カテゴリ: 宗教

パウロとペテロ
小河 陽
講談社選書メチエ
2005年

私のキリスト教理解は、この書籍のP160の記述と完全に合致するが、原始キリスト教とユダヤ教の分岐には、ユダヤ教自身の変化=ラビユダヤ教=現在のユダヤ教 が決め手であったかもしれない

p8
パウロはプロテスタント信仰の真髄を生きた信仰者として、プロテスタント教会の頂点に君臨している

p11
最近の新約聖書の研究において
ユダヤ人キリスト教の代表者ペテロと異邦人キリスト教の代弁者パウロとを対比させて

p19
ヤコブとは「主の兄弟ヤコブ」(ガラテヤ信徒への手紙1・19)つまりイエスの弟である

p25
アンティオキア事件の波紋
アンティオキア教会ではユダヤ人と異邦人の信徒共同体が協力関係を保ちながらも別個に存在することになった

著者によれば、原始キリスト教にはイエスの弟パウロを筆頭とするヤコブ派が優性であり、ヤコブ派ユダヤ人キリスト教徒と非ユダヤ人キリスト教徒は食事の際に同席しなかった。
アンティオキア教会にて、パウロとペテロが、ユダヤ人と非ユダヤ人の食事の際の同席等をめぐって対立し、パウロはペテロを偽善者と呼んだ



p52
イエスの最初の弟子
ペテロの家が伝導の根拠地となり、紀元30年のイエスの十字架死まで、長くて3年、恐らくは2年程の間、イエスと寝食を共にしつつ、付き従った

p73
失意のペテロを立ち直らせたのは、復活のイエスが彼に現れたことであったそのことはパウロがコリント信徒への手紙1 15・3-5で引用している
おびただしい数の研究や議論にも係わらず、その出来事の真相は依然としてあいまいというほかない

p108
パウロはイエスの直弟子ではなく、生前のイエスと会ったこともなく、

p138
両者の伝導姿勢が違っていたことは明らかである。ペテロは基本的にユダヤ人同胞への伝道者という意識を持っていた
これに対しパウロは
異邦人に福音を告げ知らせるべく

p160
原始キリスト教神学史の分岐点ーー20世紀の学問的研究
宗教史学派と呼ばれる研究者たちは
アンティオキアこそ混淆主義的な宗教としてのキリスト教の誕生地とみなす
彼らはユダヤ教の一分派としてのキリスト教がアンティオキアにおいてこそギリシャ文化と諸宗教の影響を受けて急速にヘレニズム化し、根本的な変化を遂げて世界宗教に脱皮したと考えた。「主」あるいは「神の子」の称号をもってイエスを崇拝し始めたのはまさにこのアンティオキアにおける信仰の革新に負うものだ と。

p241
パウロはほんの1世紀前までは宗教史学派の間では「キリスト教の第二の創始者」と称賛されていた。それはパウロ自身がキリスト教信仰をユダヤ教内部の一分派にとどまらせず、諸民族を包括する宗教としての普遍性を獲得する展開へと舵を切ることに決定的な貢献をしたからであった。


歴代誌 旧約聖書15
池田 裕 訳
岩波書店
2001年

下の掲載地図には驚愕せずにはいられない。現在のイスラエルのガザ地区への攻撃は、宗教戦争としての側面は否定しえないかもしれない

p67 掲載地図
なお、最後の用語解説索引p12によればパレスチナはペリシテ人が語源である
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p3
アダムからイスラエル
アダムの子孫とされる12人の人名及びその子孫の名がが記載されている

p16
イスラエルの12人の息子たち

p117
ダビデは千人隊、百人隊の長、及び全ての指導者と協議し

p176
軍隊の組織ーー12組 各2万4千人
イスラエルの人々の数は、王に仕える一族の頭たち、千人隊の長たち、百人隊の長たち、彼らの役人たち、各組が2万4千人で

千人隊、百人隊はモンゴルを筆頭に遊牧民の軍構成である。驚いた。

p191
彼らは生贄をヤヘバに捧げ
雄牛1000頭、雄羊1000頭、小羊1000頭
イスラエルの全ての民の為におびただしい数のいけにえを捧げた

キリスト教との区別化の為のラビユダヤ教と異なり、原始ユダヤ教には、やはり生贄があったのだ




ユダヤ教の歴史
アンドラ・シュラキ
増田治子 訳
白水社 文庫クセジュ
1993年

紀元1世紀に800万ものユダヤ教信奉者=事実上のユダヤ人が存したのであろうか?
数値の根拠は示されていない

p20
歴史家たちは出エジプトを紀元前1500年と1300年の間に位置づけている

p27
キリスト教が出現したときローマ帝国内には約800万人のユダヤ教信奉者がいたのである

p338
二度にわたる大規模な強制移送(紀元前597、586年)の結果、ユーフラテス河の向こう側に居を定めてたユダヤ人は、ローマ帝国期には100万人を数え

p74
ユダヤ教がその中世の歴史の黄金期を知るのはスペインにおいてであり。

p81
1394年
フランスから全ユダヤ人を放逐

p82
1492年にはスペインのユダヤ人たちが追放されなければならなかった

p87
イギリス(1290年)、フランス(1394年)からの大規模な追放


p116
1791年
フランスのユダヤ人たちは
権利の平等を勝ち得た
1812年にはプロシャが最初の解放の勅令を発した
1848年にはドイツ、1858年にはイギリス、1867年にはオーストリア・ハンガリー、1870年にはイタリア、1917年にはロシア

p117
彼らはほぼ200年間、歴史の欄外に、ゲットーに隔離された世界に生きてきた




愚禿親鸞
西田幾多郎

「西田幾多郎随筆集」岩波文庫、岩波書店

愚禿は、愚かな禿頭をさす。即ち、出家して頭髪を剃った禿頭の愚かな僧侶を親鸞は自称していたことになる。親鸞には、これに関する著作もある。愚民の宗教として、バカにされ続けてきた浄土宗、浄土真宗であるが、私にはよく分からん?少し考えでみよう。


余は真宗の家に生れ、余の母は真宗の信者であるに拘らず、余自身は真宗の信者でもなければ、また真宗について多く知るものでもない。ただ上人が在世の時自ら愚禿と称しこの二字に重きを置かれたという話から、

愚禿の二字は能く上人の為人を表すと共に、真宗の教義を標榜し、兼て宗教その者の本質を示すものではなかろうか。

人間には智者もあり、愚者もあり、徳者もあり、不徳者もある。しかしいかに大なるとも人間の智は人間の智であり、人間の徳は人間の徳である。三角形の辺はいかに長くとも総べての角の和が二直角に等しというには何の変りもなかろう。ただ翻身一回、此智、此徳を捨てた所に、新な智を得、新な徳を具え、新な生命に入ることができるのである。

これが宗教の真髄である。宗教の事は世のいわゆる学問知識と何ら交渉もない。

心霊上の事実に対しては英雄豪傑も匹夫匹婦と同一である。ただ眼は眼を見ることはできず、山にある者は山の全体を知ることはできぬ。此智此徳の間に頭出頭没する者は此智此徳を知ることはできぬ。

即ち深く愚禿の愚禿たる所以を味い得たもののみこれを知ることができるのである。

上人の愚禿はかくの如き意味の愚禿ではなかろうか。他力といわず、自力といわず、一切の宗教はこの愚禿の二字を味うに外ならぬのである。

しかし右のようにいえば、愚禿の二字は独り真宗に限った訳でもないようであるが、真宗は特にこの方面に着目した宗教である、愚人、悪人を正因とした宗教である。

真宗はこれと違い絶対的愛、絶対的他力の宗教である。例の放蕩息子を迎えた父のように、いかなる愚人、いかなる罪人に対しても弥陀はただ汝のために我は粉骨砕身せりといって、これを迎えられるのが真宗の本旨である。


宗教の起源
私たちに何故<神>が必要だったのか
ロビン・ダンパー
小田 哲 訳
白揚社
2023年

今まで読んだいわゆる宗教学関連本では断トツで優れた内容。しかし、イギリス人らしく宗教学にダーウィンの進化論をあてはめようとする意図が見えみえなのが?

p4
トランス状態(瞑想中に体験する精神状態を含む)
全ての宗教の土台ではないかと私は考える

p13
ユダヤ教のように明確な死後の概念を持たない宗教もごくわずかある

p16
啓示宗教
他の世界宗教への影響力という点でもゾロアスター教は傑出していた

p18
宗教の定義については二つの大きな流れがあると考えていいだろう
デュルケーム
儀式などの慣行が果たす実用的な役割を重視する。「宗教は行うもの」という考えだ
もう一つ
共同体の中で証拠もなく受け入れられている一連の信念
「宗教は信じる」ものである

p19
「アミニズム」宗教【前者に相当する】
教義宗教【後者に相当する】

p20
人智が及ばないものを一切信じない文化はほぼ存在しないといってよい
【無宗教者が多いと思われている中国人でさえ完全に当てはまる。】

p27
願い事を書いた紙や奉納物を木や幹につける風習は
北ヨーロッパの各地にみられる

p34
大事なのは新しい宗教は古い宗教を一掃するのではなく、むしろそこに接ぎ木しているということだ。古い宗教は人々の精神に深く根を下ろしていて。完全に消し去ることはむづかしい。

つまり教義という立派な看板の下にはいにしえの異教の土台が隠れているのだ。実は本書の核心はそこにある

p65
キリスト教では主流派を含む多くの教派で悪魔祓いが正式の儀式として残っている
【著者によれば、シャーマニズムの残存である】

p109
現代の狩猟採集部族を分析した研究から
社会集団の規模は文化に関係なくほぼ同一であることが割っている。一番小さいバンドは
30~50人
共同体若しくは氏族は、100~200人で平均をとるとほぼ150人だ
部族は1500人
産業革命が起きるまで世界のほぼ全てで共同体の大きさは決まっており、それは長きにわたり驚くほど行ってしていた王である

p111
ヒトの自然な共同体の大きさはおよそ150人。では宗教の信者集団もそれが自然な規模だろうか。

p119 
人間の自然な共同体 
教会の信者集団には約150人というはっきりした上限が存在する

p203
パプアニューギニアの農耕民ゲㇷ゚シ族の死因を調べると、3分の1近くが殺人だった
【死因は男性の場合は、他の集落との戦闘、女性は部落内でのいさかい】

p215
今日の世界を支配している一握りの主要宗教は、
地理的に離れているにもかかわらず、どれも紀元前1000年紀(前1000~前1年)のいわゆる枢軸時代にに出現したことは長い間歴史研究の大きな謎だった。第三の研究によると、枢軸時代への移行に関して最も信頼できる指標は、一人当たりの年間エネルギー産出量(基本的には農業生産量)で、約2万キロカロリーが移行の閾値として確認されたという

p216
その次に信頼できる指標は人口密度だ。

p217
高みから道徳を説く神の出現はとても遅く、枢軸時代と呼ばれる紀元前一千年紀がほとんどだ。
社会と政治が急速に複雑さを増し、人口が100万規模に増大して

p219
北半球の亜熱帯地方
世界の16の一神教と主要な国教のうち、この範囲の内側若しくは境界で創設された宗教は14もある

p230
「高みから道徳を説く神」は住民の数が膨大となった時にのみ出現する発展の最終段階を表しているのである

p262
何故宗教は分裂するのか

p266
キリスト教では22回の大きな分裂が起きている、
新たな教派が続々と生まれたのは純粋に規模の問題で、
意思疎通に時間がかかるようになった結果だと考えられる

p270
教団が拡大していくためには生まれた子供を信者にすることが唯一にして最も重要な戦略だろう。
宗教への信仰の遺伝率(次世代にどこまで忠実に複製されるか)は実に70%前後に達する

p274
第一段階
没入型の原始宗教
30~50人のバンドに散らばって暮らしていた、100~200人の小さな狩猟採集共同体を結束させるための宗教である
この段階の宗教は道徳規範や行動規範とはほぼ無縁で全ては共同体の結束の為だった

第二段階は、専門職としての治療師と占い師の出現だ。依然としてシャーマニズム宗教、没入型宗教の世界である点にかかわりはなく、正式な教義も存在していない

p276
およそ1万年前、新石器時代の始まりと共に、人々は定住生活へと移行する。その結果、特に人口が300~400人を大幅に超えてくると共同体が対処すべきストレスの中身が大幅に変化した。この時代の初期が第三段階に当たり、より形式の整った儀式、専門職(聖職者)、儀式の場(神殿)、や土着の神々を有する宗教が生まれた。神の数は多いのが一般的で、

そして約4000年前、いよいよ第四段階が始まる。
ちょうど都市国家や帝国の出現とも重なるのは、
興味深いのは高みから道徳を説く神をあがめる一神教と牧畜経済の強い結びつきで

p279
宗教の進化は
環境の変化に対応する種レベルの反応ではなく、時とともに共同体が拡大していく中で生じた社会結合の問題に対して、共同体レベルで見出した解決策だからだ。

宗教の進化を支えているのは神秘志向であるーーこれがこの本の最大の主張だ。

p280
この本で二番目に重要な主張は、宗教は段階を追って進化する中で、
古い核の周りに新しい層が加わっていくということだ







老子化胡經
桑原隲藏
明治四十三年十二月『藝文』第一年第九號所載)

明治時代において、本地垂迹説は桑原氏のように考えられていたのであろう。


佛教の支那に將來されたのは、普通に東漢の明帝の永平十年(西暦六七)の頃と認められ、

東漢の末から三國時代にかけて、一方では佛教が漸く民間に流通するし、又一方では道教が次第に組織されるに從ひ、始めて道佛の衝突が起り、兩晉・南北朝・隋・唐時代は申すに及ばず、宋・元時代までかけて、絶えずこの兩教は衝突した。

支那の佛教にとつて、道教は第一の法敵であつた。佛家で三武の厄と稱する、佛教に尤も激しき迫害を加へた帝王は、何れも道教信者である。

老子化胡經』とは、老子が西域印度へ出掛けて、幾多の胡國を教化したことを書いたもので、西晉の惠帝の頃に、道士の王浮(或は王符に作る)といふ者の僞作に係る。

波羅門哲學と對比すると、兩者の間に尠からざる類似がある。故に歐洲の學者は多く老子は印度の影響を受けたものと信じて居る。甚しきは老子その人も印度より支那に移住して來たものとさへ信じて居る

老子は晩年に中國を後に西方に往つたといふ傳説もあり、殊に老子が天竺に往つて佛教を唱へたといふ説も行はれて居ること故、之を大成して『老子化胡經』を作つたのである。

もと一卷の『化胡經』が十卷に増加したのみならず、『化胡經』の内容も隨分變化して居る。最初は老子自からが釋迦を教へたといひ、後には老子が釋迦と生れ變つたといひ、又その弟子の尹喜を釋迦と生れ變らしたなど、説は區々になつて居る。

老子化胡經』が公にされてから、道佛二教の爭は實に火の手を擧げた。道士は之にて敵の死命を制すべき屈竟の武器を得たりとて、頻に『化胡經』を振り廻はす。釋迦は老子の弟子である。弟子は固より先生に劣る。老子は中國人の爲に道教を説いた。佛教は胡人の爲に立てた法である。中國人にして佛教を奉ずるのは、いはゆる蠻夷擾夏ものな

今日歐洲の印度學者の説にも、比較的よく接近して居る。之によると釋迦は孔子と同時、老子よりはやや後輩で、然もその年代相及ぶといふのが事實らしい。


佛教徒は道教の祖師老子を佛弟子とするのみに滿足せず、更に儒家の祖師たる孔子、その高弟顏子を始め、聖人といふ聖人は殘らず味方に引き入れてゐる。

されば佛教徒が南北朝時代から、支那の聖賢を菩薩の化身として、佛教側に引き入れたことが明白である。明槩が三皇・五帝・孔・李・周・莊みな菩薩化身と主張して居るのは、化身説を極端まで應用したものである。

この手段がやがて平安朝時代にわが國に輸入されて、本地垂迹説となり、わが國では支那よりも一層の成功を見得たのである。 

本地垂迹の説は、普通に傳教大師や弘法大師によつて創唱されたものとなつて居る。この二人は何れも入唐した。唐時代は道佛二教の爭の盛な時であるから、この二人も支那の僧侶が老子や孔子を菩薩扱にして、宗勢を擴張した先例を見て、歸朝の日に之を我が國に應用したのであらうと想像される。

化身説を利用して、神佛の調和を計らんとする傾向は、傳教・弘法の時からあつたので、これは支那から輸入したものであらうと想像される。十分の調査をして居らぬから、斯には單に想像というて置く


日蓮
「戦う仏教者」の実像
松尾剛次
中公新書
2023年

宮沢賢治や石原莞爾が熱心な日蓮宗関連信者であった旨。石原莞爾については知っていた
天台宗に関する解説が強烈な印象


p10
鎌倉・室町時代の僧・尼集団には基本的に官僧・官尼と遁世僧 遁世尼という二類型があった。

p11
遁世僧は、官僧身分を離脱した私僧のことで
法然、親鸞、道元、一遍らは
遁世僧であったことは重要である

p12
官僧は天皇に仕える祈祷僧として衣服住の保障や刑法上の特権が与えられた

p13
官僧は葬式には原則的には従事しなかった

p35
釈迦がなくなった後千年を正法の時代、それから千年を像法の時代といい、それ以後は末法の時代に入

鎌倉時代には、釈迦入滅を紀元前949年とし
末法の時代に入ったとする説が有力であった
正法は釈迦の説いた正しい教えが伝わり、正しい修行と悟りを得る人がいる時代で、像法は教えもあり修行もなされるが、悟りを得る人はいない時代である。末法は教えのみがあるとされる時代である

p45
日蓮が念頭に置いた主敵は法然と専修念仏門下であった

p54
天台宗の教相判釈は
一、華厳時
釈迦は悟りを開いて直ちに華厳経を説いたが誰も理解できない
二、阿含時(鹿苑寺)
次の12年間は阿含経を説いて
誰も理解できないからまず低次の教えから説いたのである
三、方等時
その後の8年間は、小乗を批判して大乗に引き入れるために維摩経などを説いた
四、般若時
次の22年間は大乗小乗の執着を捨てさせるために般若経を説いた
五、法華涅槃時
晩年の8年間は法華経

この5時説では華厳経を別にすれば、阿含経から順に低次の教えから高次の教えへと引き上げ、最後に最高の教え(真実)である法華経を説いたという。天台宗の教相判釈では法華経以前は方便の教えとなる。

p57
迹門と本門
迹門=法華経の前半、本門=法華経の後半だそうだ

迹門では教えを説く仏は釈迦族の王子として誕生し
要するに人間釈迦である
他方、本門の「如来寿量品」で明かされる仏こそ、真の仏とする。80歳で入滅する歴史的な仏は、人々が分かり易いように、人間の姿をとったに過ぎず、仏の真の姿ではないとするのである。真実の仏は、想像を絶する遥か過去(五百塵点劫という)に既に悟りを開いたと言うのである。この仏こそ、迹門の仏に対する本当の仏、本門の仏である

p75
日蓮は
法華経が釈迦が説いた教えの中でひとり優れていると認識するようになっていった

p149
日蓮は次に来るであろう二回目の蒙古襲来では、
日本国は敗れると確信していた

p169
日蓮は曼陀羅本尊を信者に授与した。日蓮真蹟の曼陀羅本尊は120幅以上伝わっている
創価学会では今でも、事実上はこれを真似ている

p176
当時の人々には、文永の役での台風による元軍損害・敗退は祈祷によるものと信じられたので

祈祷力の方が大いに評価されることになった
日蓮は失意の状態に陥ったのである




十二小預言書 旧約聖書10
鈴木 佳秀 訳
岩波書店
1999年

①アモス預言の周辺民族名を史実と見做せば、ダマスコ、ガザ、ツロ、エドム、アンモン、モアブの6つの民族がシナイ半島には存在して、各自、城塞都市を建設していたことになる。
②イスラエル人は、このアモス書の預言を信じ、預言が、ガザで2023年から実際に起こっているのだ!と考えているのであろうか?ガザは現在のガザ地区と見て間違いない


ホセア書
ヨセル書
アモス書
オバデヤ書
ヨナ書
ミカ書
ナホム書
ハバクク書
ゼファニヤ書
ハガイ書
ゼカリヤ書
マラキ書


p13
ホセア書
ヤヘバは私に言った「もう一度行って、他の男に愛され、姦淫を行う女を愛せよ」

p34
刑罰の日が到来した
報復の日が到来した

p53
イスラエルよ立ち帰れ
あなたの神ヤヘバの元に

p84
アモス書

周辺諸国民に対する審判

ヤヘバはこう言われた
ダマスコの3つの背きの罪、4つの(背きの罪)の故に
私はハエザルの家に火を放つ
火はベン・ハダテの城砦をなめつくす

ヤヘバはこう言われた
私はガザの城壁に火を放つ、
火はその城砦をなめつくす


ヤヘバはこう言われた
私はツロの城壁に火を放つ、
火はその城砦をなめつくす

ヤヘバはこう言われた
エドムの3つの背きの罪、4つの(背きの罪)の故に、
私はテマンに火を放つ、
火はボツラの城砦をなめつくす

ヤヘバはこう言われた
アンモンの3つの背きの罪、4つの(背きの罪)の故に、
私はラバの城壁を火で焼き払い
火はその城砦をなめつくす

ヤヘバはこう言われた
モアブの3つの背きの罪、4つの(背きの罪)の故に、
私はモアブに火を放つ、
火はケリオトの城砦をなめつくす



p88
ユダに対する審判
ヤヘバはこう言われた
ユダの3つの背きの罪、4つの(背きの罪)の故に、
私はユダに火を放つ、
火はエルサレムの城砦をなめつくす

イスラエルに対する審判
ヤヘバはこう言われた
イスラエルの3つの背きの罪、4つの(背きの罪)の故に、

40年荒野を進ませ
アモリ人の地を継がせたのだ
【当然であるが、火を放つ云々の記述はない】

エゼキエル書 旧約聖書9
11999年
岩波書店

今日のイスラエル人の視線では、この預言者、エゼキエルの預言は、2000年以上たった後全て成就している。
*イスラエル建国
*エジプトの衰退

p7 2-3

彼はわたしに言った。「人の子よ、私はあなたを
遣わそう

旧約聖書において、人の子 という表現が初めて使われていると思われる。ここ以降も決まり文句のように人の子よという表現で始まる

p25 8-1
エルサレムの異教崇拝
彼は私に言った
「私は容赦しない」

p28 9-1
エルサレムの処罰
ヤヘバは私に言った
「この地は流血で満ち」

p38 11-17
私はお前たちが散らかされた国からお前たちを集め、お前たちにイスラエルの地を与える

エゼキエル書は預言書であるからして、まさに其の預言通りにイスラエルが建国されたのだ!と彼らは考えるであろう
この付近から後は、「ヤヘバの言葉が私を臨んで言った」という決まり文句から始まる

p118 29
エジプトに対する預言集
彼らはそこで卑小の王国となる
解説注書きによれば、そこでとは上エジプトのことである

p151 36
私は彼らを諸国民の間に散らした。彼らは国々に追い散らされた。私が彼らを彼らの歩みと彼らの行為に応じて裁いたからである

p156 37
私はイスラエルの子らを、彼らが赴いた諸国民の間から取り戻す。私は彼らを周囲から集め、彼らの土地に導きいれる。私は彼らをその地でイスラエルの山々で一つの国民とする

私は彼らと平和の契約を結ぶ。それは彼らとの永遠の契約となるだろう。私は彼らに与え彼らを増やす

p184 44
レビ人とレビ人祭司
レビ人は
彼らはわが聖所で使える者となるが、神殿の門衛のつとめをもって神殿に仕えるのである

p197 47
あなたがこの地をイスラエルの12部族に
領域である

p198
地図があり、北から順に
アシェル、ナフタリ、マナセ、ルベン、ユダ、エルサレム(献納地)、ベニヤミン、シメオン、イッサカル、セブロン、ガド
この他にレビがいる

p209
解説
エゼキエルはユダ王国が滅亡し、その指導者や兵士や職人たちがバビロニアに連行された捕囚時代、捕囚民の間で活動した預言者である

日本文化の独立
内藤湖南
講演録

*南北朝時代に朱子学と禅宗が同時に中国からもたらされたことを知らなかった
*第二次大戦時に宣伝された神国日本という表現は神皇正統記で北畠親房がはじめて使ったのである


後醍醐天皇の時に宋學の輸入となります、是は學問上における一つの非常なる變化であります。即ち漢學の方で申せば從來は日本朝廷の學問は漢唐以來の相傳の學問を皆繼續して來たのですが、此の時分から宋學が入つて來たのです。これは勿論禪宗が入つて禪宗の坊さんが其時流行であつた所の宋學の影響を受けて來たからさういふのが基になつたのではありませうが、とにかく宋學が來たのです。

支那では北宋の時分にいろ變つた新しい思想が出來て居ります、例へば司馬温公の資治通鑑などは從來の歴史を一變した所の有力なる歴史であつて、是はやはり當時の思想によほど影響して居ります。ともかく支那の從來の學問に對して新しいことを考へる所の思想が禪宗の坊さんたちによつてだん〳〵日本に間接に入つて來てゐたのが、到頭後醍醐天皇

神皇正統記も唯國史の教科書として位に讀んで居れば何でもありませんが、實はあれはあの人の政治に對する革新意見書であります。あれを見ると單に昔からの記録をもとにしてあり來りの歴史を書かうとしたものでないことが分ります。

其蒙古は更に日本にまで襲來し、さうして日本の前には國難が横つて居つたわけであるが、とにかく伊勢の大神宮や石清水八幡、三千餘座の神々に祈願して神の子孫が犬の子孫に勝つたわけであります。そんなわけで今迄貴いと思つて居つた支那も、犬の子孫に統一されるやうではさう大したこともないといふので、遂に支那といふものが日本人に取つてあまり有難くなくなつた、

今迄日本は支那を以て日本文化の師匠であると仰いで居つた所が、其師匠と仰いで居つた支那が、犬の子孫である所の蒙古のため

當時伊勢の方に一種の神道が出來て居りました、これは外宮の神主度會氏から新に出て來た所の神道でありますが、これが北畠親房の學問に影響してゐるのであります。

神道においては新しく起つた所の度會家の神道を採用したのであつて、自分でも神道に關する著述をして居ります。だから神皇正統記の一番眞先の書き出しには、『大日本は神國なり』と書いて居ります。これが神皇正統記の第一句であります。

萬世一系であるといふことを論じて、さういふ神の御末であるから今日の皇統も正統の天子でなければならぬといふことを結論にして、そこで南朝が正統であるといふことを明かにして居るのでありますが、

此日本が世界中一番尊いのだといふ思想は當時において新思想と言つてよからうと思ひます。

其中頃から戰國となつて、文化の上においても殆ど暗黒時代を現はしたが、其間に自然に獨立思想がだん〳〵行亙つて、さうして日本は神國であつて日本は特別な國體だといふことが、この暗黒時代において一般に浸みわたるやうになつて來たのであります。此事は私が應仁の亂のお話をした際に、皇室が衰微して其の極に達して居る時、皇室中心の思想が足利の末半分ばかりの時において一般に行亙つたといふ事

古い文化は足利時代に滅亡しましたが、新たに起つた所の思想はどこまでも一貫して、それが到頭徳川時代まで來たのであります。徳川時代になるといふと、外國の學問をする人でも、日本を中心に考へる思想が非常に盛んでありまして、それが詰り明治維新、今日の日本を形造る根本になつたのであります。

日本でも喜んで來るだらう、體裁上日本に使者をやりさへすれば朝貢するだらうと思つた。所が日本では返事をしない、度々來るといふので到頭使者を斬つてしまつた。そこで是は途方もない奴だと思つて遂にあの大きな騷動を起すやうになつたのですが、それも失敗した。その時にすでに蒙古の天子は驚いて居つたわけです。 所で今度は明の太祖が自分は蒙古の天子を追出して中國を囘復したのだから

今度は明の太祖が自分は蒙古の天子を追出して中國を囘復したのだから、日本へ使者をやつて日本から又朝貢をさしてとと考えた。そしてもし來なければと言つて幾らか威しの文句を言つてよこしたのです。さうするとそれを懷良親王が見られて、戰爭をするならしようといふ手紙をやつたのです。此時の手紙は日本で言へば、蒙古襲來の時に取つた態度よりも、よほど激しい態度であります、蒙古の時には喧嘩を買つたやうな手紙を出したのではなく唯返事を出さなかつたのです、


日本が支那に對して氣焔を吐くことが蒙古襲來以來流行つて來たのであります、これは詰り日本の根本の文化の獨立が出來上つたからだと言つてもよいと思ひます。これは丁度蒙古襲來といふ時が後宇多天皇の始めでありまして、















異文化としてのイスラーム
社会人類学的視点から
大塚和夫
同文館
平成元年

今まで読んだ中では出色のイスラム関連本である

p69
ムスリムにとって
死とは
審判の日までのつかの間の眠りに過ぎず
これが1400年近くにもわたるスンニ派イスラムの歴史において基本的に一貫して維持されてきた人間の死をめぐる基本的見解と言えよう

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p75
ファイサル王も特別な墓碑や廟も全く築かれず、一見すると石ころだらけの荒れ地としか思えない場所に、一般人と同様に静かに眠っており、最後の審判の時を待っているのである

ここまで徹底しているのは、凄いの一言である

p105
イスラムにおいては、原則的に聖職者の存在すら認められていなかった。

イスラムの理論上は確かにそうなる。聖職者という仲介は必要なく、一人一人が直接アラーと向き合え!ということである

p165
スンニ派イスラムの教義は、六信五行に集約されている。
アッラー(神)、天使、経典、預言者、審判の日、運命の6つの実在を信じ、荷美の生活において、信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼の5つの実践に努めなければならない

日本人がどうしても理解しえないのは、キリスト教・イスラム教の天使である。悪魔はまだわかる。しかし、感覚的に天使は理解不能である。天の使い=天使と訳されているが、ムハンマドは直接アラーの声を聴けた!旧約聖書の預言者も、ヤヘバの声を聴けた!従って、天使など必要とはしない

p185
非ムスリムの研究者の多くはふつうクルアーンをムハンマドの創作と見做し、その内容の検討は、彼の思想の分析であるという前提に立つことが多い

p186
イスラムの正統的見解では、【ムハンマド】彼は読み書きのできない文盲であったと考えられている

p304
ムスリムの誰もがその存在を認める超自然的存在としては、天使、悪魔、ジンなどがいる

p305
ジンとは
一般に宗教人類学で聖霊(spirit)と称されているものに近い。クルアーンによれば煙なき火から創られたものである

エレミヤ書 旧約聖書 8
関根 清三 訳
岩波書店
2002年

①このエレミヤ書において初めて、アーメンという言葉が旧約聖書で使われていると思われる
②原始キリスト教がユダヤ教の一派であったことはほぼ確実であるが、だとすれば、エレミヤが最初の預言者となるであろう

p43 5-18
敵国の襲来
ーーヤヘバのお告げーー私はお前たちを絶滅することはしない
「お前たちは私を捨て、お前たちの地で異国の神々に仕えた。」

p55 7-1
神殿破壊の予告

p81 11-7
アーメン、ヤヘバよ

p111 16-10
我々の罪とは何か
ーーヤヘバのお告げーー他の神々の後に従い、これらに仕え、これらを拝み、私を捨てて、私の律法を守らなかったためである。

p195 31-31
新しい契約
イスラエルの家とユダの家と新しい契約を結ぶ、そのような日々が来るーーヤヘバのお告げーーその契約は、私が彼らの父祖の地エジプトの地から連れ出した日に結んだ契約の様ではない。その私の契約を彼らは破ってしまった。
私は彼らの咎めを許し、彼らの罪を二度と思い出すことはない

p231 39-1
エルサレム陥落
バベルの王
とその全軍勢がエルサレムに来寇し、これを包囲した。
ユダの王
と全ての戦士たちは、彼らを見て逃げ出した
捕囚として連れ去ったのは

p245 43-1
民、エジプト行きを強行する
預言者エレミヤと共に
エジプトの地に行った

p316 52-4
エルサレムの陥落
バベルの王と
彼らはエルサレムに対して陣を敷き、周りに塁壁を築いた。
町の中で飢えが酷くなり
その時町が破られた。
カルデア人が町を取り巻いていたが、
戦士たちは夜中に
町から逃げ出した

p318 52-17
神殿略奪
カルデア人たちは、
バベルへ運び去った

p349 解説
エレミヤのこの「新しい契約」即ち「新約」の約束が、イエスキリストの生涯と死において成就したと、原始キリスト教は信じたのである







イザヤ書

旧約聖書 7

関根 清三 訳
岩波書店
1997年

イザヤ書は全て詩で書かれているが、翻訳を読んだ限りでは韻を踏んで書かれたものではないようである。また、詩としての「美しさ」も不明である。ユダヤ教へのイメージは、p77の詩の一部を見る限り、完全に覆り、他の旧約記述内とも合致する。やはり、フロイトの主張通り、モーゼはエジプト人であった可能性が高く、古代エジプト唯一の一神教であるアートン教を母体をユダヤ教が成立したのが正しいのかもしれない

p77 19-1
エジプトへの審判
彼らは近き近親同士、隣人同士

p132
エジプトとアッシリアへの裁き
禍だ、助けを求めてエジプトへ下る者たち

p196 
偶像を形づくる者たち、彼らは皆うつろで

p259
異邦人・宦官に開かれた教団
ヤヘバに就く異邦人は言ってはならない
「ヤヘバはきっと、私を己が民から分けられる」
また宦官も言ってはならない
「観よ、私は枯れ木だ」

p315【解説に掲載された地図】

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旧約聖書
列王記

旧約聖書 6

池田 裕 訳
岩波書店

古代イスラエルは、一神教であった以外は、他と全く異ならない

上巻
p10
2-1
ダビデは息子のソロモンに命じて言った

p18
3-1
ソロモンとエジプトのファラオの娘との結婚

p29
5-1
ソロモンは大河からペリシテ人の地、更にエジプトの国境に至るまで、全ての国を支配した。彼らはソロモンの在世中貢物を納めて彼に仕えた

p35
6-1
イスラエルの子らがエジプトの地を出てから480年目、ソロモンの治世4年目
ソロモンはヤヘバの為に神殿建築に着手した

p47
8-1
ヤヘバの契約の箱、神殿に移される

p61
10-1
シバの女王の来訪

p64
11-1
ハーレムの女たちと異教礼拝
ソロモンは多くの外国人の女を愛した
彼には妻として700人の王妃と300人の側室がいた
ソロモンはヤヘバの目に悪いことを行い

p65
11-9
ヤヘバはソロモンに対して怒った。

下巻
p207
イェホァュは王位についたとき7歳であった

p236
17-6
イスラエルの民、捕囚としてアッシリアへ移される
アッシリアの王はサマリアを占領した。彼はイスラエル人を捕囚としてアッシリアに移し






旧約聖書の謎
隠されたメッセージ

長谷川修一
中公文庫
2014年

残念ながら、旧約聖書の登場人物の年齢に関する謎に関しては一切言及していない。

p29
ノアの箱舟の物語は、一神教という枠組みの中でメソポタミアの洪水伝説を捉えなおしたもの、言うなれば、「メソポタミアの洪水伝説の一神教バージョン」なのである

p33
出エジプト
ユダヤ教は「過越祭」で今日まで毎年これを祝っているし

p36
【ファラオがイスラエル人の新生児男子全員の殺害命令を出した。モーゼは生まれたが】
赤子のうちに籠に入れられナイル川のほとりに置かれたが、ファラオの娘に拾われ、彼女の子としてエジプトの宮廷で育つことになった。
【この英雄物語もまた、モーゼがエジプト人であったことを示唆している】

p41
エジプトは紀元前1720年から1550年年頃、カナン地域から来たセム系の「ヒクソス」と呼ばれる人々の侵入を受けていたことが歴史学・考古学的に明らかになっている。

【以下はウキペディア記事から

ヒクソス(Hyksos)はエジプト第2中間期と呼ばれる時代に古代エジプトに登場した人々。 彼らは一般にシリア・パレスチナ地方に起源を持つ雑多な人々の集団であったと考えられている。 ヒクソスと言う呼称は「異国の支配者達」を意味する古代エジプト語、「ヘカウ・カスウト」のギリシア語形に由来する。

ヒクソスがどのような起源を持つのか、と言う問題はエジプト学における未解決の問題である。ヒクソスの権力掌握の過程を語る史料は1500年も後のマネトによる記録しかなく、ヒクソス関係の後代の史料は全て、外国人に対する偏見を強調する余り、酷く歪曲されている[8]

現在ではヒクソスとフルリ人とを関連付けた説は退けられている[9]。インド・ヨーロッパ系の民族であるという想定がなされたこともあったが、やはり過去の説である[9]。

ヒクソスとの関係が明白なのは同時代のシリア・パレスチナ地方にいた西セム系の人々である。ヒクソスの人名には明らかに西セム語の要素(ヤコブ等)が見られ、またヒクソスの時代と前後してアナトやバアルと言ったシリア地方の神がエジプトに持ち込まれており[10]、ヒクソスと「アジア人」の繋がりを想定させるものは多い

ヒクソスとは軍事力でもってエジプトを征服した異民族政権であるという見解は、このような古代エジプト人の記録に加えて戦車、複合弓といった「新兵器」の使用、そして上記のようなシリア・パレスチナ地方に起源を持つと考えられる習俗、人名などの存在によっている[21]。




p223
死海写本が発見されて以後、私たちが手にしている旧約聖書が古代において存在していた幾つかの版の内の一つに過ぎないものであることがハッキリした

p225
出エジプトという伝承がいつごろからどうしてユダヤ教の中で重要になっていったのか、それを明らかにすることが今後の課題であり
【フロイトは、モーゼはエジプト人であったとしている。ユダヤ教の母体は、唯一人、一神教を信じたエジプトのファラオによるアートン教であったのであれば、出エジプトこそユダヤ教の成立に他ならない。これがフロイトに基づく私の答えである。】


サムエル記 上 下

旧約聖書 5

池田 裕 訳
 岩波書店
1998年

ペリシテ人について、地中海からシナイ半島に移住してきた民であると解説等ではしている


サムエル記 上 

 p21
3章
 サムエル 預言者として認められる

p22

4章 
イスラエルは、ペリシテ人と闘うために、

p25
ペリシテ人は、闘い、イスラエル人は打ち負かされて 

5章
p27
神の箱、ペリシテ人の地に災いをもたらす
ペリシテ人は神の箱を 奪って

6章
p30
ペリシテ人、神の箱をイスラエルに送り返す

8章
p39
イスラエルの長老は皆集まり
サムエルに言った
我々を裁く王を立てて下さい

p41
サムエルはイスラエルの人々に言った。おのおの、自分の町に帰りなさい

10章
p47
サムエルは油の壺を取り、サウルの頭に油を注ぎ


 p52
サウル、くじによって王に選ばれる

 13章
p62
ペリシテ人に対するサウルの反乱

14章
p68
ペリシテ軍の敗走 

15章
p80
裂けたマント、サムエル、サウルの王位剥奪を宣告する 

16章
p83
サムエル、ダビデに油を注ぐ


サムエル記  下

第2章
p168
ダビデ、ヘブロンで王となる

p177

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5章
p183
ダビデ、イスラエルとユダの王となる

8章
p196
ダビデはペリシテ人を討ってこれを屈服させた
 

ヨシュア記 士師記

旧約聖書 4

岩波書店
1998年

旧約聖書の重要性を再認識

ヨシュア記

p3
ヤヘバは僕モーセが死んだ後、ヤヘバはモーセの従者であったヌンの子ヨシュアに言った
「モーセは死んだ
ヨルダン川を渡りイスラエルの子らに与える土地に入るがよい
荒野とこのレバノン山から、大河なるユーフラテス河まで、ヘト人の全地を含む大いなる西の海に至るまでがあなた方の領土なるのだ

p12
ヨルダン川を渡るイスラエルの民

p13
必ずあなた方の前からカナン人、ヘト人、ヒビ人、ぺリジ人、ギルガシ人、アモリ人、ィェブス人を追い払うことを、次のことによって知るであろう。
【この後、「契約の箱」がまずヨルダン川を渡り、ヨルダン川が堰き止められて、イスラエル人が渡ることが出来たという奇蹟物語】

p35
ギブオン人との契約
ヨルダン川の西にある山地、平地、レバノン山にまで達する大会の全沿岸地域の王たち、ヘト人、アモリ人、カナン人、ぺリジ人、ヒビ人、ィェブス人の王たちは皆それを聞くと、彼らは集結し、ヨシュアとイスラエルに対し一致団結して戦おうとした。

p39
彼らと契約を結んでから3日たった後

p41
ヨシュアはその日、彼らを集会の為、またヤヘバが選んだ場所で、その祭壇の為の木を伐り水をくむ者となし、今日に至っている【ギブオン人のことであるが、ヒビ人のことである】

p42
カナンの5人王の討伐と南部地域の征服
ギブオンの住民がイスラエルに降伏し、彼らの内に生きるようになったことを聞いて、彼らは非常に恐れた。

p45
ヤヘバはリブナとその王もイスラエルの手に渡したので、彼はそこにいるすべて行けるものを剣の刃にかけて撃ち、一人も残さなかった

p46
ヨシュアは
そしてそこにいたすべて生けるものを剣の刃にかけて撃ち、
彼は「ヘブロンと」そこにいたすべて生けるものを聖絶した
ヨシュアは全イスラエルを率いてデビルに引き返し、これを攻撃し、その王とそのすべての町々を征服し、剣の刃にかけて彼らを撃ち、そこにいたすべて生けるものを聖絶し、一人も残さなかった

北部地域の征服
p50
イスラエルの子らに対して和を講じた町は、ギブオンに住むヒビ人を除いて一つもなかった
こうしてヨシュアは、ヤヘバがすべてモーセに語った通り、この地域全体を獲得した

p56
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士師記

p107
占領できなかった地域と民
エルサレムの住民であるイェブス人をベニヤミンの一族が追い払わなったので、イェブス人はベニヤミンの一族と共にエルサレムに住み、今日に至っている

p111
ヨシュアの死後に士師が起こされた理由
彼らの先祖の神ヤヘバを棄てて

p112
ヤヘバの怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、
「諸々の国民を彼らの前から一人も追い払わない」

p113
イスラエルが堕落した原因と神からの試練

イスラエルの子らはカナン人、ヘト人、アモリ人、ぺリジ人、ヒビ人、イェブス人の(領域)内に住み、彼らの娘を妻に迎え、また自分たちの娘を彼らの息子の嫁がせ、彼らの神々に仕えた

【しばらくは個人名の小見出しが続く。この個人名が士師である】

p194
その当時イスラエルには王がいなかった

p201
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【解説部分】
p263
士師時代の婚姻制度は
二人妻婚の制度が一般的であった。一夫多妻と言われるが、王侯貴族を除いて一般の庶民は一夫一妻制であった。経済的に余裕のある人に限ってではあるが、二人まで妻を持てた



神道とは何か
神と仏の日本史
伊藤 聡
中公新書
2012年

メモすべき点は下記

p7
神仏習合についての評価
以上のような神仏習合的な信仰形態は、近代にいたって、神道側からも仏教側からも否定されてと言ってよかろう
p9
津田左右吉は
歴史用語としての神道の意味として以下の6つを挙げている

①古くから伝えられてきた日本の民族的風習としての宗教(呪術を含めて言う)
②神の権威、力、はたらき、しわざ、神としての地位、神であること、もしくは神そのもの
③民族的風習としての宗教に何らかの思想的解釈を加えたもの(例:両部神道、唯一神道、垂加神道)
④特定の神社で宣伝されているもの(伊勢神道、山王神道)
⑤日本に特殊な政治若しくは道徳の規範としての意義に用いられるもの
⑥宗派神道(例:天理教、金光教)

p10
日本の文献において、神道の語は、養老4年(720年)に成立した「日本書紀」において初めて見いだせる
(1)天皇仏法を信じ、神道を尊ぶ(用明天皇即位前紀)
(2)仏法を尊び、神道を軽んず(孝徳天皇即位前紀)

この語は同時代の文献(「古事記」「風土記」「万葉集」)には全く登場せず、日本書紀のみの特異な語彙である

p12
古代・中世を通じて神道の一般的な語義は②の意味に集約される。
日本の神信仰やそれにまつわる言説の総体を神道と呼ぶことは、解釈が分かれる日本書紀の例を除くと、古代においては存在せず、中世或いは近世になって起こってきたと考えることができる

p37
神と仏の関係が変化を見せ始めるのは8世紀に入ってからの事であった。この時期登場するのが神宮寺である。神宮寺とは神社に併設される寺院で、後になると神社を支配下に置くようになった。奈良時代に神宮寺が創建されたと考えられるのは、氣比神社・若狭比古神社・伊勢神宮・鹿島神宮などである

p49
4 本地垂迹説の形成
菩薩としての神
仏と神の距離がこのように縮まっていく過程で現れてきたのが、一部の神々を<菩薩>の名で呼ぶようになる現象である

p53
宮寺
八幡神を中心に神仏習合さらに進展するそれを象徴するのが岩清水八幡宮の創建である
僧行教が八幡大菩薩の託宣を受けて、翌貞観二年男山に八幡宮を勧請した

p55
本地垂迹説
宮寺の出現を経て、神仏の集合はさらに進み、10世紀頃には本地垂迹説の完成を見る。「本地朱雀」とは、本体たる仏菩薩が衆生済度のために、仮に神の姿となって現われたものだとする説で、垂迹とは「迹を垂れる」という意味である。その典拠は「法華経」である。

p56
天台宗では、釈迦を久遠の本仏(本門)と伽耶城で成仏した応迹(迹門)とに分けた。この本迹二門の区分を、神仏関係に応用し、本地を仏、垂迹を神として神仏関係を説明したのが本地垂迹説である


p69
神社信仰と神仏習合との関係について述べておく。神社信仰とは本来、氏族単位或いは地域単位において、恒例化した祭礼の反復によって実施されるのが通例であり、そこでは個人的願望の祈願は存在せず、あるのは国家・氏族単位による祈願のみであった。とおろが、本地垂迹説が進展し、現世的・来世的を問わず、個人的願望を満たす存在として仏菩薩と神が同体であると観念されるようになった結果神社に対しても個人祈願を行うような傾向が出てくる。また、摂関期以降の家制度の成立は、本来氏族単位の氏神祭祀の在り方から、より狭い単位に移行し、必ずしも系譜的関係によらない、あるいは個人的信仰に基づく氏神祭祀に変化していったのである

p76
平安時代になると伊勢神宮の神域において仏教に係わる仏事が忌避の対象となる

p77
神(特に伊勢神宮)は個人祈願を受け付けない。神宮個人の来世に頼むべきはやはり仏法しかないのだ

p96
鎌倉中期以降になると、僧侶による神宮参拝はますます盛んになる

p232
第五章 近世神道へ
1 吉田神道
吉田神道の教説及び祭祀の体系は、吉田兼倶(1435~1511)によって構想・創唱されたものである。

p236
吉田兼倶の神道説の内容をその主著である「唯一神道名法要集」

3 近世神道の諸相

儒家神道の展開
先駆者が林羅山である




旧約聖書
民数記・申命記

旧約聖書 3

2001年
岩波書店

メモすべき点は下記

民数記
 山我哲雄 訳

p3
シナイの荒野での人口調査

p9
いずれも20歳以上で、イスラエルで軍務につくことができる者たちである
総数は60万3550人であった。ただし、彼らの中に会って、レビ人は、自分たちの父祖の部族に従って登録されはしなかった

p21
レビ人の総数
1ヵ月以上の男子の総数は2万2000人であった

p91
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p171
ルベン部族
イスラエルの長子ルベン

p172
シメオン部族
三万二千二百人
がド部族
四万五百人
ユダ部族
七万六千五百人
p173
イッカサル部族
六万三百人
ゼブルン部族
六万五百人
p174
ヨセフ部族
三万二千五百人
p175
ベニヤミン部族
四万五千六百人
p176
ダン部族
六万四千四百人
アシェル部族
5万三千四百人
ナフタリ部族
4万5千4百人

p177
以上がイスラエルの子らに登録された者たちであり、六十万千七百三十人であった

p178
レビ人の諸氏族
レビ人の登録された者たちである

p179
これらの人々の中には、シナイの荒野でモーゼとアロンがイスラエルの子らを登録した時に登録された者は一人もいなかった。何故なら、ヤヘバがかつて彼らについて「彼らは必ず荒野で死ぬ」と言ったからである。彼らの内、イェフネとヌンの子ヨシュアを別とすれば、だれ一人生き残った者はいなかった

p221

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p222
カナンの地の征服に当たっての勧告
あなたたちがヨルダン川を渡ってカナンの地に入ったならば。あなたたちは必ず。その地の住民全てをあなたたちの前から追い払わなければならない


申命記 鈴木佳秀 訳

p243
モーゼが全イスラエルに語った言葉である

p281
あなたよりも数が多く、力も強い、ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ぺリジ人、ヒビ人、イェブス人の七つの国民を追い払い、あなたの神ヤヘバが彼らをあなたの前に渡し、あなたが彼らを討つ時、あなたは彼らを必ず聖絶し尽さなければならない。あなたは彼らと契約を結んではならない。あなたは彼らに情をかけてはならない。あなたはあなたの娘をその息子に嫁がせてはならない。また、あなたはその娘をあなたの息子の嫁に娶ってはならない。

p355
あなたはエドム人を忌避してはならない。彼はあなたの兄弟だからである。
あなたはエジプト人を忌避してはならない。あなたはその地では寄留者であったからである。彼らに生まれた子らは、三代目にヤヘバの集会に加わることができる




中国人の宗教
マルセル・グラネ
栗本一男 訳
東洋文庫
1999年

翻訳で読んですらフランス人らしい気取った文章と内容である。驚くのは、
①出典を全く明示していない
②記述も一見、中国のどの時代を対象とし、どの地方を対象としているのか?が明らかではない
等々であり、日本では絶対に受け入れられない内容である

底の浅い内容は、注と参考文献と(歴史の場合は、)引用出典を見れば、すぐばれる。

原著では出典記載がないが翻訳者が苦労して探し出し、巻末にまとめている。それを見ると「農民の宗教」と題する第一章の出典は、ほぼ詩経である。詩経はあくまで詞に過ぎない。そこから、農民の生活や宗教など類推以外には絶対にわからない。にもかかわらず、農民民の生活について長々と書いている。他の章でも、詩経と礼記が出典の大部分を占めている。特に、道教に関する箇所については、著者は恐らくは何もわかってはいない。

これだけから見れば、くだらん内容のはずなのであるが、メモした内容は、恐るべきことに結果としては、すべて正しい。ホイジンガを読んだ際にも感じたが、フランス人やオランダ人はこの手の書籍を読むのに苦痛を感じなのであろうか?

p10
封建宗教の描写
現存する当時の文献の大部分が山東地方の魯の国のものであるので

p12
道教は中国固有の世界概念を示しているように見えるが、宗教としては公教がその硬直化の過程で追放した、民衆の習俗や伝統の逃げ場となった

第一章 農民の宗教
p16
都市生活と農村生活の対立は中国社会の根本的な特徴である

p17
(遅くとも紀元前8世紀かあるいはそれ以前に始まり紀元前2世紀に終わった)封建時代の初期から終わりに至るまで

p44
中国には神話が極めて少なく、神の姿が少ないことは特に顕著である

p52
貴族の生活
都市を持たない君主は無く君主のいない都市は無かった

p120
儒者
この公教が封建時代の宗教と異なっていた点は、これが特定社会階層に限られたものでなかったことで、ある意味では国民的宗教と言える

p197
仏教が中国で信用を勝ち得るに至ったことはまさに驚嘆すべきことであった

p198
中国人は迷信的実利主義とでも言うべき立場をはっきりとり、効能があれば何でも無制限に受入、全てを少しづつ試してみるが
しかし心の底で尊ぶのは伝統しかない

p209
信仰の大いなる志が宗教精神を形作ると考える人にとって、中国人はまさに宗教を欠いていると言えるかもしれない

p211
中国を観察している人たちの言うところでは、中国を支配する一つの信仰がある。それは聖霊に対する信仰で、この国のあらゆる階級の人が心の奥底に共通して持っているものであるとされる。仏教と道教の神学者が中国に神や悪霊の多神殿を与えたことは確実である

旧約聖書
出エジプト記 レビ記

旧約聖書II

木播藤子
山我哲雄 訳
岩波書店
2000年

①フロイト最晩年の論文で、モーセはエジプト人であると明言しているが、確かに出エジプト記中の記述からは、明確にそう読める。一般的には、この箇所をどのように解釈しているのであろうか?そのまま読めば、モーセはエジプト人だ!

②イスラム教徒は、ムハンマドの死去直前の説法により、同じイスラム教徒を絶対に奴隷となしえないが、ユダヤ教徒も同じであり、ユダヤ人を奴隷とはしえない(レビ記より)
キリスト教(新約)は少なくとも宗教上は奴隷制は否定されてはいないはずである?。
③出エジプト記で、神がイスラエルの民に与えた地に住む他民族(シナイ半島の諸民族と解される)との契約を禁じている。従って、イスラエルがパレスチナと和解すること自体、宗教上は絶対にありえない。恐らくは、実際にも絶対にあり得ない。だからこそ、イスラエルは分離壁を建設したのだ!
エジプトと契約してしまったラビン首相は同じユダヤ人に暗殺された。エジプトの領土は砂漠地帯とはいえシナイ半島に及んでおり、出エジプト記に列挙されている諸民族との契約を結んだに等しい。
従って、純然たるユダヤの宗教上の観点からは、ラビン首相の罪は巨大であり、暗殺されて当然である。恐らくは、ユダヤ過激派の一部は、暗殺犯を英雄視しているに違いない
④出エジプト記では、神がイスラエルの民に与えた地に住む他民族との混血に対する厳しい注意喚起を行っている

⑥口語訳は、公式訳ではない。
https://www.wordproject.org/bibles/jp/03/26.htm#0
による


⑤レビ記の不服従の記述を読むと、まるで、ナチスによるユダヤ人虐殺が当然であるかのような変な感覚にとらわれた。ユダヤ教徒がどのように考えているのか?レビ記の不服従の記述とナチスによるユダヤ人虐殺の関係をどのように解釈しているのか?を是非知りたい。
現代社会では、モーゼ5書の内、この出エジプト記・レビ記の規定を厳密に守ることは不可能に近い。レストランで食事は絶対にできない。非ユダヤ人との結婚も勿論できない。厳密に解釈すれば男性は恐らくは仕事にもつけない。!ユダヤ教超正統派の生活は、恐らくは、全ての規定を守っている。?

しかし、普通のユダヤ人は、中世以来、このモーゼ5書の初めの2書の規定ですら神との契約を破りまくって生活してきたことで間違いない。その意味では、ナチスによるユダヤ人虐殺は、宗教上の観点からは、「自ら招いた災い」であることは間違いない。

一般ユダヤ人の解釈を是非知りたい


出エジプト記
p3
1:8
エジプトでの強制労働

p4
1:15
ファラオの男児殺害命令

ファラオは自分の民全員に命じて言った
「生まれてくる男の子は全てナイル川に放り込め、しかし、女の子は全て生かしておくのだ」

p7
2:11モーセ エジプトからミディアンへ

p8
2:16
ミディアンの祭司に七人の娘がいた
小家畜の群れに水を飲ませようと
水槽を満たした
2:17
羊飼いの男たちがやってきて、女たちを追い払った
モーセは立ち上がって彼女たちを救い、小家畜の群れに水を飲ませた
2:18
彼女たちは
父の元に帰って来た
2:19
彼女たちは言った。「エジプト人の男の人が羊飼いの男たちの手から私たちを救い出してくれたのです」

19 彼女たちは言った、「ひとりのエジプトびとが、わたしたちを羊飼たちの手から助け出し、そのうえ、水をたくさんくんで、羊の群れに飲ませてくれたのです」。

2:21
モーセはこの男と住むことに決めた。彼は娘のツィポラをモーセに与えた。
2:22
そして彼女は男の子を産んだ。モーセはその子をゲルショムと名付けた。「私は見知らぬ土地で寄留者であった」と言ったからである
【フロイトの主張通りであり、モーゼはこの記述からは、完全にエジプト人である】

22 彼女が男の子を産んだので、モーセはその名をゲルショムと名づけた。「わたしは外国に寄留者となっている」と言ったからである。

p13
3:18
私は決意したあなたたちをエジプトの苦しみから導き上がる、カナン人、ヘト人、アモリ人、ぺリジ人、ヒビ人、イェブス人の地へと、乳と蜜の流れる地へと
【この記述からすれば、シナイ半島内の諸部族である】

p26
6:20
彼にアロンとモーセを生んだ
【出エジプト記の最初の部分では、ヤヘバがアロンに語りかける部分が非常に多い。アロン=アーロン=フロイトが主張するアートン教?】

p28
6:26
ヤヘバがイスラエルの子らをエジプトの地から
導き出すようにと言ったのは、このアロンとモーセに対してである

p39
9:8
ヤヘバはモーセとアロンに言った
p56
12:44
銀で買われた男の奴隷は、あなたが彼に割礼を施せばそれからは

p57
13:1
長子の聖別と種入れぬパンの祭り

p85
シナイ山における神の到来
19:5
私の契約を守るなら、あなたたちは全ての民族の中から選ばれて私にとって宝となる。まことに全地は私のものである。

p91
20:8
安息日を覚え、これを聖別しなさい。
あなたの息子と娘も
あなたの男奴隷と女奴隷も

p92
20:17
あなたの隣人の妻と彼の男奴隷と女奴隷と牛とロバ

p96
奴隷の処遇
21:1
これがあなたが彼らの前に提示すべき法である

21:2
あなたがヘブライの男奴隷を買った場合、彼は6年間働くが、7年目には解放された者として無償で出ていくことができる

21:7
ある男が自分の娘を女奴隷として売った場合

p180
もう一つの十戒
34:11~12
私はあなたの前から、アモリ人、カナン人、ヘト人、ぺリジ人、ヒビ人、イェブス人を追い払う。あなたがそこへと入っていく、その地の住民と契約を結ばないように注意しなさい。それがあなたの中で罠とならないためである

11 わたしが、きょう、あなたに命じることを守りなさい。見よ、わたしはアモリびと、カナンびと、ヘテびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとを、あなたの前から追い払うであろう。
12 あなたが行く国に住んでいる者と、契約を結ばないように、気をつけなければならない。おそらく彼らはあなたのうちにあって、わなとなるであろう。
15 おそらくあなたはその国に住む者と契約を結び、彼らの神々を慕って姦淫を行い、その神々に犠牲をささげ、招かれて彼らの犠牲を食べ、
16 またその娘たちを、あなたのむすこたちにめとり、その娘たちが自分たちの神々を慕って姦淫を行い、また、あなたのむすこたちをして、彼らの神々を慕わせ、姦淫を行わせるに至るであろう。


レビ記
p273
11:2
【ひずめが割れていないものは食べてはならない旨の規定。イスラム教徒全く同様である。従って、豚肉は食べてはならない。この他に、野ウサギ、岩狸】

p274
11:9
【ひれと鱗のない魚類は食べてはいけない旨】

p277
11:13ー19
鷲、ハゲワシ、鳶、ハヤブサの類、全てのカラスの類、ダチョウ、夜鷹、カモメ、鷹の類、ふくろう、鵜、みみずく、白フクロウ、ペリカン、野がん、コウノトリ、鷲の類、やつがしら、コウモリ
11:20
羽があって群棲するもので、4本の足で歩くものは全て
トノサマバッタの類、ヒシバッタの類、コオロギの類、羽長蝗の類、

p319
17:13
【人が屠殺したのではない動物を食べる際の規定】

p331
女奴隷との性的関係
19:20
ある男が女と寝て射精した場合、彼女が女奴隷で

p373
25:44
あなたのものとなるべき男奴隷や女奴隷は、あなたたちの周囲にいる諸国民の出身者とする。彼らかならなば、あなたたちは男奴隷や女奴隷を買ってもよい

p376
26:3
服従への祝福
【神への服従に伴う】


p378
26:14
不服従への呪い


【何段階にも分けて詳細に規定している
①26:14
②26:18 ①でも、それでもなお
③26:21 ②でも、それでもなお
④26:23 ③でも、それでもなお
⑤26:27 ④でも、それでもなお】

26:36
あなたたちの中の生き残った者についていえば、私は彼らの敵の地で彼らの心を怯えさせるであろう。

26:38
あなたたちは敵の前で立ち上がる気力さえないであろう。そしてあなたたちは、諸国民の間で滅び、あなたたちの敵の土地があなたたちを食らいつくすであろう。あなたたちの生き残った者についていえば、彼らはあなたたちの敵の地で、自分たちの罪責の故に朽ちていくであろう。そしてまた、こころせよ、彼らはまた自分たちの父祖の罪責の故にも朽ちていくであろう

あなたがたは自分のために、偶像を造ってはならない。また刻んだ像も石の柱も立ててはならない。またあなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしはあなたがたの神、主だからである。

しかし、あなたがたがもしわたしに聞き従わず、またこのすべての戒めを守らず、
15 わたしの定めを軽んじ、心にわたしのおきてを忌みきらって、わたしのすべての戒めを守らず、わたしの契約を破るならば、
16 わたしはあなたがたにこのようにするであろう。

すなわち、あなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病をもって、あなたがたの目を見えなくし、命をやせ衰えさせるであろう。あなたがたが種をまいてもむだである。敵がそれを食べるであろう。
17 わたしは顔をあなたがたにむけて攻め、あなたがたは敵の前に撃ちひしがれるであろう。またあなたがたの憎む者があなたがたを治めるであろう。あなたがたは追う者もないのに逃げるであろう。
それでもなお、あなたがたがわたしに聞き従わないならば、わたしはあなたがたの罪を七倍重く罰するであろう。
19 わたしはあなたがたの誇とする力を砕き、あなたがたの天を鉄のようにし、あなたがたの地を青銅のようにするであろう。
20 あなたがたの力は、むだに費されるであろう。すなわち、地は産物をいださず、国のうちの木々は実を結ばないであろう。
21 もしあなたがたがわたしに逆らって歩み、わたしに聞き従わないならば、わたしはあなたがたの罪に従って七倍の災をあなたがたに下すであろう。
22 わたしはまた野獣をあなたがたのうちに送るであろう。それはあなたがたの子供を奪い、また家畜を滅ぼし、あなたがたの数を少なくするであろう。あなたがたの大路は荒れ果てるであろう。
23 もしあなたがたがこれらの懲らしめを受けてもなお改めず、わたしに逆らって歩むならば、
24 わたしもまたあなたがたに逆らって歩み、あなたがたの罪を七倍重く罰するであろう。
25 わたしはあなたがたの上につるぎを臨ませ、違約の恨みを報いるであろう。あなたがたが町々に集まる時は、あなたがたのうちに疫病を送り、あなたがたは敵の手にわたされるであろう。
26 わたしがあなたがたのつえとするパンを砕くとき、十人の女が一つのかまどでパンを焼き、それをはかりにかけてあなたがたに渡すであろう。あなたがたは食べても満たされないであろう。
27 それでもなお、あなたがたがわたしに聞き従わず、わたしに逆らって歩むならば、
28 わたしもあなたがたに逆らい、怒りをもって歩み、あなたがたの罪を七倍重く罰するであろう。
29 あなたがたは自分のむすこの肉を食べ、また自分の娘の肉を食べるであろう。
30 わたしはあなたがたの高き所をこぼち、香の祭壇を倒し、偶像の死体の上に、あなたがたの死体を投げ捨てて、わたしは心にあなたがたを忌みきらうであろう。
31 わたしはまたあなたがたの町々を荒れ地とし、あなたがたの聖所を荒らすであろう。またわたしはあなたがたのささげる香ばしいかおりをかがないであろう。
32 わたしがその地を荒らすゆえ、そこに住むあなたがたの敵はそれを見て驚くであろう。
33 わたしはあなたがたを国々の間に散らし、つるぎを抜いて、あなたがたの後を追うであろう。あなたがたの地は荒れ果て、あなたがたの町々は荒れ地となるであろう。
34 こうしてその地が荒れ果てて、あなたがたは敵の国にある間、地は安息を楽しむであろう。すなわち、その時、地は休みを得て、安息を楽しむであろう。
35 それは荒れ果てている日の間、休むであろう。あなたがたがそこに住んでいる間、あなたがたの安息のときに休みを得なかったものである。
36 またあなたがたのうちの残っている者の心に、敵の国でわたしは恐れをいだかせるであろう。彼らは木の葉の動く音にも驚いて逃げ、つるぎを避けて逃げる者のように逃げて、追う者もないのにころび倒れるであろう。
37 彼らは追う者もないのに、つるぎをのがれる者のように折り重なって、つまずき倒れるであろう。あなたがたは敵の前に立つことができないであろう。
38 あなたがたは国々のうちにあって滅びうせ、あなたがたの敵の地はあなたがたをのみつくすであろう。
39 あなたがたのうちの残っている者は、あなたがたの敵の地で自分の罪のゆえにやせ衰え、また先祖たちの罪のゆえに彼らと同じようにやせ衰えるであろう。

Electoral incentives, policy compromise, and coalition durability: Japan’s LDP–Komeito Government in a mixed electoral system

Adam P. Liff1* and Ko Maeda2

First published online 5 December 2018

アメリカ人の政治学教授殿と前田耕という異なるアメリカの大学の准教授殿による論文であり、当然、本来、基本政策が大きく異なるはずの「理屈もへったくれもない」自公連立政権の長期政権を「異常」と言い切っている

結論の部分では、bedfellows とまで揶揄している。日本語で言う「同床異夢」「呉越同舟」のニュアンスに最も近いのは、bedfellows であることを知ったが、「理屈もへったくれもない」bedfellows guysの連立政権解消が急務である。

重大なのは、マスコミは一切報道しないが、旧統一教会の宗教法人認可取消が、公明党=創価学会によって、潰される可能性が高い点である。「嘘と騙し」以外の何らの能力を有しない完全な精神異常民族であることが、集団遺伝学論文で明白である韓国人どものくだんらんバカげたエセ宗教を早急に潰すべきだ!

公明党内部における「在日問題」を調べよう

Abstract

Political parties’ behavior in coalition formation is commonly explained by their policy-, vote-, and office seeking incentives.

From these perspectives, the 20-year partnership of Japan’s ruling conservative Liberal Democratic Party (LDP) and its pacifistic Komeito junior coalition partner is an anomalous case.


LDP–Komeito cooperation has sustained for two decades despite vastly different support bases and ideological difference.

LDP leaders also show no signs of abandoning the much smaller Komeito despite enjoying a single-party majority.

We argue that the remarkable durability of this puzzling partnership results primarily from the two parties’ electoral incentives and what has effectively become codependence under Japan’s mixed electoral system.

Our analysis also demonstrates that being in a coalition can induce significant policy compromises, even from a much larger senior partner.

Beyond theoretical implications, these phenomena yield important real-world consequences for Japanese politics: especially, a far less dominant LDP than the party’s Diet seat total suggests, and Komeito’s remarkable ability to punch significantly above its weight and constrain its far larger senior partner, even on the latter’s major national security policy priorities.


1. Introduction

The puzzling case at issue is the now 20-year-old partnership between Japan’s conservative Liberal Democratic Party (LDP) – far and away the country’s largest and most powerful postwar political party – and its strange bedfellow and junior coalition partner, the relatively small, pacifistic Komeito, whose support base is a lay Buddhist organization, Soka Gakkai. Excluding the years 2009–2012, when the long-time opposition Democratic Party of Japan (DPJ) was in power, the LDP and Komeito have ruled Japan in a stable coalition since 1999.

2. Coalitions in parliamentary democracies

In sum, although existing theories tell us a lot about coalition formation generally, they struggle to explain the durability of a puzzling pre- and post-electoral coalition like the post-1999 partnership between Japan’s LDP and Komeito. What is keeping this odd couple together?

3. The real dynamics of Japan’s ruling LDP–Komeito coalition

3.1 Background on the parties

3.2 The post-1999 coalition

For example, in 1993 an LDP member formed an association to oppose Komeito’s participation in government as a grave threat to the country’s future.

4. Explaining the puzzle: mutual dependency induced by the electoral system

We argue that the puzzling durability of the stable, 20-year LDP–Komeito partnership is effectively an equilibrium owing to Japan’s electoral system and the two parties’ highly complementary organizational characteristics and electoral strengths

Major electoral reforms in the early 1990s created the structural conditions necessary for the emergence of deep codependency between these erstwhile adversaries.

 Once the parties started working together, however, they were soon forced to confront an important challenge: how to nominate candidates in the SMD tier.
【SMDは小選挙区制のことである】
After all, since each SMD contains only one Diet seat, the nascent partners would hurt each other in every district where both parties nominated candidates.

To avoid this outcome, the LDP and Komeito began to coordinate candidate nominations in SMDs. 

Initially, there were hiccups: in the 2000 election – the first general election after the coalition’s formation – there were four SMDs in which both parties fielded candidates.8

This election marked the first and last time the nascent partners directly competed in SMDs, however. In the 2017 election, for example, the LDP nominated 277 candidates across 277 SMD districts and Komeito nominated nine candidates across nine SMD districts. Overlap has been eliminated since the 2003 election.


. Specifically, the LDP has an electoral advantage in rural areas, while Komeito is primarily an urban party. This complementarity made it easier for each party to stand down in districts where the other wanted to run a strong candidate.

If the first step of the LDP and Komeito’s electoral coordination was to stop nominating competing candidates in SMDs, the natural next step to maximize the coalition’s success nationally was for the two parties to help each other in SMDs where either coalition member was running a candidate.

5. Unmasking the façade of dominance: LDP candidates’ electoral reliance on Komeito supporters in SMDs15

無題4

【この推計には驚いた】

6. Punching above its weight: Komeito’s policy leverage over the LDP

The nature and extent of LDP electoral dependence on Komeito support is not merely theoretically interesting.

Specifically, we examine the concessions Komeito extracted from Abe and the LDP in the policy domain the latter have repeatedly identified as a top priority since their return to power in late 2012:national security affairs.

Of greatest relevance are the Abe-era reform efforts concerning two major policy issues regarding which both parties’ positions are transparent, longstanding, and differ significantly: ‘collective self-defense’ and revision of the constitution’s Article 9 ‘peace clause.’

6.1 Ideological incompatibility on high-salience policy issues

6.2 Enabling ‘Limited’ collective self-defense in 2014

7. Conclusion

What explains a stable, 20-year partnership in and out of government between political parties with vastly different ideologies and support bases?

The longevity, closeness, and nature of the LDP– Komeito partnership present a challenge for conventional theories of coalition politics.

For example, it does not have characteristics typically associated with pre-electoral coalitions (Golder, 2006).

Furthermore, the partnership is costly to both parties in branding and policy terms, even forcing each party to make major concessions on core issues closely associated with foundational party identities and national security. 

Still more puzzling, despite enjoying single-party majorities in both Diet houses today the (much-larger) LDP still shows no signs of even considering abandoning Komeito.

We attribute the puzzling longevity of the LDP–Komeito partnership primarily to incentives induced by Japan’s mixed electoral system.

Meanwhile, many Komeito Dietmembers would not be elected if the LDP were to nominate competing candidates.

Japan’s electoral system has thus enabled a remarkably durable, codependent relationship of strange bedfellows difficult for either party to forsake.

It has created an incentive structure conducive to the formation and maintenance of this type of coalition – one unlikely to be found in countries with pure PR systems.

The analysis herein suggests additional, more idiosyncratic factors – such as party organization and support base characteristics – also play a central role in the LDP–Komeito coalition’s genesis and durability.

As such, we should not necessarily expect to see a similar coalition in similar electoral systems, e.g., South Korea and Taiwan.

In any event, analysis of this understudied but important case sheds light on a mechanism generally overlooked by students of coalition politics – one whose practical political and policy consequences can be significant

SOKA GAKKAI AS A CHALLENGE TO JAPANESE SOCIETY AND POLITICS
Okuyama Michiaki 、Professor at Nanzan University

上智大学と同じキリスト教系大学である南山大学教授による2009年総選挙に焦点を合わせた論文であるが、同様に、創価学会=公明党が政権与党の一翼を担っており、特定の宗教団体の見解が、大きく反映されている点に関し、台湾人と同様に異様又は異常という視点を有していない。

Abstract

This paper tries to situate Soka Gakkai and Komeito in the context of Japanese politics and society and attempts an evaluation of the current situation after the 2009 election.

Overview of Soka Gakkai and Komeito


Religious Political Parties and the 2009 General Election

The 45th general election of Japan, held on 30 August 2009, turned out to be a historic sea change where the ruling LDP and Komeito in the coalition government failed to keep their ruling position, while the Democratic Party of Japan (DPJ) won an overwhelming great majority in the House of Representatives. T

A Study of Komeito as a Critical Minority Party in Japanese Coalition Regimes
 Ming-shan Wu
Asian Social Science Vol. 7, No. 9; September 2011

Abstract

現在は台湾のある大学で教授職を得ている方が、2011年に書いたものである。
少なくとも、特定の宗教団体が政権与党の一翼を担う点について、「異様・異常」という視点を有していない。
公明党=創価学会の、「幸せになれます教」「幸福祈願教」ともいうべき特質は、私の知る限り、日蓮正宗の本来の教義とはかけ離れたものであるが、そのような公明党=創価学会が政権与党の一翼を担う点について、日本留学していた台湾人の目には、おかしい現象であるという視点はない

Komeito requests supporters to vote LDP candidates, especially the candidates of the House of Representatives elected by small electoral districts, and hence help LDP become major party in both houses.


1. The Existing Arguments and Research Questions

 The main purpose of this article is to answer two questions. First, why did LDP always invite Komeito to form a coalition cabinet? And second, could the general concept of “critical minority” be completely used to explain the Komeito’s role in LDP-Komeito coalitions? I

2. The Motivations for LDP-Komeito Coalition


3. Effects of LDP-Komeito Electoral Coalition

During the electoral coalition process, Komeito is always a critical minority because Komeito’s “soshikihyou” has a profound effect on LDP. In other words, although Komeito controlls the relatively minor legislative seats, it provides sacrifices and assistance for LDP in elections and contribute greatly to LDP-Komeito coalition cabinet.

4. Conclusion

 The official website of Komeito claims in detail that they have achieved 98% fulfillment of 123 social and welfare policies by legislative practices. (Note 6) Probably, Komeito exaggerate its policy success, but what really matters is that supporters approved its political option of cooperation with LDP.

創価学会の研究
玉野和志
講談社 現代新書
2008年

この書籍を読んで初めて何故日本には、公明党即ち創価学会支持者がかくも多いのか?の謎が解けた。幸福祈願教、又は、幸福になれます教 とでも言うべき特殊な宗教団体である。

p13
「拝むだけで幸せになれる宗教があるよ」と言って誘うやり方である
座談会
月に一回地域ごとに開かれている会員たちの基本的な集まり

p15
3か月の間に座談会に3回以上参加して、後で説明する「勤行」などをした上で、会館で「入会記念勤行会」に出席。そこで「御本尊」を受け取ることになる。その後地区の代表者などは随伴して自宅の仏壇に御本尊を安置することになる。これを「入仏式」といって、これで正式な会員というわけである

日本の創価学会は会員数を世帯数で数えており、家単位での信仰を求めている。
二世、三世に当たる会員も多く、家族的な再生産が着実に定着している

p18
御本尊とは、日蓮が図顕した「南無妙法蓮華経」の「曼陀羅」をその「血脈を継ぐ」とされる代々の日蓮正宗の法主が書き写したもので、ごく小さな長方形の紙切れに過ぎない。つまり、何らかの偶像ではなく、書かれた言葉なのである

p19
会員は朝と夕、日に二回「勤業」を行い。必要に応じて随時「お題目」を挙げる。これが基本的な信仰行為なのである

p27
教義の妥当性がどうとか、宗教思想としての深みをうんぬんすることよりも、創価学会が実は会員に対して毎日の具体的な行為をさし示し、そこに宗教的な信心の核心を置いてきた点に最も注目すべきなのである
それはそれなりに、決して呪術的ではない、合理的な行為として、ある程度の効果を持ちうるのである

p28
新入会者を獲得すること
日蓮宗では「折伏(しゃくぷく)」という特別の言い方をする。そして、この「折伏(しゃくぷく)」こそが、最も重要な創価学会員としての信教実践なのである

p46
創価学会の組織と運動の中に「幸せにするシステム」とでも言うべき仕組みが存在していることが解ってくる

幸せになれる宗教

婦人部の活動を紹介したビデオで
かつて池田名誉会長に「絶対に幸せになるんだよ」と言われてことを励みにこれまでやってきましたと語る場面があった。

p47
現在の学会の教学本の中にも「仏法は勝負である」という表現が見られる
その一つとしてかつては、「罰が当たる」ということがしきりに強調されたのである

p48
「幸せにするシステムとしての勤行と座談会」
勤行という毎日の信仰行為は、会員の生活に一定のリズムと規律を与え、様々な困難な状況に対して余計なことを考えたり、落ち込むことなく、前向きに精神を集中していくことを可能にする

座談会である。
そこでは各自の体験発表が単に悩みを語り合うというだけではなく、困難に打ち勝ってある成果を挙げた人々を賞揚する場となり、それはいつかは自分もそうやって幸せになるんだという動機付けを与えてくれる場となっている。

勤業と座談会を中核としたこのような創価学会のシステムは、社会の中で孤立的な立場に置かれていた多くの人々にとって、まさに自らの運命を切り開いていくうえで、大きな力を与えるものであった

p53
脱会者に対する監視や嫌がらせ、元会員による告発も後を絶たない。

p59
創価教育学会は日蓮正宗の在家信者組織として、戦前に3000人の会員
弾圧によって会員のほとんどは会を離れ、戦後は戸田が一人で再建に乗り出すこととなる

p66
日蓮の生涯には創価学会の在り方についての象徴的な点が多く含まれている。日蓮が幾度となく訪れた困難にも係わらず、その志を曲げなかったこと、国家の権威に屈することなく、逆にその在り方に対して積極的な発言を繰り返したことなどは、いずれも現在の創価学会や会員の在り方を語る上でも、しばしば引き合いに出されるところである

p68
全国で十三の方面があり、その下に県、区・圏、本部、支部、地区、ブロックがある

p70
この未来部での活動を通じて学会員の安定した世代的再生産が計られている。また創価高校や創価大学への進学は学会員の子供たちにとっては非常に名誉なことであり、

p72
創価学会には会費というものは存在しない。基本的に会員は日刊の新聞と月刊の雑誌を購読するだけである
しかし、それだけでは【要するに、足りないので】
財務と呼ばれる会員の寄付によって賄われている。この財務は具体的には毎年12月に銀行への振込期間を設け一口一万円で何口でもいいというやり方で「ご供養」を募ることを言う

p90
創価学会の内部告発者として最も有名なのは恐らく山﨑正友だろう

p91
同じ時期に内部告発を行った元幹部に原島崇がいる

p102
学界が戦後急激に会員数を拡大するのは1950年代である

p132
実は、70年以降、創価学会に関する学術的な研究そのものがあまり見られなくなる
ジャーナリスティックな批判本やセンセーショナルな告発本が圧倒的となる

p143
2008年現在、創価学会は192ヵ国にわたって1200万人以上の会員を抱えているという
この国際組織の代表が池田大作名誉会長である

p152
会員数の推移

p154
1950年代から1960年代にかけて急激に増大した会員数が70年代以降ほぼ横ばいになったということである

p155
800万世帯という数字の信憑性はさておき

p165
【教義との関連で、神社や他の仏教宗派との関連の強い地域活動への参加が困難であったことにふれた後】
イベントしての性格が強く拝んでいるのでなければ、良いのではないのかという判断もありうるということである。
やはり地域の人たちの中には創価学会への警戒の念が強かったようである。そのような垣根が取り払われる大きなきっかけとなったのが、1999年10月に公明党が自民党の政権与党に参加し、連立を組むことになったことである
いわば、地域における自公連立とも言うべき事態の進行である

信仰継承 に影響 を与える要 因
ーー北海道創価学会 の調査票調査か らーー

猪 瀬 優 理 (竜谷大教授)
現代社会 学研 究第17巻 21-38,2004

創価学会で約半数は、親子2代にわたる信者である

本論 文 の 目的 は,信 仰 継承 に関 す る知見 を得 るこ とで あ る。 分析 には,札 幌 市在 住 の創価学 会員 を対 象 に行 われ た調査 票調 査か ら得 られ た デー タ を使 用 し た。

二世信 者 が信仰 を継 承 す る要 因 として,親 の影響 と本 人 の宗教 的 参加 の程 度 に着 目 した。

第 一 に,男 性 に とって は 父親 の信仰 態度,女 性 に とって は母 親 の信仰 態度 が 強 い ほ ど現 在 の信仰 態 度 は 強 ま る。

第 二 に,親 の教 化態度 が 強 いほ ど現 在 の信仰 態 度 は弱 まる。

第 三 に, 親 子 間の影 響 の あ り方 は,母 親 と娘,母 親 と息子,父 親 と娘,父 親 と息子 の間 で異 な ってい る。

第 四 に,子 どもの ころか ら継続 的 に宗教 活 動 を行 う こ とは信 仰 継承 す る可能 性 を高 め る。

第五 に,信 仰 が同 じ配偶 者 を持 つ人 は,信 仰 継承 す る可能性 が高 まる。

第 六 に,女 性 の場 合,家 族 関係 が 良好 で あ る こ とは宗教 活 動 か ら離 れ る こ とを抑 止 す る。

第七 に,男 性 の場 合,教 育 年数 が増 え るほ ど, 現 在 の信仰 態度 が熱 心 にな る。 

第八 に,男 性 の場 合,兄弟数 が 多 くな る ほ ど宗 教活 動か ら離 れ る可能性 が高 まる。

全体 的 な傾 向 と して,男 性 よ りも女 性 の 方が活 動か ら離 れ に くく,現 在 の信仰 態度 も熱心 で あ った。


2.対 象 と デ ー タ
対 象者 の選 択方法 は,札 幌市 に存在 す る全地 区名 一覧(2002年10月 現在札幌 市 内は全822地 区)か ら,41地 区 をランダム ・サ ンプ リング し,各 地 区に調査 票 を30部 配布 した(8)。壮年 部 ・婦 人部 ・男子部 ・女子部 それ ぞれ の全体比率 に 合 わせた部数(壮 年部8部,婦 人部14部,男 子部5部,女 子部3部)を 配布 し, 配布対 象者 の選 択 は各地 区 の担 当者 に依 頼 した。

2-2.回 答 者 の 属 性 15歳 以 下 で入 会 し た二 世 信 者307名 の 属性 に つ い て概 観 す る(2-3参 照)。

本調 査の活 動的二世 信者 の中 に も創価 学会活動 か ら一度離 れた経験 を持 つ人 が およそ半数(48.2%)い る。本稿 で はこれ を 「活 動離脱経 験」 と名 づ け,創 価 学会 活動か ら離れ た経験 の有 無 を示 す。

分析 にお いて使 用す るの は15歳 以下で入 会 した二世 信者 の みで あ る。

最 後 に,本 稿 では扱 えなかった点 として,全 体社 会 の変動 と教 団内の変動 と の関連,ま た,創 価学 会 とはタイ プの異 な る教 団 との比較 な どが あ る。従来, 創価 学会研究 は一世信 者の入信 動機や信念 体系受容 の特徴 な どについて研究 さ れ て きたが[鈴 木,1970;塩 原,1979;谷,1994],創 価 学会の組織 はい まや そ の大 半が二世信者 で占め られる ようになった(本 調査 で は51.4%)。 これ らの二 世信 者の登場 と増加 が教団組織 に与 え る影 響 につい て明 らか にする には,教 団 の発 展過程 と全体社会 の変動 を踏 まえた分 析が必 要で ある。

死海文書
発見から75年後の真実
蘇る2000年前の信仰と生活

ジャン・ピエール・イスブ
ナショナルジオグラフィック
2022年

Dead sea scrollsの発見場所は、下図の地点である。死海文書に関する著者自身の主張を封印した優れた総合的解説である

1

p5
死海文書の最も特異な点の一つは、2000年前というその成立年代の古さである。死海文書が発見されるまで、現存する最古のヘブライ語聖書は10世紀に成立したアレッポ写本や同じく10世紀に遡るレニングラード写本だった。ギリシャ語で記された最古の旧約・新約聖書であるシナイ写本にしても書かれたのは恐らく4世紀であることから、死海文書がいかに古いものであることがわかる。

死海文書
エステル記を除き
現代のヘブライ語聖書を構成するほぼ全ての書が含まれている
現時点で11の洞窟から900巻前後の写本が見つかっており

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p45
死海文書は恐らく紀元前3世紀~紀元後1世紀にまたがるおよそ300年間に、書記たちの手で底本から書き写されたものだろう

p79
クムラン共同体が存在した期間の後半がイエスの生きた時代と重なることだ

p92
4人の福音書記者は全員ローマ帝国のディアスポラ(ここでは離散したユダヤ人が住む国々の意)で暮らしていた可能性が高い。最も古い福音書であるマルコによる福音書が書かれたのは恐らく紀元後60年末と思われる

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各福音書はそれぞれ特定の相手に向けて書かれている。各地の原始キリスト教共同体の人々である






創世記
旧約聖書Ⅰ
岩波書店
1997年

①字体が異なる部分は、モルモン教団による日本語訳であり、ローマカソリック等々の(公式)翻訳ではない

②このヘブライ語からの直訳としている日本語訳を流し読みした限りでは、37章附近から、ファラオやエジプトに関する記述が極めて多く、むしろメインテーマとなっている。どこをどう読んでも、記述全体として、史実として捉えれば、40章附近当時のシナイ半島は、自治が許されたエジプトの間接統治下?にあったとしか読めない。エジプトの最盛期とされる新王国時代BC16世紀~BC11世紀であろう。

③モーゼがエジプト人であったいうフロイト最晩年の論文はやはり正しいのかもしれない。年がいって知能が低下したわけではないようである。しかし、アメンテーホフ4世が一神教を始めたのではなく、むしろ、廷臣として仕えていたユダヤ人がアメンテーホフ4世に強い影響力を及ぼしたと考えるべきであろう

④いずれにせよ、創世記37章附近以降の記述から、当時のカナンとエジプトの関係に注目するべきである。創世記37章以降を、宗教の視点を離れ、歴史資料としてよめば、当時のシナイ半島は、地理的関係及び創世記の記述内容から見て、エジプトのファラオの間接又は直接統治下にあった可能性が高い。当時のエジプト人が、今日のエジプト人と遺伝的には相当程度異なることは、集団遺伝学論文により明白そのものであり、今日とは全く異なる。

⑥何故、世界中の人々が、今日の韓国人どもが様々データで明らかな異様性に気づかないのか?という私の疑問の答えになるかもしれない。韓国人どもの精神面での遺伝的異常性は、集団遺伝学論文及びつい最近気づいたセロトニン受容体多型分布から見て100%確実である。

⑦同じ現象が生じている。信仰心が邪魔して、ユダヤ教徒及びキリスト教徒は、創世記から、ほぼ確実に、当時のエジプトとシナイ半島の支配関係が類推できることに気づいてはいないようだ。
朝鮮人どもの精神面での遺伝的異常性は、データから明らかであるにもかかわず、世界中の圧倒的大多数の者がそのデータそのものを知らないため、気づいてはいない。完全な精神異常民族であることに全く気づいていない。1000ゲノムプロジェクトのような完全に統一した基準で、各種精神疾患・パーソナリティー障害を多国家レベルで比較すれば、韓国はダントツであろう。現時点でその間接的証拠は、出生率のあり得ないレベルの低さと自殺率の高さという、すざまじいダブル現象に現れているが、スマホのニュース配信記事から見た場合、韓国の出生率のあり得ないレベルの低さすらほとんどの多分野の欧米人研究者は全く知らない



12章 アブラムのカナン移住
p36
エジプト寄留
10その地に飢饉が起こった。アブラムはエジプトに下った。

10 さて、そのにききんがあったのでアブラムはエジプトに寄留きりゅうしようと、そこにくだった

p37
20ファラオはアブラムについて家来たちに命じて、彼らに彼とその妻、そして彼に属する者すべてを追放させた

20 パロはかれことについて人々ひとびとめいじ、かれとそのつまおよびそのすべてのものおくらせた

15 章アブラム契約(その一)
p44
18【神が】「私はこの地をあなたに与えよう。エジプトの川からかの大河ユーフラテスまでを、」
【エジプトの川とは、シナイ半島の北を流れる川である旨の注】

18 そのしゅはアブラムと契約けいやくむすんでわれた、「わたしはこのをあなたの子孫しそんあたえる。エジプトのかわから、かの大川おおかわユフラテまで

16章 ハガルとイシュマル
p44
【趣旨としてアブラムの妻が、エジプト人の侍女にアブラムの子を産ませようとした】

アブラムのつまサライはまなかった。彼女かのじょにひとりのつかえめがあった。エジプトのおんなをハガルといった。

サライはアブラムにった、「しゅはわたしにをおさづけになりません。どうぞ、わたしのつかえめのところにおはいりください。彼女かのじょによってわたしはをもつことになるでしょう」。アブラムはサライの言葉ことばきいれた

21章
イサクの誕生
p60
21【趣旨として、エジプト人の侍女が生んだ子は、アブラムの妻の願いで、荒野に追放されたが、生き残り、その息子は成長してエジプトから妻を迎えた】

21 かれはパランの荒野あらのんだ。ははかれのためにエジプトのくにからつまむかえた

25章
イシュマルの系譜
p76
12サラの仕え女であったエジプト女性ハガルがアブラハムに生んだアブラハムの息子イシュマルの系譜は次のとおり
12 サラのつかえめエジプトびとハガルがアブラハムにんだアブラハムのイシマエルの系図けいずつぎのとおりである
18 イシマエルのらはハビラからエジプトのひがし、シュルまでのあいだんで、アシュルにおよんだ。イシマエルはすべての兄弟きょうだいひがしんだ

37章夢見るヨセフ
エジプトに売られるヨセフ
p125
36彼をエジプトにファラオの廷臣で侍従長のポティファルに売り渡した
36 さて、かのミデアンびとらはエジプトでパロの役人やくにん侍衛じえいちょうポテパルにヨセフをった

41章ファラオの夢
p135
17ファラオはヨセフに語りかけた
17 パロはヨセフにった、「ゆめにわたしはかわきしっていた

p137
宰相ヨセフ豊作と飢饉
37この言葉にファラオとその僕たちは皆感心した
37 このことはパロとそのすべての家来けらいたちのにかなった



46章エジプトに下るヤコブとその一族

イスラエルと彼に属する人々は全て旅立った。
神は言った
「エジプトに下ることを恐れてはならない」

イスラエルはそのものをことごとくたずさえて旅立たびだち、ベエルシバにって、ちちイサクのかみ犠牲ぎせいをささげた

かみわれた、「わたしはかみ、あなたのちちかみである。エジプトにくだるのをおそれてはならない。わたしはあそこであなたをおおいなる国民こくみんにする

47章 ファラオ謁見
13 飢饉があまりに激しく全地に食糧が欠乏した。エジプトの地も、カナンの地も飢饉ゆえに疲弊した
13 さて、ききんが非常ひじょうはげしかったので、ぜん食物しょくもつがなく、エジプトのくにもカナンのくにも、ききんのためにおとろえた


死海写本とイエス
K・ベルガー
土岐 健治 訳

教文館
2000年

著者の klaus bergerは、元ハイデルベルク大学教授。内容からして直感的にドイツ人ではない?と感じたので、人名+ユダヤ人(jews)で検索しても出てこない。人名検索すると、明らかにドイツ人貴族の名である同一名でvon Klaus Berger という名がある。かなり検索しても、ユダヤ人である旨は出てこない。従って、ドイツのevangelisch であると思われる。

1940年生まれで2020年に亡くなっている。初期キリスト教に関する書かれている内容は以前から知ってはいた。しかし、ドイツにおける初期キリスト教の通説かどうかは?

いずれにせよ、死海文書が最も古い、しかも、同時代の初期キリスト教資料であることは間違いない。その内容が、著者の言う通りであれば、初期キリスト教はラビユダヤ教成立以前のユダヤ教の一派に過ぎない。

キリストの布教期間は3年程度に過ぎず、その地理的範囲も現在のイスラエル附近に集中している。実際のキリスト教の創始者は、むしろ、パウロである。

p18
現存するクムラン写本の80%はかなり以前から公刊されている

明白事実から始めよう。クムラン写本の年代が紀元前1世紀であるにせよ紀元後1世紀であるにせよ、それらはおよそイエスと同時代の現存する唯一のオリジナルな写本である参考までに現存する福音書断片パピルスの年代は紀元後120年頃とされている

p19
ユダヤ教に対しては、その多様性を無視して行為を誇る宗教というレッテルだけが張られて非難されてきた

初期キリスト教徒とは実はユダヤ教の中に萌芽的に存在していた幾つかの傾向を強化したものであって、ユダヤ教の破壊でもなければ、
初期のキリスト教はその時代のユダヤ教の大家族の一因であり、その大きな枠組みの内部に存在していたということーーキリスト教会はこれらのことをいったいいつになったら学ぶのであろうか

p28
そもそもパウロは心の底から情熱をこめて、自分がユダヤ人であることを告白している
パウロにとってキリスト教はメシア的ユダヤ教以外の何物でもないのである

p60
当時のユダヤ教には
様々な改革グループが存在する。この見方からすればキリスト教徒もそれらの一つである


p82
ドイツでは
イエスは勿論結婚しており(当然マグダラのマリアと)子供を作った、云々、というわけである

p83
パウロは
ラビは結婚していなければならないという後代に定められた掟の支配下にはなく

p169
クムランの洞窟で発見された文書群は、統一的な「作品」を構成してはいない
それは非常に多様な内容の著作の集まりである
初期キリスト教の痕跡は見いだされない

p172
初期キリスト教は自らをユダヤ教内部でのイスラエル内部でのイスラエルの革新のための回心運動として理解している点において、幾つかのクムラン文書と明白な類似を示している

p174
イエス時代のユダヤ教の心臓が鼓動しているのである

アートからたどる悪魔学歴史大全
エド・サイモン
原書房
2022年

キリスト教、イスラム教、ユダヤ教において、悪魔・天使・聖霊が必ず登場する。悪魔は、著者が言うように単なる暗喩であり、神との反対の暗喩として日本人にも理解しうる。どうしても、わからないのが、天使である。「地に落ちた大天使ガブリエル」など、日本人の感覚には、全然理解しえない。

キリスト教の一側面としての多くの悪魔関連の絵画が掲載されており、その影響の深さが分かる


p8
現代人が悪魔学に相対する時の態度として、まず考えられるのが身もふたもない直訳主義、次に来るのが身もふたもない否定論、そして残りの大多数の人々は悪魔を単なる「暗喩」(メタファー)あるいは「象徴」と捉えている。現実のものとしか考えられない悪魔を庭にいる犬と同じく直訳主義の人たちにはあまり言うべきことは無い
悪魔は強力な暗喩なのだ

1

【この青銅製のブロンズが、BC11世紀に製作されたことに驚くが、羽が生えており、その点では天使と同じである】

p10
それが超自然的なるものの性質だ。
ほかのどのような人間の理解思超えたところにある

ドイツのルター派の神学者パウル・ティリッヒは1951年の著作「組織神学」で
「神は存在しない。神とはそれ自身が神髄と存在を超越したところにあるものだ。よって神が存在すると主張することは神を否定することになる」」
あ悪魔についてもそれと同じことが言えるのではないかと私は考える

2

【同様に羽が生えている。】

第一章
我らは軍団なり
聖典と遺物に現れた悪魔 紀元前500--紀元800年頃


第二章
我らを悪より救い出したまえ
中世の悪魔学 800年ーー1500年頃


第三章
何とここはまさに地獄
ルネッサンス期と宗教改革の悪魔学 1500年ーー1650年頃

第四章
地獄にこそ君臨するべし
理性の時代の悪魔学 1650年ーー1800年頃

第五章
史上最大の策略
19世紀の悪魔学

第六章
汝の欲することを行え
現代の悪魔学 1900年ーー2000年頃

3



世界の宗教

ナショナルジオグラフィック
世界の宗教
侵攻の歴史と聖地への旅

スーザン・テイラー・ヒッチコック
ジョン・エスポスィート

日経ナショナルジオグラフィック社
2005年

ブッダは「私は自己が実在しないと知ることで解放された」と説いた。としている。コギトエルゴスムと究極的に真逆である。また、サンスクリット語では、阿羅漢をアルハット?に近い発音をすることを初めて知った。何故、三蔵は阿羅漢と訳したのかと言えば、それが当時の中国語の発音とサンスクリット語の発音に一番近かったからであろう

また、達磨がインド人であったことを初めて知った。釈迦は、恐らくは、アーリア系の人種であったであろうからして、達磨も同様であろう。

p81
ヒンドゥー教徒は、由緒ある聖典「ヴェーダ」
「ヴェーダ」には4種類ある。最も古い「リグ・ヴェーダ」、神々への賛歌をまとめた「サーマ・ヴェーダ」、祭祀の方法を解説した「ヤジュル・ヴェーダ」、最後に編纂された「アタル・ヴェーダ」には、健康や幸運祈願の祝詞と呪文が書かれている

p91
ヴェーダは、宇宙が偉大な神の犠牲によって生まれたと説明した。
創造神プルシャが生贄とされた時、万物が生じた。
プルシャの体はいくつに切り分けられたのであろうか?
「その口はバラモンとなりき、その両腕はクシャトリアとなされり、その両腿はヴァィャ、両足よりシュードラ生じたり」このように聖典は人々に階級があることを定めた。個人はヴァルナと呼ばれる4階級のうちのどれかに生まれた。ヴァルナはサンスクリット語で階層と色の両方を意味する

p99
ヒンズー教の世界観を貫いているのは輪廻の思想だ
サンスクリット語で「行動」を意味するカルマ(業)
この輪廻の思想は紀元前1000年頃から
ガンジス川流域で生まれた

p102
二番目に重要なヒンズー教の聖典「ウパニシャッド」として受け継がれてきた
この宇宙的な精神をブラフマンという
人間一人一人の内にあるブラフマンの種子をアートマン(我)と呼ぶ。究極の目標は、アートマンとブラフマンの合一(梵我如一)を体験することであり、これによって、生と死を繰り返す輪廻から永遠に解放される。つまり解脱に至るのである

p135
紀元前5世紀
【ゴータマ・シッダールタ=ブッタが釈迦族の族長の家に生まれたとしている】


p139
ブッダは「私は自己が実在しないと知ることで解放された」と説いた。悟りを開いた彼が到達したのは、無我(アナートマン)の境地だった。これはヒンズー教で言う永遠に変わることのない自我(アートマン)とは対照的な考え方である

p145
輪廻から解放されたアルハット(阿羅漢)になるという

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p153
仏教において教義の基礎をなすのが三蔵である。
教徒が守るべき戒律を定めた律蔵、ブッダの生涯の教えをまとめた経蔵、教義を注釈した論蔵の3つから構成される

p164
紀元500年頃
南インドの王子が
中国へと旅立った
このどこか神秘的な旅人は菩提達磨と呼ばれるようになり、少林寺にとどまって心身を鍛えるための精神と肉体とを組み合わせた鍛錬法を発展させた。
今日でも大きな目の達磨人形は、達磨が到達した集中力を表している
達磨の教えは今日に至るまで中国の仏教に大きな影響を与えている。身体に関する教えはカンフーと呼ばれる。
また知的で精神的な教えは,瞑想を重視する禅宗仏教と呼ばれるようになり、以後、東アジアの仏教の実践の特徴となった


p201
私は主、あなたの神
あなたをエジプトの国
奴隷の家から導き出した神である
あなたには、
わたしをおいてほかに
神がってはならない

出エジプト記 第20章第二節

【ユダヤ教はこの一節に尽きる】

p202
創世記に連綿と記述された長大な系譜の最後にアブラハムが登場する。
アブラハムの生涯は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という世界三大宗教の礎となった。ほとんどの研究者は、アブラハムが生きた時代を、紀元前2100年~1500年の間だとしている。史料からは、彼が現在のシリアとトルコの国境付近で生まれたことがわかる。

p206
また一人のユダヤ民族の偉大なる族長モーゼが登場する。モーゼが生きたのは、紀元前1279~1212年
ラムセス二世の時代だという説が有力だ

p211
人々を導き進んだモーゼだが、イスラエルの民に約束された地に再び足を踏み入れることはなかった
ヘブライ人のカナン帰還は、紀元前1500~1220年頃に、緩やかに進行したと考えられている

p237
1492年、スペイン
ユダヤ人をはじめとする非キリスト教徒を国内から一掃した

p241
1700年当時、プラハ住民の4分の一をユダヤ人が占め、ここは世界中の都市で最も多くのユダヤ人が住む町となった

p250
他の宗教と違いユダヤ教は死後の世界についての思想を伝える手段として、視覚的イメージを採用していない

p252
現在世界にはおよそ1300万人のユダヤ人があり、米国に580万人、イスラエルには480万人が住んでいる

p271
宗教者としてのイエスは生前わずか3年程活動したに過ぎない。移動も徒歩やロバで楽に行ける南北100キロ以内に限られており、

p273
イエスは約束された救世主(ギリシャ語でキリスト)となり、アブラハム、モーゼ、ダビデと並ぶユダヤ人の指導者となった
【この記述から筆者がユダヤ人であることが推測される】

p274
イエスが磔形になったのは紀元30年頃だが当時
イエスを信じていた者は100人にも満たなかったという








ユダヤ人とユダヤ教
市川 裕
岩波新書
2019年

私の知る限りにおいて、ユダヤ教について日本人が書いた最も優れた著作である。安息日に関する記述が強烈に印象に残った。ユダヤ人連中は、安息日にトイレットペーパーの芯を好感していいかどうかを真剣に議論する旨ある数学者の著作で読んだことがるが、その理由がやっと理解できた

p5
中世以降はユダヤ啓示法(ハラハー)に基づき「ユダヤ人の母親から生まれた子ユダヤ教への改宗者」とし明確に定義された

1950年に制定したイスラエル帰還法は、この伝統的な定義をそのまま採用したが、

p7
ユダヤ啓示法によれば伝統的な祭祀身分の男性は結婚相手の女性に関して様々な制約が課せられている

p11
イエスもまた同時代のユダヤの人々と同じく、ユダヤ人としての自己のあり方をめぐり主張をぶつけ合った一人なのである

p12
神殿崩壊
ユダヤ社会でラビが出現したのはまさにこの時期からである

p18
中世盛期にはユダヤ人の9割がイスラム世界に住み、西欧キリスト教世界に住むユダヤ人は未だごく僅かであった

p26
アシュケナージ系ユダヤ人
キリスト教徒による迫害に対して果敢に殉教する道が選ばれた
アシュケナージ系ユダヤ人は、東欧のポーランドに安住の地を求めて移住していく

p41
【ヨーロッパ全域で】
1870年代にはユダヤ人の市民権獲得があまねく実現した

【ポーランド、ロシア東部のユダヤ人】
19世紀末には500万人
p46
死後の復活を希求するユダヤ人は土葬を原則とするが

p58
ラビユダヤ教成立の一つの目安となるのが、西暦200年頃に編纂された「ミシュナ」という口伝律法集の存在である

p65
ラビユダヤ教に従うユダヤ人にとって
求められているのは神の教えに従った行動である

イエスをメシアと信じて従うのは異端である

p74
一週間は俗なる6日間と聖なる安息日に分かれる。安息日は聖別さねばならないのである

p83
ユダヤ教は
断食日を定めている


p158
【2017年時点の世界各国のユダヤ人人口表掲載、10万以上の国は次のとおり
イスラエル645万、アメリカ570万、フランス45万、カナダ39万、イギリス29万、アルゼンチン18万、ロシア17万、ドイツ11万、オーストラリア11万】


p163
アメリカ
1990年には、ユダヤ人と他の人種や宗教に帰属する人々との混合婚の比率が52%に達した




韓国とキリスト教
いかにして国家的宗教になりえたか
浅見 雅一
安 延苑

中公新書
2012年

印象に残る点は、下記

韓国人の選民思想
韓国協会はイスラエル民が神から選ばれたとする選民思想を韓国人に当てはめた。
韓国人が自分たちにイスラエル的選民思想をあてはめたことによって、キリスト教を民族宗教とみなすことが可能になったといえよう

p134
韓国社会にキリスト教が深く浸透した要因として
①韓国の原信仰が一神教的要素を持っていたので、
②朱子学の理気二元論には、キリスト教の世界観に類似する点がある
③儒教の倫理を重視する姿勢が、キリスト教の倫理への接近を容易にした
④植民地時代にキリスト教が抗日独立運動の精神的支柱となっていた

p150
韓国ではカソリックプロテスタントを問わず、本来、忌日に行うべき祖先崇拝を、キリスト教の追悼式の挙行によって代替しているということになる。

p153
韓国人の選民思想
韓国協会はイスラエル民が神から選ばれたとする選民思想を韓国人に当てはめた。
韓国人が自分たちにイスラエル的選民思想をあてはめたことによって、キリスト教を民族宗教とみなすことが可能になったといえよう


p154
とりわけプロテスタント教会は神の福音を強調する。即ち現世利益を肯定したことによって社会に広く受け入れられ、

大学4年間の宗教学が10時間で学べる
鳥薗 進
Kadokawa
2019年

ユダヤ教の死後の解釈は、誤りである。国家と宗教の関係は、非常に参考になった

p21

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p23

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p28
古代エジプトは多神教の侵攻が盛んでしたが、紀元前14世紀頃、太陽神アテンを唯一の神とする一神教のとなった時代がありました

著者は、フロイトの下記論文を確実に読んでいる。

S フロイト
モーゼと一神教

p25
1375年頃一人の若いファラオが即位した
この王はエジプト人に
新たな宗教を無理強いしようとした。この宗教は厳格な一神教であって
世界史上最初のものであった
アメンホーテプ(4世)の治世はわずか17年しか続かなかった。
彼が死んだ後、直ちにこの新たな宗教は一掃され

p31
アートン教は一般には親しまれなかった。恐らくは王個人をめぐる小さな集団に限られたものであったろ

p33
もしもモーセが一人のエジプト人であったならば
彼がユダヤ人に彼自身の宗教を伝えたとするならばそれはイクナートンの宗教、即ちアートン教であった、と。

p35
最も本質的な相違は
ユダヤ教が太陽崇拝から完全に離れてしまっているのに対して、エジプトの一神教はなお太陽崇拝に依存していた事実に現れている


我々は
ユダヤ教が
死後の生命について何事も一切知ろうとしないのを不思議に思っていた
死後の生命に関する教えは極めて厳格な一神教にふさわしいと考えられるからである

モーセは
ユダヤ人に割礼という掟をもたらした
割礼という掟はどこからユダヤ人の中にやってきたのか、との問いにはただ一つの答えしかあり得ない問うことは動かせない。即ちエジプトからである。

p38
モーセがユダヤ人に新しい宗教だけではなく割礼という掟をも与えたのであれば、彼は決してユダヤ人であったのではなく、一人のエジプト人であったのだ、と。


p32
紀元前5世紀前後に人類の思想面に重大転換が起きた





p33
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p36
ユダヤ教では、「何を信じるか」ではなく、「何をしたか」が重視されます

【通常は、律法重視と表現するが、安息日にトイレットペーパーの芯を交換してよいかどうか?を真剣に議論する連中だからして、私はおかしいと感じる。】

p40
イエスとその信者たちも、自分たちをモーゼ以来のユダヤ教の改革者と考えていました
【比較宗教学で、原始キリスト教が、ユダヤ教の一派に過ぎなかったことは知ってはいたが、入門書で明言する以上は、これが定説であると解する】

p41
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p49
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【①どう見てもおかしい、こんな十字架使われていないと感じたので調べてみた
②手で十字架を切る切らないについても、こんなに明確な差はない
③キリストの立体像=ウコンを認めるのかどうか?使用するバイブル原典について書いてはいないところを見ると、一概には言えないのかもしれない



p56
ヒンズー教の源流は紀元前15世紀まで遡ります。その頃、インドにアーリア人が侵入してきて
支配的になりました



p63
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p93

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p100
儒教は宗教か
宗教学者の間でも見解が分かれるむづかしい問題です

p125
10世紀、日本の神様は仏の化身であるとする本地垂迹説が唱えられる


p172
国民の約3%が創価学会の信仰を持つとされますので

p173
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p183

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シク教
N・G・コウル・シング
高橋堯英 訳
青土社
1994年

p193の記述は、意味不明であり、キリスト教に改宗したことになってしまう。いずれにしても、イギリス支配下で短期間に10分の1に激減した事実は、シク教の宗教としての「弱さ」を物語る。従って、シク教とは、カースト・ジャーティに基づき、遺伝的には、5000から2万程度の近交系数が非常に高い小集団からなるインド亜大陸で生まれたインドだけの宗教と断定してよい。この点に関しては、世界最高ランクの遺伝学者ライヒが、交雑する人類で明らかにした。

交雑する人類 David Reich

P214 ジャーテイーはインド人以外にはほとんど理解できない複雑な制度で、最低でも4600、数え方によっては4万にも上る族内婚グループからなる

P215 各ジャーテイ間の違いの程度は、同じような地理的距離で隔てられたヨーロッパ人グループに比べ、少なくとも3倍以上だった

P219  そうした差異が出来たのは族内婚の長い歴史のせいだった。(略)同じ村で隣り合って暮らしているジャーテイグループ間の遺伝的差異は、北ヨーロッパ人と南ヨーロッパ人との差の2~3倍もあるのが普通だ。実はインドは多数の小さな集団で構成された国なのだ

P221 インドではもちろん、強いボトルネックを経験したグループに属する人の数が遥かに多い。人口が巨大なうえ、ジャーテイグループの3分の1前後が、アシュケナージ系ユダヤ人やフィンランド人と同じかそれ以上に強いボトルネックの子孫だからだ

即ち、インド人は、近交系数のみから見れば、特殊な人々である。近交系数が高い小集団の個体が交雑した場合、天才が経験上は、生まれやすい。インド人がまさにそうである。

しかし、現生人類には、もう一つほとんど異常と呼べるレベルで特殊な人々が存在する。近交系数は日本人と同じであるが、①非同義変異比率が他の民族集団に比べ高く②一部の者に極度に集団固有の変異が集中し③遺伝子頻度の分布も他の民族集団と異なり、低頻度比率が高く④集団固有の変異のほとんどが、ヒトの精神に関連している という特徴を有する恐るべき集団である。

人口比で見れば、ヤクザに異様なほど朝鮮人どもが多い主原因かもしれない。

インド人に関しては、ライヒの著作で世界中の人々が知った。インド社会の「すざまじい混沌」の根本原因である可能性が高い。しかし、朝鮮人どもに関しては、FDA論文の執筆者と私しか、その特異性・異常性を知らないであろう。北朝鮮の異常性と韓国の病身性の根本原因である


p12
シク教は世界の宗教の中でも最も新しい宗教である。
今日、世界中に約1200万人のシク教徒が存在するが、約一千万人がパンジャーブの地に住み

p13
シク教徒の男性は全て「獅子」又は「獅子のような心を持った」という意味の、シングという名字がついている。シク教徒の女性は全て「王女」という意味のコウルという名字を有しているのである

p16
シク教は、神によって霊性を与えられたと信じられている初代のグル、即ち、グル=ナートクの教えから生じた

p17~18
【カギかっこの付けられた小見出しのみメモ】
<唯一なる”絶対真理”の崇拝>
<労働の尊厳>
<全ての人々の平等>
<奉仕>
<シク共同体>

p28
ナートクは1469年4月15日に、現在はパキスタンにある
小さな農村のヒンズー教徒の家庭で誕生した

p44
ナートクの時代には、異なったカーストの者が一緒に食事するという観念は、大胆で革命的といってよいほど画期的なことであった

p52
シク教の聖典「グル・グラント」は全て韻文ならなる1430頁に及ぶ聖典である
2023-7-5-2


p53
ナートクの詩は意図的に作られたものではなく本能的に彼の唇から湧き出たものとシク教徒は信じている。彼が語るたびに、信者たちがその聖なる言葉を書き留めた

p55
グルの地位が次々と相承されていったように、それぞれのグルの詩編も代々伝えられていった
2023-7-5-1


p58
グル・グラントの完成は
1604年8月16日

p68
「人類という一つのカーストを認識せよ」
この言葉は現在でも至る所でシク教徒によって唱えられている

p71
グル・グラントにはユダヤ教やキリスト教のバイブルに見受けられるような歴史的な記述や伝記的な記述はない
いかなる教義をも提供することはない。それは行動に関する戒律や義務を規定してはいない

p87
一般的に、シク教徒は、死後新たな形態で輪廻転生するものと信じている

2023-7-5-3


p130
全てのグルたちは結婚していた。かつてのインドで日常茶飯事であった幼児婚は禁止されている。離婚も正当な権利として認められており、男・女は再婚することができる。未亡人の再婚も当たり前に行われている

p177
初期のグルたちは、女性に男性と同等の地位を認めない習慣を否定した

p179
シク教には特定な祭祀階級というものはない。
法要を指揮する人を選ぶのである。このような礼拝の指揮者らは男性でも女性でもよい

p193
1849年シク教徒はふたたびイギリス政府に反旗をひるがえす。
多くのシク教徒が信仰を捨て新しい支配者の宗教に改宗するに至った
イギリスの支配下
約1千万人いたとされるシク教徒は1868年の国勢調査ではわずか百万人に減少してしまっている





文芸春秋70周年記念 
日本の論点
平成4年

いつも貴重な情報を頂いているある方からメールで頂戴した画像内容が重要なのでメモ。

①「日本の論点」中の創価学会と池田大作氏に関する箇所で、著者は、公明党内では国会議員よりも大物とされている元東京都議(7期も都議であった)で公明党都議員団幹事長であったまさに公明党内部の中核人物である。この人物が創価学会を離反した背景は一切不明である。公明党委員長であった竹入義勝については知っていたが、この人物のことは知らなかった。

②政教分離の憲法解釈に関しては、憲法学者の見解は別として、昭和46年に最高裁大法廷判決が出ている。大法廷判決であるからして覆すには同じ大法廷判決でなければならずひっくり返ることはまずない。私が詳しく知っているのは相殺新判例だけであるが、全部でも3~5件程度しかないはずである

*憲法
「第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。 いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」

*最高裁大法廷判決
「憲法の政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、」

小法廷判決はあくまで判例に過ぎないが、大法廷判決は、判例というよりも実態上は法律そのものに近く、当然であるが公明党(=創価学会)の存在自体は何ら憲法違反ではない。

③「新宗教 その行動と思想」 村上重良によれば、かつての創価学会は建前上日蓮正宗の信者団体であり、

P225 「在家信者の講に過ぎない建前の創価学会は、本山から独自の本尊を受けることで宗教としての自主性を確立した」そうである。日蓮正宗から破門された後、本山から貰った独自の本尊は多分返却しておらずそのままだろう。他の宗派と異なり、日蓮正宗では本尊は特に重要で、「御本尊に向かって“南無妙法蓮華経”の題目を唱える」ことが必須であるようだ

宗教団体として、創価学会の独立性は、別の本尊を有しているのだからして、形式上は問題ないことになってしまう。

④池田大作による創価学会の私物化、創価学会が集めた多額の寄付金を池田家が私物化しようとしている記述箇所に関しては、その根拠を一切記述していないのみならず、「内部情報によると」という記述すらない。

竹入義勝・藤原行正に代表されるような公明党内部事情に詳しい者が何故創価学会を離反したのか?という点を調べてみたいが方法が存在しない。

韓国人DNAに起因する韓国人どもの精神面での異常性(=歴史の創出)であれば集団遺伝学論文で明確な根拠を得ることができるが、そのような手法はない。しかし、公明党は、外国人参政権法案を27回国会ダントツで多く提出している点が最大の問題である。朝鮮総連という事実上は、北朝鮮の日本における出先機関に参政権を付与せよと主張しているのに等しい。


藤原行正

2023-7-1

p951
年間3000億円近い金を集めながら、そのほとんどは無税である
もちろん固定資産税は免除される


p952
公明党は池田の犯罪隠ぺい工作隊である
創価学会だけは、何故か例外で、平然と憲法違反を犯している。
表向きの党規則がどうであろうと公明党の実体は、池田大作の”私党”でしかない。

一例をあげれば、
東京国税局から
脱税を指摘され
修正申告

私が得た内部情報によると、池田は学会の懇談会で
「小沢幹事長(当時)に恩を売って話をつけたから、国税の調査は心配ない」と漏らしている
この時、両者の間で取引材料とされたのが、先の東京都知事選での「磯村擁立」であったことは周知の事実である

p953
91年11月、本山は創価学会に対して、「解散勧告」、続いて「破門」を通告した





韓 国 SGI 急 伸 の 要 因 と 背 景
朴 承 吉

SGI の 海 外 組 織 の な か で 韓 困 の SGI ( KSGi ) が 最 も威 功 し た ケ ース で あ ろ う

当 時 韓 国 入 に は、 望 ま し い 成 功 神 詣 の 象 徴 で あ っ た 在 日 韓 国 人 に よ っ て 伝 え ら れ た 創 価 学 会 の 救 済 財 は、 そ れ が 異 民 族 の 宗 教 で あ っ た と し て も、 信 頼 で き る も の と し て 受 け 入 れ ら れ た。

特 に 座 談 会 は、 救 済 財 の 効 験 を 債 え る 場 所 で あ っ て、

 政 府 の 公 式 的 な 布 教 禁 止 措 置 が 解 除 さ れ る と、 宗 門 は 韓 圀 入 僑 者 代 表 を 任 命 し、 そ れ に よ っ て 韓 鬮 内 の 諸 組 織 間 に 教 権 競 争 が 起 こ る こ と に な っ た。

 一 九 七 五 年一 月、 日 本 本 部 か ら 任 命 さ れ た 「 韓 国 指 導 」長 を 中 心 に し て 本 格 的 に 韓国 で の SGI の 組 織 化 が 推 進 さ れ、 「 韓 国 日 蓮 正 宗 仏 教 会」 が 誕 生 す る

今 日、 韓 国 SGI は 韓 国 社 会 で 相 当 な 影 響 力 を も っ て い る 組 織 と し て 位 置 付 け ら れ て い る

報告2 韓国におけ る日本新宗教の 受容とそ の 特性
朴 承 吉 (大邱 カ ト リ ッ ク 大学 校)

韓国の人口の約9%近くが、日本の新宗教であるとのデータには驚かざるを得ない。特に創価学会は、約150万もの信者数であり、人口比で見れば、日本で約450万にも相当する。
韓国人どもは、我々は優秀な民族というバカの極みと言える幻想を有しているため、かつ、韓国人が書いた内容のため、数字は参考程度とするべきだ 

1.
日 本宗 教 は 韓 国 社会 の 全 体 宗 教 人 口 の 8 .7% に 至 る ほ ど 深 くそ の 根 を 下ろ し て い る こ と も事 実 で あ る。 

即 ち 「韓 国 社 会 で ど う して 日本 宗教 な の か 」 と い う問 い に 対 す る 返 事 を 探 し出 す の が、 本稿 の 主 な 研究 目的 で あ る 。

2.
現在 国 内で 活 動 中で あ る 日 本 系宗教 教 団 の 中で 10 万 以 上 の 信 者 を も つ 大 教 団 は 、 創 価 学会 、 天 理 教 、 日 蓮 正 宗、 生 長 の 家 で 、

2003 年 末 現在 国 内 の 信者 数 を 見 れ ば 、 韓 国 SGI が 1,485 ,000 人 余 り 天 理 教 が 、 大韓 天理 教 と 韓国 天理教 を合 わ せ て 約 30 万、 日 蓮 正 宗 の い わ ゆ る 土 着派、 海外派 、 独 自路線 派 な ど 16 信 徒 会 を 合 わせ て 約 20 万 、 そ し て 生長 の 家の 韓国 支部 で あ る 「韓 国光 明思想 普及 会 」 が約 113 ,000 人 に な っ て い る 。 

こ れ ら教 団 の 信者数 だ け で も 日本 系 宗教 の 韓 国 内信者 数 は 180 万 か ら 最 大 210 万 に 至 る と推定 さ れ る 。

韓 国 内 の 日本 系 宗教 の 信 者集 団 は 210 万 人位 で あ る と把 握 して も無 理 で は ない と 思 わ れ る 。 日 本系宗教 の 信者 集 団を 210 万 で あ る と 推定 し た時 、 2003 年 の 統計庁推計の 全 国人 口 4, 792 万 の な か で 4.38 % を 占め る こ と に な る 。

日 本 系宗教 の 韓 国 へ の 受 容 に お い て 注 目 し な けれ ば な ら な い もう一 つ の 特 徴 は 、 受 容 の 地 域 的偏 在 で あ る 。 大体 に 韓 国 の 全体 人 口 の 113 を 占め る ソ ウ ル と京 畿地 域 と 、 釜 山、 大 邱 、 蔚 山、 慶 北 、 慶南 、 済 州 地域 に 日本 系宗 教信 者が 遍在 し て い る

こ れ は 日 本系 宗教 の 最初 の 伝播 者 た ち が 概 し て 在 日海 外 同胞 た ち で あ り、 また 彼 ら と 連 関 して い る 人 々 が多 い 点 を 考慮 す れ ば 、 在 日 海 外 同 胞 社 会 と の 連 関性 の 中で こ の よ う な 地 域 遍 在 を 説 明 す る こ と が で き る 。

統 計結 果 に よ る と 、 在 日 海 外 同 胞 の 出 身地 域 を 見れ ば 、 嶺南地 域 で ある 慶 尚南北道 が 56 .5% 、 済州道 が 17% 、 全羅 南北 道 が 9.9% で あ る 。


 3.
現在 韓 国 社 会 で 布 教 活 動 中 で あ る 日 本 系 宗 教 教 団 の 中で 注 目 し な け れ ば な ら な い 教 団 と 、 そ の 教 団 の 活 動 状 況 を 要 約 す れ ば 、 次 の よ う で あ る 。

第一 は 、 帝国 時代 以 後 日 本 人 布教者 た ち が 残 し て お い た 遺産を 基盤 に して 、 純粋 に 国 内有力信者 た ち に よ っ て 再 建 に 成功 し た 天 理 教 で あ る 。 そ れ だ け 天 理 教 (特 に 大 韓天 理 教) の 場 合 は 、 ほ か の 国 内 日本 系 宗教教 団 が 日 本 本 部 と の 関係設 定 に お い て 葛 藤 す る なか で 、 独 自性 を追 い 求 め る 面 が一 番 強 い 教 団 で あ る 。
 
二 番 目は 、 1961 年 か ら 国 内 に 流 入 され 始 め た創 価学会 の 急 成 長 で あ る。 創 価学会 は 信 者 た ち の 数 や 活動面 に お い て 今 日韓 国 社 会 で 日本 系 宗教 を代 表 す る 教 団で 、 天理 教 と は 反 対 に 、 日本 本部 と の 密接 な 関 連 を 通 じ て 教団 の ア イ デ ン テ ィ テ ィ を 守 ろ う と す る教団 で あ る 。
 
 

韓国SGI運動の歴史と現状
-朴政権下の苦難時代を中心に-

趙誠倫(韓国済州大学・社会学 教授)
創価大学社会学会講演会 2017年7月19日(水)

①韓国における宗教信徒内訳の最大の特徴は、キリスト教信者の多さである
天主教と訳されているカソリック及び基督教と訳されているプロテスタントについて、何故、中国・日本と異なり、キリスト教が深く浸透したのかについては、次の単純なバカげた理由による。

韓国 「反日民族主義」の奈落 呉 善花p135

私がかつて関与していた韓国教会の牧師は、説教の中でしばしば次のように言った。「韓国人とユダヤ人には、苦難の歴史を歩んできたという歴史的な共通性がある。苦難の歴史を歩んできたわが民族も、神から選ばれた特別の民(エリート)であり、最終的な救済が約束された民である」実際、右のように説く韓国人牧師は多く、韓国がキリスト教を受容した理由の第一をそこに求める論者も少なくない

要するに、「我々は優秀な民族」という韓国人連中のバカげた妄想に最もよく合っているのである。確かに、どうゆうわけか「嘘と騙しにのみ秀でている」という面では優秀であろう、韓国について調べた私の実感である。

しかし、2018年に私が調べた結果、韓国人はノーベル賞は勿論のこと全64もの国際的な科学関連賞の受賞者がただの一人もいないという驚愕の結果を示していた。韓国人DNAに関する疑念を有することとなったきっかけである

②ある方からメールで次の点を教えてもらい驚愕した。産経新聞記事からとのことである。趣旨として、公明党は、外国人参政権法案を27回国会に提出している。自民党は過去無し。民主系は15回、共産党は11回である。法案は全て廃案となったが、外国人の帰化要件の緩和は、公明党の主張に沿ったものである。

外国人参政権問題とは、要するに、在日韓国・朝鮮人どもに参政権を付与するのかどうか?という問題に過ぎない

③この創価大学での講演禄の韓国内信徒数が正しいのであれば、

韓国では人口比では約3.3%にも達する創価学会信徒が存在することとなる
日本における創価学会の信徒数に関しては正確な数字を得ることが難しいが、概ね500万人程度と見積もられ、人口比約4%
ただし、教団公表では800万世帯以上であり、2022年参議院比例代表の公明党得票率は全国平均11.66%

④公明党による外国人参政権法案提出回数の突出した多さは③が影響していると考えて間違いない。しかし、あくまで宗教団体であり、根本的要因には、次のとおりである。宗教は、「ヒトは皆等しい存在か?」という視点から見れば、3タイプある


*ヒトは皆等しい存在であるとみなすタイプの宗教
キリスト教・仏教は勿論のこと、あまり知られていないが、イスラム教もこのタイプに属する。ムハンマドが亡くなる直前に説法で明言したため、イスラム教徒は絶対にイスラム教徒を奴隷として売買できない。オスマントルコは、キリスト教徒を奴隷として購入し、イエニチェリを編成した。インド亜大陸でイスラム教が広まった根本原因である

*人は皆等しい存在ではないとみなすタイプの宗教
ヒンズー教、宗教と見做せば儒教
この両者は、アメリカの社会学会で支配的な「成層(社会)論」にピタリと合致する。このタイプの宗教が支配する社会では極めて長期にわたり内乱等が生じない安定した社会が継続する。インドが典型例であり、李氏朝鮮も当てはまる。ただし、中国は例外であり、多くの場合には遊牧系民族の侵攻の影響が大きい。

*一部の人は特殊であるとみなすタイプの宗教
ユダヤ教しかない。驚くのは、ユダヤ人がボトルネック効果により遺伝的には特殊な人々であることはほぼ確実である点である。2020年12月にユダヤ人DNAに関する集団遺伝学論文を読み込んだ結果であり、ユダヤ人の宗教は、偶然にも、完全に遺伝的な根拠を有している

⑥公明党・創価学会はいうまでもなくヒトは皆等しい存在であるとするみなすタイプの宗教である。従って、在日韓国・朝鮮人どもにも参政権付与せよ!と主張せざるを得ない。帰化要件緩和も同じである

しかし、公明党支持者は、李氏朝鮮が19世紀において、同じ民族を奴隷として売買していた当時の世界で唯一の集団であったことを知っているのであろうか?嘘と騙しにより、日本で発売されている著者に在日を含む書籍ではこの点を否定しようと躍起になっている。しかし、100%間違いない。

「明清と李朝の時代」 岸本美緒(中国)宮嶋博史(朝鮮)
表3、4は、四方博によって明らかにされた慶尚道大邸地方の戸籍分析の結果である

Ⅰ期=1690年
ⅱ期=1729年
Ⅲ期=1783年
Ⅳ期=1858年

表3身分別戸数とその比率
  両班戸 良人戸 奴婢戸 総数
Ⅰ期 290戸  9.2% 1694  53.7% 1172   37.1% 3156  100
ⅱ期 579   18.7
1689  54.6   824   26.7 3092  100
Ⅲ期 1055    37.5
1616  57.5   140     5.0 2811  100
Ⅳ期 2099    70.3
  842  28.2     44     1.5 2985  100

表4身分別人口数とその比率
  両班 良人 奴婢 総数
Ⅰ期 1027人  7.4%  6894  49.5%  5992   43.1% 13913  100
ⅱ期 2260   14.8
 8066  52.8  4940   32.4 15266  100
Ⅲ期 3928     31.9
 6415  52.2  1957   15.9 12300  100
Ⅳ期 6410     48.6
 2659  20.1  4126    31.3 13915  100

1858年のデータは、確実に李氏朝鮮時代が奴隷制社会であったことを明確に示している。

アメリカ南部の一部の州は19世紀でも、人口の30%以上が黒人奴隷であった。しかし、民族どころか人種そのものが異なり、アフリカから連れてこられた黒人奴隷は当初は英語など全く話せなかったはずである。

これに対し、李氏朝鮮では、完全に同じ言葉を話す、連中が言うところの同胞を19世紀において人口の30%以上を奴隷として扱い、売買していたのである。宮嶋氏によれば男性奴隷(奴)よりも女性奴隷(婢)が相当程度に高い価格で売買されていたとのことである。

⑦李氏朝鮮が奴隷制社会であったことは確実であるが、それ以上に、何よりも重大なのは、どこをどうみても、朝鮮半島の人々は、精神面に限定すれば、DNA異常民族と言わざるを得ない点である。

2014年に事実上、アメリカ政府食品医薬品局(FDA)が執筆した朝鮮人を対象として分析した集団遺伝学論文の付属資料(エクセルファイル)に掲載された他の民族集団が有さない韓国人固有の変異を有する遺伝子リストに基づき、論文検索すると、ほぼ全ての韓国人固有の変異を有する遺伝子が、ヒトの知能・パーソナリティー障害・精神疾患に関連する遺伝子候補なのだ

*自律性が皆無であるという朝鮮史の特徴(黄文雄の指摘)
*全64もの国際的な科学関連賞の受賞者がただの一人もいないという驚愕の結果(私が調べた)
*19世紀において、同じ民族を奴隷として売買していた当時の世界で唯一の集団(宮嶋)

これらに例示される総合的な結果は、韓国人DNAの分析結果とピタリと一致していることだけは間違いない。

だからこそ、在日韓国・朝鮮人には絶対に参政権付与するべきではない。北朝鮮は「巨大な捕虜収容所」であり、韓国は、「巨大な精神病院」に過ぎず、その根本原因は、朝鮮人のDNAにある。

北朝鮮を知りすぎた医者②国境からの報告
ノルベルト・フォラツェン
p15 北朝鮮、それは巨大な捕虜収容所である。これがドイツ人の一救急医としてこの閉ざされた国で一年半働いた私の診断です

p175
南北朝鮮の間には実に多くの共通点がある。まだ平壌に居るのかそれともソウルに居るのか、時々分からなくなるのはそのせいだ。北朝鮮問題はつまるところ、朝鮮の人々のメンタリティーや文化に発しているのだろうか・・・?

1.はじめに  
韓国における創価学会の公式名称は「韓国SGI」である。
2000年韓国政府に公式法人登録されて からは「韓国SGI」と呼ぶようになった。
では,なぜ韓国では創価学会という団体名を使用しないのか。それは韓国 における創価学会に対する良くない社会的イメージがいまだに残っているか らであると私は考える。ここでいつから創価学会に対する良くないイメージ が形成されたのか,少し言及しておこう。


韓国創価学会は,1964年1月に韓国政府から布教禁止処分を受けた。この 処分は朴正熙政権が崩壊した後の1980年代に入ってからようやく解除された。

しかしこの苦難の時代を乗り越え,韓国創価学会の会員は継続的に増加し た。教団発表によると,現在の会員は160万人で韓国宗教人口の中で仏教, キリスト教のプロテスタント諸派,カトリック教会の次に多くの信者を確保 している4番目の大規模の宗教団体となった。

ところが,韓国創価学会は規 模に比べて社会的な影響力はそれほど大きくない。会員の数は多い宗教団体 であるが,社会的に大きく知られるのを避け,消極的な活動にとどまってい るからである。2023-6-18

1964年国家により創価学会の布教活動が禁止された。これは韓国の憲法に 明示されている宗教の選択と信教の自由の原則に反する制限措置であった。 これはその前にも,後にも見ることのできない,近代韓国歴史上唯一の国家 による宗教の自由制限措置であった。

2.韓国政府による創価学会布教禁止措置

 1964年1月に突然韓国全国規模の日刊紙に創価学会の韓国布教に対する批 判記事が掲載された。創価学会関連記事は1月10日から始まり,その後2週 間にわたってニュースと解説,そして各種コラムを含めて,計46編の記事が 一日も欠かさず全国規模の日刊新聞を飾るようになった。


2023-6-18-1


この現象に対して私はこう思う。つまり,治安局情報課が事前調査を通し て入手した資料を各新聞社に提供し,報道するよう要請または指示したがた めに可能であった工作であると思うのである

内務大臣は,1月31日付けで創価学会の布教のための集会及び通信連絡と 出版物の搬入配布取得閲覧を禁止する行政処分を下した。

この措置によって 警察は創価学会の集会を取り締まる。他の部門からも協力を得るものの,法 的根拠がなかったために,いくつかの他の法規を適用して取り締まることに なる。内務省は輕犯罪処罰法,刑法,国民医療法を,財務部は外換管理法を, 保健社会部は国民医療法を,遞信部は臨時郵便物取締法を,文化公報部は外 国定期刊行物(日本)輸入に関する法律を最大限利用して取り締まりを行っ た。

創価学会を取り締まるため国家機構の中で動員可能な省庁は総動員され た

3.裁判所の裁判と世論による裁判
韓国創価学会の会員は法に訴えた。韓国は憲法に「信教の自由」が保障さ れている国家であり,法の秩序を侵さない限りどの宗教も選択できる自由が あった。

2年にわたる裁判の結果,高等裁判所と最高裁判所は相次いで政府 の創価学会布教禁止命令は,誤った行政処分であると判決を下した。韓国創 価学会の会員が勝訴したのである。

 しかし,政府はこれらの判決を無視して取り締まりを継続した。新聞も政 府の取り締まりを支持する論説を継続して揭載した。

政府は,裁判では敗訴したものの,言論の助けを受けながら創価学会 を日本の韓国侵略の先鋒隊であるかのようなイメージを作り,反日感情を煽 るのに成功した。

4.関係機関の対策会議
1970年代の朴正熙政権下においても創価学会に対する政府の 察と世論の 否定的なイメージの再生産は継続された。しかし,創価学会組織は瓦解せず, むしろ少しずつ会員が増加した。

この時期において,朴政権は創価学会の布教活動制限措置を解除しようと した。その理由は,創価学会をスケープゴート(犧牲羊)に掲げて展開した 反日キャンペーンがもはや必要でなくなったからである。

もう一つの理由は, 公明党の存在であった。

公明党は創価学会布教活動禁止措置の解除を韓国 政府に数回にわたって要請した。韓国政府は公明党との関係を改善したい狙 いもあり,韓国創価学会の 察を中止してほしいという要求を受け入れよう とした。しかし,これに反対する仏教,プロテスタントなどの宗教界の反発 を懸念して,制限措置を解くのは容易な判断ではなかった。

5.政権交替と禁止措置の解除
1980年代に入って全斗煥政権に変わり,創価学会の布教禁止措置が解除さ れた。

全斗煥政府は公明党の委員長を公式的に招請した。これは韓国政府が 創価学会との関係を改善したいという意思を示した象徵的な措置であったと 言える。

それ以降,創価学会を 察する警察の活動は大幅に減少した。

財団設立許可が下りたのは金大中政権下の 2000年になってからであった

結び

朴正熙が大統領にな って新たに発足した第3共和国が1964年の韓日基本条約に調印するまでの間, 盾の役割として利用したのが創価学会であった。

韓国政府が国民の間に広まっていた反日感情の腹いせをする対象として創 価学会に注目させ,国民を創価学会非難に熱中させることで,韓国政府の反 日キャンペーンは成功を収め,朴正熙政権に集中していた攻擊を分散し弱体 化させる効果をあげた。

創価学会を「反民族的・排他的・国粹主義的な宗教 団体」であるという烙印を押すことができた背景には,韓国国民が共通に持 っている漠然とした日本の再侵略への恐怖心があった。

図説 ユダヤ教の歴史
市川 裕一 編著

ユダヤ教は単なる宗教ではなく、生活全般を律するものであることが初めてよく理解できた。
しかし、内容的には、若手研究者による専門的記述が多く、興味を引く記述も少なく概説書としては不可である

p4
離散時代のユダヤ教は、神の啓示によって与えられた法規範が生活の全てを包摂するような宗教であった。ユダヤの民は唯一神との間に特別の契約を結んで、これらの規範に従うことを誓ったとされる
今日に伝わるユダヤ教とは協議にはラビ・ユダヤ教を指す


ラビユダヤ教の成立はいつであろうか。成立の目安が二つある。非膣は西暦70年のエルサレム第二神殿の破壊である。だいにのめやすとなるのが、西暦200年頃にユダヤ教の法典ミシュナが編纂されたことである。この間に、ラビユダヤ教が徐々に体制を気づいたと考えられる

p5
一般にキリスト教はユダヤ教から生まれたといわれるが、ラビユダヤ教の基盤が形成されたのは、キリスト教成立以後である

p19
二重の啓示、或いは二つのトーラーを信仰の根幹とする点である。神がモーゼにシナイ山で掲示したたーらー(教え)は、文字によるものと口頭によるものを共に含んでおり、口伝トーラーは、代々、師資相承によってラビたちに継承された。ミシュナは正にこの口伝トーラーの集成に他ならない



p20
例えば、安息日の労働禁止では、禁止される仕事は厳密に39種類定められているが、
くびきを追うこおてゃ、責務であるばかりか、契約の民の特権に他ならない。他の人間たちよりもはるかに重い責務を負うという意味で、ユダヤ教徒は神に選ばれた民となる。それがユダヤ教徒にとっての道理である

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東アジア仏教史
石井 公成
岩波新書

石井氏は、漢字仏教という表現を用いている。基本的には、サンスクリット語で書かれた原典とは、別物に近い可能性が極めて高い。

アーリア人  青木健 p239
ガウタマ・シッダールタの出自が、アーリア人だったか先住民だったかは定かではない。大勢としては、欧米人は「ガウタマはアーリア人だ」と主張し、日本人は「仏陀はモンゴロイドだ」と譲らないと聞く

石井氏は、ご存知であろうか?サンスクリット語は、明らかにヨーロッパの言語と同じである。漢字仏教ではなく、サンスクリット語でしか本来の仏教は、語れないであろう
 

 p1
仏教の歴史は、釈尊観の変化の歴史に他ならない。それぞれの時代のそれぞれの人々が、自分にとって好ましいイメージを仏教の開祖である釈尊に投影してきたのだ。

p19
仏教は、
インド思想の柱である永遠不変の「アートマン」(我)を認めなかった。また、改革運動をすることはなかったが、インド社会の根幹である「ヴァルナ」(階級)
の違いを認めず、平等に扱った。

p44
インドの仏教は様々な潮流を生み出していたが、5世紀頃からヒンズー教に押されて衰退に向かい始めた。

p194
元は高僧を意味する「ラマ」にちなんで中国ではラマ教と呼ばれたチベット仏教を導入した。

p199
1285年以来、元の侵攻
民族意識が高まり、唐で梵語を音写するために作られた漢字を参考とし、漢字を組み合わせてベトナム語の発音を表記できるようにした独自の文字「字喃」(チユノム)も盛んに使われるようになった。

p229
高麗末には寺領が全国の田地の6分の一にも及んでいたが、公認しなかった寺院と奴婢を没収し 

在日コリアンの宗教と祭り
民族と宗教の社会学
飯田剛史

半数以上の在日が族譜を有していることに驚いた。高宗の王宮に巫女が出入りしていたことは、確かだが、韓国人の異常性の一つの発現である

p3
1988年から1年間は
大阪市生野区に住んで
生野区人口16万人の約4分の一に当たる4万人が在日人口で、その7割が済州島出身者と言われている

p45
戦前、秋葉隆は
朝鮮社会の伝統は、男性本位の儒教文化と女性によって担われる巫俗文化の二重組織によって成り立つと述べた

p54
生野区で重要な新宗教は創価学会と天理教である。創価学会は地域の約10分の一の世帯が加入しているといわれ
創価学会は、在日が参加する宗教としては、韓国仏教寺院や韓国系キリスト教会をしのいで最大の組織であるということになる

p64
「朝鮮寺」とは。在日韓国朝鮮人によって建てられたシャーマニズムと仏教の混合した宗教活動施設の仮称である。我々の調査により、1984年時点で63の朝鮮寺が生駒山域で確認された
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p228
生活の苦難・危機は、近親死者、祖先など様々な死霊の恨(ハン)によるものとされ、それと直接的に交流することによって除災招幸を図ろうとするシャーマニックな死者儀礼をクッと呼ぶ
家であるいは生駒山などに群在する朝鮮寺で活発にクッを行っている
葬儀においても
近親女性たちが巫俗式の霊降しをすることが多い

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【族譜所有家庭に関するサンプル資料として貴重なデータである】

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韓国における天理教の受容 
――近代化との関連をめぐって――
 陳宗炫(京都府立大学)

著者が、現在、大学等で教職等についていないことは確実であるが、中国人なのか韓国人なのかは不明である。韓国では朱子学は性理学と呼ばれるため天理という名称と似ているので韓国内で信者が多いと勘違いしていたが、日本と同様に「病気治癒」がその中心のようであり、この点、他の新興宗教と同様である。

日本の天理大学は、朝鮮学会の事務局大学であり、DNAが日本人であるまともな朝鮮史研究者は、天理大学・同関係者しか現時点では事実上存在しない。水野氏がその代表例である(武田幸男氏等10人以下のDNAが日本人である天理教関係者ではないまともな朝鮮史研究者は例外なく高齢となられ活動休止状態である)

朝鮮史研究入門なるまさしく、「貴様ら精神病院に行け」としか言いようがない在日韓国人ども=事実上の精神錯乱者連中が書いた内容とは完全に異なり、まともな記述であることから、著者は中国人であらかもしれないキチガイどもに対しては、「我々は優秀な民族病」患者集団と呼んでおこう。だからこそ、朝鮮史研究入門なるまさに、病的な内容の歴史書が日本で発売されるのである

何故、多くの日本人が、気がつかないのか?不思議で仕方がない。そして、韓国人固有のバリアンツの圧倒的大部分が精神疾患・パーソナリティー障害の関係しているのだ




日系新宗教1の海外布教はその布教対象から三つの地域に分類することができる。日系移 民社会、非日系人社会、旧植民地社会がそれである2。

天皇制イデオロギーを 基盤とする国家神道体制が確立されていく過程で、明治政府から公認を受けるために天理 教は教団組織とそれを維持するための制度において明治政府の指示に従わざるを得なかっ た。その中には教祖から教えられた内容を修正した部分もある。

1 天理教の発生と布教の始まり
 天理教は 1838 年(天保 9)10 月 26 日、大和国山辺郡庄屋敷村(現奈良県天理市)の中 山宅から始まった3。1838 年(天保 9)10 月 23 日、天理教の教祖となる中山みき4(以下「み き」と表記)の腰、夫・中山善兵衞(以下「善兵衞」と表記)の目、長男・中山秀司(以 下「秀司」と表記)の足に痛みがあり、それらの痛みを治すために加持祈祷が行われた。 その加持祈祷の最中、加持台をつとめていたみきに親神・天理王命5より啓示があり、それ を受け入れたときが立教とされる。

「神のやしろ」となったみきが最初に行ったのは「貧に落ち切る」ことであった。具体 的には、困っている人びとに嫁入りの荷物、食べ物、着物、金銭などを施すことであり、 ついには家を取り払うところまで至った。当然ながら、財産の施しに対して家族や親族は 激しく反対したが、度重なるみきの「身上」6に悩み、みきが言うことに従う。しかし、「神 のやしろ」になってからのみきの言動が当時の常識からして理解できないものであったた め、中山家は親族や村人から気が違ったと嘲られた。親神の啓示に従って施しを続ける中、 1853 年(嘉永 6)2 月 22 日に善兵衞が亡くなった。同年、みきは末女こかんに大阪のほう へ布教に出るように指示したが、このことが天理教における布教の嚆矢とされる。こかん は拍子木を打ちながら、神の名前を唱えたと『稿本天理教教祖伝』(以下、『教祖伝』と表記)に描写されている。

1861 年(文久 1)からみきの直弟子となる信者が集ま り始まった。したがって、みきは信心深い者に「さづけ」9を渡した10。「さづけ」は、みき が現身を隠した後、「本席」11となる飯降伊蔵(以下「伊蔵」と表記)によって渡されるよ うになった。教祖のみきによって直接渡されることに効能が認められた「さづけ」は、み きの没後、みきからの直接性ではなく、本席を通じてくだされた親神の教えと「教義」に よって権威づけられるようになった12。

2 「ぢば」と「かんろだい」の意味
「ぢば」は天理教の信仰において、救済の根源として重要な意味をもっている。1875 年 (明治 8)6 月 29 日(陰暦 5 月 26 日)、教祖によって親神が人間を創造した場所という意 味で「ぢば」が明かされ、その教えが継承されて「ぢば」は天理教の聖地となった13。

したがって、天理教における「教会」の意味を確認しておきたい。親神は教祖・中山み きを「神のやしろ」として現れることによって親神の思いが開示されたと信じられている。

以上で確認したように、天理教の教義学に依拠して考えると、教えを信じるとと もに、親神-教祖-「ぢば」-教会が「理」で繋がるという教えを共有する形で信仰が成り立っていることが読み取れる。

3 信仰共同体の組織化と教会公認運動

秀司は京都の吉田神祇管領に公許を出願し、1867 年(慶応 3)7 月 23 日に認可を得た。こ れが最初の公認である19。

当時の日本社会では国家神道体制が次第に整っ ていった。そうした状況下の 1887 年(明治 20)2 月 18 日(陰暦 1 月 26 日)、みきは没した。天理教の信仰によれば、このことは教祖が「現身を隠した」と理解され、教祖は今も なお存命であるとの信仰が、天理教の信仰の中核を成している。

1888 年(明治 21)3 月 8 日(陰暦 1 月 26 日)には眞之亮を中心に教祖一年祭が勤められ た。そのときの参拝者は約三万名であったが、祭式の最中に巡査が来て中止させた。巡査 がいる状況下で祭式は終わったようだが、政府の許可を得ずに行っているという理由から 活動禁止の命令が下された。

その結果、同年 4 月 11 日、天理教は神道本 局の傘下教会として公認を得た24。
 分教会が増加する中で教会本部も現在の奈良 県天理市に移転され、神道本局の教会ではあるが教会本部を中心とする形で教団組織が整 うようになったのである。教祖の死、教勢の拡大、公認への努力といった諸要因が錯綜す る中で、教団の体系化が進んでいったことがこれまでの内容から見て取れる。このように して、教会本部を中心とした天理教の教会組織が形作られていった。

神道本局の傘下教会となった天理教は、1897 年(明治 30)には公称三百万の信者を有す るようになった25

4 韓国・朝鮮における布教

 韓国における天理教の始まりは、里見治太郎が 1893 年(明治 26)釜山に渡って布教したことがその嚆矢とされる27。最初、里見治太郎は密航の形で渡韓して布教を行った。

1895 年(明治 28)には韓国人だけで二百名の信者を数えるようになった。平木 も言及するところであるが、この内容からは、初期の韓国布教が教団を挙げての活動では なく、教会や布教師の意志によるものであったことが理解できる28

神道本局から独立するための天理教の公認運動が 続けられていた29。内務省から公認を受けるための請願は 1899 年(明治 32)8 月 9 日から 1 908 年(明治 41)3 月 20 日まで五回にわたって行われ、1908 年(明治 41)11 月 27 日に認 可書が交付された。
明治政府の要求に対応することは、みきの教えと異なる内容 が含まれていたが、公認を得るためにはその要求に応じざるを得なかった。

先に述べたように、1908 年(明治 41)に天理教は一派独立の認可を受 けていたため、植民地朝鮮においては、独立した宗教として活動を行った。前述した「ぢ ば」を中心とする天理教の信仰は、みきの没後においても継承され、その信仰形態は植民 地朝鮮においても変わらなかった33。


5 戦後の韓国における天理教-大韓天理教と天理教韓国教団-

1961 年まで、日本と韓国の天理教信者の間に「公式的な往来」はなかった34。日韓の国交断絶によって、日韓の 天理教の間においても直接的な交流ができなかったからである。しかし、日本の天理教と の交流が断絶した 1945 年から 1961 年までの間、韓国で天理教を信仰する者が増え、教会 の数も増加した。つまり、教会本部の認可を得ていない状態で、当時の大韓天理教団の認 可を得ることによって教会になったところが多数存在していたのである35。以下では、交流 断絶期とその後の様子を確認しながら、独立後の韓国における韓国人信者の聖地をめぐる 考え方の変化に注目したい。

1948 年、韓国人信者は「天鏡修養院」36という社会団体として韓国政府に登録した。当時 の韓国で天理教の名前を使うと迫害されたため、そのことから逃れるための工夫であった。 このように独立後の韓国において、天理教の体制は再建された。天鏡修養院を中心に各地 で信仰する者が増えていったが、1950 年 6 月 25 日、韓国戦争(日本で言う朝鮮戦争)が勃 発した。この韓国戦争の間に、天鏡修養院は大韓天理教連合会と改称された37。このときか ら、韓国人信者は天理教という名前を表に出して活動し始めたのである。このようにして 韓国人信者は活動を展開していったが、1960 年代に入ってからは当時の韓国政府から激し い弾圧を受けるようになった。 

1962 年、革命政府のジョン・イルクォン国務総理はいわゆる「行政覚書」を発表する。 これには社会の 5 代悪(密輸、賭博、密酒、ヤクザ、類似宗教団体)の剔抉が含まれて いたが、天理教を類似宗教団体に包含して弾圧し始めた。38

こうして大韓天理教団は徐々に組織を整えていったが、1985 年 11 月 24 日にお社を「か んろだい」形状のものに変えることを決定し42、後にその決定を実行した。天理教の教義に よれば、「かんろだい」は人間が創造された元の場所である「ぢば」にのみ据えられるもの である。しかし、反日感情への対応に迫られ、韓国社会において神道のお社と類似してい ると批判されたお社を「かんろだい」の形状に変更した。お社の形状変更に賛成するグル ープは「大韓天理教」として残り、それに反対するグループは「韓国天理教連合会」43を結 成して大韓天理教から離れた44。その背景には、天理教の聖地である「ぢば」に対する韓国 人信者の考え方の相違がみられる。

天理教は病気を治すために入信する人が多いため、治病儀礼である「さづけ」 を取り次ぐ(ようになる)ことが重要である言える。しかし、大韓天理教は自律的に教団 を運営しており、


おわりに
 天理教の重要な儀礼は今日においても「ぢば」を中心に行われ、海外の信者であっても 「ぢば」を訪れてその儀礼に参加することが重視される。これは、天理教の教義とそれに もとづく伝統的な部分への尊重とみることができるだろう。実際、日本を含めて世界各地 の天理教信者は「ぢば」を中心とする信仰生活を営為しており、韓国においても韓国教団 はその伝統に従っている。しかし大韓天理教は、天理教が始まったという意味において「ぢ ば」の聖地としての重要性を認めながらも、「ぢば」という場所を媒介しないと救済が実現 されないということに関しては異なる立場を示す。つまり、韓国で救済活動を行うことに 際し、「ぢば」という聖地に行かなくても、その制度的側面における機能を大韓天理教本部 が担っているとみることができる。のみならず、大韓天理教の信者は教会本部をはじめと する日本の教会との関係を断った状況で信仰生活を続けている。
 

聖書物語 新約篇
山形孝夫

参考になったのは、下記宗教学を専門とする学者の方による


p3
ガラリアでの運動開始から一年足らずの短すぎる終局。これがマルコの描くイエスの神の国運動の全てである

p13
福音の原語はギリシャ語のエウァンゲリオン(Euangelion)で「戦勝の知らせ」とか「嬉しい知らせ」を意味する言葉だったことが知られている

p79
サドカイ派とはソロモン王時代の大祭司サドクに由来する呼称。サドクの正当な血を引く子孫は、エルサレム神殿の全ての4祭司職を独占しユダヤ最高法院の多数派を構成していた
パリサイ派とはヘブライ語の
「分離された者たち」を意味する
彼らはラビと呼ばれる律法の教師であり、その点において、神殿祭司職のサドカイ派とは明白な一線を画していた。とくにサドカイ派の活動がエルサレムの神殿中心であった立ったのに対し、パリサイ派の活動の拠点は
シナゴーグと呼ばれる会堂であったから、彼らの活動はユダヤ社会の広範囲に及んでいた。
彼らは特別に律法を学んだ少数派のエリートであったから

p80
古代イスラエル人は、神の名ヤハウェをみだりに唱えることを固く禁止されていたのでその代わりに「主」(アドナイ)を使用したことが知られている。
意外なことに最古の福音書であるマルコにはマタイやルカと違って「主」の称号が4ほとんど用いられていないという事実が浮かび上がってくる


図説イスラム教の歴史
菊地達也 編

30年以上も前、井筒俊彦訳でコーランを流し読みしたことがる。いまでも本棚のどこかにあるはずだ。新約バイブルと異なり井筒俊彦訳では面白くなく、ほとんどどの節にも最後の審判の日の記述があり不思議に感じた。その後、コーランは朗誦されるべきものであること、そして、アラビア語の原典は強烈なインパクトを有する名文中の名文で書かれており、ヒトの言葉ではなくまさに神の啓示とも言えるようなものすごい格調を有する文章であることを知り、だからこそ、「神の啓示」として尊重されていることを知った。イスラム教の入門書であるが、複数の著者によるものであり、いまいちであるが、12イマム派の語源を知った


p7
「アブラハムの宗教」においては
実践することが求められるのである
キリスト教では
うすまっているが。
イスラム教はユダヤ教同様このような要素を維持している

p26
預言者との血縁の近さを絶対視したのが、イスラム史上二番目に生まれた宗派、シーア派であった

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p34
シーア派と違い両派にはくみしなかったその体制の人々が長い時間をかけて自己形成した結果生まれたのがスンナ派である

p59
シーア派では預言者ムハンマドの後継者をイマームと呼び、アリーが初代のイマームとなったと考える
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【画像中にアッバース家はウマイヤ家よちも預言者の家系に近い旨】
p62
アッバース朝による迫害
749年に成立したアッバース朝はその初期からシーア派を弾圧し、7代目以降のシーア派イマームは何度も投獄、幽閉された。この時期イマームが直接的に信徒を指導することがむづかしくなり、イマームは手紙や代理人を通じて信徒と交流するようになった。イマームは代理人制度を整備していき

p63
幽隠(カイバ)
874年以降12代イマムが代理人を通じてのみ信徒と交流を取るようになった状態を小幽隠と呼ぶ。そして、940年に4人目の代理人が死去する際に12代イマムは代理人を置かず信徒との交流を絶つことを宣言した。この状態を大幽隠と呼ぶ現在まで続いている。12代イマムは最後のイマムであり、復活の日の前の日に再臨し地上を正義で満たすと信じられている

パウロ 十字架の使途
青野 太潮

原始キリスト教が、当時のユダヤ教の一派に過ぎなかったことは、欧米の研究者によって既に明らかにされてきた。決定的であったのは、恐らくはローマ帝国によるユダヤ教神殿の破壊とイエスの十字架による惨めな死(=イエスはユダヤ教の救世主ではないことになる) であったろう。

まだ新約聖書が書かれていない時点で活動したパウロこそが他民族宗教であるキリスト教の実質的な創始者である。そう言い切って間違いないと思われる。最初の神学者とされているが、そうではなく、キリストの「最初の真の理解者」というべきである。

日本人の書いたキリスト教関係著作として出色の出来栄えであるが、新約バイブルのパウロの手紙を日本語訳したこの人物は本当に古典ギリシャ語ができるのか?日本人の場合には、マスターするのに人生の半分を必要とする古典ギリシャ語から本当に訳したのか?翻訳の修正について触れた部分から見る限り、同じ日本人として情けない事ではあるが、恐らくはそうでなく、ドイツ語訳に依拠しながらと思われる


p3
【パウロはユダヤ人であったが】
生まれ故郷の町は
住民にはローマ市民権が与えられていた
パウロもまた生まれながらローマ市民と自称できた

p9
イエスが十字架刑によって殺されたのは、紀元後30年と推定してほぼ間違いない

p14
【ヤコブについて】
実兄イエスの神についてのラジカルで普遍的な理解が終生分からず、それとは全く正反対の原理主義的でユダヤ主義的な信仰者に留まったからである
ヤコブのユダヤ主義的なキリスト信仰が初期のエルサレム協会では主流派を形成していた
後にパウロと激しく対立することになるのである

p14
最初期のキリスト教徒の多くは、宣教の対象をもっぱらユダヤ人に限定するヘブライイスト(ユダヤ主義者)だったのである

p17
パウロはここでエルサレムの使徒たち(イエスの直弟子たち)とは一線を画し
異邦人への宣教の為アラビアへ赴いたのである

p24
使徒会議
パウロが再びエルサレムに上京したのは使徒会議に出席するためである。当時律法順守を強く主張するヘブライイストたちはパウロをはじめとするヘレにストたちによる異邦人への宣教を激しく論難し、両者の対立は抜き差しならないものに発展していた

p40
パウロは紀元後60年前後にローマで処刑されたに違いないと大方の研究者は推測している
【イエスの死後30年程度である】

p45
ヘブライイストはもともと神殿祭儀を含むユダヤの律法を遵守してこそ真のキリスト者に慣れると信じていた人たちである。
神殿が破壊されたことでよる辺を失い、勢力を弱めていくことになった。こうしてユダヤ教は神殿の宗教から書物の宗教へと変貌を遂げていく
教会内部でのこうした勢力図の変化もあって律法からの自由を説くヘレニストたちの普遍的な考え方がキリスト教徒の間では支配的になっていった

p110
使徒行伝の著者が
ルカと同一人物であることは両文書の序の部分が明確に対応していること、同一の文体と神学思想からして、疑いう余地はない。

p114
コリント人への第一の手紙1章22-24節
ユダヤ人たちは徴を求め、他方でギリシャ人たちは知恵を追い求める。

p122
ローマ帝国はこの処刑方法を奴隷の重罪者ないしは属州の反乱者にのみ適用したのでイエスはローマ帝国に対する反逆者と見なされたことになる

p142
最初期のキリスト教会
超人のようなイエス・キリスト【ユダヤ教でいうところの救世主のことである】を待望していたからである
十字架上で無残な姿をさらすイエスを彼らは到底受け入れることができなかった






モーゼと一神教
S フロイト

宗教に分類しておくが、フロイトが書いたのでなければ翻訳されなかったであろう。私は、彼の著作を読んで、フロイトを根拠薄弱な自説を展開するだけの宣伝の上手いユダヤ人とみなして軽蔑してきたが、彼の晩年に書かれたこの本の内容も、フロイトの手にかかれば全て真実のように思えてくるから不思議である。私が間違っていたかもしれない。この著により、フロイトは分野は異なるがアインシュタインに匹敵する天才かもしれないと思うようになった。しかし、加齢に伴う単なる老人の夢想かもしれない。少なくとも、フロイトは晩年には、アシュケナージ系ユダヤ人として、自らの出自に向き合わなければならなくなったのは間違いない。フロイトが、100年以上も生きて、アシュケナージ系ユダヤ人は強いボトルネック効果を経た集団であることを知ったならば、どのように考えるであろうか?


p4
モーセmosesという男はユダヤ民族の解放者にして立法者であり、宗教創始者でもあったわけであるが、
もし彼が現実に生きていたとすれば紀元前13世紀或いはまた紀元前14世紀のことであった
圧倒的多数の歴史かはモーセは実在したと、そして、彼の実在と不可分のエジプト脱出も実際に行ったのだと言明している

p5
モーセという名前がエジプト語に由来するとの推定は以前から様々な方面より言明されてきた。
エジプト語のモーセmoseはただ単に「子供」の意に過ぎない

p19【章のタイトル】
もしもモーセが一人のエジプト人であったとするならば

p23
ユダヤ人の宗教は
神の像を決して作ってはならず神の名を口に出すことも決して許されない
エジプトの宗教においては、千差万別の
おびただしい数の神々が群れている

p25
1375年頃一人の若いファラオが即位した
この王はエジプト人に
新たな宗教を無理強いしようとした。この宗教は厳格な一神教であって
世界史上最初のものであった
アメンホーテプ(4世)の治世はわずか17年しか続かなかった。
彼が死んだ後、直ちにこの新たな宗教は一掃され

p30
彼はアメンホーテプという名を捨てイクナートンと名乗るようになった

p31
アートン教は一般には親しまれなかった。恐らくは王個人をめぐる小さな集団に限られたものであったろ

p33
もしもモーセが一人のエジプト人であったならば
彼がユダヤ人に彼自身の宗教を伝えたとするならばそれはイクナートンの宗教、即ちアートン教であった、と。

p35
最も本質的な相違は
ユダヤ教が太陽崇拝から完全に離れてしまっているのに対して、エジプトの一神教はなお太陽崇拝に依存していた事実に現れている

我々は
ユダヤ教が
死後の生命について何事も一切知ろうとしないのを不思議に思っていた
死後の生命に関する教えは極めて厳格な一神教にふさわしいと考えられるからである

p36
イクナートンにとっては、この世のいかなる神よりも大きな役割を果たしていたであろう死の神オシリスが君臨するエジプト民衆宗教との闘争に際して、彼岸及び死後の生命に関する教えを拒絶することはどうしても必要だったのだ

モーセは
ユダヤ人に割礼という掟をもたらした
割礼という掟はどこからユダヤ人の中にやってきたのか、との問いにはただ一つの答えしかあり得ない問うことは動かせない。即ちエジプトからである。ヘロドトス、この「歴史の父」は割礼という慣習がエジプトでは大昔から土着のものであったいう事実を我々に伝えてくれている。そして彼の報告はミイラの所見によって、さらにまた、墓地の壁画によっても確認された

p38
モーセがユダヤ人に新しい宗教だけではなく割礼という掟をも与えたのであれば、彼は決してユダヤ人であったのではなく、一人のエジプト人であったのだ、と。

p39
モーセが高貴な身分の政府高官であり、
伝説が語る通り王家の一員であったかもしれないという前提から出発してみよう

ファラオの側近として、彼は新たな宗教の心底からの信奉者であり、その根本思想を完全に体得していた。しかし王の死と反動勢力の復活と共に彼は彼の希望と将来への展望が悉く崩れ去るのを目のあたりにすることになる
モーセの精力的な本性は新たな王国を打ち立て新たな民族を見出しエジプトから排除された宗教をその新たな民族に侵攻させようとする計画へと向かうにふさわしいものだった

p40
以上の我々の構築に基づけばエジプト脱出は紀元前1358年から1350年の間に
脱出行の目的地はカナンの地以外ではあり得なかった。その地はエジプトの統治が崩れ去った後好戦的なアラメア人の軍勢の侵入を受け支配され略奪されるがままになっており、それ故に、力の強い民族ならば新しい領土を獲得できる地でもあるとわかっていた

p46
モーセの特徴に関して書き添えられている別の事柄も我々の関心を特別に引く力を持っている。モーセは「口下手」だったとの一件である
それだからこそ、いわゆるファラオとの談判に際して彼の兄弟とされるアロンの助けを必要とした。4
この記録はモーセがユダヤ人とは言語を異にする人物であって、彼に従ったセム系の新エジプト人とは少なくとも初めのころは通訳なしでは交流しえなかった事実を軽く婉曲して物語っているのかもしれない

p48
ヤヘバは間違いなく火の神であった

p54
エジプトから戻ってきた部族は、その後、エジプトとカナンの間の地域で、そこに昔から定住していた別の近しい間柄にある諸部族と一体化したのである
この国家が短い期間の後再び二つの政治単位、即ちイスラエル王国とユダ王国へと分離した事実も分かり易くなる

p55
北の王国には昔からの定住者が、南の王国にはエジプトからの帰還者が再び寄り集まったのだろうとの主張を承認するためには、この時代に関する我々の知識はあまりにも不確実なのだ
ユダヤ人の太古の最大の謎の中にレビ族の来歴という一件がある。レビ族はイスラエル12部族のなかのひとつ、レビを祖とする部族を起源とするが、
レビ族は最も重要な祭司の地位を占めているが、
普通の祭司からは区別されている。レビ人が必ず祭司であるわけではない。レビは排他的職業階級の名前ではない

p56
そもそもエジプト人モーセのような身分の高い男が部下を伴わず単身で異民族のところに赴いたなどという話は信じられない。彼の従者を、彼の側近の信奉者を、彼の書記を、彼の召使を伴って至ったはずである
レビ族はモーセ配下の者たちであった。この解答は、唯一レビ族の中にのみ後年なおエジプト語の名前が表れるという私が先の論文で既に述べておいた主題によっても支持される

p59
しかしこのもう一人の別のモーセに関して個人的な事柄を我々は何一つ語りえない。
聖書の中の記録に見られるモーセの性格特徴の矛盾も指摘されるだろう。聖書の中のモーセは、しきりと、高圧的、癇癪もち、それどころか暴力的と記述されているのだが、しかしながら、あらゆる人間のうちでもっとも温和で忍耐強い、とも言われている

p67
我々はモーセとユダヤ民族の間の関係をしっかりと想起しなければならない。モーセこそがユダヤの民の中に身を落とし、彼らをモーセの民族としたのだ。ユダy民族はモーセによって「選ばれた民族」だったのだ。

p79
二人の宗教創始者、両者ともにモーセという同じ名前で呼ばれているが、我々は二人の人物を互いに区別すべきである










ヒンズー教
シベール・シャタック

宗教には、①ヒトは等しい存在であると考えるキリスト教②イスラム教徒は全て等しい存在であると扱うイスラム教(=イスラム教徒は、イスラム教徒を奴隷にはできない)③全ての人は等しい存在ではないと考えるヒンズー教④そのような観念をもともと有さない仏教 の4パターンがある。あまり参考になる点はなかったが、インド史において、売買や相続の対象となる奴隷は存在したのであろうか?キチガイどもの歴史は奴隷=奴婢が最大の特徴である。


p9
人々はカーストやその属する地域社会によって定義される。そこにはヒンズー教の核として定められるような共通の聖典、神、宗教指導者はいっさいない

p10
インドの宗教をさし示す固有の語がないように、西欧の宗教の概念に相当する語も同じようにないのである。多分最も近い語はダルマであろう。
ヒンズー教は信仰よりも行為を強調する宗教である。

p195
用語解説 ダルマ
法、得、義務、正しい行為、宗教

p41
4つの階級制度
【その中で】無数のジャーティが発達した。これらは雑婚しない共同社会から成り立っており、そのほとんどは特殊な職業と結びていていた。織物工、大工、油絞り職人、鍛冶屋、銀細工師、錫細工師、寺院僧侶、
これらの集団の階層は村ごとに異なっていた。織物工は、ある町では高い地位であったが、別の町では低かった






旧約聖書に、イエスの出現を預言している記述があることに驚いた

P90
ヘブライ語のトーラーという言葉を律法と訳してしまうと、啓示・命令という本来の意味がひどく損なわれてしまう

p109
イエスの方も最も親しい弟子達、第一の従者であり、イスラエルの12部族を象徴する12人の弟子たちを呼び集めた。

p117~p118
イエスが辱めを受けて苦しんだことは、イエスが詐欺師だった証拠ではなかったのだ
旧約聖書
同様に受難に苦しんだ預言者エレミアの悲壮な姿の中に、後にイエスが受けることになる苦しみがほとんど包み隠されることなく予告されていることに人々は気づき始めた。矛盾はなかったのだ。まさに神の言葉がイエスの受難と死において成就した

p138
マタイ福音書は紀元0年代パレスチナ北部でギリシャ語で書かれた。著者はキリスト教に帰依したユダヤ人である

マルコ福音書は65~70年異邦人向きに多分ローマで書かれた

ルカ福音書は紀元70~80年頃
非ユダヤ人三向けて書かれた。達者なギリシャ語で他の福音書よりも豊富な語彙を駆使して描かれている

ヨハネ福音書は1世紀の末頃小アジア恐らくはエファソで書かれた
ヨハネに愛着を持った共同体から生まれたこの福音書は明らかに相次ぐ推敲を受けている

p141
外典福音書
外典(アポクリファ)と呼ばれる福音書もある
アポクリファは20ほどある。エビオン人福音書、エジプト人福音書、アラブ人福音書、アルメニア人福音書、ヤコブ原福音書、大工ヨセフの物語、ユダ福音書
【以降省略】



キリスト教が、ユダヤ教の最終的な到達点?この解釈が、正解かもしれない
p31
「キリスト」(これはヘブライ語の救世主メシアのギリシャ語訳)

p40
ペテロ・ヤコブ・ヨハネらは同じユダヤ人との対立を極力回避しようとした。彼らはイエスへの信仰は、ユダヤ教の最終的な到達点だとする立場をとった

p51
30年代に入ると原始キリスト教教団に続々とユダヤ人以外の信者が流入し始めた

p57
キリスト自身、奴隷の為の刑罰である十字架刑を受けているのである

p67
マルコによる福音書が書き上げられたのは68年頃、場所はローマであったと思われる。他の3篇の福音書は、80年から100年の間に書かれた

p129
391年から392年にかけてテオドシウス1世(在位379~395)が国単位、個人単位双方で全ての異教崇拝の禁止令を出す。こうして、事実上キリスト教がローマ帝国の国教として認められるようになったのである

【新約バイブルが書かれた300年後の4世紀末に、ローマ帝国の国教となった点が興味深い】




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