していった人類学上の証拠もある(=西北九州型弥生人が典型例)

現時点では、これで間違いないないと思われる。

そうでなければ、
鳥取県鳥取市青谷上寺地遺跡出土 弥生後期人骨のDNA分析
篠田謙一・神澤秀明・角田恒雄・安達 登 国立歴史民俗博物館研究報告 第 219 集 2020 年 3 月

で示された主成分分析図を合理的に説明できない。

要  約

従来は 200 ~ 300 年に想定した弥生時代早期から前期末までの年代幅を最大 800 年まで拡張して, 改めてこの間の縄文系と渡来系の人々の人口変化について数理解析を行った。その結果,年代幅が長くな るにつれ,渡来系の人々にとってより緩やかな人口増加率でも弥生時代前期末までに縄文系の人々を圧倒 するような人口比の逆転が可能であることが示された。

はじめに

 弥生時代への幕開けの最初の舞台となった北部九州で は,今なお縄文時代末~弥生時代初期の人骨資料が欠落 しており,その移行劇の実態には多くの疑問が残された ままである。先に 筆者らは,当地の弥生時代中期の人骨の形態学的な分析 に集団遺伝学的な数理解析を加えて,たとえ考古学的事 実が示唆するように渡来人数が少数でも,その後の人口 増加率の差に因って比較的短期間に人口比が逆転し,弥 生時代中期の人骨が示すような渡来系の人々が圧倒する 状況が現出し得る可能性を明らかにした(中橋・飯塚, 1998; Iizuka and Nakahashi, 2002)。

資料と方法

先の解析(中橋・飯塚,1998; Iizuka and Nakahashi, 2002) に用いた 200 ~ 400 年から最大 800 年へと拡大して検討 することとする。

まず, 縄文系の遺伝因子を J,渡来系の遺伝因子を Y とし,各 個体は縄文系遺伝子型 JJ,渡来系遺伝子型 YY,混血遺 伝子型 YJ のいずれかの遺伝子型を持つとする。

「縄文系弥生人」と「渡来系弥生 人」になるが,混血遺伝子型 YJ の個体の表現型は,そ の割合 p が「渡来系弥生人」で,1−p が「縄文系弥生人」 になるとする。

また,各集団では交配相手を無作為に選 ぶ任意交配(random mating)が行われるとする。

世代は離散的で,一世代(子孫を残す平均年齢) は 20 年とする

結  果

I.単純増加モデル


最も単純化したモデルとして,縄文系集団と渡来系集 団が別個に集落をつくり,互いの遺伝的な交わりが無い状況を想定する。なお,北部九州の弥生時代の遺跡には 大陸系の遺物だけが出土する遺跡,つまりは渡来人集団 のコロニーのような集落遺跡は検出されておらず,常に 土着系,大陸系の生活遺物が同遺跡中に混在したかたち で見出されている。

表 1 は,従来(中橋・飯塚,1998)の年代幅(200 ~ 300 年)を上述のように最大 800 年まで拡大した場合,弥 生時代中期における「渡来系弥生人」と「縄文系弥生人」 の比率(「渡来系弥生人」が少なくとも全集団の 80%な いし 90%を占める)になるために必要な初期「渡来系弥 生人」の人口比 X(0) を示した結果である(X(0) および後 述の X(t) は%で表記する)。

時代幅を 600 年とすると 5.8%,最大の 800 年とす るとわずか 1.5%で十分だということを示している


2023-03-10

また,表 2 は,この初期「渡来系弥生人」の比率を各々 0.1%,1%,10%とした場合,第 2 集団がどの程度の人口 増加率で増加すれば中期の 80%ないし 90%という比率 に達するかを見たものである。

ここでも,例えば第 1 集 団の人口増加率が 0.3%,初期「渡来系弥生人」の人口比 が 0.1%で,200 年後に 90%に達するためには,第 2 集団 はほぼ 5%の年率で増加する必要があるが(表 2 の No. 17),時代幅が 600 年だと 1.83%(表 2 の No. 18),800 年で は 1.44%となり(表 2 の No. 19),そうした人口比の逆転 現象がかなり緩やかな人口増加率でも起こり得ることを 示している。

II.混血集落モデル
次にもう少し実際の遺跡の状況に近づけて,一つは縄文系集団(第 1 集団)だが,もう一方に渡来系と縄文系 の人々が混合している集団(第 2 集団)を想定する。

A.混血個体を「渡来系弥生人」として計数した場合 (Model A)

この結果に明らかなように,β で示した初期の第 2 集 団に含み得る「縄文系弥生人」の比率は,人口増加率や 初期「渡来系弥生人」の比率,さらには年代幅を大きく 延ばしてもあまり変化は見られず,中期の全集団におけ る「縄文系弥生人」の比率(20%ないし 10%)に規定さ れてそれを上回ることはない。


つま り,ここで設定した条件では,最初に第 2 集団にこれ以 上の「縄文系弥生人」を加えれば,中期までに全集団に おける「渡来系弥生人」の比率 X(t) が 80%ないし 90%に 達することは理論的にあり得ないということを意味す る。


以上の結果はいずれにしろ,渡来人が男性主体であっ たと想定すれば,弥生初期の遺跡状況が示唆するように, 開始期の集落内にかなりの高率で土着の縄文系女性を取 り込んでも,数百年後の弥生中期までに「渡来系弥生人」 主体の地域社会を形成することは不可能ではないことを 示唆している。


B.混血個体の表現型を「渡来系弥生人」と「縄文系弥生 人」に振り分けた場合

B-1.混血集落内の人口増加率が一定とした場合(Model B-1


いずれにしろ,表 4 の結果は,これまでと同様に,開始期からの年数が以前 に想定した 400 年を越えて長くなればなるほど,小さな 人口増加率 R で「渡来系弥生人」が多数を占めるような 人口比の逆転が可能になることを示している。


B-2.混合集落内での人口増加率に差があるとした場合 (Model B-2)

次に,異系統の個体が混在する第 2 集団では,可能性 として,例えば渡来人が持ち込んだ新たな疾病に対する 免疫力の有無や,何らかの社会的な差別などによって縄 文系住民の人口増加率が渡来系住人より低くなっていた ことも考えられなくはない(Kaplan, 1988; 鈴木,1993a, b)。

開始期における第 2 集団の女性の殆どを「縄文 系弥生人」で占めること,つまりは土器の制作者の多数 が土着縄文系女性であっても不自然ではないことを示唆 している。

考  察 1.
弥生開始時期の遡上による分析結果への影響


弥生時代早期前後の北部九州において,縄文人と渡来 人はどの様に絡み合いながら新しい時代を創生していっ たのか。この間の推移を直接的に示す人骨資料は殆ど欠 落したままであり,考察の手がかりになる情報は今なお 限られている。

ここで改めて問題の要点に触れておくと, まず,先の論考(中橋・飯塚,1998)で述べたように, 弥生時代の幕開けとなった水田稲作の開始には渡来人そのものの関与が想定されるが,

その数は土着集団に較べ て少数と考えられること,

そして一方では,弥生時代前 期末~中期にかけての人骨形態を見る限り,縄文人と大 陸人との混血で中間的な特徴を持っている,と言うよう な状況ではなく,殆ど大陸集団そのものと言っても良い 状況を呈しており,

遺伝的な意味でも大きく新来集団に 偏った,言い換えればその形成に果たした縄文人の遺伝 的な寄与はかなり小さかったと考えられること,やや乱 暴ではあるがこの二点の考古,人類両面から寄せられた 論点に集約できよう。

我々はその一つの解答案として,「渡来系集団と土着系 集団の間に人口増加率で大きな差があったと想定すれ ば,弥生中期に至るまでの人口比の逆転現象は説明可能 であること,弥生文化の開花とその発展は,当初より渡 来系集団が牽引車となり,急速に自身の人口を増やして いった可能性が高い」とする分析の結果を示した(中橋・飯塚,1998)。

概ね先の解釈(中橋・飯塚, 1998)を追認する結果を得た。

ただ,これらの論考で一つの問題点になっていたのは, 各地の諸事例を考えれば不可能とは言えないまでも,人 口比の逆転のためには渡来系の人々に相当高い,場合に よってはあまり類例のない人口増加率を想定する必要が あった点である。

しかし,図らずも今回の分析で,弥生 時代開始期の遡上によって弥生時代中期までの経過時間 をより長く想定すれば,かなり緩やかな増加率でもそう した逆転現象が起き得ることが示された

弥生開 始期以降,渡来が五月雨式に継続したわけではないこと は,家根(1993)の指摘のように,朝鮮半島におけるそ の後の無紋土器の変化が北部九州に伝わっていない事実 から推測できる

しかし,少なくとも弥生前期末に見ら れる舶載の無紋土器や青銅器の急増の背後にある程度の まとまった人の流入を指摘する声は多い(片岡,1990, 2006; 金関,1995)。

2.渡来人主体説?

上述のように,弥生初期の北部九州では,大陸系の 遺物だけを出土するような,いわばコロニー的な居住を 示唆する遺跡は検出されておらず,いずれも土着系と渡 来系の遺物,遺構が混在し,土器ではむしろ縄文系のも のが量的に圧倒することが知られている。


こうした事実 は,我が国に最初にめばえた水稲農耕を柱とする弥生社 会が,以前からこの地に生きてきた縄文系住民と新来の 渡来人による,何らかのかたちの共同作業で築き上げら れていったということを示していよう。


更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合的研究

科学研究費補助金研究成果報告書

平成22年6月7日現在
研究代表者 溝口 優司(MIZOGUCHI YUJI)

A.弥生人の渡来ルートは、朝鮮半島でしかあり得ない。
B.にも拘わらず、現代韓国人どもは、遺伝的には日本人よりも中国人の近いことをほぼ全ての集団遺伝学論文のFst計算結果及びPCA図が示している。特に、DNAチップを使用した分析は、既知の(置換)変異しか検出しえないが、反面、データの信頼性は極めて高い。DNAチップを使用した分析でも、韓国人どもと日本人には、主成分分析図で、かすかな重なりすら見られない。(1900年頃以降の混血者の子・孫と思われる者が数名程度散見されるだけで、集団としての重なりは全くない)
C.これが出た後の同じ篠田氏他の国立科学館チームの弥生人DNA分析のPCA図でも、弥生人は、韓国人どもの範囲には全く入らずに、完全にすっぽりと現代日本人集団の中に全個体がプロットされている。

この結果報告書では、2010年時点で、
①弥生人の源郷地を中国東北部~江南と無茶苦茶広くとったうえで
②朝鮮半島を経由して と明言している。

②は間違いないので、Cの集団が、確実に中国東北部~江南にいたことになる。Cの集団は、現在は消滅している可能性が高いが、苗族の一部の特定の集団が有力である。

言語面から見た、苗語はシナ・チベット語族であるので、渡来した弥生人は、遺伝的均質性の高い1000人以下の特定集団で、この研究結果報告にあげられているとおり、人口増加率の高さから優勢となったが、当初の渡来者数が少なかったこと、及び、当時の水田稲作の生産性が極度に低かったことは確実なので、土着の縄文人との接触の中で、言語としては、土着の縄文人が話していた言語を使用することとなった。(ある歴史学者は、稲作の生産性の低さに着目して、「縄文人にいろいろ教わったはずだ」などと勝手な妄想を書いているが、案外、正解かもしれない。弥生人は、「縄文の壁」によって、全く異なる言語を使用するようになったのか?)

Cの分析結果が正しいのであれば、最も合理的解釈はこれしかない。
私が書いた日本人の起源としての中国の少数民族での明治時代の苗族の最後の男女の写真2枚は、どこをどう見ても、現代日本人である。韓国人どもでは全然なく、中国人でもない。
偶然の一致かもしれないが、直感はこの人々だ!

独立行政法人国立科学博物館・人類研究部・部長


研究成果の概要(和文):

旧石器時代から縄文~弥生移行期まで、日本列島住民の身体的特徴 がいかに変化したか、という問題を形態と DNA データに基づいて再検討し、日本人形成過程の 新シナリオを構築しようと試みた。結果、北海道縄文時代人の北東アジア由来の可能性や、縄 文時代人の祖先探索には広くオーストラリアまでも調査すべきこと、また、港川人と縄文時代 人の系譜的連続性見直しの必要性などが指摘された。シナリオ再構築への新たな1歩である。

沖縄県石垣島の白保竿根田原洞穴で発見 された人骨片のうちの1片、右頭頂骨片に対 して、20416±113 年前(BP)という推定年代値 を得た。これは放射性炭素によって直接ヒト 化石の年代を推定した値としては国内最古 のものである。

(4)弥生時代枠組み変化の日本人起源仮説 への影響の検討
①弥生開始期の年代は 500 年程度遡らせるべ きだ、との見解に従って計算機シミュレーシ ョン的に再分析を行なうと、渡来系の人々は、 これまで以上に緩やかな増加率で土着縄文 人を圧倒し、人口比の逆転現象を起こし得る ことが示された。
②弥生時代の人口増加を発掘住居数を用い て解析する数理的方法を検討した。
③南九州と沖縄の縄文・弥生遺跡出土人骨か ら試料を収集し、DNA 分析を行なった。

④人骨試料を使って縄文早期・中期・後期お よび弥生(および続縄文)時代での食生態を 検討した結果、植物と魚類の組みあわせとい う視点では、弥生時代においても、縄文時代 から食生態に大きな変化は見られないこと が明らかになった。

⑤人骨コラーゲンの炭素・窒素同位体比分析 から、先史沖縄貝塚人の食物は主に魚貝類で、 魚貝の外にクリ、ドングリなども食べていた 本土縄文時代人とは、食生活が異なっていた ことを明らかにした。

以上の結果を基にして新シナリオを構築 しようとしたのだが、特に上記(1)と(3) に見られるように、縄文時代人の祖先に関す る複数の分析において、相容れない結果を得 ることになった。それらを図1に示しておく。


(1)縄文時代人の祖先集団はいつ、どこか ら、どのような経路で日本列島へ入ってきた のか?
(2)縄文時代人祖先集団のアジア大陸内・ 周辺地域での移住・拡散経路は?
(3)弥生時代人祖先集団の源郷はアジア大 陸のどこか?
(4)弥生時代人祖先集団のアジア大陸内で の移住・拡散経路は?
(5)渡来系弥生時代人は日本列島をどのよ うな経路で東進・北上したのか?
(6)弥生時代前後の渡来民からの遺伝的影 響はどの程度だったのか?
(7)環境要因の身体的時代変化への影響は どの程度だったのか?


2023-03-09
図1 得られた新知見

この日本列島へのヒト渡来経路図は、2009 年までにな された形質人類学的研究(骨・生体の形態、古典的遺伝 指標、ミトコンドリアDNA、一塩基置換などに基づく 研究)を通覧して代表者(溝口)が現時点で妥当と考え るものであり、本プロジェクト研究班の班員全員の合意 によるものではない。

①アフリカで現代人(ホモ・サピ エンス)にまで進化した集団の一部が、5~6万年前ま でには東南アジアに来て、その地の後期更新世人類とな った。

②③次いで、この東南アジア後期更新世人類の一 部はアジア大陸を北上し、また別の一部は東進してオー ストラリア先住民などの祖先になった。

④アジア大陸に 進出した後期更新世人類はさらに北アジア(シベリア)、 北東アジア、日本列島、南西諸島などに拡散した。シベ リアに向かった集団は、少なくとも 2 万年前までには、 バイカル湖付近にまでに到達し、寒冷地適応を果たして 北方アジア人的特徴を得るに至った。日本列島に上陸し た集団は縄文時代人の祖先となり、南西諸島に渡った集 団の中には港川人の祖先もいたと考えられる。

⑤さらに、 更新世の終わり頃、北東アジアにまで来ていた、寒冷地 適応をしていない後期更新世人類の子孫が、北方からも 日本列島へ移住したかもしれない。

⑥そして、時代を下 り、シベリアで寒冷地適応していた集団が東進南下し、 少なくとも 3000 年前までには中国東北部、朝鮮半島、 黄河流域、江南地域などに分布した。

⑦⑧この中国東北 部から江南地域にかけて住んでいた新石器時代人の一 部が、縄文時代の終わり頃、朝鮮半島経由で西日本に渡 来し、先住の縄文時代人と一部混血しながら、広く日本 列島に拡散して弥生時代以降の本土日本人の祖先とな った。

以上の推測渡来経路図の上に着色した部分は本プロ ジェクト研究で得られた新知見である。

黄色部分は、北 海道縄文時代人は北東アジア由来かもしれないという 仮説、
緑色部分は、縄文時代人の祖先は東南アジア・中 国南部のみならず広くオーストラリアまでも含めた地 域の後期更新世人類の中から探さなければならないと いう指摘、
薄紫色部分は、港川人はアジア大陸の南方起 源である可能性が高いが、縄文時代人とは下顎形態に多 数の相違点があり、それらの間の系譜的連続性は見直さ れる必要があるという主張を図化したものである。

なお、以上の成果は、2010 年 2 月 20 日に、 本研究班主催の公開シンポジウムにおいて 発表された

人類がたどってきた道
文化の多様性の起源を探る
海部陽介
2005年 NHKブックス
遊牧民族には方言や異なる言語が生じにくい。アボリジニーの言語の分化は何に起因するのであろうか?アボリジニーは定着して農耕していないからして、その意味では、遊牧民と何ら異ならない。
記述が正しければ、アボリジニーは遺伝的には250程度の遺伝的均一性が非常に高い小集団に分かれていた可能性が高いが、今日では調べようもない

p143
(ネアンデルタール人)
およそ3万5千年前頃に彼らはヨーロッパからいなくなる

IMG_0386


p162
伊豆諸島の神津島産の黒曜石
本土から40Kmほど離れていたこの島の黒曜石は
複数の遺跡で見つかっている
これは旧石器時代から組織的な海上運搬が存在した動かしがたい証拠だ
IMG_0387

p191
アボリジニ文化の地域的多様性にも目を向けておく必要がある。広大なオーストラリアでアボリジニも異なる言語を話す多くの部族に分かれていた。18世紀のイギリス人入植当時にはおよそ250方言も勘定すれば700にも上る言語がオーストラリアに存在していたと推定されている。彼らは部族間で結婚相手を交換しており、多くの人々は複数の言語を話せたという





【信頼性の高いネイチャー掲載論文だけを対象として、複数の論文を比較した結果、現代韓国人は
他の集団に比べて、rare遺伝子が集団内に明らかに広がっており、ひとつの論文では、このことを論文本文中で直接認めている。

一般論としていえば、MAF分布が、他の民族集団と完全にありえない程に異なる。

論文毎にカバレッジ率(分析深度)が異なることもかなり影響しているであろうが、カバレッジ率の差だけでは到底説明できない程の極度の差が出ている。比喩的に言えば、韓国人は、他の民族集団ではrareである遺伝子をはるかに高い比率で共有していることはほぼ間違いない。

また、私がFDA論文の付属資料を基に長時間かけて調べると韓国人固有のバリアンツの圧倒的大部分は、ヒトのメンタル面に関連していた。恐らく、このことが韓国人の有する非常に強い「同胞意識」の根本的要因であろう。

また、韓国人には憤怒調節障害のメンタル障害が異様に多いことの主原因であろう。ただし、私が調べた結果では、第一順位にあるのは不眠症であった。不眠症こそ、集団固有のバリアンツを原因とする韓国人の民族病であろう。

集団遺伝学の一般論として、集団内のrare遺伝子は、その多くが非同義変異であり、その圧倒的大部分正確にはほぼ全てが、集団内に広がらず、消滅するはずである?何故、遺伝的に孤立した集団でこんなことが生じたのか?

その原因として、次のの2点ぐらいしか考えようがない
①モンゴル軍侵攻と東アジアの一時的な寒冷化の重なりにより、13世紀の朝鮮半島で人口の少なくとも85%以上の減少が生じた可能性が極めて高いこと。(東アジアの一時的な寒冷化は、日本でも鎌倉時代において平安時代末期に比べて人口が減少していることを根拠としているだけである。日本人の有効集団サイズに関する論文を調べてみること!私が知っているのは縄文時代のボトルネック効果だけであり、鎌倉時代について調べること)
②500年以上続いた李氏朝鮮時代において、奴婢を所有する者=両班の男性が、圧倒的に多くの男系子孫を残したこと
③ただし、日本人による戦前の研究では1600年~1910年に至るまで、朝鮮半島の人口は全く増えていない

ホルジンガーのテキストなどから、横断的に基礎理論を抜粋メモし、順次、追加していく
①Lecture Notes in Population Genetics Kent E. Holsinger
Population geneticsTutorial Peter Pfaffelhuber and Pleuni Pennings
Population Genetics II Don Conrad


ここから下は、仕切り線まで①による

Variance of allele frequencies between generations
2022-10-10

where t¯ is the average time to fixation of one allele or the other and p is the current allele frequency.

So the average time to fixation of one allele or the other increases approximately linearly with increases in the population size.


Summary

There are four characteristics of genetic drift that I think are particularly important for you to remember:

1. Allele frequencies tend to change from one generation to the next simply as a result of sampling error. We can specify a probability distribution for the allele frequency in the next generation, but we cannot predict the actual frequency with certainty.

2. There is no systematic bias to changes in allele frequency. The allele frequency is as likely to increase from one generation to the next as it is to decrease.

3. If the process is allowed to continue long enough without input of new genetic material through migration or mutation, the population will eventually become fixed for only one of the alleles originally present.13

4. The time to fixation on a single allele is directly proportional to population size, and the amount of uncertainty associated with allele frequencies from one generation to the next is inversely related to population size.

Effective population size

Var (p) be the variance we calculate for our actual population

2022-10-10 (1)

is the variance effective population size, i.e., the size of an ideal population that has the same properties with respect to allele frequency variance as our actual population.

Examples 
Suppose the numbers of females and males in a population are equal, Nf = Nm = N/2. Then
2022-10-10 (3)
What does this all mean? Well, consider a couple of important examples. Suppose the numbers of females and males in a population are equal, Nf = Nm = N/2. Then

2022-10-10 (2)


The effective population size is equal to the actual population size if the sex ratio is 50:50. If it departs from 50:50, the effective population size will be smaller than the actual population size.

2022-10-10 (4)
The quantity on the right side of that last equation is a well-known quantity. It’s the harmonic mean of the Nt .

This means that genetic drift may play a much more imporant role than we might have imagined, since the effective size of a population will be more influenced by times when it is small than by times when it is large. Consider,

for example, a population in which N1 through N9 are 1000, and N10 is 10.

2022-10-10 (5)

Tajima’s D

【めんどくさいので、数式省略するが、次のとおり】
D >ˆ 0: The population may have suffered a recent bottleneck (or be decreaing) or we may have evidence for overdominant selection at this locus. 

Fu’s FS
【めんどくさいので、数式省略するが、次のとおり】
 A positive value of FS is evidence for an deficiency of alleles, as would be expect from a recent population bottleneck or from overdominant selection.


【13世紀における朝鮮半島の人口減少は、減少率は大きいが、絶対数としては少なくとも20万人(=90%程度減少)と推定されるため、教科書的には遺伝的な多様性は確実に保持されている】

P91

Since f is the probability that two alleles chosen at random are identical by descent within our population, 1 − f is the probability that two alleles chosen at random are not

 So 1 − f = 4Nµ/(4Nµ + 1) is the genetic diversity within the population. Notice that as N increases, the genetic diversity maintained in the population also increases.


P92
When 4Nµ < 1 the stationary distribution of allele frequencies is bowl-shaped, i.e, most populations have allele frequencies near 0 or 1.

 When 4Nµ > 1, the stationary distribution of allele frequencies is hump-shaped, i.e., most populations have allele frequencies near 0.5.

Notice also that because mutation is typically rare, on the order of 10−5 or less per locus per generation for a protein-coding gene, a population must be pretty large (> 25, 000) to be considered large with respect to the drift-mutation.






ここから上は①による


ここから下は、②による

θ = 4Nµ where µ is the probability that a site mutates in one generation.

However, the TNFSF5 locus is on the X-chromosome and for the X-chromosome males are haploid. Therefore the population of X-chromosomes can be seen as a population of 1.5N haploids (instead of 2N haploids for autosomes) and therefore in this case θbπ and θbS are estimators of 3Nµ. 


ネイチャー掲載論文での実例、日本人の場合、
Human genetic variation database, a reference database of genetic variations in the Japanese population

Allele frequency spectrum

Under the assumption of neutral evolution at equilibrium, the expected number of sites at which the new nucleotide is present x times in the sample is given by 4Nμ/x, where N and μ are the effective population size and mutation rate, respectively.20

To compute the expected spectrum, 4 is estimated from the observed segregating sites according to Watterson’s formula.21 

Only autosomal genes were included in calculating the allele frequency spectra.

上記は、methodsからであり、図1にて、結果が示されている。しかし、何故わざわざ言及したのか?

Although the minor allele frequencies of the majority of the newly identified variants (139 096 or 88.8%) were smaller than 0.5%, the other 17 526 variants were found to be having minor allele frequency of greater than 0.5%
日本人の場合、頻度0.5%以下がおよそ90%である。この比率は、西欧人では、もっと高い。

Findings of a 1303 Korean whole-exome sequencing study
Published: 14 July 2017
Soo Heon Kwak他 
ネイチャー掲載論文で韓国人対象は、驚愕の結果を示している

コード領域のみで
頻度0.5%以下
229 168
合計
284991

頻度0.5%以下は、80%程度に過ぎない。あり得ない程の差が生じている。
カバレッジ率は、この論文の方が、複数サンプルのトータルで見た場合低く、言い換えれば、rare variantsを発見しにくい。しかし、その点を考慮しても、厳然たる顕著な差がある
集団として、MAF分布から見た場合、韓国人は、まさしく化け物集団である。ネイチャー掲載論文であり、データの信頼性は高いのだ。

恐らくは、これこそがダレの朝鮮事情で唯一褒めている、朝鮮人の強い同胞意識の遺伝的要因であろうが、それが集団遺伝学論文で証明されるのは、多分、数百年先だ。しかし、現在の韓国の出生率が、継続すれば、韓国人は、200年後、集団として遺伝的には確実に完全に消滅している。多数の移民を受け入れざるを得ない。日本と異なり、人口減少は遥かに早いペースで進むのは確実だ。

私の使命は、韓国人DNAに関する完全な科学的事実を日本人に伝えることにあるが、私の手に負えない難題である。
こんな難しい内容を集団遺伝学を当然知らない一般人に理解してもらうことは、不可能に近い!




中国少数民族 農と食の知恵

大石 惇
森 誠 編
参考になったのは、下記

p63
山 山 山の連続である貴州省は
中国で平野のない省はここだけだという
省の97%を山地が占めるとあって

p64
貴州省は古くは、秦・漢時代の夜郎国の中心であり、少数民族が作り上げた奴隷社会であった。中国の諺にある夜郎自大の発祥地である

p65
ミャオ百族と言われ、部族ごとに異なる模様の刺しゅうを施した民族衣装を着ている。ミャオ族同士であれば、一目でどこの部族のもので未婚か既婚か、歳がいくつくらいかもわかったそうであるが、部族固有の衣装は消えつつあるという

p66
スイ族
もともとは河南省睢江周辺の民族であったという。北宋時代に攻められて江西省に移動したという記録が宋代にある

スイ語はチワン・トン語派トン・スイ語に分類される
主食はジャポニカのうるち米で

p70
つき餅の分布範囲は、貴州省、湖南省から朝鮮半島、日本にかけての地域に限定されているという

p75
麹を利用し醸造した酒、色染めおこわ、尾頭付きの魚などは日本と共通する供え物ではないか。




現代中国の少数民族語
https://www.jstage.jst.go.jp/article/chuugokugogaku1955/1963/132/1963_132_1/_pdf
――その分類 と訳 名 につ い て――
村 松 一 彌

現 代中国の 「人民手冊」1962年 版や,「 新華辞典」1962年 修訂 本の 「少数民 族簡表」に あげ られ た51(ま たは プ ミ族を加 え て52)の 少数 民族 名は,原 則 として各民族 の自称 を採用 してお り,共 通 の言語を話す部 族群は,従 来個 々別々に説かれ ていた もの も 一民族名 の下に統 合 してお ります。

ことに,民 族融合 の ルツボ ともい うべ き中園辺境 の諸民族 の消 長の相 は複雑 で す。た とえば、 貴 州省に住 む莫(Mak),羊 黄(T'en),錦(Cham)と 称ず る諸部族 は, もと スイ語系に属す る部族 で したが,現 在 は この地方の主力民族 であ る ブイ族 と同一経済 共 同体を形成 してい るので,現 在は ブイ語 を 用 い ブイ化がいち じるしい と報告 され てお り ます(喩 世長 「有関我国少数民族語言系属的 一些 問題 」中国語文 ・59・2) 。したが って これ らの部族名は,現 代中国におけ る少数幾 族表 にはあ らわ れて来 ません。



〔1〕 アルタイ語族

表 の(1)~(18)は中国東北 の黒竜江上流 々域か ら興安嶺 の森林 に住む狩猟民,そ して蒙古 ・ ジュンガ リアの大草原に住む遊牧民,タ リム 盆地 の農民 までを含む ア ルタイ語族 を配列 し ま した。

〔I-1〕 ツンゲース語群に入れた もの
中国のア ルタイ語族 の うち(1)~(6>は中国の 東北部,主 として黒竜江流域 お よび大小興安 嶺 に住む狩猟 民で,ツ ングー ス語群 に属 しま す。

(1) 鄂 温克族 → エベ ンキ族

1957年 以前には,エ ベ ンキ族 は,次 の三部 族 に分け て呼ばれてい ま した。

(2) 鄂倫春族 → オ ロチ ョン族
エベシキ族 の うち,も っぱ ら興安嶺 山中に 住み馴 鹿を使 う一集団は,加 チ ョン(馴 鹿 を 有す るもの,あ るいは山中に住 む もの,の 意 であると)と 呼ばれ,

(5) 錫伯族 → シボ族
満洲族 の一支族。清 の乾 隆 ・嘉慶 年間に, 吉林か らイ リに移駐 した満 洲族軍 隊の子孫 で あ って,満 洲文字 をいまなお用 い,固 有の満 洲語方言 であ る シボ語 を話 し,主 として新 彊 ウイ グ・し自治区 イ リ・カザ フ族 自治州 チャフ チャ ル ・シボ族 自治県 に居住 してい ます。

(6) 赫哲族 → ホジ ェン族 欧米 では一般 にGoldま たはGoldiと 呼 ばれ てい ますが,こ れ は彼 らに対 するギ リヤ ーク人の称呼が ロ シア人 をへ て欧米 に伝 った ものです。赫哲 の字は,か つ ては黒斤 とも書 かれ,い ずれ も彼 らの 自称khodzenに もと つ くものです。同 じ民族 で もソ連領黒 竜江下 流一帯に住む集団はnanaiと 自称 してい る ので,ソ 連では現在 ナナイと呼ばれ てい るよ うですが,中 国領 の黒竜江 中流 に住む集 団は ホ ジェンと自称 してい るので,中 国では これ を も って民族名 と したわけ です

〔I-2〕 蒙古語群に入れた もの

(8) 東郷族 → トンシャン族
東郷蒙古人 では あるが,ラ マ教 では な くイスラ ム教 を信ず る集団 なので,漢 族か ら蒙古 回々 とも呼ばれ ていま した。甘粛省臨夏 回族 自治 州 トンシャン族 自治州(蘭 州 の南方)に 集居 し,回 族 と同系 の イス ラム教(新 教 ・旧教 の 別 のある中国独 自の イス ラム教ン を信 じてい ます。彼 らの話す蒙古語が,蒙 古方言 の どの 系統に属す るかは,ま だば っき りしていませ ん。 

(9) 土族 → ど族
ラマ教 を信 じ,青 海 のチベ ッ ト族居住地帯 中に住 みなが らも,蒙 古語を話す蒙古人 の集 団です 。

 (10) 保安族 → ボ ウナ ン族
青海省 のイ スラム教信仰 チ ュルク系民族で あ るサ ラー ル族 の居住地 に接 して住み,イ ス ラム教を信 じなが ら も,蒙 古語を話す蒙古人 の一集団です。

(11) 達斡爾族 → ダウー ル族
ダ ウール族 は今 日で は蒙古化がいち じる しいが,種 族 的には ツン グースとモン ゴルの中間的性格 を示 していま す し,清 代には満洲文字 を用 いていた時期 も あ る くらいですか,ら やは り一語系 をたてて おいた方がいい よ うです。

〔1-3〕 チ ュル ク語群に入れた もの
(13) 撒拉族 → サ ラール族
回族新教徒 と同 じく,既 婚婦人が お高祖 頭 巾ふ う'の黒い頭 巾をかぶ るので漢族 からは黒 帽 回 とも呼ばれ ました。カン ド地 方のチ ュル ク人が,明 代 の ころ,青 海 省に移住 した ものの後喬 と言われ ます。

(15) 哈薩 克族 → カザ フ族
(16) 塔塔爾族 → タタール族
(17) 柯爾克孜族 → キ ルギス族
 (18) 裕 固族 → ユー グ族

〔II〕 イン ド・ヨー ロッパ語族 

 (19)~(20)はイ ン ド・ヨー ロッパ語族ですが, 居住圏は,前 チ ニルク語群 と同 じ新 彊地 方で あ って,帝 政 ロシア時 代に来た ロシヤ商 人な どのギ リシヤ正教 を信ず る ロシア人の集団 と イラン系 の遊牧 民 タジク族 の二 民族 にすぎ ま せん。

〔III〕 漢 ・チベ ッ ト語族
 西南の山地 居住焼畑耕作民で ある ミャオ ・ヤ オ 最南部の河谷居住水稲梨耕民 である トン ・ タイ語群諸民族 の順 としました。

ところで上述 の漢 ・チベ ッ ト語族諸語群 の 配列は,ユ ー ラシア大陸 内陸地方 と東南亜を 結ぶ古 い文化伝播(あ るいは民族移動)の 流 れ,す なわ ち新彊 →青海 ・甘粛 →西康 ・四川 →雲南 ・貴 州→ ビルマ ・ラオス ・ベ トナム, とい う文化伝播 の方向に合わ せた も の で あ り,し たが って,こ れ は地 理的な北 か ら南へ の配列 だけ でな く,文 化伝播(あ るいは民族 移動)の 時間的 な新 旧を判断す る上 で も役 に 立つ とい う狙 いが あるのです。

〔III-1〕 漢語群に入れ たもの

(22) 回族 → かい族

〔III-2〕 チベ ッ ト・ビノしマ語群'
〔III-2-1〕 チベ ッ ト語系に入 るもの
(23) ~(26)にはチ ベヅ ト高原か ら青海 ・西康 高 原,さ らにそ の東 南に続 く四川西部 ・雲 南北 部 山地 に居住す る高原農牧 民を配 しました。 彼 らは いずれ もチベ ッ ト語系 に属 す る言語を 用 いています 。

(23) 蔵族 → チベ ッ ト族 漢 族が チベ ッ ト人を蔵 族 と呼ぶのは,地 域 名に よ った ものです 。チペ ット人は彼 らの居 住地域を下記 のよ うに呼び分けてい るのです

(24) 羌族 → チャ ン族 現 代中国でい う羌族は,四 川省 アパ地区に 住む 一部族 を指 します。

 (25) 独竜族 → ドールン 族
 (26) 怒族 → ヌー族
この二民族はいずれ も,ビ ルマにそそ ぐサ ル ウイン川 の上流であ る怒江流域に住む民族 で,雲 南におけ るチペ ッ ト人居住区であ る迫 慶 チベ ット族 自治州に接す る山地で狩猟栽培 生活を送 って来 ました。

〔III-2-2〕 イ語系 に入 るもの
(27) か ら(34)までは,そ の居住 区の北 および西 はチ ベ ット人居 住区に接 していて,高 原農牧 民 的チベ ッ ト的文化 を基 調 としなが らも,い っぽ うでは,南 お よび西 に接す るタイお よびミャオな どの農耕民 の文化 を も受 容 し て お り,イ 語系 各族 の置 かれ た条件 に したが って 多少の差 はあれ南 方農耕民 的文化 的要素 の混 入 も見 られ る集団 です。 チベ ツ トと タイ,ミ ャオの接点 に位置す る民族群 と言 ってもよい で しょう。

(27) 彝族 → イ族
 彝の名称は本来漢族が イ族に対 して用 いた 卑称 鳩 もとほ 夷 と書いてい ました。 しか し 満洲 人の王朝 であ る清朝が雍正11年(1733) に 「胡,虜,夷,狄 」字の使用を禁 じてい ら い,夷 の代字に同音の彝(宗 廟に供え る酒器 の意であ り,ま た常の意 もあ って,こ れはた いへ んいい意味の字です)を 用い ることにな ?た ものです。

(28) 〓イ粟族 → リス族
(29) 納 西族 → ナシ族
この両者は,イ 語系諸族 の中でも,も っと も西北部に居住す る民族 です。 リス族 は雲 南の最西北部山地 では もっとも 勢 力を有す る狩 猟お よび焼畑耕作民です。 ナシ族 は,漢 族か らは古 くか らモ ソ(磨 些 〓些)と 呼ばれ て来 た民族 ですが,そ の 自称 nahsiに 従 って ナシ族 としました。雲南省 麗江 ナ シ族 自治県 が主居住区 ですが

(30) 哈尼族 → ハニ族
(31) 拉〓族 → ラフ族

(32) 阿 昌族 → アチャ ン族

(33) 白族 → パ イ族
 (34) 土家族 → どか族

〔III-2-3〕 ジンパ ウ語系
(35) 景頗族 → ジンパ ウ族


〔III-3〕 ミャオ ・ヤ オ語群
(36)~(40)は典型的な西南山区居住焼畑耕作民 です。 この語群を 南ア ジア語族 のモン ・クメ ー ル語群に入れ る説 もあ ります。語彙お よび 伝承 な どを見 ると,た しかに南方語族的要素 が残存 しています。 しか し,長 ら く漢 ・チベ ッ ト語族 の諸民族に制圧 され て来た ので現状 では漢 ・チベ ット語族的要素が極め て濃厚 で す し,今

【III-3-1】 ミャオ語系 (36) 苗族 → ミャオ族

古代漢族 め言 う苗は中国中南部原住民に対 す る汎称ですが,現 代の苗族は,貴 州 を主居 往区 とす る一群を指すので,訳 語は 「び ょう 族」 とは賦 自称音に近い ミャオ族 と しま した。正確にい うと ミャオ族の 自称は各部族 に よ って異 るのですが,そ の主な ものをあげ ると次の通 りにな ります。

イ語系民族 の一 部は,北 ベ トナムお よび ラ オスに接す る山地に南下 しています。

湖 南go-goま た はsoま た はqw-suaη
貴州東南mhuま たはmoま たはmu
貴州西部moη またはmjau

苗族 の自称 はモ ンまたは ミャオとであると 言われ るのは貴州西部方言に よ ってい るわけ です。

この貴州西部方言は正 しくは川黔演方 言 と呼ばれ,女 性が美 しい刺繍 をほ どこ した 色彩豊か な衣服 を着 るので花苗 と呼ばれ る集 団が主 力です

 これに対 して湖南 と貴州東南 方言 を包括 する黔東方言を話す集団は,黒 色 の服装 をす るので黒苗 と呼ばれ,も っとも独立 自尊心強 く,最 後 まで自地区へ の他族 の侵 入に反 抗を続け て来 ました。

 (37) 〓 族 → コラオ族

〔III-3-2〕 ヤオ語系

 (38) 瑤族 → ヤオ族
(39) 雷族 → ショオ族
(40) 京族 → キン族


 〔III-4〕 トン ・タ イ語群
(41)~(48)の諸 民族は,漢 ・チベ ッ ト語族中, 欧 米の学者がDaicと 呼ぶ語群に属す るもの で,中 国では伺〓 語族(ま たは欝台語族)と 呼 んでい ます。 この語群中の二大語系を代表 す る民族 が トン族(黔 すなわ ち貴州に居住す る)と タイ族 だからです。 この集団は広西, 貴州,雲 南 の山間河谷 に居 住す る水稲梨耕 民 族群 です。

 〔III-4-1〕 チ ワン ・タイ語系
(42) 億族 → チ ワン族
(42) 布依族 → プィ族
(43) 〓族 一・ タイ族

〔III-4-2〕 トン ・スイ語系
(44) か ら(49)までの諸民族 は,チ ワン ・タイ語 系民族 と同一源 よ り出て,少 くともいわ ゆ る 古 タイ語が近 代各方言に分 化する前 に分岐 し た一群 と考え られ てい ます。

(44) 〓族 → トン族 
この民族 はチ ワンや タイと くらべ ると少 し 異 った傾 向,す なわ ち林業 とそれに附随す る 木造建築技術に秀れた才能を示 し,タ イ系族 族を純水稲耕作民 と言 うな ら,こ の民族は貴 州 と広西 と湖南の境の山地 に住み,半 農半林 業をい となみ,風 俗的には ミャオ ・ヤオ系に も近 い山間水稲耕作民 と言えます。

彼 らの古老の伝統に よる とか って中国東南沿海地方に住んでいた古代 百越 人の後窩だ とい うことにな ってお り,民 話にはわが猿蟹合戦型や花咲 爺型(こ こほれ ワソワンの犬 もち ゃん と出て来 ます)の 説話 も持 っていて,私 に とっては大 いに研究意 欲 をか きたてて くれ る民族 です。

(45) 水族 → ス イ族
(46) 毛難族 → マオ ナン族

 (47) 仏 姥族 → ムー ラオ族

〔III-4-3〕 リー語系

(48) 黎族 → リー族
 なお海 南島の ミャオ族は,じ つは対 リー族 政策 のため漢族 に よって移住 させ られた ヤオ 族 であ り,話 す言語 もヤオ語の要素が濃い こ とが確認 され てお ります。

〔IV〕 南ア ジア語族(Austroasiatic) 
〔IV-1〕 モ ン ・ク メール語群
〔IV-1-1〕 カワ ・パ ラウン語系

(49) 〓仮 族 → カ ワ族
未開の カ ワ族は高 山族 と同様 にか っては首 狩 りの風習 を持 ってい たことで有名 ですが, 現在中国 の雲南省西双版納 に住む カ ワ族 は タ イ族の影響を受け稲を栽培 し,タ イ語か らの 借用語 も少 くない とのことです。

 (50) 崩竜族 → パ ラウン族 Palaungは ビルマ人の彼 らに対す る称呼 で,自 称 はRum組 なのですが,ど うい う事 情 か らか判 りませんがパ ラウンが正式称呼 と な りま した。雲 南に住むのはほんの一部で, 大部分 は ビルマ ボシャン州の北 部に住んでい ます。

〔IV-1-2〕 プー ラン語系
(51) 布 朗族 → プー ラン族
従来蒲蛮 な どと書 かれ て来 ま したが,西 双 版納や臨槍地区 の山地 に居 住 し,雲 南の南 ア ジア語族 中,も っともタイ化 の傾 向の強 い集 団です 。 

〔V〕 南島語族(Austronesia)
(52) 高山族 → こうざん族 従原わが国では高砂族 と呼ばれ て来 た台湾 の原住民です。 



2022-03-18 (1)

苗族調査報告
鳥居瀧蔵

①鳥居瀧蔵の苗族調査報告は下記URLで開いて無料で全文が読める
https://play.google.com/store/books/details/%E8%8B%97%E6%97%8F%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A?id=YPUvj8gNFFgC&hl=ja&gl=JP

②中国の全ゲノムシーケンス論文で下記主成分分析図を見て驚愕し、この主成分分析図が正しいのであれば、苗族は日本人の起源である可能性が極めて高く、かつ、民族学者等は従来から、高床式住居等いわゆる照葉樹林文化論で日本との共通性を指摘し、かつ、「図説 日本人の原郷」において、東京教育大で日本史専攻のフリー写真家萩原 秀三郎氏が、多数の写真を掲載して日本との共通性を指摘したため、この報告を見てみた

2022-03-04

③結論として
*明治40年に苗族(ミャオ族)を調べた鳥居は、日本文化・風習・風俗との共通性を何ら指摘していない。身体的特徴・言語・風俗に至るまで調べているが何らの共通性も見出してはいない。いわゆる照葉樹林文化論などバカげた机上の空論に過ぎないかもしれいが、残念ながら鳥居が調べた苗族は照葉樹林帯には居住していないようである。(住居には木材があまり使用されていない)従って、日本文化・風習・風俗との共通性を鳥居が何ら感じなかったのは当然である。
ただし、苗族の主たる居住地である貴川省はグーグルマップで見ると、緩やかな山が連なり、照葉樹林帯であるように見える。

また、「鳥居龍藏の少数民族調査に関する研究手法」田畑久夫によれば、鳥居が調べたのは、下の行程であり、中国少数民族辞典の苗族居住範囲と一致する。鳥居は調査地の地質が石灰岩質であるとしている。

2022-03-17

上の主成分分析図は、日本人と世界で唯一最も近いのが苗族の一部の人々であることを示している。苗族全てではなく、そのごく一部であろう。主成分分析図は苗族について、丸く非常に密集しており、サンプルは明らかに苗族中の近交系数のかなり高い特定の集団からとられたことを示している。

問題であるのは、日本人が中国・漢族の左に位置していることである。私がこれまで見た主成分分析図は、弥生人・縄文人をめた国立民族学博物館の主成分分析図以外は全て日本人は中国人の右にきておりその間にキチガイどもがプロットされている。(記憶間違いの可能性が高いので全てのPCA図をもう一度調べよう)論文の主成分分析図はadmixtureを使用し、かつ、K=の選択についても恣意的には行っていないことは確認した。従って、この主成分分析図が間違って作成されるはずがないのであるが、どうゆうわけか、現代人のみを対象としているのに日本人が漢族の左にプロットされている。しかし、私がこれまで見たSNP分析は全て常染色体のみを対象としたものである

不思議で仕方がないのは、日本人以外については、この主成分分析図は私がこれまで見た東アジア人の主成分分析図と完全に一致している点だ。全ての東アジア人の起源と言ってもいいCDX(中国のダイ族、タイ族とも表記する)が最下部に位置し、GHS、CHBと正しく位置している。そして、チベットが離れているのも正しい。もう少し図の論文を精査してみよう。

チベット人を含めて、かつ、常染色体だけではなく性染色体も含めて主成分分析すればこの図が正しい可能性が極めて高い。東アジアでY染色体のハプログループ分析ではDがあるのは、日本人男性の35%程度とチベット人男性の50%~70%程度のみである。弥生人・縄文人をめた国立民族学博物館の主成分分析図も同様に中国人の左に日本人がプロットされているのと同じかもしれない

*恐らくは、苗族全体ではなく、苗族の特定の集団が遺伝的には日本人と非常に近い関係にあると見ていい。即ち、日本人の起源。弥生人の可能性がある。地理的に山間部のまだら模様の平野に孤立して過ごした苗族の一部の集団が日本人の起源である可能性は否定しえない。しかし、この鳥居の報告によれば、少なくとも鳥居の言う 花苗族、白苗族、黒苗族、青苗族等々は日本人とは民族学的、人類学的視点からは全くは関連性はない

下図は、苗族の推定移動ルートであり、3000年前に殷から周への王朝移行時?に迫害・混乱を避けるために、苗族の一部の小集団が他の大部分と異なり、北上し山東半島から朝鮮半島へ渡り、2800Kと古気候学者が呼ぶ寒冷化により朝鮮半島を南下して九州北部に到達した可能性がある。
(ただし、北上は確実に陸路ではなく当時の船で沿岸部に沿ってされたことは100%確実である。陸路での北上はありえない、混乱の度合いが高い即ち集団全体か殺される可能性が高い地域に逆に向かったことになる)全ての主成分分析図における日本人とキチガイどもの綺麗な分岐は、現状では説明がつかいない。キチガイどもに遺伝的に一番近いのは北部中国人(CHB)であり日本人ではないことを多くの遺伝学論文が完全に示している。

図説 日本人の原郷
萩原 秀三郎 より




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掲載写真の圧倒的多数は花苗族の写真であり、鳥居は主に花苗族を調べた可能性が高い


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狆家は現在ではプイ族とされている。中国少数民族辞典によれば、苗族と重なって居住している






鳥居龍藏の少数民族調査に関する研究手法

田畑 久夫

https://swu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=165&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1


明治35年時点で赤字にしておいた箇所の見解がすでにあったことに驚いた。鳥居氏に関する文献リストとしても使える。ミャオ族は、習俗及び集団遺伝学の主成分分析図からみてほぼ確実に日本人と何らかの関係がある

2022-03-04



「遼の文化」の研究は,最終的には日本民 族および文化の源流研究に収斂していくのではな いかと推察できるからである。鳥居龍藏の少数民 族調査はまさにこの点と大いに関連を有している からである。

2.ミャオ族調査の位置づけ

ミャオ族がとくにされ,関心をもたれるようになったのは葉樹林文化論との関連においてであった。1966年中佐助が著書 (中 19665976 の中で葉樹林化論を提唱した直後葉樹林文化論は,第 2
世界大戦後のわが国における人文科学上最高の学問的成果であると称された作業仮説であった 7

それ故,ミャオ族の伝統的な生活様式(genredevie) の多くがわが国のそれとの類似点が多く認められる。そのことから,日本文化さらには日本民族の源流の解明に大きく寄与するものと推察されるからである。

鳥居龍藏は,日本文化の担い手である日本民族が他の民族集団の血が混ざっていない純血種であるという立場を放棄し,北方および南方の両方面から,それぞれ日本列島に渡来した複数の民族集団によって形成されたと看做した。

3.ミャオ族調査の動機とその成果

東京を出発したのは明治 35 19027

鳥居龍藏の日本民族形成論は,北方から渡来した「固有日本人」を中核としつつ,その一部には既に本文でも論じたように,ミャオ族を筆頭とする南方系の諸集団の存在を想定している。

つまり,西 南中国ミャオ族調査は,日本民族の形成の枠組を設定するに際して基礎的な資料を提供したといえる。 さらに,かかる日本民族および文化の形成にミャオ族など南方系の諸集団が関与していると唱える説は,その後の照葉樹林文化論に大きな影響を与えることになった*43

中国少数民族辞典
著者は下記


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巻末の少数民族一覧、人口は1990年時点

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【貴州省にはまだ識別されていない民族が1990年で約75万もいる。】

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巻末の言語系統分類一覧

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少数民族との関連で簡単な中国史解説
図は、亀井他編 世界史年表・地図 吉川弘文館などを参考にして作成
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ウィグル族

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朝鮮族

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回族

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ミャオ族(苗族)

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チワン族
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p139
夷族(ィ族)
漢王朝時代から唐王朝時代にかけて奴隷制社会に入り、その勢力は強大となった。すなわち、唐王朝時代になると、雲南省東部には、烏蕃と呼ばれる集団が集団が、雲南省西部には白蕃と称される集団が形成されていった。鳥蕃は、四川省西部から雲南省の山岳地帯に南進した騎馬民族で、現在の黒ィやナシ族の祖先に該当すると考えられているチベット系の集団の総称である。
その後、鳥蕃の一部が征服王朝として雲南の地に建設したのが南詔王国である。南詔王国が滅亡した後分立状態がしばらく続いたが、その中でも黒ィの奴隷主層は、自らの社会を維持するため、周辺の農耕諸民族などに対して、奴隷略奪の抗争や戦争を積極的に行った。
黒ィの男性は
我が国のちょんまげの様な髷を結い、その上に黒いターバンを巻くことを常とした。


p141
この黒ィ集団に支配される奴隷層はチャッゴ、アージャ、シャシの3階層に大きく区分されるが、白ィ集団と総称された。チャゴは最上層に位置するものであるが、奴隷主に隷属しており移動の自由はなかった。しかし、自らの家屋と子女を所有する権利は認められ、わずかではあるが耕地と農地などを所有した。
アージャは奴隷主の管内に家屋を持っていた。
次のシャシ階層は家内奴隷で人身の自由を全く持たなかった。アージャとシャシは戦争で囚われたり、さらわれたり漢族など非ィ族の人々も含まれていた
結婚に際しては、古くからィ族の青年男性は、
交叉いとこを嫁の候補とする習慣を持っていた。

福 島 県 須 賀 川 市 牡 丹 平 遺 跡 出 土 の 弥 生 時 代 人 骨
第 一 部 小 片 保1)・加 藤 克 知2)・皆 川 幸 夫3)・松 村 博 雄3)
第 二 部 瀧 川 渉4)・百 々幸 雄4)・皆 川 隆男5)
1)元新潟大学医学部解剖学教室 ・故人
2)長崎大学医療技術短期大学部
3)元新潟大学医学部解剖学教室
4)東北大学大学院医学系研究科人体構造学講座
5)須賀川市教育委員会生涯学習課

人骨に関する貴重な内容であり、図1非常に参考になった

要約
本例は ほぼ全身の部位 を遺す弥 生時代成年人骨 と して東北地 方で唯一である。性 別は中橋(1988)の 保 存不 良骨 の性判定法 と四肢骨 に基づ く正準判 別分析か ら, 女性 と判断 され る。四肢骨の断面形態は縄 文人的で, 骨幹部計測値か ら 縄文 人と渡来系弥生人の各男女4集 団間で正準判別分析 を実施 したところ, 高的 中率 で縄文人女性 に判別 され た。 

序 本 資料 検 討の 経緯 と本 稿 の構 成 につ いて

人骨 を納 めた弥生時代 の壼形土 器が発見 され, しか もその人骨 の下 顎に抜歯 の 痕跡が うかがえた ことか ら, 注 目を集める

この壺形 土器は 口頚部 を打 ち欠 き, 長軸175 cm, 短軸70cm, 深 さ80cmの 土坑の底面 に円 形 ピッ トを設 け, その中に口の方 を逆 さに して 埋納 されて いた とい う。内部 の人骨 は, 土器 を 起 こ した状態 で底部 か ら順 に椎骨 ・肋 骨 ・四肢 骨 ・下顎骨 ・頭蓋 が入れ られてお り, わゆる 壺棺再葬の様相 を呈 していた (永山, 1977, 1979; 大森 ・寺 島 ・山内 ・相 楽 ・芳 賀 ・長島, 1984)。

2022-03-07


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弥生時代 の東 日本 にお ける再葬墓 の土 器棺か ら出土す る人骨 は, ほんの一部分 のみの 場合が多 く, 全 身の部位 が揃 っている例 は現在 の ところほとん どない とされる

牡丹平 人骨 の場合 は, 一次埋葬 した遺体 を, ある程度軟部組織が消失 して骨格だけ になった 段 階で掘 り起 こ し, 遺 った骨 を壺棺 に納めた と 考 えるべ きだ ろ う。

 これは抜 歯 と み な して差 し支 えない だろ う。

 牡丹平人骨はほぼ全 身の骨 が確認 されて いる ものの, 性 別 を判定 するにあたって重要 な骨盤 が全 く遺存 していない。

ここで, 牡丹平人骨 は重要な意味 を持 って く る。 なぜ ならば, 本例 は頭蓋 の状態 は良 くない ものの, 東北地方出土の弥生 時代 成人人骨 とし て, ほぼ全身の骨 を遺存 する唯 一の例 だか らで ある。東北地方では, 今 まで福 島県根古屋 遺跡 (馬場 ・他, 1986) などで再 葬墓 か ら火葬骨や断 片的 な人骨が検出 されている他 は, 山形県 日向 I洞穴出土の顔面 を欠いた女性人骨頭蓋 (加藤 ・ 石 田, 1991) が認め られ ている程度 であった。

図説 日本人の原郷
萩原 秀三郎

東京教育大学日本史科卒業後に教師にはならずフリーの写真家になられた方によるミャオ族の豊富な写真のある著作。従来から民族学者は、中国南部の少数民族の風俗と日本の風俗との類似性を頻繁に指摘しているが、1990年発行のこの著作が、その大元であったかもしれない。この方が写真で示した類似性を示す集団遺伝学論文が出たのには驚愕した

2022-03-04

②赤字の部分が、注目される。記述内容は正しいようである。現在の韓国でも、犬は食用である。

朝日遺跡出土のイヌと動物遺体のまとめ
西本 豊弘


d.狩猟犬か食用犬かの問題

縄文時代ではイヌは狩猟に用いられた。イヌ の骨に解体痕がみられることもあるが、一般 にイヌは埋葬される。四肢骨がバラバラでみ られることもあるが、頭蓋骨から指骨まで全 身揃って出土することが多い。

弥生時代にな ると、骨がバラバラになって出土し、解体痕 をもつ骨も縄文時代より多くなる。この遺跡 でも一個体のイヌの骨がまとまって出土する 例が1例みられるが(61AB―220~234)、大部 分は散乱状態で出土している。縄文時代のイ ヌとは異なって埋葬されずに食用とされた可 能性が高い。解体痕のみられるものは頭蓋骨 1例・四肢骨3例と少ないが、いずれも鉄器 によると思われる鋭利な傷であった。


p23
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p24
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【掲載写真で日本との類似性を感じさせたのは上の通り】

ミャオ族やトン族は餅を好み正月の儀礼食とする


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p223
入れ墨のないミャオ族

p229
弥生人は犬も食べた。縄文人は愛犬を埋葬したのに対し、弥生人の犬の骨はバラバラに出てくる。

p233
結論として、日本の稲作文化の源流は長江中流域にあること。ここでミャオ族を中核とした民族文化が様々な分化要素をセットに醸成され、文化だけではなく担い手の民族自体が、山東半島より朝鮮半島に渡り、いくらかの朝鮮民族と共に北九州に渡来した

その渡来の時期は、春秋末期から戦国時代にかけての動乱期。呉が滅び、越が衰え、楚が勢力を山東にまで拡大しものの、秦によって滅ぼされたころ(前223年)

大阪における「在日」形成史と階層分化 : 高齢期にある在日韓国朝鮮人一世の生活史調査より

庄谷 怜子 (仏教大学,社会福祉学部,教授)

1994

原尻氏の著作で、大阪の在日の皆さんはほとんどが済州島、北九州はキチガイどもの本拠である慶尚道であるとしているが、大阪に関してはデータでハッキリと確認できた。済州島の人々のDNAは、明らかに朝鮮半島本土のキチガイどもとは異なる、遺伝学論文でも病理遺伝学でその相違は明確で、かつ、集団遺伝学でもサンプル数のすくない論文が1本ある。日本にとって幸いであったのは、在日の多くの者が済州島ご出身であったことだ。

済州島と慶尚道、この出身地の違いは、人間のクズであるヤクザの相違に直結している。大阪のヤクザの多くは在日の方であるが、意図的に素人を銃撃や襲撃しない。しかし、北九州は異なる。原尻氏の著作でも、北九州でフィールドワークの対象として記述された者は全て暴力団関係者と断定できる。

今、日本人のDNAは、真の危機にある。朝鮮半島有事の際、今度やって来るのは、避難してくるのは、まともな済州島の人々ではない!非同義変異が中国人・日本人よりも20%以上も多い、確率的には生じにくい人類史上稀に見る劣悪遺伝子集団、低い知能と反対に嘘と騙しのみに長じた邪悪の極致とも言うべき特異な遺伝子集団、キチガイどもの本拠である朝鮮半島からである。


われわれの調査対象がもっとも多く 来日した時期もこの頃で、昭和初年を中心にして 1920~30年代に調査対象 の85%が来日している

1922 (大正11)年12月から朝鮮総督府令第153号により内地渡来は自由に なった

図 2により外国人登録等から韓国・朝鮮人の来日の推移を都市ごとに見 ると注目)、特徴的であることは、 1920年代以降の大阪における韓国・朝鮮人 数の増加が著しいことである

われわれの調査対象である「在日高齢一世の約80%は済州島出身であ り(表 4)、その来日の時期は、 1920年代と 30年代に約85%が集中してい る(表 5)。わずか10----14歳の幼さで28.6%が、 15"--'19歳で39.3%が、日本 にいる親戚・知人を頼って、ほとんど単身に近い状態で、来日してし hる

2021-12-14


前章で見たように、日韓併合後とりわけ 1920年頃から、日本に渡来する 朝鮮人が急増しているが、図 2にもみえるようにそのうち多数が大阪に来 住している。

大阪への出稼ぎ者に は直行航路の開設によって済州島からの来日が多いが、大阪市社会部『朝 鮮人労働者問題』によれば、朝鮮人の就業構造はたとえば大阪付近は職工が多く、北九州、北海道では人夫が圧倒的に多いといった地域特徴をもっ ている

1934年における済 州島調査によれば削)、出稼ぎ者は当時、島人口の25%、50,053人に達して いたとされる 

来日当初は調査対象の約 3/4に当る人達が大阪で生活をはじめている。


顔の進化
馬場悠男(人類学者)

p103
北東アジア人に多い「剛直毛」と「シャベル型切り歯」という二つの特徴は、同じ一つの遺伝子(2番染色体に存在するEDARによって司られているということが分かっている)

p151
紫外線を全く浴びないと皮膚の中でビタミンDを合成できず
骨の形成が阻害されることがある
子供が成長できずくる病になったり、成人でも骨粗鬆症になったりする。このような状態は高緯度の上、冬は曇っていて日差し(紫外線)の少ない北西ヨーロッパでは特に深刻だった。そのため、皮膚の色が白くないと生き延びることができなかったと考えられている

p162
ダーウィンはヨーロッパ人の肌が白くなったのは、男性が色の白い女性を好んだためという性淘汰説を提唱して物議をかもしたが

p156
紅彩の色を決めている遺伝子はEYCL1とEYCL3であり、
2017年になって、6000年~1万年前に黒海の近くの一人の女性に起こった突然変異から、青い目がヨーロッパ中に広がったとの研究結果が発表された
北ヨーロッパ人の大部分は現在のロシア西部に住んでいた狩猟民らしいので、つまりは黒海の近くの青い目を持った集団が大量に移住してきたとも考えられる

p237
日本人を含めた現代北東アジア人には、アルデヒド脱水素酵素の遺伝子が欠如しているか、働きが弱いという変異(酒に弱い)が多いのだが、最近その起源地は稲作と同じ長江中流域であることが分かってきた




医学教育と人類学の協働のかたち>日本の医学教育にグローバルな視野をもつ人類学の研究知見を導入する 

道信良子 (札幌医科大学 医療人育成センター 教養教育研究部門 准教授 )

医療人類学という分野が存在することを初めて知った。
Susto DSM-5で検索すると、https://www.ncbi.nlm.nih.gov/books/NBK248426/table/appe.t1/
があり、sustoがやはり出てくる。人類学に分類しておく

DSM-5 Cultural Concepts of Distress

Ataque de nerviosCommonly reported symptoms include uncontrollable shouting, attacks of crying, trembling, heat in the chest rising into the head, and verbal or physical aggression. Dissociative experiences, seizurelike or fainting episodes, and suicidal gestures are prominent in some attacks but absent in others. A general feature of an ataque de nervios is a sense of being out of control. Ataques de nervios frequently occur as a direct result of a stressful event relating to the family (e.g., death of a close relative, separation or divorce from a spouse, conflict with spouse or children, or witnessing an accident involving a family member). People can experience amnesia for what occurred during the ataque de nervios, but they otherwise return rapidly to their usual level of functioning. Although descriptions of some ataques de nervios most closely fit with the DSM-IV description of panic attacks, the association of most ataques with a precipitating event and the frequent absence of the hallmark symptoms of acute fear or apprehension distinguish them from panic disorder. Ataques range from normal expressions of distress not associated with a mental disorder to symptom presentations associated with anxiety, mood dissociative, or somatoform disorders.Caribbean, Latin American, Latin Mediterranean


Dhat (jiryan in India, skra prameha in Sri Lanka, shen-k'uei in China)A folk diagnosis for severe anxiety and hypochondriacal concerns associated with the discharge of semen, whitish discoloration of the urine, weakness, and exhaustion.Asian Indian
NerviosRefers both to a general state of vulnerability to stress and to a syndrome evoked by difficult life circumstances. Nervios includes a wide range of symptoms of emotional distress, somatic disturbance, and inability to function. Common symptoms include headaches and “brain aches,” irritability, stomach disturbances, sleep difficulties, nervousness, tearfulness, inability to concentrate, trembling, tingling sensations, and mareos (dizziness with occasional vertigo-like exacerbations). Nervios tends to be an ongoing problem, although it is variable in the degree of disability manifested. Nervios is a broad syndrome that ranges from cases free of a mental disorder to presentations resembling adjustment, anxiety, depressive, dissociative, somatoform, or psychotic disorders. Differential diagnosis depends on the constellation of symptoms, the kind of social events associated with onset and progress, and the level of disability experienced.Latin American

Shenjing shuairuoA condition characterized by physical and mental fatigue, headaches, difficulty concentrating, dizziness, sleep disturbance, and memory loss. Other symptoms include gastrointestinal problems, sexual dysfunction, irritability, excitability, and autonomic nervous system disturbances.Chinese

Susto (espanto, pasmo, tripa ida, perdida del alma, or chibih)An illness attributed to a frightening event that causes the soul to leave the body and results in unhappiness and sickness. Individuals with susto also experience significant strains in key social roles. Symptoms can appear days or years after the fright is experienced. In extreme cases, susto can result in death. Typical symptoms include appetite disturbances, inadequate or excessive sleep, troubled sleep or dreams, sadness, lack of motivation, and feelings of low self-worth or dirtiness. Somatic symptoms accompanying susto include muscle aches and pains, headache, stomachache, and diarrhea. Ritual healings focus on calling the soul back to the body and cleansing the person to restore bodily and spiritual balance. Susto can be related to major depressive disorder, posttraumatic stress disorder, and somatoform disorders. Similar etiological beliefs and symptom configurations are found in many parts of the world.Latino American, Mexican, Central and South American

Taijin kyofushoThis syndrome refers to an individual's intense fear that his or her body, its parts, or its functions displease, embarrass, or are offensive to other people in appearance, odor, facial expressions, or movement. This syndrome is included in the official Japanese diagnostic system for mental disorders.Japanese



3 医療人類学の授業事例

3-2 文化人類学の事例 : ススト 


文化人類学で発展した医療人類学の事例には、“The Epidemiology of a Folk Illness: Susto in Hispanic America”[Rubel 1964]を使う。この論文は Ethnology に掲載された医療人類 学の古典的研究である。著者の A. Rubel は、イスパノアメリカの文化圏に見られる文化 結合症候群ススト susto に関する人類学調査を行っている。



 スストの症状は、安眠できない、倦怠感がある、食欲がない、衣服や衛生にも興味がな い、活力がない、うつ気味、内向的であるなどで、スストを患っていると死亡率が高まる ことも指摘されている[Krejci 1992]。

スストは、本人の無力感をともなう。それは、周りの社会からの期待が重荷になり、十 分に応えきれないと感じているとき、あるいは応えることがストレスになっているとき に、発症する。インディオにも、メスティーソにも、同様の発生要因がみられるが、しか し、インディオはそれを「霊」の仕業と、読み替える。すなわち、土地に住んでいる守護 霊がスストを引き起こす主体であると考えている。それは、治療師による儀礼によって解 決されなければならない[Rubel 1964]。


スストと同じく文化結合症候群に分類されるマレーシ アやインドネシアのアモック(amok)、中国をはじめアジア各地に見られる縮陽症(コロ Koro)など、強いストレスによって引き起こされるパニック症状を総称して「不安の語 法 idiom of distress」[Nicher 1981]と呼ぶ医療人類学者もいると説明する。

3-4 民族医学・医療 (Ethnomedicine)  
特定の民族や文化集団に共有されている医学・医療体系(medical systems)およびその 研究のことを民族医学/医療(Ethnomedicine)という。







人類学の63の大疑問
日本人類学会教育普及委員会監修

人類学ではなく、事実上は遺伝学の内容のみメモしたので第一分類を遺伝学著作に分類しておく。斎藤教授、篠田教授等錚々たるメンバーが執筆に加わっている


p5
チベット人の秘密はEPAS1遺伝子
アンデス山脈で暮らす人たちは
赤血球の数やヘモグラビン量を多くして高知環境に適応していることが知られています
EPAS1遺伝子に変異を持つチベット人は、低酸素状態に陥ると、変異を持たない人に比べてヘモグラビン量が少ないことが明らかになりました

上の記述根拠は、下記論文であり、冒頭の要約をメモしたが、カバレッジ率が18×と低い
Sequencing of 50 Human Exomes Reveals Adaptation to High Altitude

Residents of the Tibetan Plateau show heritable adaptations to extreme altitude. We sequenced 50 exomes of ethnic Tibetans, encompassing coding sequences of 92% of human genes, with an average coverage of 18× per individual. Genes showing population-specific allele frequency changes, which represent strong candidates for altitude adaptation, were identified. The strongest signal of natural selection came from endothelial Per-Arnt-Sim (PAS) domain protein 1 (EPAS1), a transcription factor involved in response to hypoxia. One single-nucleotide polymorphism (SNP) at EPAS1 shows a 78% frequency difference between Tibetan and Han samples, representing the fastest allele frequency change observed at any human gene to date. This SNP’s association with erythrocyte abundance supports the role of EPAS1 in adaptation to hypoxia. Thus, a population genomic survey has revealed a functionally important locus in genetic adaptation to high altitude.

p42
乳糖耐性の遺伝子
日本では10%ほどです

この記述の根拠は、下記のAndrew Curryというフリーランサーによるネイチャー掲載記事、図も記事から。記事そのものは、合計9の論文をまとめたものに過ぎない。どういうわけか、日本人には乳糖耐性を有する者が多いが、合計9の論文の筆頭執筆者に日本人名は見当たらない。私は乳糖耐性を多分有している。関係ないがY染色体ハプログループは確実にD1bであり、耳垢も湿っている。

The milk revolution


2021-08-05

上の図で、中国山東半島附近と中国南部・東南アジアのみが乳糖耐性ゼロであるのが注目される。
以前に、中国の文献のみに依拠して、古代朝鮮半島の穢族の起源は中国南部であると自信たっぷりな論文の日本語訳を読んだのが印象的であるが、少なくとも合致する

【この本の著者らが、FDA論文を精読すればどう思うのであろうか?私が当初思ったように、何かの間違いでは?と感ずることであろう!しかし、韓国人どもの遺伝学者がサンプル数を50名に増やしても同じ結果であった。まさしく、人類史上稀に見る劣悪遺伝子集団又は朝鮮半島という地理的に非常に孤立し、かつ、李朝朝鮮500年の完全鎖国という歴史経緯が生み出した非常に小さい確率でしかありえない精神面でのモンスター遺伝子集団である。下記の記述内容は正確ではないが、一般向けでは概ねは正しい。表現が分かり易いのが利点であり、詳細にメモするべき内容が多い良書である。一般向けに、日本人・中国人よりも遥かに強い自然選択圧が朝鮮人にはかかっていると表現すれば、わかりやすいのであろうか?非同義変異が多いという専門用語を使用せずに済む】

p68
塩基配列から分かる自然選択圧の有無
【コドン表の①第一塩基の置換は指定するアミノ酸が変わる場合が多い②第二塩基が変化すると必ず指定するアミノ酸は変わる③第三塩基が変化しても指定されるアミノ酸は同じである旨記述した後】

このことから、あるコドンの塩基配列を個体間で比較したとき、第一や第二の塩基の多様性は低く、第三塩基の多様性が高いと考えられます。なぜなら、突然変異によって第一や第二の塩基が変わった場合、そのコドンが指定するアミノ酸が変わってしまうことが多いので、様々な不都合が起こり、長い目で見た時それをもった個体は生存や繁殖で不利になる可能性が高いからです。結果的にそのような突然変異の多くは自然選択によって集団中から取り除かれることになるのです。一方、第三塩基に突然変異が起きても、個体の生存への悪影響は少ないでしょうから自然選択を受けずに集団中に蓄積していきます。以上を整理すると、遺伝子の塩基配列の多様性から自然選択圧の有無を推測できます。もし、第一や第二塩基の多様性が高いコドンがあったとしたら、アミノ酸を変えるような突然変異が起きても淘汰されなかったということです。この場合、そのコドンの塩基の突然変異には選択があまりかかっていない、「選択圧が緩んだ」状態である可能性が考えられます

苦味受容体に関する遺伝子の多様性
苦みを感じることは、毒物に気づくという点において重要な役割を果たしています。
人は味覚以外にも調理などによって独から身を守るすべを獲得しました。そのため、苦味受容体の本来の役目(毒物の検出)が損なわれたとしても、生存の有利不利に大きく影響しなかった可能性があります。その結果、自然選択圧が緩んで、第一や第二塩基の多様性が高くなったという仮説が2004年に発表されました

p130
遺伝子に残された自然選択の証拠
突然変異には、タンパク質の機能を変えるもの(非同義変異)と変えないもの(同義変異)があります。非同義変異はたんぱく質の機能に影響を与える分、同義変異よりも自然選択の影響を強く受けます。非同義変異と同義変異は、配偶子形成の過程で生じる確率は同程度ですが、自然選択を受ける確率が違うので、集団内での受け継がれやすさに差が生じます。このことから、集団内で非同義変異と同義変異の数が著しく異なる遺伝子や、集団間で非同義変異と同義変異の比率が異なる遺伝子は、自然選択のを受けた可能性が高いのです
【MC1R遺伝子に非同義変異が生ずるとメラニン生成が滞り肌の色が白くなる旨記述した後】
複数の集団についてMC1R遺伝子の同義変異及び非同義変異の数が調べられました。肌の色が暗いアフリカの集団では、非同義変異がほとんど見つかりませんでしたが、同義変異は多く見つかりました。一方。肌の色が明るいヨーロッパや東アジアの集団では、同義変異も非同義変異もたくさん見つかりました。アフリカの集団では、MC1Rの非同義変異は肌の色を明るくするので、個体の生存に不利に働きます。一方、同義変異は肌の色にほとんど影響がないので、有利でも不利でもありません。そのため、同義変異のみがアフリカの集団内に残ったのです。

記述根拠となったのは下記論文
Evidence for Variable Selective Pressures at MC1R

p146
高い遺伝的多様性を長期にわたって維持するには、たくさんの個体数が必要となるのです。この関係を逆手にとって
【生物集団が保持する】遺伝的多様性から、「それを維持するに必要だった個体数」を割り出すことができます
「有効集団サイズ」と言います
ヒトの場合、有効集団サイズは時代によって異なりますが、平均的にはおよそ10,000程度だったと推定されています。一方、チンパンジーの有効集団サイズは20,000程度と見積もられています

記述根拠は下記の論文

Inferring human population size and separation history from multiple genome sequences

日本人類学会遺伝分科会平成 22 年度公開シンポジウム 「日本人の成り立ちについての新たな考察 ―遺伝と形態から―」
オーガナイザー 針原 伸二(東京大学大学院理学系研究科) 藤田  尚(新潟県立看護大学)

平成20年の古いものであり、ミトコンドリアDNAハプログループ分析の内容は完全な誤りであり、この後に安達氏により、Nが縄文系統であることが判明している
;

近年は埴原和郎氏による「日 本人の起源に関する二重構造モデル」が広く受け入れら れるようになってきた。 この「二重構造モデル」では,先住の「縄文人」が縄 文時代に日本列島に広く分布していたところに,弥生時 代以降に大陸から大量の渡来者があり,両者の混血に よって日本人が形成されていったとされている。混血の 程度は地域ごとに今でも差が残っているとされる。

しかしながら,旧石器時代に日本列島に来たホモ・サ ピエンスの子孫とも言われる縄文人については,北海道 のアイヌの人たちが比較的に似ているとはされるもの の,日本国外では似た集団は皆無であり,縄文人の由来 については謎が多い。また北アジアまたは朝鮮半島由来 とされる渡来系の人たちについても,渡来の実態につい て多くはわかっていない。

今回のシンポジウムでは,2 名の研究者に, 母から子どもへと「母系」で伝えられるミトコンドリア DNA と,父から息子へと「父系」で伝えられる Y 染色体 について,それぞれの多型の検出と集団データの解析を 通じて,日本人の成り立ちを考察していただいた。

Y 染色体からみた日本人の成り立ち 佐藤 陽一 (徳島大学大学院ヘルスバイオサイエンス研究部) 中堀  豊 (徳島大学大学院ヘルスバイオサイエンス研究部)

ヒトの Y 染色体はおよそ 5,000 万塩基対の DNA から 成り,78 個のタンパク質コード遺伝子が知られている。

Y 染色体の構造 は,長腕部分に TTCCA を基本とした 5 塩基の反復が続 き,蛍光色素キナクリンで濃く染まる領域があるのが特 徴的である。この領域をヘテロクロマチン領域と呼び, 有効な遺伝子が存在していないと考えられており,また この領域には大きな個人差がある。精子を作る減数分裂 の際に常染色体は全長に渡って組換えが起こるが,性染 色体の場合はそれぞれの末端だけが組換えを生じる。

。Y 染色体と X 染色体が対合する領域を偽常染色体領域 (pseudo autosomal region; PAR)と呼び,短腕末端部には PAR1(2.6 Mb),長腕末端部には PAR2(0.4 Mb)があ る。X 染色体と対合しない領域は Y 特異的領域(non recombinant region Y; NRY, male-specific region; MSY)と 呼ばれ,父から息子へそのまま伝わるという Y 染色体本 来の特徴がある。つまり,先祖のものがそのままの形で 伝わることから,Y 染色体はヒトの進化を研究する良い 材料となる。

日本人の Y 染色体は C, DE, O2b*, O2b1, O3 のグループ に分類される。それぞれのグループ頻度は C が 10–15%, DE が 25 ~ 30%,O2b* が 10%,O2b1 が 20%,O3 が 20 %程度である。

。YAP(+) の DE は日本以外の東アジアにはほとんど見られず,唯 一チベットにおよそ 60%の頻度でみられるだけである。 従って,Hammer と宝来聰氏が原日本人に由来するとし た縄文系であると考えられる。

O2b* と O2b1 は中国では これらのタイプはほとんどないが,系統関係からは中国の主流である O の仲間であり,日本と韓国で共通してみ られることから弥生系と考えられる。C はモンゴルなど のアジア大陸北方に多くみられ,ハプログループ DE と 近い関係にあり,縄文系に属す。またハプログループ O は韓国,台湾,北漢,フィリピンなどアジア南方に多く みられ,弥生系に属すと考えられる。

つまり,日本人男性集団には遺伝的に異なった 2 つの 集団がある。1 つの集団は 12,000 年前,北方から樺太・ 北海道を通って日本列島に入った縄文であり,もう 1 つ の集団はおよそ 2,300 年前,南ルートを通して朝鮮半島 経由で日本に流入した弥生である。

【赤字は私が付けた】
私たちが調べ た 8 都市においては縄文系,弥生系の割合はほぼ同じで あった。また,日本で主流を占める縄文系の DE と弥生 系の O2b* と O2b1 は東アジアではきわめて小さなシェ アしかもっていない。

この理由として次のように考えている。日本の男性は 大陸のおちこぼれである。一度目のおちこぼれである縄 文人が日本列島に来た時に,もしそこに先住者がいな かったなら,特別競争的な環境にさらされることなく, 人口を増やし平衡状態にあった。そこに二度目のおちこ ぼれである弥生人が来たときには縄文人が住んでいた が,弥生人は本格的な農耕,水田稲作をもって流入した。 しかし,最初から農耕に頼ることはできないため,先住 民からいろいろなことを教わったに違いない。日本に存 在する Y 染色体は殆どが大陸のおちこぼれであり,仲良 くシェアをわかちあってきたのである。


縄文人や弥生人はどのように形成されたか(予報) ―韓半島の古人骨の調査から― 藤田  尚(新潟県立看護大学)

現在まで,韓国の古人骨研究でまとまったものは,日 本の古墳時代初期に相当する礼安里人骨と弥生時代中期 に相当する勒島貝塚人骨の報告がある。

勒島 人骨群は,礼安里人骨の時代をさかのぼること約 400 年 – 700 年余り,日本の弥生時代の中期初頭に相当し,しか も極めて保存状態が良好な個体が存在する。また,結核 の起源など,渡来人によって日本に持ちこまれた疾病を 解き明かすことは,昨今の古病理学の大きな課題であり, 日本,韓国を始めとする,東アジアの疾病史の研究にお いても,非常に価値が高いものと思量された。

勒島遺跡からは,日本の弥生土器(須玖 I 式,II 式土 器など)が多数出土し,恐らくは,日本の土器が搬入さ れたのではなく,「日本人が移住していた」と考えられ る。

また,楽浪の BC1 世紀ごろの土器が出土するほか, 晋と前漢の貨幣が出土している。また,断面三角形粘土 帯土器 = 勒島式土器は,北部九州から近畿地方まで広く 分布するとのことであり,このことからも,当時の日本 と韓国の深い交流が伺われる。

勒島人骨の形質は,概ね北部九州・山口県地方から出 土する「渡来系弥生人」に類似する。

る。共同研究者である, 韓国慶南考古学研究所長の崔氏によれば,いわゆる“韓 国人”と“日本人(日本からの移住者)”と“両者の混 血”の三者の人骨が出土したのではないかということで ある。保存状態の良好な頭蓋骨をいくつか観察すると, 鼻根部から頭頂にかけての高さがあることと,顔幅が概 して狭く,北部九州・山口県地方の渡来系弥生人よりも, 面長な印象を受ける。また,韓国礼安里人骨と比べても, その印象は異なる。

しかし,文化的には,人骨は,風葬された状 態で出土しており,この風習は,ロシアおよび中国方面 からの影響であると考えられている。その点でも,北部 九州の甕棺葬とは異なる。

一方の,韓国煙台島人骨は,慶尚南道統営群の小島に 形成された貝塚から発掘された。時期的には,BP6000 年 ほどの年代が与えられ,韓国の新石器時代人骨として, 貴重な資料である。

本発表では,女性人骨として扱う。比較の方法とし ては,1 例のみのデータであるから,多変量解析には無 理があると判断
 
以上のことから,BC4000 年頃には,日本の縄文時代 人と類似した傾向の人々が朝鮮半島に存在していたと考 えられる一方,その人々は,朝鮮半島から弥生時代に日 本に入ってきたとされる渡来系弥生時代人の形質の一部 を既に保持していたと考えられる。

ミトコンドリア DNA により日本各地の 縄文系対弥生系人口比率が分かる
住   斉(東京大学大学院生物科学専攻人類学教室) 針原 伸二(東京大学大学院生物科学専攻人類学教室) 伊藤  繁(名古屋大学遺伝子実験施設) 石浦 正寛(名古屋大学遺伝子実験施設) 山田 芳司(三重大学生命科学研究支援センター) 田中 雅嗣(東京都老人総合研究所)

M7a は現代日 本人にも縄文人骨にも数%以上見出されるけれど,周辺 諸国(韓国,中国と台湾)には見出されないことから, M7a に属する人は縄文人にはいたけれども渡来系弥生人 にはいなかったと考えられている。

韓国には例外的に M7a は 1%程の人に見出されるが,縄文人が朝鮮半島南 部にまで進出していたからであると考えられている。

他 方,ハプログループ N9a は現代日本人には数%見出され るけれども,縄文人骨には見出されていない。従って, N9a に属する人は縄文人にはいなく,渡来系弥生人にい たと考えられている。

美濃においては,山田と田中らにより,1,614 人につき mtDNA ハプログループの出現頻度分布が調べられた。飛 騨においては,住,針原,伊藤と石浦が,千人につき mtDNA ハプログループの出現頻度分布を調べる目標を 立て,現在までに約 450 人を解析した。

美濃と飛騨における縄文系対弥生系人口比率を決め ることができ,それぞれ 57 : 43 および 79 : 21 であること が判った。美濃でも縄文系が多いが,縄文人と渡来系弥 生人の混血において,進出して来た渡来系弥生人男性が 在地の縄文人女性に子を生ませたことが多かったからと 考えられる。

美濃と飛騨において弥生系の人だけ集めたときにおけ る N9a の出現頻度として 11.4%を得た。第一近似として 弥生系の人は日本中で同系統とすると,この比率を全国 各地に適用できる。例えば,山田と田中らによる首都圏 におけるハプログループ出現頻度分布データに適用する と,首都圏での縄文系対弥生系人口比率は48 : 52となり, 弥生系が少し多くなることが判った。この比率は首都圏 への交通網の集中により日本全体平均に一番近いと考え られる。

一万年の進化爆発
2010年
グレゴリー・ぺクラン 

ユタ大学の人類学の非常勤講師 とこの翻訳書では書いている
ヘンリー・ハーペンディング
ユタ大学の人類学・集団遺伝学教授とこの翻訳書では書いているが、自然人類学と集団遺伝学は異なる分野なので?と思ったが、英文ウキペディア記事によれば本当である。


p115
アメリカ先住民はほとんど感染症を経験しなかった

p116
ヨーロッパ人やその近隣の民族の肌の色に最も強い影響を与えていると思われる変異(SLC24A5の変異体)は驚異的な速度で広まった。
この遺伝子が生じたのは約5800年前と見積もられるが、ヨーロッパの中では約99%の頻度を保っており、
おそらく20%に近い強い選択的優位性があったに違いない

実際これでスコットランドのピクト人が色黒であったというローマン人の印象が説明できるかもしれない

p133
ジンギスカンと彼の息子たち
今日、中央アジアの約1600万人の男性が彼の直系であることが、独特のY染色体を持っていることによって示されている

p161
ほとんどのメキシコ人のY染色体はスペイン人に由来しており、一方ほとんどのメキシコ人のミトコンドリアDNAはアメリカ先住民のものであることが明らかになった

p196
病気に関連する選択圧が低かったことを示す証拠の一つとして、アメリカ先住民の間でのHLA(ヒト組織適合性抗原)対立遺伝子群の分布が特異であることがあげられる
HLA系が最も重要な働きをするのは感染症においてである

p197
HLA遺伝子群は全ての遺伝子群の中でも群を抜いて変異が多い
しかし、アメリカ先住民にはその多様性が見られなかった。
多くの部族は、50%以上の頻度で単一のHLA対立遺伝子を持つ。部族ごとに、支配的な対立遺伝子は異なる

p198
天然痘、はしか、ジフテリア、百日咳、ハンセン病、腺ペストなどのユーラシアの感染症が短期間のうちにアメリカ大陸に持ち込まれた。
突然こうしたなじみのない感染症の雪崩に見舞われ、アメリカ先住民は大打撃を受けた。ある推定では、アメリカ大陸の先住民人口は数世紀の間に90%減少したとされる。ほとんどの死亡原因は感染症だ。
流行病(特に天然痘)は、アメリカ先住民の武力抵抗を妨げ、その結果、スペインによる征服を短時間のうちに実現させた
【以下はwikipediaから
①天然痘
中国では、南北朝時代495年北魏と交戦して流入し、流行したとするのが最初の記録である。頭や顔に発疹ができて全身に広がり、多くの者が死亡し、生き残った者は瘢痕を残すというもので、明らかに天然痘である。その後短期間に中国全土で流行し、6世紀前半には朝鮮半島でも流行を見た。

天然痘は、有史以来、高い死亡率、治癒しても瘢痕を残すことから、世界中で不治、悪魔の病気と恐れられてきた代表的な感染症である。痘瘡ともいい、天然痘ウイルスによる高熱、嘔吐腰痛があり、全身に発疹する。すでに1万年前にはヒトの病気であったらしい[18]。天然痘で死亡したと確認されている最古の患者は古代エジプト第20王朝ファラオラムセス5世であり、ミイラの頭部に天然痘の痘庖があることを確認している[18]。彼は紀元前1157年に死亡したとみられる。

②麻疹

紀元前3000年頃の中近東地域が、最初の流行地であったと考えられている[3]日本では、平安時代以後度々文献に登場する疫病の一つ「あかもがさ赤斑瘡/赤瘡)」は今日の「麻疹」に該当するというのが通説である。


p205
1980年にブラジルでヨーロッパ人と接触した800人のするスルイ族のうち600人が1986年までになくなっている。死因のほとんどは結核だった

p214
乳糖耐性をもたらす対立遺伝子はヨーロッパ人が対立遺伝子の中で最も強く選択を受けたものの一つだ

p208
スペイン人は16世紀にフィリピン征服を始めたがそこでは人口の大減少が起こった形跡は全くない

p218
インド・ヨーロッパ語族
拡散が始まったのは青銅器時代前半(恐らく紀元前3000年頃)だと考えられる。
紀元前2500年までには確実に始まっていた。なぜなら、インド・ヨーロッパ語族の言葉を話す人々の定住国家(ヒッタイト帝国)が数百年後に歴史的記録に登場するからだ


BC500~1000に朝鮮半島から稲作が日本にもたされた時代について、
①移住してきた原因は、多くの遺伝学論文の場合、気候の一次的な寒冷化とされている
②九州北部においてBC300年前後の縄文人タイプの人骨発見例はほとんど皆無である。
出典は、この論文による。歴史学者と異なる見解であり、文化の断絶があり、担い手は弥生人であるとする
Y染色体ハプログループ分析では縄文時代終わり頃に人口の急減少があったとする遺伝学論文

これらから、朝鮮半島から当時は遺伝的に正常であった人々が九州北部に移住してきた際
①移住原因は寒冷化でなく、何らかの感染症?又は結核の蔓延を本能的に悟り、朝鮮半島を離れようとした
②それにより、土着の九州北部の縄文人は激減又はほぼ全滅し、混血した者のみが生き残った
このようなシナリオが浮かび上がる。

この古い論文では感染症による九州北部縄文人の人口減少を明記せず暗示的に述べるにとどまっている。しかし、上の赤字のように、フィリピンでは人口減していない。分かれ目は混血したかどうかである。この著作が正しければ、今日のメキシコ人の多くは男系祖先はスペイン人だ、しかしフィリピンではそうではない。日本人男性の3分の1以上の祖先は縄文人であることは確実であるが、Y染色体ハプログループ分析では縄文時代終わり頃に人口の急減少があったとする遺伝学論文
の推定時期が正しければ、その後のヤマト政権の東北地方への侵攻の結果として、生じた現象かもしれない









二 重 構 造 モ デ ル: 日 本 人 集 団 の 形 成 に 関 わ る 一 仮 説
埴 原 和 郎
国際日本文化研究センター 

1994年に出された二重構造モデル提唱者の論文。この論文は当初英語で書かれた。その日本語訳を著者自ら行ったものである。埴 原 和 郎は自然人類学者に分類されている。人類学論文に分類すべきだが、内容は遺伝学への影響が極めて大きいので遺伝学に分類する。本当に重要であるのは、この論文でも明記しているように歴史的記録でも古墳時代=3世紀~6世紀頃に朝鮮半島から当時はまともであった人々が非常に多くやってきたことを明らかに示しているにもかかわらず、日本人と韓国人どもは、全ての集団遺伝学の論文で主成分分析図から見て、あまりにもきれいにシャープに分かれていることだ。

タイ人とベトナム人は、遺伝学論文1本しかないが両者は主成分分析図では現代日本人の東北人と近畿の人々程度の差しかない、そして、タイ人は11世紀頃にタイ方面へ移動したと歴史学者は考えている。約1000年前である。日本人と韓国人どもは、約1500年前である。恐らく、日本人と韓国人どもを完全にきれいに分岐させたのは、日本側の縄文人との交雑であろうが、それと共に、朝鮮半島側でも、分岐を促進する要素があったはずであり、恐らくはモンゴル軍侵攻による人口の大幅減=歴史上の記録による私の推定で約85%減である。これレベルであれば、ボトルネッ効果に近い現象が生じる。そして、韓国人どもがおかしくなったのは、その後の奴婢制による人口増加だ、FDA論文がもし正しいのであれば、韓国人どもは人類史上稀に見る劣悪遺伝子集団と言い切ってよい。

従って、人口が増えるはずがないのだ、しかし、奴婢制が李朝朝鮮においてとにもかくにも、500年程で人口を2.5倍程度に増加させる役割を果たしたのだ。それでも、李朝朝鮮末期には人口は減少していた。そして、韓国は今後平時にもかかわらず信じがたいレベルで急速に人口が減少していく。


要約
 この混血の過程 は現在 も続いてお り, 日本人集団の二重構 造性 は今 もなお解消 され てい ない。 したが って身 体 ・文化 の両面 にみ られる日本の地域性-た とえば東西 日本 の差 など-は, 混血 また は文化 の混合の程度 が地域 によって異なるために生 じた と説明す ることが できる。

研 究 小 史
1823年 に来 日 した シー ボ ル ト (P. F. von Siebold) は 日本 人 と日本 文 化 につ い て 広 範 な研 究 を行 っ た。 シ ー ボ ル トに よれ ば, 日 本 人 は蒙 古 人 に似 て お り, 日本 の新 石 器 時代 人 は 現 在 の ア イ ヌ の 祖 先 で あ る とい う (1854; Siebold, 1897参 照)。

 ベ ルツは生体 学的研究 に基づ き, アイヌ と沖縄人が共通の起 源 を もつ こ とを指摘 した (1911, アイヌ ・沖縄 同 系論)。

モース (1879) はアメリカ イ ンデ ィア ン遺跡 との比 較研 究 の結 果 に基づ き, 日本の新石器時代 人はアイヌによって置 き 換 えられ, その後アイヌは北海道以外 の地域で, アジア大陸か ら移住 して きた現代 日本人 の祖先 集 団 によって再 び置 き換 え られた と考 えた (プ レ・アイヌ説 pre-Ainu theory)。

 病理学者である清 野 とその門下の 研究者 らは多 くの貝塚 を発掘 して1000体 以上の 人骨 を得た。清野 はそれ らの計 測デー タを統計 学的 に分析 した結果, 次 の結論 に達 した。すな わち, 縄文人 は現代 日本 人の直接 の祖先 である が, 近隣諸集団 との混血に よって形 態に変化 を 生 じた-と いう考えである (混血説 hybrid theo ry,1943, 1949)。また彼 の主張 によれば, 縄 文 人が東南 アジア人 と混血す ることによって現代 日本人 の大 部分 を生 じ, 北 アジ ア人 との混 血 に よって アイヌを生 じた とい う。

ハ ウエルズ (W. W. Howells, 1966) はア イヌ, 本土人お よび縄 文人の頭骨デー タを判別 分析法 によって比較 し, アイヌ と縄 文人は互い によ く似てい るものの系統は異な り, 縄文 人の 減少 に伴 って集団の置換が生 じた と結論 した。

弥 生 時 代

弥生時代 は紀元前3世 紀か ら紀元後3世 紀 に わた って続い た。
小 山修三 (1978) は 縄 文 時代 か ら古 墳 時代 にか けての人 口 を推計 し, 東 日本 にお ける平均的集落の人口は縄 文時 代 には24で あったが, 弥生時代 には57に なっ た と推定 した。。

政治 ならびに防御 に関 わる知 識 ・技術 はまず北部九州 に入 り, その後の古墳時 代 (3-6世 紀) には近畿地方 にまで及 んだので あ る。 

渡来 人 の数 は弥生時代 になって急速 に増加 した。こ の時代は気温の低下 と, 中国の中・北部お よび朝 鮮半 島 における争乱の時期 に一致す る。

 した が って 日本列 島への渡来 は, おそ ら く気候変動 に伴 う近 隣諸 国の動 乱 に起 因す る もので あ ろ う。歴 史学者の上田正昭 (1965) に よる と, 弥生 時代 の金属器 は典型的な北 アジア型 を示 し, 大 陸 か らの渡来人が運 んだ ものであ ろうとい う。

中国の歴史書であ る三国志 (魏志) には紀元57 年 に 日本 か ら朝貢のあ ったこ とを記 している。 この記事 は, 当時の 日本 にはすで に多数の渡来 系集団が住み, 弥生中期 まで に小 規模の クニが 形成 されて いた こ とを強 く示唆 す る もの であ る。

上田に よれば, 大陸か らの渡来 は弥生時代 か ら7世 紀 に至 るほぼ1000年 間にわたって続 き, 渡来人の中 には権 力者やその一族ばか りで な く, 多数 の庶民 も混 じっていた とい う。

埴原和郎 (1984) は弥生人お よび新石器 時代 か ら現代 に至 る中国北部, 蒙古, 東部 シベ リアな ど多数の集団の骨 データを多変量解析法 に よってて比較 し, 金関 の考 えを補強す るとともに新 し い知見 を得た (図3)。

渡来系弥生人の頭骨形 態 は蒙古, 中国東北部お よび東 シベ リアなどの極 端 な寒冷適応 をとげた集団 との強 い類縁性 を示 す ので ある。 この結果は, 渡来集団の起源が北 アジアにあるこ とを示す と思 われ る。 したが っ て渡来集 団は, まだ断定の段 階ではないが, お そ らく彼 らの原郷か ら朝鮮 半島や中国北部 を経 由 して 日本 に到達 したのであろう。

オ ッセ ンバ ー グ (N. S. Ossenberg, 1986) は頭 骨 の 非計 測 的形 質 の 出現 頻度 を ス ミス (C. A. B. Smith) の平 均 型 差 尺 度 (Mean Measure of Diver gence)を 用 い て比 較 した結 果, シ ベ リア か ら近 畿, 関東, 北 海 道 (ア イ ヌ), 縄 文 人へ とつ な が る形 態 学 的勾 配 が存 在 す る こ とを確 か め た。


東 日本 と西 日本の弥生人集団は形態学的に大 き く異 なる。頭骨計 測値 を統計 学的に分析す る と, 西北九州 と関東地方の集団は縄 文人の特徴 を濃厚 に残 してお り, Qモ ー ド相 関係 数行列 に 基づ くク ラス ター分析 で は, これ らの地方 の集 団 は北部九州や土井 ヶ浜の集団 と明瞭に分離 さ れ る (図4)。

2021-02-06


 しか し関東地方で も渡 来系 の形質 を示す個体 が発見 されるので, その影響 は意外 に早 く関東 に も及 んだ と思 われる。 全体 として, 骨形態 か らみた弥生 時代 の特徴 は, 北 アジア集団の遺伝 的影響が西 日本, とくに 北部九州 に及ぶ 一方, 東 日本 では在 来の縄文 人 の遺伝的連続性が認め られ る一 とい うことがで きる。 この事実は, 少 な くとも骨形態 において 日本人集団の二極 分化 (bi-polarization) が弥生時 代か ら始 まったこ とを意味す る。

古 墳 時 代 
古墳 時代 は3世 紀 か ら6世 紀 にわ たって続 き, 小規模 のクニ グニが統一 され, つ いに近畿 地方で朝廷 が成立 した ことによって特徴づ けら れ る。 この時代 で もう一つ注 目される点は, 朝 廷が政策 と して中国や朝鮮か ら高度 の文化や技 術 を導入 す るため に積極 的 に渡来 人 を受 け入れ, その人 口が増加 したことで ある。

人骨のデー タか らみる と, 古墳 時代 に大 陸か ら渡来 した集 団の大部分は北 アジア系 であ り, 東 日本 と西 日本 の差 は弥生 時代 以 上 に明瞭 に なった (城一郎, 1938a, b; 埴原和郎 ら, 1984; 埴 原和郎, 1987a, b; 図4)。 
【極めて重要である。David Reichらの論文では古墳時代の日本人の交雑を遺伝学から検出している】

一般 に, 当時の東 日本 の集団は縄 文人の形 質を受 けついでいるが, 西 日本で は渡来 人の形 質が優勢 である。同時 に, 西 日本 集団の中には縄 文人 と渡来人 との中間型 を示す個体 が認 め られる。 したが って, 古墳時 代 を通 じて二つ の集団の混血が進んだ と思 われ るが, この傾 向は とくに西 日本 で顕著 にみ られ る。 

山口敏 (1985) は頭骨の非計 測的形質の分布頻 度 に基づ き, 古墳 人集 団が全体 として縄文人 よ りは現代 日本人や朝鮮 半島の集団に似 ているこ とを明 らかに した。この結果 は,日 本人集団が弥 生時代以後 に北 アジア集団の影響 を強 く受 けた とい う見解 を支持す る もので ある。さ らに山口 (1987) は, 東 日本の古墳人が縄文人 よ り土井 ヶ 浜 の弥生人 に強い類似性 を示す こ とか ら,土 井 ヶ浜集 団の特徴 はほぼ8世 紀 までに東 日本 に も広 がった と結論 した。 山口が研究 した頭骨資料 は4世 紀 か ら8世 紀 にわたる もので, この時代 は古墳時代 から初期 歴 史時代 に相当す る。

古墳 時代 の特徴 の一 つは, 弥生時代 に比較 し て渡来系集 団が急増 したこ とである
【極めて重要である】
埴原和郎 (1987a) は, 弥生 時代 の始 ま りに当たる紀元前3 世紀 か ら, 初期歴史時代の7世 紀に至 る1000年 間の人 口増加 につ いて コンピューター ・シミュ レー シ ョンを行 った。 この シ ミュ レーシ ョン は, 小山修三 (1978) による古代人 口の推定値 に基 づ く人 口増加率 と, この期 間に生 じた頭骨 形態 の時代的変化 に基づ くものである。その結 果, 7世 紀末 まで に日本 人全体のほぼ70-90%が 北 アジア系集団 によって占め られた と推測 され た。同時 に, 渡 来系 集団が占める割合 は東 日本 に比べ て近畿地方で格段 に高い ことも明 らか と なった。

周辺地域 の集 団
ここで<周 辺>と い うのは, 6世 紀の朝廷樹 立い らい古代 の都が営 まれた近畿地方 か ら遠 く 離れた地方 を意味する。この時代, 朝廷 は周辺 地域 の住民 に対 してほ とん ど影 響力 を もた な か った。

日本 書紀, 続 日本紀 などの古い歴史書 にはエ ミシ, エゾ, エ ビス, クマ ソ, ハヤ ト, ツチ グモ などの名 でこれ らの地域 の住民が記述 されてい る。

埴原和郎 (1990) は頭骨 データの 地理的変異 の分析 に基づいて, 東北地方 のエ ミ シまたはエゾは, 現代 の アイヌ と非 アイヌ系 日 本 人 (和人=本 土人) との中間的形態 を もつ集 団であったろ うと推測 した。言 い換 えれば, 彼 らは渡 来系 集団の影響 をまった く, またはほ と ん ど受 けなかった集団で, そのため に他地域 に 比べ て縄文人 の形質 を濃厚 に残 していたと思 わ れる。

 北海道出土 の頭骨 データを分析す る と, 縄 文人が続縄 文時代 と擦文時代 を経 て, 徐 々に現代の アイヌ に小 進化 し た ことがわか る (埴原和郎, 1984)。

か つ て べルツ (1883, 1885, 1911) は沖縄 人 とアイヌ との 強 い類似性 を指摘 し, 両者が共通の祖先 を もつ と主張 した。 しか しこの見解 は最近 に至 るまで 無視 され, アイヌ と沖縄 の集団は本土人 とは別 もの として研究 が進 め られて きた。

埴原 (1985) は このデー タを含 めてさ らに 統計学的分析 を進 め, 沖縄 人が縄 文人およびア イヌ と同 じクラスターに分類 されるこ とを確 か めた。 さらに池 田 (1982) は前頭洞 の計測値 を 比較 し, アイヌ, 沖縄人 お よび縄 文人 は同 じク ラス ターに分類 されるが, 現代 の本 土人, 中国 人お よび朝鮮人 は別の クラス ターに分類 される ことを報告 した。

 現代 日本人
小 山修 三 (1978) は縄文時代 の 遺跡数 と人口密度 が両地域 で異 な り, 東 日本 で は西 日本 に比べ て人 口密度が著 しく高かったこ とを指摘 した。しか し西 日本 の人口は弥生初期 か ら増加 し始め, 遅 くとも弥生末期 の3世 紀 に は東 日本 を凌駕す るに至 った。 この ような人 口 密度 の変化 は, 大陸 か らの渡来集 団の影響 によって食物生産 を始 め とす る文化が西 日本 で急 激 に変化 した ことを示 している。現代 に もみ ら れる東西 日本 の違い は, おそ ら く縄文時代 ない し弥生 時代 にその端 を発 した ものであろ う。

この稿 の始 めに紹介 した種 々の説で無視 され ていた重要 な点は, 日本人集団の地理的変異で ある。

2021-02-06 (1)


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この結果 は, 東西 日 本の集団の間で今 もなお混血 が進行中であるこ とを示 している。つ ま り縄文系 と, 弥生時代お よびそれ以 降に来た渡来系集 団の形質の差 がこ ん にちの地域差 を生 じた ことになる。 日本 人は 文化 的に も生物学的 にもよく均質集団 といわれ るが, この考 え方 は誤 っている。

 
考 察
日本人集団の形成過程 に生 じた重要な出来事 は, 縄 文系お よび北 アジ アか らの渡 来系 か らなる二つの集団の共存 を想 定す ることによって説明する ことがで きる。

前 者 はおそ らく旧石器 時代 い らい, また後者は弥 生時代か ら日本列 島に居住 し, これ ら2集 団の 融合過程は現在 も続 いている。


地理的 にみる と 縄文系 の集団は主 と して北海道 (アイヌ), 沖縄, 本州東部, 九州南部 お よび四国に住み, 北 アジ ア系 (渡来系) 集団 は本州西部お よび九州北部 に住 んでい る。渡 来人は水稲耕作, 金属器, 政 治的知識 などの新 しい文化要素 を 日本 に導入 し た。彼 らは まず西 日本, おそ らくは北部九州で 小規模 のクニ グニ を作 り, やが てそれらが大規 模 な権力 に統一 され, 6世 紀 には近畿地方で朝 廷が成立す るに至 った。




文化人類学 江渕一公 他

文化人類学では、フィールドワークが絶対不可欠とされているがその旨の記述がない

p12
文化人類学という語は
cultural anthropology の邦訳語である。日本では、文化人類学は独立の学術分野として扱われているが、

アメリカの人類学は、自然人類学(physical anthropology又はbiolosical anthropology)、
考古学(archaeology)、言語人類学(linguistic anthropology又はanthrogical linguistics)、
文化・社会人類学(cultural/social anthropology又は民族学ethnology)の四つに分けて「人類学の四大分野」と称するのが一般的である。

これに対し。同じ西洋でもヨーロッパでは、人類学と言えば自然人類学をさし、文化の研究は伝統的に民俗学と呼ばれてきた

日本では
民族学よりも文化人類学の名が普及した

p16
文化人類学は
フィールドワークという呼ばれる独自の現地調査の方法によって
その成果を民族誌(エスノグラフィ)にまとめて



頭骨形態からみた縄文人の地域性 

近藤 修

国立歴史民俗博物館研究報告 第20820183


800を超える縄文人の頭蓋骨の分析結果データであり、重要性が高い論文である。
九州縄文人が、他地域と異なっていた可能性が示されたことも重要な点であろう 


この論考では,縄文人頭骨の計測値をもちいて,日本列島の縄文地域集団の変異を分析した。その結果,縄文人頭骨の形質には,北から南への地理的勾配があること,それぞれの縄文地域集団の形成には異なった背景があることが示唆された。さらに大胆に解釈すると,縄文人の形成の中心は西日本(中国,九州)にはなさそうだということ,九州縄文人は孤立した集団史により形成された可能性があること,北海道縄文人は比較的長い集団形成の歴史をもつかあるいは形成期に外部集団からの影響があった可能性が示唆された。


はじめに

頭骨の個別の計測値や,下顎枝幅のような機能的要因が推察される例をのぞくと,多くの頭骨・歯牙の形態による縄文人の地域差はそれほど大きくなく,比較的均質であるという結果が支配的であるといえる。以下では,縄文頭骨計測値を発掘報告や研究報告より集成し,頭骨形態の地域差を再検討するとともに,量的形質をもとに,遺伝的集団構造を分析する R-matrix 法を用いて,縄文人の地域差を遺伝的変異の観点から再考する。


R-matrix法
R-matrix 法は,形質の集団変異を集団間-集団内の遺伝的変異に置き換え,集団間の形態差を重心からの遺伝距離とその集団の遺伝的多様性により理解しようとするものである[Relethford & Blangero, 1990]。これは遺伝子頻度データに基づく Harpending-Ward モデルを生体計測値や頭蓋計測値などの量的形質に発展させたものである

後者のモデルから説明しよう。Harpending-Ward モデルは,ある一定地域内のいくつかの分集団において集団間の遺伝的変異パターンを数値化し,その期待値からのズレを調べることにより,外部からの影響(遺伝子流入)の多寡を類推するものである。集団間の遺伝的変異はヘテロ接合度として表される。このモデルによると,集団 i の期待されるヘテロ接合度 EHi) は全体集団のヘテロ接合度 Ht と集団 i の重心からの遺伝距離 rii の関数で表される。


EHi=Ht1rii


すなわち,重心からの距離が大きくなるにつれて分集団のヘテロ接合度は下がる。周辺の小集団ほど遺伝的固有性が高くなることを意味する。すべての分集団が等しい割合の遺伝子流入を単一かつ均質な外部集団から受け入れているという仮定のもとでは,この集団 i の実際に観察されたヘテロ接合度と上記式による期待値は一致する。もし,集団間で異なる遺伝子流入がある場合はこの関係はくずれ,平均以上の遺伝子流入を受けた集団は観察されたヘテロ接合度が期待値よりも大きくなる。したがって観察値と期待値を比較することにより,どの集団が平均以上の(あるいは平均以下の)外部からの遺伝子流入を受けたかという判断を下すことができる。


Relethford-Blangero 法はこのモデルを量的形質に発展させたものである。

結果
2020-10-30 (1)

2020-10-30

すなわち北海道続縄文人と,沖縄縄文人は多少なりとも異なる頭骨形態を示すものの,他の多くの縄文人には際立った特異性はなく比較的均質であるといえる


頭骨最大長にはゆるやかな地域勾配が見られる。北に行くほど頭骨は長く,南に下がるほど短くなる傾向が見て取れる。

北海道続縄文人と沖縄縄文人を除いた 7 地域の縄文集団を対象に,R-matrix 法にて分析した結果を図 2 に示す。7 地域の縄文集団間の固定示数(地域間変異を示す)は Fst = 0.042 (SE = 0.0095) となり,地域内の変異 (= 1 ‒ Fst = 0.957) に比べ地域間の変異は圧倒的に小さい。すなわち頭骨形態の変異のうち,95%以上は地域内の変異であり,地域間の差は 5%に満たないが,この 7 地域間の差は統計的には有意となる


これら図表より 7 地域の集団内変異について以下のような考察が可能である。中国地方縄文人は全体の重心からは離れているが,その地域内分散は距離とつりあったものである。一方で,九州縄文人は重心からの距離にもまして観察された分散が小さい。これは九州縄文人が遺伝的に言う「ビン首効果」のような他の地域と異なる独立した集団史を持っていた可能性を示している。また,統計的に有意な差ではないものの,平衡直線からもっとも上に離れている北海道縄文人は,外部からの遺伝子流入の影響を受けているのかもしれない。

考察
頭骨計測値の比較では,北海道続縄文人と沖縄縄文人の違いが際立っていた。

この 2 集団を除くと,有意な地域差は見られなくなるが,一方ですでに山口[1981]が指摘したように,いくつかの頭骨形態には北から南への地理的勾配が見られた。

九州縄文人は,重心からの距離以上に,観察された変異が小さい。これは九州縄文人がかなり長い間孤立した,小集団であった可能性を示唆している。一方で,期待値よりも大きな変異が集団内に観察された北海道縄文人は,外部からの遺伝的影響があったか,北海道縄文人の内部で比較的長い集団史を持っていた可能性を示唆している。


日本列島人の成立過程におけるヒトの移住経路としてよく指摘される 3 つの経路,サハリン経由の北経路,韓半島経由の西経路,台湾・琉球列島経由の南経路,を考えると,北海道縄文人には北経路を通じた外部からの移住がある程度継続的に行われていた可能性は否定できない。一方で,九州縄文人の域内変異が小さいことは,九州縄文人の成立過程で西経路,あるいは南経路による外部集団の影響は想定しにくい状況にある。また,よく言われるように,縄文時代の人口分布が東高西低であったとするならば[Koyama, 1984],九州縄文人の成立過程は小集団によるものであったという推論が補強されるかもしれない。


結論


頭骨の計測値をもちいた地域間の分析からも,縄文人の地域差について,北海道から少なくとも九州まで地理的勾配が認められた。地域差の大きさについては,個々の計測値レベルでは有意な差はないので,これまで同様,縄文人の均質性を否定するものではない。R-matrix をもちいた分析では,北海道縄文の地域内変異が比較的大きいこと,九州縄文人の地域内変異が小さいことが示され,それぞれの地域の縄文人の成立過程が異なっていることが予想された。




2012年出版で第一線研究者とは言い難い著者3人による。流し読み。この頃はまだ、DNA全体=WGSの分析が一般的ではなかった時期であったため仕方がない。現在でもWGSと称する論文の多くが、性染色体を分析の対象としていない。)

p14
自然人類学には形態人類学、遺伝人類学、生理人類学、生態人類学の4分野があり、文化人類学には、先史考古学、民族学、社会人類学、言語人類学、心理人類学の5分野があります。
近年の日本では文化人類学の独立傾向が強まったため、人類学はイコール自然人類学だと思われるようになりました

p133
アセドアルデヒド脱水素酵素(ALDH2)という酵素で
この酵素の能力が弱いタイプをDと記しますが、

【下のグラフは、

からだが、論文では、These results empirically suggest that natural selection signatures in the Japanese population were most evident at these three loci, which were distinct from observations in Europeans

としてるが、同調圧力の強い日本では、下戸は、淘汰されつつあることになる。
MHC (major histocompatibility comlex)は、免疫機能に係わる領域で、遺伝子数は多い。主要組織適合遺伝子複合体と長い訳が付けられている
ADH、ALDH2は、共に、アルコールを体内で分解する機能にかかるもの。






p186(ミトコンドリアDNAの)
9塩基欠失の変異ですが、日本人でも10%以上見つかり、日本人にも比較的よくみられる特徴と言えます。
北海道アイヌでは2%、沖縄では5%(沖縄のデータは宝来博士らによる)と日本人よりも低くなっています
要するに、ミトコンドリアDNAからは、縄文系の集団と見なされる北海道アイヌや沖縄の人たちは、本土日本人よりも南方系的な要素が少なく、南方由来とは考えにくい結果となりました

p193
埴原和郎博士が2重構造モデルとして提唱しましたが、同博士はその中で
地域差がいまだ強く残っているとしました。東日本・北日本では縄文人の影響が強く残り、西日本ではほとんど渡来系の人々で占められているとするものです

p194
住博士は、
特に沖縄の人たちに多くみられるハプログループM7aで、コチラは日本列島以外ではほとんど見られないことや縄文人人骨でも検出されることなどから縄文人とその子孫を特徴づけるハプログループとみなすことができます。もう一つは、渡来系の弥生人を特徴づけるハプログループで、ハプログループN9aです。コチラのハプログループは、縄文人人骨には全く見られないことから弥生時代に渡来した人たちによってもたらされたことは確かだと思われます

IMG_1129


(調べると以下の通り。いずれもwikipediaからであるが、上の画像にみるデータは非常に簡単な計算式から住斉氏が算出したもののようだ。なお、住斉氏は、理論物理学者であり、定年後趣味で研究を始めた。

日本各地の縄文系対弥生系人口比率と日本人成立過程(交流)

という論文を書かれており、引用数も一定数あるが、論文自体がウェブ上で入手不可である)

①ハプログループN9はN9a、N9b、Yの3つの下位系統に分かれる。このうちYはアイヌを含むオホーツク海沿岸に多い(詳細はハプログループY (mtDNA)を参照)。ハプログループN9aは東アジア、東南アジア、中央アジアに広くみられるが、とくに中国南部や台湾先住民に比較的多く見出される[1]

篠田謙一(2007)『日本人になった祖先たち』NHK出版 P120

ハプログループM7a


2010年までに沖縄県石垣島白保竿根田原洞穴遺跡から発掘された、旧石器時代人骨国立科学博物館が分析した結果、国内最古の人骨(約2万-1万年前)とされた4点のうち2点は、このハプログループM7aと呼ばれる系統であることが明らかとなった[4]

根拠4は新聞記事に過ぎない
『白保竿根田原洞穴:旧石器人骨からDNA…国内で最古』”. 毎日新聞 (2013年12月2日). 2013年12月2日閲覧。


日本人の約7.6%がこの型に属し、沖縄(23%)、本州(7%)の他、北海道アイヌ(16%)や、縄文人の人骨からも検出されている。韓国人にも3%弱確認され、縄文時代に日本から移住したと考えられている。


パプア・ニューギニア人は、恐らく、世界で最も高い比率でデニソワ人DNAを受け継いでいる
p27
靴をブッシュの体に投げつけるという最大の侮辱行為

p71
世界には人差し指で刺されることを侮辱や挑発と捉える社会が圧倒的に多いからだ

p195
ニューギニア高地のフォレ族は1960年代まで死者を調理して、葬儀の饗宴を行っていたことで知られる


著者名は以前から知っていたが、印象深い内容で、斎藤成也氏が提唱されている3段階渡来説を想起させられる

p24
祖先たちは一度にユーラシア大陸に広がった
海岸移住説というのは海岸を伝う第一波の移住があったという説であり、
ところが私が信頼できると考える遺跡の年代はユーラシア大陸全域にわたって4万8000年~4万5000年前の間に収まっておりアジア南部に移住の第一波があったように見えない

p114
3万8000年前の日本列島激変の理由とは
日本旧石器学会の集計によれば全国には旧石器時代の遺跡が1万カ所以上ある。
もう一つ大変面白くかつ重要なのはこれらの遺跡の年代が3万8000年前以降に集中しているという事実だ

p118
北海道から九州までのこうした古い遺跡では残念ながら人骨化石が見つかっていないため、ホモサピエンスだと断定することはできないが
更に3万8000年前に出現したこの文化(後期旧石器文化)は、その後1万6000年前ごろに縄文時代が幕を開けるまで連綿と続いて行き

p193
古本州島で3万8000年前に始まった後期旧石器時代は、1万6000年前頃に縄文時代が始まるまで2万年余りも継続した。その縄文時代は1万3000年以上続いて、2500年前に始まる弥生時代を迎える

p201
縄文人は単一の集団だったという誤解
20世紀までの人類学では縄文人は、全国の縄文人は一つの均質な集団だったとみなされるが一般的だった
それは考古学においても同様で、北海道から沖縄まで一つの縄文文化圏にあったという説明がしばしばなされ
さらに縄文人の
身体的特徴は、彼らがアジア南方に起源したことを示しているというのが、伝統的な考えであった
篠田は関東と九州の縄文人のミトコンドリアDNAのタイプの違いに注目し、縄文人のルーツが一つではない可能性を示唆していた。
列島各地域の人類史はこの考えを強く支持する。旧石器時代からの移住史を見ていくと、古本州島地域と北海道の縄文人はそれぞれ3万8000前と2万5000年前に異なるルートで列島へ入ってきた、異なる歴史を持つ集団とみるべきだ

英文ウィキペディアの記事によれば、ギリシャ人にDNAで最も近いのは、イタリア人だそうだ。アリストテレスの子孫たちの国。

P1
2010年からの3年間ほどのギリシャ社会の激変、坂道を転がり落ちるような勢いで日々の生活が悪化する状況は、大多数のギリシャ人にとって悪夢以外の何物でもない。ある日突然、国の金庫が空っぽだと知らされた。

P105
自己主張が強烈なだけなら他の国々や民族にもあるが、ギリシャ人の特徴的なところは、それに加えて「自分たちギリシャ人は特別なんだ」という意識が強いこと、物凄く誇り高い。何が誇りかというと、「ギリシャ人というプライドだ」。つまり、自分たちは栄光の古代ギリシャの末裔で、現代ヨーロッパ文化のルーツだから。

P134
数字と金額で考えるのが得意

ギリシャ人の知識人や起業家と話していると、彼らは頭脳明晰で論理的な話がうまくて、(略)とにかくいろんなものを数字で判断して考え、計算や判断も早い。機転もきく。こんな頭のいい人たちがどうして債務危機に陥ってしまったのかとつくづく感じてしまう

(ギリシャは約400年間にわたってオスマントルコの支配下にあった。)

P158
ギリシャとトルコの不仲は有名でまだ歴史としては生々しく、ギリシャ人にとってトルコは受け入れがたいという感情が残っていても仕方ないのかもしれない





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