パウロとペテロ
小河 陽
講談社選書メチエ
2005年
p8
パウロはプロテスタント信仰の真髄を生きた信仰者として、プロテスタント教会の頂点に君臨している
p11
最近の新約聖書の研究において
ユダヤ人キリスト教の代表者ペテロと異邦人キリスト教の代弁者パウロとを対比させて
p19
ヤコブとは「主の兄弟ヤコブ」(ガラテヤ信徒への手紙1・19)つまりイエスの弟である
p25
アンティオキア事件の波紋
アンティオキア教会ではユダヤ人と異邦人の信徒共同体が協力関係を保ちながらも別個に存在することになった
著者によれば、原始キリスト教にはイエスの弟パウロを筆頭とするヤコブ派が優性であり、ヤコブ派ユダヤ人キリスト教徒と非ユダヤ人キリスト教徒は食事の際に同席しなかった。
アンティオキア教会にて、パウロとペテロが、ユダヤ人と非ユダヤ人の食事の際の同席等をめぐって対立し、パウロはペテロを偽善者と呼んだ
p52
イエスの最初の弟子
ペテロの家が伝導の根拠地となり、紀元30年のイエスの十字架死まで、長くて3年、恐らくは2年程の間、イエスと寝食を共にしつつ、付き従った
p73
失意のペテロを立ち直らせたのは、復活のイエスが彼に現れたことであったそのことはパウロがコリント信徒への手紙1 15・3-5で引用している
おびただしい数の研究や議論にも係わらず、その出来事の真相は依然としてあいまいというほかない
p108
パウロはイエスの直弟子ではなく、生前のイエスと会ったこともなく、
p138
両者の伝導姿勢が違っていたことは明らかである。ペテロは基本的にユダヤ人同胞への伝道者という意識を持っていた
これに対しパウロは
異邦人に福音を告げ知らせるべく
p160
原始キリスト教神学史の分岐点ーー20世紀の学問的研究
宗教史学派と呼ばれる研究者たちは
アンティオキアこそ混淆主義的な宗教としてのキリスト教の誕生地とみなす
彼らはユダヤ教の一分派としてのキリスト教がアンティオキアにおいてこそギリシャ文化と諸宗教の影響を受けて急速にヘレニズム化し、根本的な変化を遂げて世界宗教に脱皮したと考えた。「主」あるいは「神の子」の称号をもってイエスを崇拝し始めたのはまさにこのアンティオキアにおける信仰の革新に負うものだ と。
p241
パウロはほんの1世紀前までは宗教史学派の間では「キリスト教の第二の創始者」と称賛されていた。それはパウロ自身がキリスト教信仰をユダヤ教内部の一分派にとどまらせず、諸民族を包括する宗教としての普遍性を獲得する展開へと舵を切ることに決定的な貢献をしたからであった。
小河 陽
講談社選書メチエ
2005年
私のキリスト教理解は、この書籍のP160の記述と完全に合致するが、原始キリスト教とユダヤ教の分岐には、ユダヤ教自身の変化=ラビユダヤ教=現在のユダヤ教 が決め手であったかもしれない
p8
パウロはプロテスタント信仰の真髄を生きた信仰者として、プロテスタント教会の頂点に君臨している
p11
最近の新約聖書の研究において
ユダヤ人キリスト教の代表者ペテロと異邦人キリスト教の代弁者パウロとを対比させて
p19
ヤコブとは「主の兄弟ヤコブ」(ガラテヤ信徒への手紙1・19)つまりイエスの弟である
p25
アンティオキア事件の波紋
アンティオキア教会ではユダヤ人と異邦人の信徒共同体が協力関係を保ちながらも別個に存在することになった
著者によれば、原始キリスト教にはイエスの弟パウロを筆頭とするヤコブ派が優性であり、ヤコブ派ユダヤ人キリスト教徒と非ユダヤ人キリスト教徒は食事の際に同席しなかった。
アンティオキア教会にて、パウロとペテロが、ユダヤ人と非ユダヤ人の食事の際の同席等をめぐって対立し、パウロはペテロを偽善者と呼んだ
p52
イエスの最初の弟子
ペテロの家が伝導の根拠地となり、紀元30年のイエスの十字架死まで、長くて3年、恐らくは2年程の間、イエスと寝食を共にしつつ、付き従った
p73
失意のペテロを立ち直らせたのは、復活のイエスが彼に現れたことであったそのことはパウロがコリント信徒への手紙1 15・3-5で引用している
おびただしい数の研究や議論にも係わらず、その出来事の真相は依然としてあいまいというほかない
p108
パウロはイエスの直弟子ではなく、生前のイエスと会ったこともなく、
p138
両者の伝導姿勢が違っていたことは明らかである。ペテロは基本的にユダヤ人同胞への伝道者という意識を持っていた
これに対しパウロは
異邦人に福音を告げ知らせるべく
p160
原始キリスト教神学史の分岐点ーー20世紀の学問的研究
宗教史学派と呼ばれる研究者たちは
アンティオキアこそ混淆主義的な宗教としてのキリスト教の誕生地とみなす
彼らはユダヤ教の一分派としてのキリスト教がアンティオキアにおいてこそギリシャ文化と諸宗教の影響を受けて急速にヘレニズム化し、根本的な変化を遂げて世界宗教に脱皮したと考えた。「主」あるいは「神の子」の称号をもってイエスを崇拝し始めたのはまさにこのアンティオキアにおける信仰の革新に負うものだ と。
p241
パウロはほんの1世紀前までは宗教史学派の間では「キリスト教の第二の創始者」と称賛されていた。それはパウロ自身がキリスト教信仰をユダヤ教内部の一分派にとどまらせず、諸民族を包括する宗教としての普遍性を獲得する展開へと舵を切ることに決定的な貢献をしたからであった。