カテゴリ: 朝鮮史

伊藤博文と韓国併合
海野福寿
2004年
青木書店

著者は43歳から定年まで明治大学教授であった。この著作から見て、どこをどう見ても、精神疾患レベルの頭のいかれた者である。ちなみに、P135辺りには、伊藤博文暗殺について、別犯人説を唱えている。著者が、通名使用の在日コリアン又は国籍が日本でDNAが朝鮮人であることは100%確実である。青木書店も落ちたもんだ!数えたことはないが本棚には、最低でも100冊以上、青木書店・大月書店が出版した書籍があるが、精神疾患レベルの内容であり、この本の青木書店担当者は中身を読んでないのであろう。


p31
日露戦争下の韓国
この人物は、1年ほど韓国で研究生活をしている。表現の問題の過ぎないが、当時韓国など存在していないからして、まさに精神疾患レベルである。

p45
保護条約は韓国を保護するかーー第二次日韓協約
【章タイトルである。どうも韓国では、この手の漫画的内容が歴史であるようだ。当時韓国など存在していない

朝鮮人強制連行をめぐる証言
正論 2003年3月号


坪井幸生氏
1913年生まれ、昭和12年朝鮮総督府入府、警察畑を朝鮮総督府~帰国後も継続して歩んだ人物
朝鮮総督府時代は主に保安畑を歩んだと本人が明言。直接的に関与していた人物である

大師堂経尉氏
1917年生まれ、昭和17年朝鮮総督府入府、農工部所属


大師堂
「強制連行」と言われている問題ですが、最初は募集、昭和17年3月からは官斡旋、19年にはいいってから徴用だったと思います

問いかけ
徴用令違反は日本人でも同じ扱いでしたか

坪井
あったと思いますよ。内地は大部分が徴兵でしたから、男で徴用というのはあまりなかったんじゃないか

坪井
昭和14年頃
当時朝鮮人が日本内地にどんどん来るので、内地としては、労働力の需給問題や治安問題もあって、内務省は「渡航を制限したい」というのです。しかし、朝鮮人も日本人であり、総督府としては渡航を制限されると困るわけです
当時は朝鮮人の渡航を制限しよとする内務省と制限するなと言う朝鮮総督府が対立していました。
やがて日本で労働力を必要とするようになり、「朝鮮人労働者を入れて欲しい」と変わってきた。企業が労働力を補充するため、朝鮮半島へ募集に行ったりした。最後は徴用令をしいて労働力を補充したというのが実態です


坪井【いわゆる創氏改名について】
台湾ではこれを許可制にした。
非常に数が少ない。1割くらいです

坪井
朝鮮語を使っちゃいかんと言う法令は一度も出していない。そんなものを出すはずがない。

大師堂【いわゆる創氏改名について】
台湾のように許可制にしておけばこんなことはなかったんでしょうがね。

アジア・太平洋戦争
集英社版 日本の歴史 ㉚
森 武麿
1993年

論評に値しない著作である。一橋大学から朝鮮総連の影響を排除するべきである。また、集英社はこの日本の歴史㉚を廃刊するべきだ

p38
朝鮮との国境近くの間島省では、金日成を司令官とする朝鮮人民革命軍が1934年3月結成される

金日成と金正日
現代アジアの肖像 6 岩波書店
除 大粛
古田 博司 訳

によれば、

*p18
金日成は回顧録の中で
1912年4月15日に生その出生当時の名前は金成柱であった。彼の二人の弟は金哲柱、金英柱というまれたと言っている

【従って、このバカの主張通りであれば、22歳である。年齢を重視する風潮が強い朝鮮人どもの間では、絶対にあり得ない。作られた金日成神話に過ぎないことは年齢だけでも分かる】

*p23
中国共産党員楊靖宇が
1936年2月20日に東北抗日聯軍という抗日遊撃軍を組織した

p25
この時生き残った聯軍指導者とパルチザンたちは満州国を離れソ連の沿海州に身を避けるのだが、彼らはそこでソ連共産党の極東軍傘下の別働部隊に再編成された
金日成の抗日運動とは、この東北抗日聯軍で行った運動のことである。
この聯軍は間違いなく共産軍であり、満州国に住む漢族(中国人)と朝鮮人が合同で抗日運動を行ったものだが、指導的な役割を担ったのは、何名かの例外を除けば、全て中国人であったという事実である

従って、東北抗日聯軍は中国共産党の抗日運動であり、朝鮮独立運動の一部でもなければ、朝鮮の抗日運動でもなかった。この東北抗日聯軍には、中国に住む朝鮮族が主に参加しており、中国に対する彼らの要求は、中国に居住する朝鮮族の自治権であった。

中朝混成の抗日聯軍には民族的葛藤と不信も数多く生じ、裏切り者も実際多かった。

このような中国の漢族と朝鮮族の合同抗日闘争は、朝鮮独立運動に影響を与え、朝鮮の解放にも寄与した。しかしこれは朝鮮が中国延安や満州で独自に朝鮮の独立のために戦った抗日運動ではなかった。

p27

彼は疑いもなく東北抗日聯軍第二軍第6師の師長だったのである

p32
金日成が武装闘争を行っていたのは朝鮮人民軍などではない。中朝混成の遊撃軍、中国人民革命軍であった。これは、東北抗日聯軍の前身であり、
北朝鮮がその存在を主張する朝鮮人民革命軍というものはなかった

【これは史実である。日本側資料でも確認しうる。そして、金日成が後に東北抗日聯軍の一部隊=数十人規模の指揮官であったことも史実である。このバカが、上記書籍を読めばどう感ずるのであろうか?

ちなみに著者は最終的には、一橋大学という「朝鮮総連の巣窟」とも言うべき大学に職を得ている。全く無価値とも言うべき書籍である】






Global tree-ring response and inferred climate variation following the mid-thirteenth century Samalas eruption

Ulf Büntgen et.al

16 January 2022


13世紀における朝鮮半島での人口の大幅な減少について既に減少率は算出していたが、その原因の一つが明確に判明した



Abstract

The largest explosive volcanic eruption of the Common Era in terms of estimated sulphur yield to the stratosphere was identified in glaciochemical records 40 years ago, and dates to the mid-thirteenth century.

Despite eventual attribution to the Samalas (Rinjani) volcano in Indonesia, the eruption date remains uncertain, and the climate response only partially understood. 

Seeking a more global perspective on summer surface temperature and hydroclimate change following the eruption, we present an analysis of 249 tree-ring chronologies spanning the thirteenth century and representing all continents except Antarctica.

Of the 170 predominantly temperature sensitive high-frequency chronologies, the earliest hints of boreal summer cooling are the growth depressions found at sites in the western US and Canada in 1257 CE. 
If this response is a result of Samalas, it would be consistent with an eruption window of circa May–July 1257 CE.

More widespread summer cooling across the mid-latitudes of North America and Eurasia is pronounced in 1258, while records from Scandinavia and Siberia reveal peak cooling in 1259.

Introduction

As recorded in polar ice cores, the largest volcanic sulphur release to the atmosphere in at least the past 2500 years occurred between 1257 and 1259 CE (hereinafter all calendar dates refer to the Common Era; CE) (Palais et al. 1992; Oppenheimer 2003a; Sigl et al. 2015). 


Fig. 4

From: Global tree-ring response and inferred climate variation following the mid-thirteenth century Samalas eruption

Fig. 4

Growth response of 26 temperature-sensitive tree-ring width (TRW) chronologies in the western US (#24) and Canada (#2) that reveal negative anomalies already in 1257. All 26 sites are located between 50 and 3660 m asl (with a mean and median of 2247 and 2364 m asl, respectively), and within 34°–52° N and 104°–126° E


In summary, of the 170 chronologies that contain a predominant temperature signal, the first indication of a cold spell in 1257 originates from distinct growth depressions at 26 high-elevation sites in the western US and Canada (Figs. 34). Widespread summer cooling across the mid-latitudes in North America and Eurasia is, however, most pronounced in 1258, and many boreal records in Scandinavia and Siberia show negative growth anomalies in 1259. In contrast to the marked post-Samalas temperature response in the NH, there is no dramatic hydroclimatic fingerprint exhibited by the 79 precipitation-sensitive chronologies.

日本と朝鮮 古代を考える
武田幸男 編
吉川弘文館
2005年

渤海滅亡後、200年も経ってから、日本はその滅亡を知ったのだ!驚いた

p33
「親魏倭王」を授与された卑弥呼は、倭王(倭国王)として認められたのであり、倭国に君臨した。その倭国とは、上記の通り、倭人の国という意味ではなく、卑弥呼を王としておあぐ政治的にまとまりのある諸国であり、具体的には29国で構成されている

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卑弥呼と邪馬台国
最近は、卑弥呼が邪馬台国の王ではないという意見が主流になっている。邪馬台国はあくまでも「女王の都する所」であり、

p66
日本で鉄器の鋳型が出るのは奈良時代以降で弥生時代には鋳造品や銑鉄は作られず、海外から運ばれた。
鉄素材の多くは輸入品であろう

p73
「任那支配」の虚実
近年の研究成果によれば、200年に及ぶ倭の任那支配という旧来の歴史像はもはや維持しがたく、その統治機構とされる「任那日本府」も6世紀前半の一時期存在した短期的な組織に過ぎなかった。
そもそも「任那日本府」の名称自体後代の追記・述作であり、

p138
大型甕棺古墳
全羅南道
大きさが1メートルを超えるような大型甕棺を使用した古墳群がある

前方後円古墳
この地域のもう一つ特徴的なものが前方後円形墳である

p140
これらの古墳は明らかに日本の前方後円墳、埴輪と関連すると考えられる

p141
4世紀日本書紀などの記録によれば、日本と百済の関係はかなり親密であるが、考古資料ではあまり明確、かつ太い関係は見出しがたい

p147
4~6世紀の倭と百済の関係は国家と国家、より上位の人々の関係が主であったようで、多くの一般の人々の渡来をもたらすような関係ではなく、土器など考古資料としては残りにくかったようである
7世紀後半代は、百済滅亡によって、王族から一般の人々まで数多くの百済の人々が日本へ渡ってきた。しかし多くの渡来人生地が見られるにもかかわらず、百済土器などは出土していない。

p173
近年の
発掘調査はこれまで不十分であった原三国時代から三国時代への移行、即ち弁韓から伽耶、辰韓から新羅への変遷を考えていくうえで重要な考古資料を提供した

p250
渤海と日本との通交は
渤海から34回、日本から13回の使節があった。
9世紀半ば以降は事実上唯一の正式国交となっていた

p273
【渤海は】726年
契丹に降伏し、ここに渤海は滅亡する。
日本が渤海の滅亡を知るのは、929年
以後、15世紀初めの足利義満の時代までどことも正式の国交を持たなくなる


チンギス・ハーン
岡田英弘
1993年
朝日文庫

チンギス・ハーンに関する日本語の最も優れた著作である。同時に朝鮮史の記述は秀逸であり、在日の知能の低い朝鮮史美化運動家どもに読ませてやりたい

p202
アルタイ語族説」というのは。フィンランドの言語学者グスタフ・ヨーン・ラムステット(1873~1950)が提唱した学説である。
トルコ語、モンゴル語、ツングース語(満州語、エベンキ語など)、韓国語(朝鮮語)が共通の特徴を備えていて、たがいによく似ていることから、これらの言葉が元々は同じ言葉から分かれたであろうと考えて、アルタイ語族と名付けたのである。アルタイとは、もちろんアルタイ山脈の事で、現在この山脈が、東側のモンゴル語地域と西側のトルコ語地域との境界になっているため、

共通の特徴は何かと言うと、まず母音に二通りの系列があって、一つの単語の中では同じ系列の母音しか使えないこと(これを母音調和という)、単語の頭にはRがこないこと、それから文法では、主語が文章の最初にきて、次に目的語があり、最後に動詞が来ること、形容詞が名詞の前につくこと、動詞の活用や名詞の格変化が単語の語尾につく接尾辞で行われることなどである。つまり、アルタイ系の言葉というのは、いずれも日本語に似たところの多い言葉なのである
ただし残念ながらアルタイ語族説はまだ十分に証明されていない。

p204
色々な点で日本語はアルタイ語族の言葉によく似ているにもかかわらず、日本語があアルタイ系の言葉であるという決定的な証拠はまだないのである

p221
モンゴル軍は金領に侵攻して猛威を振るっていたが、中央アジアと違って、この方面で大虐殺があったことは伝えられていない。これは虐殺がなかったからではなく、記録を残した中国人たちが、虐殺は自分たちの古来の戦争のルールとして、特に怪しまなかったからであろう。
大虐殺の記録が中央アジアで特に多くて、被害を実際の100倍も誇張しているのは、この方面のイスラム教徒がモンゴル軍の侵入で受けたショックの大きさを物語るものである。ショックが大きかった理由は、第一にモンゴル軍が最初にまず無条件降伏を要求して、一切の取引を認めないという態度を絶対に崩さなかったこと、第二に、少しでも抵抗した敵に対しては、その後で降伏してももはや助命せず、捕虜を殺しつくすという原則を貫いたことである

p222
チンギスハーンのモンゴル軍の戦争のやり方が、それまでの戦争と全く違って、無条件降伏か死の原則を貫いたのは、自分たちは、天から世界征服の使命を授かった種族であり、戦争はその神聖な使命を果たす手段であると、彼らが確信していたからである

p223
十進法の編成は、匈奴以来の遊牧帝国の伝統である。これは一見したところ、それまでの部族、氏族を解体して、軍隊式に再編したもののように見える。しかし、本来遊牧帝国の君主の位は選挙制であり、君主は部族長、氏族長の大会議で選出されるものである。其の君主に、自分の選挙母体である部族、至極の内政に干渉する権利はない。まして、部族・氏族を解体して再編することなど、出来ようはずはない。実際のところ、千人隊長の位階は、荷族長、氏族長の格付けであった

p225
チンギスハーンの定住民に対する征服戦争が非常に良く成功した理由の一つは、抵抗する者を決して許さず、最後の一人まで殺しつくすが、抵抗せず降伏する者は、人頭税を払わせるだけで助命し、自治を許すという、分かり易い原則を実行したことであるが、その他にも少なくとも6つの理由が数えられる

第一に、前もって情報を良く集め、地理を調査し、綿密な作戦予定表を作って、それに従って行動したことである
第二に、作戦中は兵士の規律が徹底して、指揮官の命令を厳守したことである
第三に兵士はそれぞれの乗馬の他に代え馬を用意しているので、部隊の機動力が大きかったことである
第四に、モンゴル人の弓は張り合わせ弓で、矢の速力が大きく射程が長かったことである
第五に、モンゴル軍の進軍途上で、他の遊牧種族が我も我もと参加し従軍したために、出発した時より目的地に到着した時の方が兵力が大きくなる、雪だるま現象を呈したことである
第六に、モンゴル軍の敵は、概ね地方社会で、統一行動の習慣がなく、功にはやった抜け駆けや仲間割れを起こしやすくて、モンゴル軍に各個撃破されたからである

p227
オゴテイハーンは華北の占領地の戸口調査を行い、百十一万戸あまりの「漢人」の民を戸籍に登録した。この数字から華北の定住民の総人口はたった五百万人ばかりしかなかったことが解る。しかもこの「漢人」は中国人ではなく、契丹人、高麗人、女直人、渤海人などの総称であった。

p237
モンゴル帝国には全体を統治する中央政府は無く、多数の所領(ウルㇲ)の集合であった。
皇族やモンゴル貴族たちに変わって彼らが定住地帯に持つ所領を差配したのは、中書省という役所で、大都におかれ、モンゴル高原のゴビ砂漠以南と、華北の山東・山西・河北を管轄した。
中書省の直轄地以外の地方には、中書省から出向した行中書省という役所を置いて、その地方の定住民を管理した。行中書省は11あった。嶺北(カラコルム)、遼陽(療養におかれ、満州を担当)、河南(開封)、陝西(西安)、四川(成都)、甘粛(張液)、雲南(昆明)、江浙(杭州)、江西(南昌)、湖広(武漢)、征東(瀋陽におかれ、高麗王国・済州島・アムール河下流域を担当)である

p253
1231年から259年まで30年近く続いたモンゴル軍の韓半島侵入によって、多数の高麗人が満州に連れらられた。オゴテイハーンは彼らを遼河デルタの遼陽と瀋陽に定住させた。こうした高麗人のコロニーは、モンゴル時代の高麗の政治に大きな影響を及ぼした。1274年と1281年のモンゴル軍の日本侵入を指揮した副司令官の洪茶丘は、遼陽生まれの高麗人二世である。フビライハーンは彼の為に、遼陽等行尚書省(後に行中書省)を設置して満州の行政に当たらさせた。
高麗の忠列王は
フビライハーンの娘と
結婚し、二人の間に忠宣王イジル・ブハが生まれた。
1307年のテムルハーンの死後のクーデターでは、忠宣王は兄弟に加担しその功績によって、ハイシャン・ハーンから瀋陽王に封じられて、満州の高麗人コロニーの王となった。こうして高麗本国の他にもう一つの高麗人の国が出来た。
翌1308年、父の忠列王が死ぬと、忠宣王は瀋陽王のまま高麗国王の位を継いだ。こうして二つの高麗国はひとまず統合された。
【歴代高麗国について記述】
元朝の宮廷は忠恵王が高麗国王の位を継ぐことを容易に許さなかった

p267
オスマン王家はもともとアナトリア半島(現在のトルコ共和国)に駐屯したモンゴル軍出身である

p271
インドのムガル帝国の建国である。「ムガル」というのは「モンゴル」と同じで、モンゴル人のバープルが建てたムガル帝国はすなわちモンゴル帝国なのである

p279
和寧というのは、李成桂の故郷の永興の別名であったが、北元の根拠地のカラコルムの別名も和寧であった。洪武帝は勿論朝鮮を選んだ。こうして韓半島の王国は、モンゴル帝国から分離して独立したのである。

p280
両班が固守する「同姓不婚」
高麗時代に父系性・族外婚制のモンゴル人から受けた影響が元になっている
こうしてチンギスハーンのモンゴル帝国は、東は韓半島・中国から西は地中海に至るまでのほとんどすべての国々を生み出した。まことにチンギスハーンは世界を作ったのである



イザベラ・バード 旅の生涯
O.チェックランド
川勝貴美 訳
1995年 日本経済評論社

日本奥地紀行は、イザベラの主著とも言うべき著作であった。また、日本訪問当時は、ビショプ夫人ではなく、イザベラ・バードであったのだ

pⅳ
22歳から70歳まで、イザベラは大きな旅行を7回している

pⅶ
医師ジョン・ビショップと結婚した
ジョン40歳、イザベラ50歳の時である

p5
父エドワード・バードは
法廷弁護士をしていた【その後】
聖職に就いた

【伝記の内容から、やはりイザベラは当時の女性として今日の女性のような教育は全く受けてはいない。父が法廷弁護士であり、区分すれば、イギリスのミドルクラスの最上位に当たる階層の女性である】


p85
1878年6月~9月
日本==未踏の地へ

p107
マラヤ 1879年
イザベラはマレー半島を旅し

p138
1886年【夫が死去】

p167
1894年~1896年
朝鮮・中国北部

イザベラは朝鮮を合計4回訪問した。期間は合わせて9カ月である

p170
朝鮮各地を旅するのに通訳が不可欠だった。長老派教会の若き宣教師ミラーが救いの手を差し伸べた

p176
1895年1月に再び挑戦を訪れたイザベラは
国王夫妻に謁見した

p185
1895年 & 1896年
【中国訪問】

p205
モロッコ 1901年
【イザベラは訪問記を書いてはいない】

p217
1880年イザベラの日本奥地紀行
出版された

p230
1880年の秋に日本奥地紀行を出版すると直ちに批評家から喝さいを浴びた
【出版社の編集者からイザベラに宛てた手紙の内容として】
「長い間出版に携わってきましたが、これほどまでの勝算を得たことは初めてです。あなたをたたえる声でどれほどここが大騒ぎになっていることか、お伝えしようもありません。このような旅行記で1カ月の間に第3版が出るとは、今までなかったことです」

【巻末の年譜から】
1831年 生まれる
1856年 イギリス女性のアメリカ紀行(The English waman in America)出版
1859年 アメリカの宗教事情 出版
1869年 エデインバラ旧市街に関する覚書 出版
1875年 サンドイッチ諸島での半年 出版
1879年 女性のロッキー山脈生活記 出版
1880年 日本奥地紀行 出版【49歳】
1883年 黄金の半島 出版
1891年 トルコとクルデイスタンの旅 出版
1898年 邦訳では朝鮮紀行 出版【67歳】
1899年 邦訳では中国奥地紀行 出版【68歳】

日本における日麗関係史研究:1992~2016年
村 井 章 介

はじめに

私には必要ない

2017年9月16日、韓国春川市の江原大学校60周年記念館国際会議室において、韓日関係史学
会25周年を記念する国際学術会議「韓日関係史研究の回顧と展望」が開催され、私は招かれて
主題発表の一つを担当した。会議のプログラムは下記の通りである。

Ⅰ 通史・概説
[川添昭二1992・1994]は、本稿が対象とする25年間の初年に書かれた日本中世対外関係史
の概論で、軽視されがちな高麗関係にもバランスよく字数を割いている。[田村洋幸1993]も、
13世紀までの日麗関係を生産力を中心に経済史の視点からたどっている。

しかし、両者とも12世紀以降の日麗交易の不振の原因を高麗の低生産力や商業未発達に求めるのは、証明されていない前提に基づく立論といわざるをえない。

Ⅱ 平安時代の日麗関係
[石井正敏2000]は、997年の奄美海賊(南蛮賊徒とも)による九州各地襲撃事件が、中央
の貴族層によって「高麗来襲」と誤解された一件を素材に、事件の直前に「日本国を辱しむる
の句」をふくむ高麗牒状が到来しており、これが伏線となったこと、高麗をいつ襲ってくるか
分からない「敵国」と見る意識が、鎌倉時代に至るまで保持され続けたことを論じる。

Ⅲ 仏教界の交流と宋海商の活動

Ⅳ 鎌倉前期の日麗関係

Ⅴ モンゴルの脅威のもとで


[森平雅彦2015]は、モンゴル東征を1268年から1294年までの幅でとらえ、その間を7つの時期に
区分して、戦争・戦争準備の概略を述べ、それぞれの期における高麗側の軍需負担を、品目や
種類別にできるかぎり定量的に把握することを試みる。さらに軍需調達の方式を概観して、
接生産者の経営基盤を破壊するような収奪は避けられ、俸禄や備蓄の転用や元からの供与に比
重があったとする。

モンゴル東征にからむ日麗関係については、従来知られていなかった史料が複数紹介され、 大幅な進展があった。

Ⅵ 倭寇と日麗交渉

1366年に高麗が倭寇の禁圧を求めて日本に送った外交文書3通(醍醐寺報恩院文書)とその
関係史料について、2007年以降あいついで論文が発表された

高麗末の倭寇の実体をどう考えるかは、学界で意見が分かれている。
1987年に倭寇の主体を
高麗・朝鮮人とする田中健夫・高橋公明の説が登場して以来、韓国ではこれへの反発が強く、
とくに李領が精力的に論陣を張っている(後述)

浜中は、田中・高橋説の根拠となっている1446年の李順蒙上書の「倭人不過一二」
という文言は信が置けない、また経営破綻した農民や禾尺・才人という賤民が倭寇と連合した
とする見方には根拠がないとし、倭寇の本質を境界性に求める村井章介の議論に対しても、倭
寇に協力した高麗人や朝鮮出自の倭人がいたところで、倭寇の本質とは無関係だと退ける。[村
井章介1997]も浜中同様李順蒙上書や禾尺・才人=倭寇説を批判するが、他方で、境界空間に
対する高麗国家の掌握は徹底しておらず、そこを生活の基盤とする辺民・賤民と倭人の交じり
あいを排除しきれてはいない、と主張する。[藤田明良1997]は、明初に浙江の舟山群島で起
きた「蘭秀山の乱」に関する興味ぶかい朝鮮史料、『吏文』所収洪武3年10月9日明中書省咨
を紹介した。そこには、乱の主謀者の一人林宝一が済州島を経て高麗全羅道の沿岸・島嶼部に
逃れ、「洪万戸」「高伯一」などの住民らと交じりあっているようすが記されている。この海域
にはむろん倭人も出没していた。国家支配の届きにくい境界空間の流動性・多民族性を、ビ
ビッドに見ることができる。[藤田明良1998]は、宋にもっとも近い黒山島に対する朝鮮歴代
王朝の支配の試みをとりあげる。

浜中説は倭寇は日本人だとするのみで、その社会的実体について積極的な提示がない。この
点に踏みこんだのが李領である。

おわりに


付表:1992~2016年の日麗関係史研究(編著者名の50音順)
荒木和憲「文永七年二月付大宰府守護所牒の復元―日本・高麗外交文書論の一齣」(『年報太宰
府学』2、2008)
石井正敏「日本・高麗関係に関する一考察―長徳3年(997)の高麗来襲説をめぐって」(中央
大学人文科学研究所編『アジア史における法と国家』中央大学出版部、2000)➡『石井正
敏著作集3高麗・宋元と日本』(勉誠出版、2017)
石井正敏「『小右記』所載「内蔵石女等申文」にみえる高麗の兵船について」(『朝鮮学報』
198、2007a)➡同上

石井正敏「藤原定家書写『長秋記』紙背文書「高麗渤海関係某書状」について」(『(中央大学)
人文研紀要』61、2007b)➡『石井正敏著作集1古代の日本列島と東アジア』(勉誠出版、
2017)
石井正敏「『異国牒状記』の基礎的研究」(『中央大学文学部紀要』史学54、2009)➡『石井正
敏著作集3高麗宋元と日本』(勉誠出版、2017)
石井正敏「高麗との交流」(荒野泰典・石井正敏・村井章介編『日本の対外関係3通交・通商
圏の拡大』吉川弘文館、2010a)➡同上
石井正敏「貞治六年の高麗使と高麗牒状について」(『中央大学文学部紀要』史学55、2010b)
➡同上
石井正敏「文永八年の三別抄牒状について」(『中央大学文学部紀要』史学56、2011)➡同上
石井正敏「至元三年・同十二年の日本国王宛クビライ国書について」(『中央大学文学部紀要』
史学59、2014)➡同上
植松正「モンゴル国国書の周辺」(『(京都女子大学史学会)史窗』64、2007)
植松正「第二次日本遠征後の元・麗・日関係外交文書について」(『東方学報』京都90、2015)
榎本渉「入宋・日元交通における高麗―仏教史料を素材として」(科研報告書『中世港湾都市
遺跡の立地・環境に関する日韓比較研究』東京大学大学院人文社会系研究科、2008)
岡本真「外交文書よりみた14世紀後期高麗の対日本交渉」(佐藤信・藤田覚編『前近代の日本
列島と朝鮮半島』山川出版社、2007)
太田彌一郎「石刻史料「賛皇復県記」にみえる南宋密使瓊林について―元使趙良弼との邂逅」
(『東北大学東洋史論集』6、1995)
上川通夫「中世仏教と「日本国」」(『日本史研究』463、2001)➡同『日本中世仏教形成史論』(校
倉書房、2007)
川崎保「『吾妻鏡』異国船寺泊漂着記事の考古学的考察」(『信濃』54-9、2002)
川添昭二「中世における日本と東アジア」(『福岡大学総合研究所報』147・156、1992・1994)
➡同『対外関係の史的展開』(文献出版、1996)
桑野栄治『李成桂』(山川出版社 世界史リブレット人、2015)
高銀美「大宰府守護所と外交」(『古文書研究』73、2012)
小峯和明『院政期文学論』(笠間書院、2006):「『対馬貢銀記』の世界―異文化交流と地政学」
近藤剛「嘉禄・安貞期(高麗高宗代)の日本・高麗交渉について」(『朝鮮学報』207、2008)
近藤剛「泰和6年(元久3・1206)の対馬島宛高麗牒状にみえる「廉察使」について」(『中央
史学』32、2009)
近藤剛「『平戸記』所載「泰和六年二月付高麗国金州防禦使牒状」について」(『古文書研究』
70、2010)
近藤剛「高麗における対日本外交条件の処理過程について」(中央大学人文科学研究所編『情
報の歴史学』中央大学出版部、2011a)
近藤剛「『朝野群載』所収高麗国礼賓省牒状について―その署名を中心に」(『中央史学』34、
2011b)
近藤剛「12世紀前後における対馬島と日本・高麗―『大槐秘抄』にみえる「制」について」(中
央大学人文科学研究所編『島と港の歴史学』中央大学出版部、2015)
佐伯弘次「14-15世紀東アジアの海域世界と日韓関係」(『第二期日韓共同研究報告書』第二分
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佐伯弘次「蒙古襲来以後の日本の対高麗関係」(『史淵』153、2016)
篠崎敦史「刀伊の襲来からみた日本と高麗との関係」(『日本歴史』789、2013)
篠崎敦史「高麗王文宗の「医師要請事件」と日本」(『ヒストリア』248、2015)
末木文美士「高山寺所蔵高麗版続蔵写本に見る遼代仏教」(『平成25年度高山寺典籍文書綜合調
査団研究報告論集』2014)
関周一「鎌倉時代の外交と朝幕関係」(阿部猛編『中世政治史の研究』日本史史料研究会論文
集 1、日本史史料研究会企画部、2010)
関周一「高麗王朝末期・朝鮮王朝初期の対日使節」(『年報朝鮮学』18、2015)
孫承詰「14-15世紀東アジア海域世界と韓日関係―倭寇の構成問題を含む」(『第二期日韓共同
研究報告書』第二分科会篇、2011)
高橋公明「外交文書を異国牒状と呼ぶこと」(『文学』6-6、2005)
高橋昌明「東アジアの武人政権」(歴史学研究会・日本史研究会編『日本史講座3中世の形成』
東京大学出版会、2004)➡同『東アジア武人政権の比較史的研究』(校倉書房、2016)
高橋昌明「比較武人政権論」(荒野泰典・石井正敏・村井章介編『日本の対外関係3通交・通
商圏の拡大』吉川弘文館、2010)➡同上
田島公「冷泉家旧蔵本『長秋記』紙背文書に見える「高麗」・「渤海」・「東丹国」」(上横手雅敬
編『中世公武権力の構造と展開』吉川弘文館、2001)
田村洋幸「高麗における倭寇濫觴期以前の日麗通交」(『(京都産業大学経済経営学会)経済経
営論叢』28-2、1993)
張東翼「1269年「大蒙古国」中書省牒と日本側の対応」(『史学雑誌』114-8、2005)➡同『モ
ンゴル帝国期の北東アジア』(汲古書院、2016)
張東翼「1366年高麗国征東行中書省の咨文についての検討」(『(関西大学アジア文化交流セン
ター)アジア文化交流研究』2、2007)➡同上
張東翼『モンゴル帝国期の北東アジア』(汲古書院、2016):「a 金方慶の生涯と行蹟」「b モン
ゴルに投降した洪福源および茶丘の父子」「c 14世紀の高麗と日本の接触と交流」
南基鶴「蒙古襲来以後の日本と東アジア」(同『蒙古襲来と鎌倉幕府』臨川書店、1996)
南基鶴「蒙古襲来と高麗の日本認識」(大山喬平教授退官記念会編『日本国家の史的特質』思
文閣出版、1997)
南基鶴(村井章介訳)「高麗と日本の相互認識」(科研報告書『グローバリゼーションの歴史的
前提に関する学際的研究』2003、立教大学文学部)
馬場久幸『日韓交流と高麗版大蔵経』(法蔵館、2016)
浜中昇「高麗末期倭寇集団の民族構成」(『歴史学研究』685、1996)
原美和子「宋代東アジアにおける海商の仲間関係と情報網」(『歴史評論』592、1999)
原美和子「勝尾寺縁起に見える宋海商について」(『学習院史学』40、2002)
原美和子「宋代海商の活動に関する一試論」(小野正敏ら編『考古学と中世史研究3 中世の
対外交流』高志書院、2006)
藤田明良「「蘭秀山の乱」と東アジアの海域世界―14世紀の舟山群島と高麗・日本」(『歴史学
研究』698、1997)
藤田明良「9世紀~16世紀の黒山島と朝鮮国家―東アジア国家の島嶼支配に関する覚書」(『新
しい歴史学のために』230・231、1998)
藤田明良「東アジア世界のなかの太平記」(市沢哲編『太平記を読む』吉川弘文館、2008)


保立道久「院政期の国際関係と東アジア仏教史―上川通夫・横内裕人氏の仕事にふれて」(同
著『歴史学をみつめ直す―封建制概念の放棄』校倉書房、2004)
溝川晃司「日麗関係の変質過程―関係悪化の経緯とその要因」(『国際日本学』1、2003)
村井章介「1019年の女真海賊と高麗・日本」(『朝鮮文化研究』3、1996)➡同『日本中世の異
文化接触』(東京大学出版会、2013)
村井章介「倭寇の多民族性をめぐって―国家と地域の視点から」(大隅和雄・村井章介編『中
世後期における東アジアの国際関係』山川出版社、1997)➡同『日本中世境界史論』(岩
波書店、2013)
村井章介「大智は新安沈船の乗客か」(『日本歴史』694、2006)➡同『日本中世の異文化接触』
(東京大学出版会、2013)
村井章介「倭寇とはだれか―14~15世紀の朝鮮半島を中心に」(『東方学』119、2011)➡同『日
本中世境界史論』(岩波書店、2013)
森公章「古代日麗関係の形成と展開」(『海南史学』46、2008)➡同『成尋と参天台五臺山記の
研究』(吉川弘文館、2013)
森平雅彦「牒と咨のあいだ―高麗王と元中書省の往復文書」(『史淵』144、2007)➡同『モン
ゴル覇権下の高麗―帝国秩序と王国の対応』(名古屋大学出版会、2013)
森平雅彦「日麗貿易」(大庭康時等編『中世都市・博多を掘る』(海鳥社、2008)
森平雅彦『モンゴル帝国の覇権と朝鮮半島』(山川出版社 世界史リブレット、2011)
森平雅彦「高麗・朝鮮時代における対日拠点の変遷」(『東洋文化研究所紀要』164、2014)
森平雅彦「モンゴルの日本侵攻と高麗における軍需調達問題」(『年報朝鮮学』18、2015)
山本光朗「元使趙良弼について」(『史流』40、2001)
横内裕人「高麗続蔵経と中世日本―院政期の東アジア世界観」(『仏教史学研究』45-1、2002)
➡同『日本中世の仏教と東アジア』塙書房、2008)
横内裕人「遼・高麗と日本仏教―研究史をめぐって」(『東アジアの古代文化』136、2008)
李鍾黙(桑嶋里枝訳)「朝鮮前期韓日文士の文学交流の様相について」(『朝鮮学報』182、2002)
李領「中世前期の日本と高麗―進奉関係を中心として」(『(東京大学地域文化研究会)地域文
化研究』8、1995)➡同『倭寇と日麗関係史』(東京大学出版会、1999)第二章
李領『倭寇と日麗関係史』東京大学出版会、1999):「a 院政期の日本・高麗交流に関する一考察」
「b「元寇」と日本・高麗関係」「c <庚寅年以降の倭寇>と内乱期の日本社会」「d 高麗末
期倭寇の実像と展開―『高麗史』の再検討による既往説批判」
李領「「庚申年の倭寇」の歴史地理学的検討―鎮浦口戦闘を中心として」(『シリーズ港町の世
界史1港町と海域世界』青木書店、2005)
李領「14世紀における東アジアの国際情勢と倭寇―恭愍王15年(1366)禁倭使節の派遣をめ
ぐって」(科研報告書『中世港湾都市遺跡の立地・環境に関する日韓比較研究』2008a)
李領「<庚寅年以降の倭寇>と松浦党―禑王3年(1377)の倭寇を中心に」(同上、2008b)
渡邊誠「平安貴族の対外意識と異国牒状問題」(『歴史学研究』823、2007)
渡邊誠「国際環境のなかの平安日本」(大津透編『摂関期の国家と社会』山川出版社、2016)




朝鮮王朝が編纂した高麗史書にみえる元の日本侵攻に関する叙述

孫衛国
(南開大学歴史学院、中国天津、300350) [原文は中国語、翻訳:宋剛(北京外国語大学)]

高麗史によれば、文永の役:徴用数合計14,700

要旨: 朝鮮王朝は建国初期から、編年体で『高麗史』を編纂しようと努力を重ねてきたが、 実現できなかった。李朝世宗の勅命により、高麗朝の歴史を紀伝体で編纂し、139 巻の 『高麗史』を仕上げ、朝鮮王朝に正統性を付与した。『高麗史』における元の日本侵攻 に関する記載は、高麗の自主性を強調し、高麗が元王朝の要求に巧妙に対応したことを 表わし、高麗が提供した軍隊の食糧、人力などを細かく記録している。そして、高麗を 裏切って元王朝に投降した高麗人を「反人」と見なして、「叛逆伝」に収めたことから は、高麗が宗藩関係のもとで独立自主を求めようとした意識と努力が伺える。


『元史』と日本史書と比べて、『高麗 史』に見える元の日本東征に関する記述は極めて偏っている。東アジア三国の歴史事件 に関して、「一国史」の枠から抜け出し、「東アジア史」の目線から考査してから初め て、歴史の真相に近づくことができる。

一、 朝鮮王朝が『高麗史』を編纂した意図と経緯

最初は編年体で高麗の歴史編纂の仕事を展開した。太祖四年(1395)、李成桂は鄭道 伝に『朝鮮王朝実録』などの史料をもとに、編年体の『高麗国史』の編纂を命じ、全 37 巻の『高麗国史』が仕上がった。今この本は失われている。

この本の史論は『高麗史節要』に大量に取り入れられ、後世に伝わった。そして、後の 高麗史の編纂のための基礎を築き上げた。

世宗五年(1423)、世宗は卞季良、柳 観、尹淮などに史書の改編を命じた。
翌年に、『讎校高麗史』世宗三十年(1448)に、この史書は 初めて印刷された。多くの史料を取り入れたが、主旨が明らかではないから、後年、本 の発行は停止した。しかし、この本は『高麗史』と『高麗史節要』の編纂のための、豊 富な資料を提供している。5が完成したが、意見が一 致せず、発行できなかった。

編年体を紀伝体に切り替えた。

6 編年体で編纂する場合、朝鮮王朝の正統性を確立しに くい。太祖は建国の当初から、編纂の仕事を始めたが、数代を経て、幾つかの史書を編 纂したにもかかわらず、朝鮮国王の意に適うものはない。紀伝体で再編集するしかな い。

(1451)八月に、『高麗史』の再編修が完成した

全書は目次 2 巻、世家 46 巻、志 39 巻、表 2 巻と列伝 50 巻からなり、合計 139 巻である。

そして、金宗瑞は紀伝体『高麗 史』に基づき、編年体で書き直した。翌年の二月に、『高麗史節要』が完成した。全 書、35 巻である。二冊の本により、高麗王朝の歴史の編修を通じて、朝鮮王朝の正統性 を確立する目的が実現した。

『高麗史』は国王に関する内容を「世家」に編入し、藩属国としての地位を表明した が、宋、元など中国皇帝の年号ではなく、高麗国王の在位年数を以て編年体で記述し た。これにより、高麗王朝の相対的独立性を表した。高麗王朝は建国して以来、相次い で五代、宋、遼、金王朝の皇帝の年号を使用していた。

高麗の元宗から、モンゴルの年 号を使用したが、忠烈王によって李成桂の政権が覆されるまで、元王朝の年号を使い続 けた。高麗は中国の諸王朝と付き合ってきた。

朝鮮王朝の官撰史書『高麗史』では、歴代の高麗王の記述が天子を意味する 「本紀」ではなく、諸侯の歴史をさす「世家」となっている。藩王としての地位を表し たが、『高麗史』は、中国皇帝の年号ではなく、高麗国王の在位年数を以て編年体で記 述した。

この折衷の方法によって、高麗の藩属国としての地位を認めながら、完全には 臣服せずに、独立自主の意識を持っているという朝鮮王朝の基本的な認識をはっきりと 表明した。以上のように二つの意識の結合は『高麗史』編纂の基調となった。

二、『高麗史・世家』における元による日本進攻の史料の選択や編纂の原則

第一、戦争の準備段階で、元王朝の理不尽な要求に対し高麗がやむを得ず対応したこ とを全面的に記述している。

元宗十二年(1271)正月に、「モンゴルは日本国信使秘書の趙良弼及び忽林赤、王国 昌、洪茶丘など四十人を遣わした」13。そしてフビライの詔書を持ってきた。彼らはモ ンゴル帝国が高麗を経由し、日本へ派遣した最初の使者団であり、実際に二回に分けて 派遣されている。

史料の中に、 洪茶丘が郊外へ迎えに行った高麗国王元宗を見ても「拝謁しなかった」14ことを特筆し た。即ち、洪茶丘が臣下として国王へ拝礼しなかった。この件を取り上げ、洪茶丘の傲 慢な態度をよく表し、高麗君臣と朝鮮の史官の不満を引き立てた。

中書省から公文書を承り、元軍が鳳州に屯田し、農耕用牛、器具、種や軍隊用食糧 の準備の命令を受けた。農耕用牛は、前に上奏した通り、弊国の都には家畜を農耕に 使う人が殆どいない。他の地域には家畜を飼う農耕民がいるが、多くても一か二匹に 過ぎない。貧乏な人は大抵農具(耒耜)を以て、或は牛を借りて耕作する。今、牛等 の家畜は、全羅道食糧の運輸のため、餓死や疲労で大半を失った。元来弊国の農民は 多くの農耕用器具を持っていないが、要求を達成できなくても、出来るだけの数を揃 えるように努めた。種は、農民が毎年耕作して、租税を納めて、食糧とする。・・・

軍隊用の食糧について、弊国の貯蔵した食糧は逆賊に奪われたもの以外、全部駐屯す る軍隊や馬そして討伐の軍隊に提供し、使い切った。国内外からの賦税や徴用は農民 の大負担となり、生計すら問題になったが、さらに、種や餌がたくさん徴用された。 秋に軍隊用の数万碩はどこから調達すべきだろうか。15

明朝の初期、高麗に、毎年処女と火者の貢進 を求め、宦官を派遣した。それは当時の朝鮮王朝にとって、耐えられない大きな負担で ある。16それゆえ、『高麗史』を編纂するときも、その史実を重点的に記述し、藩属国 としてのやむをえない気持ちを表しながら、藩属国としての反抗も表現した。その反抗 は大した効果を得なかったが、朝鮮王朝が自主意識を持っていて理不尽な待遇に甘んじ ている訳ではない証拠である。

討伐の経緯は「忠烈王世家」に簡略に記述されてい る。

一回目の日本遠征にあたり、高麗は受動的に元王朝の要求に対応せざるを得なかっ た。
二回目の日本遠征に当って、高麗の国内は積極的に参加し、その意思決定に加わろ うと試みて、出来るだけモンゴルの将軍の権限を制限し、高麗への影響を最小化する

二回目の日本遠征を決定する時に、高麗の国王忠烈王は大都にいって自ら皇帝の命令を 受けた。『高麗史』に意思決定の過程は次のように書かれている。

忠烈王は7つの希望条項を上奏した:
一、我が軍は耽羅を鎮戍(鎮守)する兵を以 て、東征を補うこと;
二、高麗、漢の両軍より、寧ろ蒙軍を以て前線に立てること;
三、洪茶丘の職任を加えず、臣も亦、征東行中書省の事を管轄すること;
四、小国の 軍官、みな牌面(勲章などの類)を賜ること;
五、漢の地浜海の者を梢工、水手に充 てること;
六、按察使(地方行政監察官)を遣わして、百姓の疾苦を見させること;
七、臣が自ら合浦に到って、軍馬を閲送をすること。18

よって、高麗の国王は日本遠征に参加することを非常に重視し、大臣を皇帝に拝謁さ せ、自ら東征の命令を受けたいと上奏してもらった。他の臣下を通して勅命を受けるの ではなく、直接に命令を受けることで、主導権を握ろうとした。

忠烈王の 意図は明らかであり、日本遠征において、他人に牽制されたり、日本遠征のため、政敵 に権力を握られ、高麗の国政に影響を与えたりするようなことを避るために、忠烈王は 主導権を握ろうとした。『高麗史』はそれに重点をおいて記述している。

フビライは忠 烈王の希望条項を採用しなかったが、忠烈王の意見は重視した。

第二次日本遠征の前に、高麗の国王は積極的に対応し、主導 権を握るために行動を取った。これらの行動や変化は『高麗史』に詳しく記述されている。そこから高麗王朝が宗主国の元王朝に対する抗争やお茶を濁す態度が伺える。ま た、高麗王朝が独立自主を獲得しようとする意志が明らかである。

第二、高麗が戦争のために大量の人力、食糧、馬の餌などを消耗した。それが高麗に まざまな困難を齎したことは『高麗史』に詳しく記述された。

職人など三萬五千人あまりを徴用させ、造船所 に派遣する。当時、駅站に往来する人が後を絶たず、徴用等の負担が大きく、期限が迫 っている。人々を苦しませる」20。

この史料には高麗王朝が軍隊の食糧を集める為に、取らなければならない方法が記載 されている。

第一、この史料から、二回目の日本遠征の間に、軍隊の食糧を集める為 に、高麗王朝の国王から、庶民まで皆定量の食糧を徴収し、前線の軍需を確保したこと が伺える。

第二、日本遠征は高麗社会のあらゆる面に損害をもたらし、すべての人に影 響が出てしまったことがよく表明されている。

一回目の日本遠征の前に、モンゴルの軍 隊は高麗で駐屯し、食糧を生産し、軍隊の食糧準備のための高麗の負担を軽減した。


二 回目の日本遠征の前には、モンゴルの軍隊は駐屯しなかったから、高麗の王朝は全国民 を動員し、すべての国民が食糧を寄与した。

第三、『高麗史』は特に「兵志」に、軍隊 の食糧を集める問題について述べている。「世家」の部分に、軍隊の食糧など物資の供 給が詳しく述べられていることを裏付けるものである。この部分の史実は注目すべきで ある。

準備の状況を報告した。「弊国は兵戦九百艘,梢工水手一 万五千人,正軍一万人を用意した。兵隊の食糧は漢の計量単位で表示する場合、十一万 石、他の物資や機械なども数えられないほど用意した。全力を尽くし、聖恩に報い る。」24

第三、『高麗史・忠烈王世家』は二回の日本遠征の経緯について、簡略に説明した。 記載の史実は高麗の将軍を中心とした。

元十一年(1274)年十月、日本は元麗連合軍第一次の日本遠征を「文永の役」と呼 ぶ。『高麗史・忠烈王世家』にこの戦争についての記述は数行しかない。

冬十月乙巳に、都督は金方慶を、朴之亮、金忻を知兵馬事、任豈を副使に任命す る。金侁を左軍使、韋得儒を知兵馬事、孫世貞を副使、金文庇を右軍使、羅裕、朴 保を知兵馬事、潘阜を副使に任命し、三翼軍を呼ばれる。都督は元の都元帥忽敦、 右副元帥洪茶丘、左副元帥劉复亨などと一緒に、モンゴルや漢軍二万五千、我が軍 八千、梢工と水手六千七百、戦艦九百艘余りを率いて日本を討伐し、一歧島に到達 し、千人余りの敵を殺し、軍隊を分けて別々の道を進み、倭は退却した。殘骸が 累々とし、夕方になってようやく停戦した。夜、暴風雨に遭い、戦艦、巌崖に触れ て大敗し、金侁が溺死した。25

元十八年(1281)、日本は元王朝の第二次遠征を「弘安の役」を呼ぶ。『高麗 史・忠烈王世家』に今度の日本遠征についての記載は数行しかない。

七年五月戊戌に、忻都、茶丘及金方慶、朴球、金周鼎等は戦艦を率いて日本を討 伐した。 癸亥、行省総把報:当月二十六日、諸軍は一歧島へ向かい、忽鲁勿塔船軍一百十 三人、梢手三十六人は暴風に遭い、方向を失った。郞将柳庇を派遣し、元王朝に事 情を報告した。 六月壬申に、金方慶等は日本と戦って、三百人余りの敵を殺した。翌日再び戦闘 し、範文虎は戦艦三千五百艘と十万余りの軍隊を率いて戦った。暴風雨に遭い、軍 隊は全部溺死した。 八月己卯に、别将金洪柱は合浦から出発し、行宫へ東征群戦敗の知らせを報告し た。元帥などは再び合浦に戻った。

同じ月に、忻都、茶丘、範文虎などが帰還し、元王朝の軍隊で犠牲になった数は 十数万以上である。

十一月壬午、各道は東征軍九千九百六十人、梢工水手一万七千二十九人を派遣 し、生還者は一万九千三百九十七人しかない。26 

二つの史料を総じて見れば、次の結論が得られる。

第一、簡略な記述は『高麗史・忠烈王世家』が日本遠征の戦争を重視していないこと を裏付ける。あるいは、戦争の経過は注目される重要な歴史事件ではない。

 第二、簡略な記述だが、どんな内容が記載されているかは注目すべきである。高麗の 軍隊の将軍たちや制度整備の状況などが重点的に紹介された。初回の日本遠征におい て、八千人しかない高麗の軍隊は、左、中、右という三部分に分けて、それぞれの将軍 によって指揮されたと記載されているが、元王朝の将軍については手短に触れただけで ある。人数から見れば、高麗の軍隊はごく一部しか占めていないが、『高麗史』におい ては、高麗の軍隊に重点を置いて記述されている。第二次の日本遠征の記述にも高麗の 将軍たちを重点的に紹介し、日本遠征に参加した高麗の将軍たちの名前が紹介されただ けでなく、本に記載される唯一の勝ち戦は高麗将軍金方慶が指揮した高麗の軍隊による ものであり、敵軍の三百人を殺した。元王朝の戦争状況については、敗戦しか触れてい ない。そして、「蛮軍」と呼ばれる範文虎が率いるモンゴルの軍隊に対し、軽蔑の意を 表した。

第三、具体的な戦争状況についての記述は簡略であり、二回の敗戦にも「暴風」が言 及された。

初めての日本遠征には「一歧島に到達し、千人余りの敵を殺し、軍隊を分け て別々の道を進み、倭は退却した。殘骸が累々とし、夕方になってようやく停戦した。 夜、暴風雨に遭い、戦艦、巌崖に触れて大敗し」と記載されている。日本を討伐し、最 初は勝ったが、夜からものすぎ暴風雨となり、「暴風雨」に負けた。いわゆる「神風」 のことである。

第二回に「暴風に遭い、方向を失っ」て、「暴風雨に遭い、軍隊は全部 溺死した」。東征失敗の直接な原因ともいえる。



第四、二回戦争の記述とも、具体的な損失が言及された。史料の第一段落には、戦艦 の大部分が沈没すること以外、左軍使「金侁が溺死した」事も特筆された。
「金侁」は 高麗の最高指揮官であった。



。後の『年表』には、「十月、金方慶と元の元帥忽敦、洪茶 丘などは日本を討伐し,一歧で戦敗し、犠牲になった兵士は一万三千五百人以上」27。上 記史料の第二段落に元軍の死傷状況に関するデータがたくさんある。そのデータは元軍 の東征の死傷状況を明らかにした。

以上のことから、『高麗王・忠烈王世家』のその戦争に関する記述において、高麗軍 隊は主役であり、モンゴルの軍隊は単なる脇役にすぎず、日本の海戦も背景にすぎな い。史料の選択は、『高麗史』の主体意識を明らかに表している。『高麗史』はこの戦 争を全面的に記述するのではなく、高麗の軍隊の役割を示し、選択を経た書き方であ る。

三、『高麗史』日本遠征における高麗の将軍たちに関する記載

『高麗史』において、元王朝に投 降し、高麗に損害をもたらした人の多くは「叛逆伝」に編入された。

洪福源は洪茶丘の父であり、「叛逆伝」に編入された。『高麗史』には洪茶丘伝がな いが、「洪福源伝」の中に、洪茶丘の悪行が記載されている。

その後、洪福源は高麗の人質永寧公綧のモンゴル人の妻に失礼な行動を 取ったから、死刑に処された。

元宗二年(1261)、フビライが即位した後、洪福源の冤罪を晴らし、彼の息 子洪茶丘に父の職務を継承させた。「帰服した高麗軍隊と百姓を統率する総管である」 33。それ以来、洪茶丘は元王朝の官僚であり、高麗の出身という点から、高麗の関連事 務の処理を任された。洪茶丘は高麗に同情することもなく、いつも高麗を困らせるか ら、高麗の君臣たちは洪茶丘を恨んでいる。

高麗の国王忠烈王はかなり洪茶丘を憚っていた。彼はフビライに洪茶丘を元王朝に呼 び戻してほしいと進言し、高麗に置いてはいけないと表明した。「洪茶丘がいる限り、 国を治めにくい!洪茶丘は軍隊事務だけを担当すべきだが、国家政務まで勝手に口を挟 んだ…(中略)…元王朝が軍隊を弊国に置くなら、鞑靼の軍隊或は漢軍を派遣してくだ さい。しかし、洪茶丘の軍隊は、呼び戻してください。」34忠烈王から見れば、洪茶丘 が勝手に国政に介入し、独断専行するから、忠烈王は国を統治するすべもない。だか ら、自ら皇帝に洪茶丘を呼び戻してほしいと進言した。

洪福源、趙彝が『叛逆伝』に編入される反面、金方慶は肯定すべき対象として取り上 げた。金方慶は兵部尚書翰林学士まで担当した。二回にわたる日本遠征において、金方 慶は高麗の軍隊の最高責任者であり、その伝記は二回の戦争について詳しく描写してい る。一回目の東征について、「金方慶伝」は次のように述べた。

第二次日本遠征の状況については、『金方慶伝』で次のように述べている。

七年三月、日本遠征へ出発した。方慶は先に義安軍に軍隊を検閲し、後で国王 も合浦に来て諸軍隊を検閲した。方慶と忻都、茶丘、朴球、金周鼎などが出発し、 日本の世界村大明浦に到達し、檄文を以て通事に知らせる。周鼎先は倭人の軍隊と 交戦し、諸軍隊も戦場に加わり、郞将康彦(康師子)等が死んだ。六月、周鼎、球、 朴之亮、荆万户等は日本の軍隊と交戦し、三百人以上の敵を殺した。日本の兵士が 急に攻め込み、官軍を破り、茶丘は馬を捨てて逃げた。王万户は横から進攻し、五 十人余りの敵を殺し、日本の軍隊が退却して、茶丘は命が助かった。翌日再び戦っ たが、戦敗した。軍隊の中で疫病が広がり、死者は三千人を超えた。忻都、茶丘な どは戦況は不利であり、かつ範文虎は時機を遅れたことを考慮に入れ、軍隊の撤退 を議論した。「勅命によれば、江南軍と東路軍を派遣し、其の月に一歧島に到達すると見込んでいる。今南軍はまだ着いてないが、我が軍隊が先に到達し、数回も戦 って戦艦や食糧を大量に消耗した。どうするべきだろう?」という。

方慶は黙り込 んだ。十日以上経ったが、議論は進展を遂げていない。方慶は「勅命により、三ヶ 月の食糧を用意したが、今は一ヶ月の食糧がまだ残っている。南軍が進攻する時を 待って、必ず敵軍を破る。諸将軍は異議を出す勇気がない。その後、文虎が十万以 上の軍隊や九千艘の船を率いて到達した。八月、暴風に遭い、蛮軍は全部溺死し た。朝夕で死体は浦に流れて浦を塞いだ。死体を踏んで浦を通ることもできる。遂 に軍隊を撤退した。」38

この二つの史実に対する描写は、東征の戦場のもう一つの姿を明らかにしている。幾 つかの特徴がある。

第一、元王朝の東征の記載の中で、『高麗史』における最も詳しい 史料であり、「忠烈王世家」の記載より詳しいし、細部の記述がたくさんあってより具 体的である。

第二、この史料では、金方慶がまるで戦争の決め手のようである。


第三に、この史料は『高麗史』の他の史料と同じであり、高麗の軍隊の戦場での様子を 表している。『高麗史』だけでは戦争の状況を全面的には把握できない。高麗の軍隊に 関する内容は朝鮮王朝当局が作り出したものであり、大げさで、作り話とも疑われる。

実際に、史料の偏っている表現を無視して、戦争の立場から見れば、元王朝が戦争を起 こし、高麗はやむを得ず元の先棒を担いだだけである。高麗の軍隊は単なる補助的な役 割を果たしていて、戦争の勝負を決めわけがない。

従って、『高麗史』の一部の内容は 大げさであり、作り話の部分すらある。例えば、金方慶と元帥の対話は本当の話だとは 考えられない。朝鮮王朝の歴史の編集者が、これらの会話を知るわけがない。たとえ高 麗王朝が関連の書類や資料を残していても、そんな対話が記録されるわけがない。従っ て、合理的な想像を通じて、金方慶の戦争での重要性を誇大し、彼を輝かしく表現して いる。『高麗史』の関連記述には、多少このような大げさな部分がある。


四、終わりに

 誠にフランスの歴史学者ミシェル・ド・セルトー が述べた通り、官撰の歴史の編纂は国家理性によって成し遂げたものである。「現存の 材料に基づいて、専門の手法を以てある「環境」における諸要素を「処理」し、緻密な 記述を作り上げた。」39従って、この史料は朝鮮王朝の史官によって構築されたもので あり、明王朝が編纂した『元史』や日本の関連史書の記載とは大きく異なる。


『高麗史』と『元史』を比べたら、様々な相違点に気付くはずである。例えば、洪茶 丘が金方慶を誣告する案件について、『高麗史』には金方慶は功績を上げて賞賜を貰 い、朝廷の官員たちに排除され、叛逆の罪と誣告され、「(洪)茶丘は高麗を憎んでい て、高麗を中傷しようを企てた。方慶を陥れることを聞いたら、中書省に調査を依頼す る。」40洪茶丘は様々な手を講じて、金方慶を迫害しようとした。金方慶は苦しめら れ、フビライは尋問した後に、金方慶のでっち上げの罪名を晴らした。『元史・高麗
伝』には「十四年正月、金方慶などが反乱し、皇帝は確信し反乱を鎮圧するように命じ たが、また忻都、洪茶丘に軍隊を整えさせた」41と記載されている。この伝記では金方 慶を反乱と見なし、『高麗史』では洪茶丘が金方慶を罪に陥れる。両者は正反対の見方 を示している。『高麗史』と『元史』において、様々な記述は矛盾していて、金方慶案 件は典型的な例である。『高麗史』において、金方慶は重臣と見なされ、彼のために立 伝したが、『元史』に金方慶は反乱の容疑者とみなされた。洪福源は『元史』に功臣と 見なされたが、『高麗史』の「叛逆伝」に編入された。


 

中国文明の歴史 8
明帝国と倭寇
間野 潜龍
1967年刊行 新人物往来社
2000年 中央公論社 により再刊行

必要な点は、メモした、朝鮮史の箇所重要


p31
【林 語堂 氏(中国人研究者)】氏はさらに具体的に分析して、トルコ種とみられる唐朝は別として

p58
この世を穢土(えど)と見て浄土に憧れる思想に、阿弥陀信仰がある。

p123
この小作人政権における官吏の俸給は、史上最低とされる。最高で月80石ポッキリ。最下で月5石
俸給の高かった宋では、最高が月に銅貨300貫、銀では300両以上、
月とすっぽんほどの違いがある
一方、明では農民を大切にした

p124
元の時の税の請負制
現物税であったことは、銀を追放するため、言い換えれば商人の台頭を抑えるためであった
銅貨は鋳造したが民間には遣わせなかった

p126
宋は、その商本主義の国策から、また元に至っては例の熱狂的な銀収奪策から、いずれも外国貿易を推し進めた。

p131
元帝国内部の一封建領主の感があった高麗も
フビライカーン以来、高麗王妃は元帝室から出るという習わしとなった。一方、当のフビライカーン側では、元帝室の家法として、高麗女性を卑しんで、その宮廷には高麗女性を入れないという、しきたりを定めていた

p132
むかしから、朝鮮の女性には気を許すなと言われたが、危氏もついに本性を現した。彼女は本国から多くの高麗美人を呼び寄せ、権勢のあるモンゴル大臣の家に送り込んだ
そのせいもあって、宮廷の女官の大半は高麗女性で、宦官もまたしかり、

p142
朝貢規定が作られた。交際は原則として皇帝と国王の間に限られる。鎖国によって民間同士の交わりはあり得ないからである。
国王を詐称するものがるから、その身分証明書がいる。それを防ぐためのものが、表分と勘合制であった。表分は国王が派遣した使者が持っていく正式な外交文書である。それには規格があって、皇帝が国王にさずけた印跡と明の年号が書いてなければならぬ。この表分がないと一切入国できない。実は、この表分の有無、或いは表分の形式が、国体観の違いを反映して、日本との間で大揉めに揉めたのである
勘合の制とは、割符のことで
【支給されたのは】15ヵ国となった。ほとんどが南海諸国で、それ以外は日本だけだった

p143
明は国によって寄港地を指定する。浙江の寧波は日本、福建の泉州は琉球、広東の広州はチャンパ・シャムその他の南海諸国である

p150
前期倭寇の主な舞台は朝鮮半島の南部で、時代的には高麗の末期に当たる

p155
李成桂はこれと並行して、倭寇の首領たちに直接働きかけ、優遇策をもってその帰順を勧めた。これが投下倭といわれるものである。やがてその数は増し、土地を与えられ、職を貰い、中には中枢部の官吏にすらなった。ために李朝財政を圧迫したほどである。これらの投下倭は
生活難にあえいだ対馬人が多かったのも自然の成り行きだろう

【「投下倭」 としている以上は、朝鮮王朝実録で検索すれば、出てくるはずである。しかし、中国の検索サイト(朝鮮王朝実録と中国正史他検索可能。明史も検索できる)、台湾の検索サイト(明実録、清実録、明実録の猿真似記録=朝鮮王朝実録の3つのみ検索可能)の両者で検索しても、「投下倭」 では全く検索ヒットしない。即ち、「投下倭」とは、実在しない朝鮮人どもが作り上げたいつものファンタジーに過ぎない。酷い話であり、朝鮮人どもを何とかしろ!の一言に尽きる。精神面での完全なDNA異常民族の面目躍如である。】

p157
倭寇 中国を襲う
前期倭寇の持つ政治性が見られる
彼らは
海賊衆であった

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p158
日明交渉
明の太祖は
倭寇の鎮圧を要請した

p161
そののちも倭寇はやまなかった

p163
洪武七年6月に来た足利義満の使者は、表分がないので退けられた。

p164
このあと連年入明する日本使者の国書が、書式にかなわぬとか、無礼であると難癖をつけられて退けた。
国交正常化が一向に軌道に乗らぬ上、一方、倭寇は絶えずやって来るとあって、
太祖は意を決して
征討軍を差し向ける書を送った

p165
太祖は日本征討を思いとどまった

p205
国書の形式は「日本准三后道義、書を大明皇帝陛下に奉る」となし、
明よりの漂着者を送還した
道義は義満の法名である
太祖の時、征夷将軍源義満の名で使いを出し、拒否されたが
建文帝は
寛大な政治方針をとったから
答礼使を出し
義満を正式に日本国王に封じ
義満はこの後日本国王道義の名をもって、明と通交した


p207
【義満の子、】義持は突如国交断絶を図り
明使を引見せず、その都度、追い返した

p257
全ての国が朝貢してくるのに、日本だけが久しくこないとあって、琉球を介してその旨を伝えさせた。
その結果が、永享4年(1432)の遣明船となったのである
【義持の次の将軍義教】
この永享遣明船は5隻の船団からなり、持船主は、1号が将軍家、2号が相国寺、3号が山名家【以下略】
こうして貿易は再開された

p173
明の常備軍の数は洪武26年以後は、180万以上あり

p174
唐朝は藩鎮によって弱められたが、なお300年続いた
太祖が目を付けたのもこの点にある。
各王を辺境に定住させ

p183
燕王の手兵はモンゴル兵を交えた歴戦の精鋭部隊である

p197
永楽帝はしきりに宦官を使った

p254
寧波の変
嘉靖二年(1523)
寧波で大内・細川の使者が互いに殺傷するという大事件が起きた
この頃になると、勘合貿易の経営権は足利将軍の手を離れて、細川・大内両家の手に帰し、この二者は互いにその主導権を争った。
大内側では
細川方を襲い12人を殺害した
倭寇に備えた明の将兵を殺害したり捕えたりして海に逃れ去った。この公然たる暴挙に明の官民は手をこまねいてだ一人は向かうものがなかった。これは日本人に中国人くみやすいと思わせたのであろう。この異変はまさに後期倭寇の発端とみなしえよう

p267
頚部主事に唐枢は
「海寇と商人はもともと同一のもので、貿易が通じると海寇は商人に変わり、禁じられると商人は海寇に早変わりする」
この言葉は後期倭寇の性格一面を良く表している

p271
唐枢によると「今、海寇は数万と言われ、みな倭人といっているが、その実、日本人は数千に過ぎず、その他は皆中国の人民である。」
と指摘している。これが後期倭寇の実際である

p280
倭寇の七割までが不逞の中国人とあっては手の施しようがなかった。
奥地侵入の新記録
都会の占領である


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近世の日朝関係
日本学士院会員 田 代 和 生


さすが👍の一言

はじめに─徳川時代以前の対馬宗氏

対馬は日本と朝鮮の間に位置するが、九州博多よりも朝鮮半島に近く、海上約 50km 先に朝鮮半島の南端を肉眼で見ることができる。

島の90%近くは嶮しい山林 で占められ、耕作地が乏しいため、住民たちは貿易に頼って生計を立ててきた。

初めは惟宗氏と称していたが、対馬の領 国支配を進めるかたわら、朝鮮政府と利害を一致させて通交貿易の独占化をはか り、それとほぼ並行して「宗」姓を名乗るようになった。

1443年、宗氏 は朝鮮との間で約条(agreement)を結び、年間50艘の使船を派遣できる権利を獲 得し、さらにこの使船運営から生じる権益支配権(使船所務権)を、土地の代わり に家臣たちに与えることで島内基盤を固めていった。

また時には、足利将軍や守護 大名大内氏などの名前を騙り、貿易額の増大など交渉を有利に導くための工作を弄 して、16世紀中頃には日朝間の通交者は対馬宗氏とその関係者のみという状態に なった。

1 .徳川時代初期の日朝関係

朝鮮との講和交渉から通信使来日に至るまでの様々な交渉を行ったのは、 幕府ではなく、中世から日朝間の通交貿易を独占してきた対馬宗氏である。断絶し た両国の関係修復は、貿易で生計をたててきた対馬の人々の死活問題でもあった。

対馬から派遣された講和を乞う使節は、初めのうちこそ殺害されて帰国すること がなかったが、そのうち先の戦役で抑留されていた者を送還するようになると、朝 鮮側も漸く交渉に応じようとする気配を示しだした。

朝鮮に援軍として駐留してい た明軍が1600年に引き揚げ、日本との交渉に直接干渉することが無くなったことも あり、その 2 年後から相ついで対馬の動向を偵察し、講和の可能性を探ろうとする 使節が朝鮮から派遣されてきた。

時機到来とみた宗義智らは、1604年、対馬に滞在 していた朝鮮使節を説得して京都へのぼらせ、徳川家康・秀忠(1579-1632)父子 に伏見城で接見させることに成功した。

家康は大層喜 び、宗義智にあらためて「朝鮮御用役」として講和交渉の進展に尽力するよう命じ、 功績として対馬の本領以外に九州肥前の地に2,800石を加増し、江戸への参府は三年に一度で良いといった特権を与えた。

学士院会員殿はボケたのか?家康の時代に参勤交代制度はなかった。従って、家康が「江戸への参府は三年に一度で良い」とすることなどあり得ない

講和の動きが最終段階に入るころ、朝鮮側は通信使を派遣するための条件とし て、先に家康の国書を謝罪の意を込めて送るよう通達してきた。戦後初めての国書 を、それも先に出すということは、当時の外交上の慣習として相手国に恭順の意を 示すことになる。幕府がこうした要求に応じる筈はないとみた宗義智らは、この重 大な時期を乗り切るために、「家康国書」なるものを島内で偽造して解決をはかる ことにした。

1606年、これが朝鮮へ届けられ、その翌年通信使(朝鮮側の呼称は「回 答使」)の派遣が決定した。

また通信使が持参する国書は、復書の体裁で書かれて いたため、これを往書に書き替えなければならなかった。

このほか偽造国書の存在 を窺わせるような文面を削除したり修正するなどして新たな偽造国書を作成し、こ れを途中ですり替えることで、表面的には何事もなかったように通信使の行事を終 わらせて修好回復を達成した。

やがて1609年、朝鮮国と宗氏の間で新たな約条が締 結され、宗氏の特殊権益を保証する形で念願の貿易再開にこぎつけることができた。

2 .「柳川事件」と日朝関係の改変
 国書の偽造と改ざんといえば大変なことのようにみえるが、先述したように対馬 では中世から足利将軍の名を騙った偽使を何度も派遣し、そのつど足利将軍の印鑑 「徳  有  鄰  」の印影を模した偽造国書を作成していた。

国書の偽造は対馬秘蔵の伝統的荒技であったといえる。

また1590 年、秀吉が受け取った国書も朝鮮国王の印鑑「爲 政  以  徳 」を模した偽造国書であり、 統一政権成立後は朝鮮側の国書偽造にまで及んでいた。

徳川時代の国書偽造は1606 年に始まり、三回の通信使来日期(1607・1617・1624年)やその他の交渉事を合わ せると、全部で10通余りの偽造国書が徳川将軍や朝鮮国王へ渡されたとみられる。
朝鮮側の官僚、とくに日本語通訳官が加担していることもあって、対馬島主・重 臣・外交僧が三位一体となって結束すれば、そう簡単に露顕することはなかった。

江戸生まれの重臣柳川調 興 (しげおき) (1603-1684)は、幼少期を家康・秀忠・家光の 側近くに仕えたことから幕閣に強いコネを持ち、さらに父智永代に家康から所領を 賜ったことで将軍直参の旗本としての意識が強かった。

しだいに新たな島主宗義 よし 成(1604-1657)との間に確執を深め、やがて1633年、調興は重大な内部告発、すな わち通信使が将軍へ奉呈した朝鮮国書は改ざんされたものであると老中へ直訴した (これを「柳川事件」という)。

丁度このころの幕府は、外国との貿易を管理しや すい直轄地長崎に集中させ、武士が貿易を行うことを禁じ、さらに日本人の海外渡 航を禁止するなど、いずれも宗氏が行ってきた朝鮮との通交貿易に逆行する対外政 策を次々に打ち出していた。

柳川氏の告発は、唯一、一族が関与しない1624年度の 通信使関係に限られており、このことからみると、宗氏の排除後、「旗本柳川氏」 が幕府の管理する日朝関係を取り仕切ろうと画策したものと考えられる。

 幕府の裁決は、1635年、江戸城において将軍家光ならびに御三家、諸大名、旗本 衆ら臨席のもと、宗義成と柳川調興を対決させたのちに下されることになった。

 結果は、柳川氏側の敗訴となり、宗氏側に味方した外交僧玄方(1588-1661)も有罪、 しかし意外にも両人ともに流罪という軽い処分で、それぞれの配所へ送られていっ た。いっぽう宗義成は無罪とされ、今後も日朝関係の諸事にあたるよう言い渡され た。

中世からの伝統的手法をとる複雑な日朝外交の構図から、宗氏を除外すること が不可能であることを幕府自らが認めた形である。

国際関係の統制強化をはかって いた時期、大名宗氏が温存されたことは、日朝関係の独自の形態が今後も継続され ることを意味していた。幕府は、審理の対象を柳川氏が直訴した1624年度の偽造国 書のみとし、これ以上の捜査を行うことなく事件の早期決着をはかった

 この「柳川事件」を契機に、幕府は新たな外交僧の任命と将軍の国際称号の改変 を行った。まず国書の偽造・改ざんを防ぐために、幕府の許可を得た京都五山の僧 侶がこれを担当することになった。

また将軍の呼称としては、これまで幕府 は中国皇帝の冊封を意味する「日本国王」号の使用を避けてきた経緯があり、事件 後新たに「日本国大君」号を創案した。これに加えて日本側の文書にはすべて日本 年号を用いさせ、なるべく早い時期に、新しい書式での国書を携えた通信使を来日 させるよう宗氏へ命じた。

3 .二重構造の日朝外交

 1630年代から1640年代にかけて、徳川幕府は外国との関係を整備し、日本の交流 相手国を中国(明・清)、オランダ、朝鮮、琉球の 4 か国に限った。

このうち将軍 との間で対等な国書を交換できたのは、朝鮮国王だけである。

中国との関係は、国 家間の交流を避けることで日本を冊封体制の枠外に置き、オランダ(東インド会社) と同様、長崎に入港する私的通商関係だけにとどめた。

また琉球は、「異国扱い」 としながらも、事実上は薩摩藩(島津氏)の支配下に置かれており、ここからの外 交文書が将軍に宛てられることはなかった。

したがって朝鮮との外交は、徳川時代 を通じて唯一の「将軍の外交」であった。

いっぽう徳川氏にとってこの「異国からの使い」は、1610年に始まる琉球使節の 参府と同様、将軍権力の強大性を「外」から証明してくれる絶好の機会であり、同 時に「内」からの対将軍認識をたかめる絶大な効果をあげることになった。

通信使 来日が決定すると、幕府はただちに沿道の諸大名へ宿泊所や休憩所の設定を命じ、 全国の大名へも所領の石高に応じて饗応、警護、船や人馬の供出などを義務づけた。 往復の道中はもとより、江戸滞在中も最高級の応接基準をもって接待し、約半年の 日程をかけて朝鮮の都(漢城)と江戸を往復する間に、この国家的な大行事は、諸 大名から農村部に至るまで日本国中に鳴り響いたのである。

 華やかな「将軍の外交」を背後で支えていたのが、「宗氏の外交」である。幕府は、 徳川時代を通じて通信使に匹敵するような使節を一度も朝鮮へ派遣することなく、 本来は国が行うべき外交交渉までも宗氏及びその支配機構である対馬藩へ一任して いた。

対馬からの使節は、朝鮮佂山に置かれた日本人居住区倭館へ入り、正月に始まる季節ごとの挨拶、両国内の種々の外交折衝、日本の国内情報の伝達、通信使の 来日要請から送り迎え、救助された両国漂流民の送還といった様々な名目のもと、 延べ人数にすると 1 年間に500人以上の使節員が派遣される規定であった。


この構図のなかで対馬藩は独自の役割を一任され、その経済 的な保証として日朝貿易の独占権を手中に収めることになった

4 .倭館貿易の実態

日朝間の実務外交や貿易は、朝鮮半島の南端、佂山浦に設けられた倭館で行われ た。
倭館とは、本来は日本から派遣された使節を応接するための客館であったが、 1678年佂山の草梁に約33万㎡の新倭館が設置されてから、 公館あるいは商館 (factory)としての機能も兼ねるようになった。

33万㎡=約10万坪=東京ドーム約7個分である。対馬藩における密貿易に対する処罰について
 ーー『罰責』 掲載の判決の紹介を中心にーー守屋浩光によると、対馬藩の目を盗んでの密貿易には
5年間「朝鮮渡 差留」という刑罰がある。即ち、倭館は、密貿易罪人が倭館で雑役に従事する刑罰の場所でもあったのだ

朝鮮への渡航船は、1609年の約 条で年間20艘に制限されたが、その後副船・臨時船・小船などを用いた対馬藩によ る増加策が実施され、1710年代には年間平均80艘の渡航が可能となるなど、実質的 な航行数の拡大化が進められていった。
 
日朝貿易は、封 進(朝鮮国王への朝貢貿易)、公貿易(朝鮮政府との貿易)、私貿 易(朝鮮商人との相対取引)の三形態からなる。


封 進と公貿易は、年に 1 回、総額を公木(朝鮮の上質木綿)で決済する方式がとられ、 さらにその一部を朝鮮米(年間約1,200トン)に振りかえたことから、米穀生産の ない対馬にとって貴重な食糧輸入となった。

私貿易は、月に 6 回、倭館の開市大庁 に朝鮮商人が商品を持ち込むが、封進・公貿易と異なって数量や商品の規定はな く、互いに最も利益ある商品が交換された

新倭館完成後、まず朝鮮側からの 提案で参加資格者を政府公認の特権商人20名(後に30名)にしぼり、これに呼応し て対馬藩側も私貿易専従の役人(元  方  役  )を10名、商人の中から選抜した。これに よって対馬藩は私貿易の藩営化を達成し、日朝貿易の経営の主眼は莫大な利益をも たらす私貿易のほうへ注がれるようになった。

1684年-1710年までの27年間、元方役が記録した私貿易帳簿が国立国会図書館に 現存する。
これによると、輸出・輸入のピーク年には銀計算で6,000貫目( 1 貫目 =3.75kg)の取引があり、これは同じ頃、幕府が規定した中国貿易の額に匹敵する。
全期間を平均するとオランダ貿易の額に匹敵する3,000貫目だが、これに定額制の 封進・公貿易額の約1,000貫目が加わるため、日朝貿易の全体額はかなりの規模で あったことが分かる。

私貿易で取引された商品は、輸出の大半が幕府の鋳造した上 質な銀貨幣(銀の純度80%)で、これが貿易全体の60%以上を占めていた。残りは、 朝鮮で入手が困難な銅や錫などの鉱産資源、水牛角(武器・工芸品・薬用)、胡椒 (調味料・薬用)、明礬(染料)、スオウ(染料)などの東南アジア産品、またタバ コ、キセルといった日本から朝鮮へ伝わった喫煙慣習に必要な商品も含まれてい た。

。輸入品は、80% が中国産の生糸(主に白糸)・絹織物、20% が薬用の朝鮮 人参で、前者は京都で、後者は江戸で、いずれも輸入値の数倍で売れる貴重品ばか りだった。

おわりに
 徳川時代後期(18世紀後半)になると、国益を重視した輸入品の国産化政策が実 施され、薬用人参も生糸も、かつてのように利益を生む商品ではなくなった。

 日朝貿易の輸出の大半を占めていた銀は1750年代に途絶し、19世紀には朝鮮側通訳官 と密約をかわして年間約400kg-1,000kg を輸入するようになった。

【18世紀後半からは、対馬藩と朝鮮との貿易は事実上は消滅したと考えてよい。その時期は、概ね1710年以降であろう。即ち、江戸時代の初めから~1710年までの100年間は、対馬藩の主要財源は貿易、その後は、幕府への「ゆすり、たかり」の類である。こんな連中を日本人の範疇に含めるべきなのであろうか?代々対馬に住む者のDNAを調べれば確実に日本人とはかなり異なるはずである。現在でも対馬の多くの土地を韓国人どもが取得している

貿易規模は官営貿 易と同程度で、昔日のような利潤は望むべくもなかった。

財政維持のため対馬藩がとった手段は、商人からの借金以外に、幕府から事ある ごとに資金援助をあおぐことであった。

防衛上の見地から対馬藩援助の必要性と正当性を 訴えて米 3 万石(金67,000両相当)の支給にまで増大させている。


参考文献
中村栄孝『日鮮関係史の研究』下(吉川弘文館、1969年)
田代和生『近世日朝通交貿易史の研究』(創文社、1981年)
三宅英利『近世日朝関係史の研究』(文献出版、1986年)
ロナルド・トビ(速水融・永積洋子・川勝平太訳)『近世日本の国家形成と外交』(創 文社、1990年)

対馬藩における密貿易に対する処罰について
 ーー『罰責』 掲載の判決の紹介を中心にーー
守屋浩光

対馬藩の異様性を痛感

はじめに
藩法研究会編の 『近世刑事史料集 2 対馬藩』 が 2014 年に刊行された。 これは長崎県立対馬歴史民俗資料館所蔵の刑事判決録 『罰責』 を翻刻し、 解題 (翻刻・解題担当は鎌田浩氏) を加えたものである。

筆者は谷口昭氏 とともに同書の編集を担当したが、 本論文ではこれを題材として対馬藩の 「潜商」 すなわち密貿易に関する処罰について紹介かたがた若干の分析を 行う。
、宝永 4 年分から明治 2 年分にわたる 『罰責』 全体を考察対象 とする。

第 1 章 対馬藩の潜商に関する先行研究

田代氏は 『新・倭館』(6) で釜山にあった倭館の看守日記や対馬藩の 『分 類紀事大綱』 を材料に 1710 年代までに倭館で死罪になった日本人 5 名の 事例を紹介する。 これらはすべて密貿易の事例であり、 対馬藩は密貿易に 対して常に厳罰主義を以て臨んでいるとする。

第 2 章 密貿易事件に関する 『罰責』 採録事例

本章では 「罰責」 から密貿易に関する判決を抽出して紹介する。 表 1 で 潜商、 表 2 で抜船に関する判決をまとめた。

 密貿易事件は判決上 「潜商」 とされているものと 「抜船」 とされているものがあり、 したがってそれら が抽出対象になるが、 「抜船」 事件については対馬と下関等他領との間の 無許可渡航のみに言及する判決が多く、 それらを除き朝鮮との密貿易が関 係していることが明らかなもののみを抽出した。

表 1 潜商
享保 01.12.24
平町人
慶長銀1貫目朝鮮へ持ち 越し
永代奴

驚愕せざるを得ない。「永代奴」は間違いなく、永代=生涯、奴婢の奴=男性奴隷とする刑罰である。1716年=享保元年であり、日本では、奴隷とする刑罰など存在しない。対馬藩の特殊性が良く分かる。「為奴」=男性奴隷とするは朝鮮王朝実録で検索すると、最も頻繁に見られる刑罰であり、朝鮮時代の定配について 矢木 毅によれば、死刑に次ぐ重い刑罰である。対馬藩では朝鮮と同じく、まさかとは思うが、奴婢売買がされていたのかもしれない。対馬藩のすることは、朝鮮通信使国書の偽造をはじめ朝鮮人ども全く同じく、まさしく「嘘と騙し」に終始している。(ただし、矢木氏は、「明律」についてはあまり詳しくないようである。李氏朝鮮は、明朝の完全な猿真似であり、基本は、「明律」と思われるが、「明律」には奴婢とする刑罰は無いはずである)


宝暦 03.11.08
家来他 6 名
潜商
科料・7 年 切奴
7 年 切奴は、7年間奴婢とする刑罰のはず。対馬藩の目を盗んで、潜商

文化 12.10,18
六十人
油 7 挺朝鮮人売渡底意訝 敷所相見 科
銀 2 枚、
5年朝鮮渡 差留

刑罰の5年「朝鮮渡 差留」とは、朝鮮にあった倭館に刑罰として、差留するという意味であろう。潜商の主な対象品は、朝鮮人参であった。恐らくは、対馬藩が、秘密裏に朝鮮との間で朝鮮人参の取引をしており、民間売買を厳しく取り締まっていたのであろう

4 文化 12.10,18
御手船添
抜荷心底不審之次第
田中所左衞 門 5年切奴、 一生朝鮮渡 差留

抜荷とは、対馬藩が行っていた貿易船から、荷を盗んだ であろう。5年間、田中という者の奴隷とし、その後、朝鮮に生涯追放

第 1 節 死刑の事例

③享保一一年一〇月二二日申渡の例(13) 浜組横目であった春右衛門は、 渡海訳官使滞留中に朝鮮人と町人佐伯庄 五郎との潜商の申しあわせを取り次いだが、 潜商が発覚したため庄五郎を 刺殺したとして、 斬罪に処せられた。
④享保二〇年一一月一二日申渡の例(14) 佐須奈村百姓六左衞門は 「飛船之足駄木ニ致彫穴」、 蚫玉銀子を仕込ん で朝鮮へ渡り、 人参を購入して帰国した科により居村で斬罪に処せられた。 また、 浦上忠七は 「御関所江罷下、 口々ニ而人参令潜商」 めたのみならず、 百姓屋へ盗みに入ったため、 死刑に処せられた。

⑧文久四年五月六日申渡の例(18) 対馬法者 (民間の宗教者) であった相良儀右衛門は前年五月二九日夜 総嶋屋伊吉・服部屋忠次郎と相談、 俵物方の小屋から煎海鼠八・九俵を盗 み出し、 密かに肥前国呼子で十八両で売り払った。 さらに儀右衛門は伊吉 が所持の 「錆」 四本を朝鮮に持ち出すのに同行、 同年閏四月に全羅道内 に着き、 売り払おうとしたが思ったより下値であったため結局売り渡すこ となく、 帰国した。 帰国後御園村、 木坂村で約七十品の盗みを働いたが、 その後追っ手に品物を取り返され、 忠次郎と伊吉は逃走したものの、 儀右 衛門自身は捕らえられた。

第 2 節 死刑以外の事例

奴刑をはじめとする死刑以外の処罰となった事例は重複を除いて 100 件以 上に及ぶ。

刑罰の軽重に関する傾向についてみると、 享保から寛延年間にかけては 永代奴に処せられる例が見られる。

宝暦年間以降になると永代奴の事例が見られず、 代わって年限を区切っ た奴刑や科銀、 朝鮮渡差留といったより軽い刑罰に処せられるものばかり になる。


第 3 章 若干の考察

森氏は、 対馬藩は領内で発覚した密貿易も倭館で発覚した密貿易もとも に厳罰主義・厳刑主義を採ったとし、 朝鮮側にも同様の厳罰を要求したと する。


しかし宝永年間になり米の輸入が延滞がちになったことでやむを得 ず郡内の水夫を徴発するようになると、 彼らが密貿易に手を染めることが 多く、 その結果本人および家族が厳罰に処せられ、 公役を負担すべき戸口 が減少することによって財政上の不利を招くことが問題となった。


第 4 章 おわりに 残された分析課題

江戸時代の朝鮮通信使
李 進熙
1992年 刊行
講談社学術文庫

この者は、1929年生まれである。1992年時点で63歳であり、略歴には明治大学文学部講師とあるが真実かどうか調べること。バカバカしいの一言であるが、講談社学術文庫は、時々酷いのがある

講談社は本来は、絶版とするべきであろうが、在日韓国人どもが狂喜乱舞して大喜びする内容である


p3
徳川幕府が「鎖国」の対象としたのはキリスト教のヨーロッパ諸国と中国であって、朝鮮国とは正式な国交を結んでいたのである


①その通りであれば、朝鮮の船が出島以外の他の港にも来ていなければならない。しかし、そのような事実は全くない。
②中国船は、出島に非常に頻繁に来ていたことは、外国人の記述でも複数著作で書かれている
③江戸参府随行記 東洋文庫 ツユンベリー
p50
「長崎港
ここに入港し貿易を営む許可を得ているのは、全地球上の民族の中で中国人とオランダ人だけである」
p64
「中国人には幕府参上の旅は許されていない」

④ツユンベリーだけではなく、鎖国当時に来日したオランダ人は例外なく、朝鮮通信使をもって、朝鮮は中国だけではなく、日本にも朝貢していると思い込んでいる。
冒頭、このようなに明言しているが、その後の記述では、「国交を結んでいた」旨の具体的な内容は一切ない
⑥日本風俗備考 フィッセル 沼田次郎、庄司三男 訳 東洋文庫 昭和53年
p96
蝦夷、朝鮮及び琉球の領土をも加えて、全国土の人口は3400万を下らぬ数字であると言われており

第二章 地誌と地形
p121
朝鮮人たちは新しい将軍即ち君主の代替わりの機会にのみ、江戸を訪問することを許されているのであるが、その使節も将軍の名において応対されたのである

p122
朝鮮人は日本人と比べて科学と文明の進歩において遥かに劣っており、同じ水準に無いことは、彼らの生産物によって、また時々日本に海岸に漂着して長崎に運び込まれる朝鮮船によって、極めて明瞭に示されている。その船の構造は、鋼、鉄、及び木製のあらゆる器具類と同様に極めて欠陥の多いものである。

p123
朝鮮は自然の産物は豊かであるが、住民たちは生活に必要な以上はほとんど利用しないし、金属類の細工については貧弱な知識しか持っていないように見受けられる

このオランダ人若者は勘違いしている点もあるが、決定的な点は、赤字引用にあるように多数の朝鮮船が出島に来ていたことを一切書いてはいない。この若者は。9年間も出島に滞在し日本人女性との間に子供までもうけたのである。

⑥朝鮮通信使の李氏朝鮮における1~3回目の正式名称は、下記の通りであるが、そのことには全く言及しておらず、知らないようである、特に、1回目は相当数の陶工等を連れて帰っているにもかかわらず、一切言及がない。

朝鮮通信使 仲尾宏 
p33
多くの日本残留被虜人の事実調査と早期の送還を実現することも任務の一つとして明記されることになった
第1回並びに第2,3回の使節団の名称は、「回答兼刷還使」と称されるのが通例である
p43
(第一回目)以後の通信使派遣については、日本から先に使節派遣を国書の形式で要請することとされ、この形式はその後2回踏襲された。それらはいずれも対馬の強い策謀によって実現した。

p74
今までの対馬が携えてきた国書が偽作または大幅に改ざんされたものであることを知った以上、


p14
海遊禄
【著者は、ほぼ全て海遊禄の記述=朝鮮通信使の記述としており、他の製述者の李氏朝鮮時代の記録を一切参照していない】

p31
家康の国書を偽造して送ったのだが
今度は「回答」形式の朝鮮の国書をそのまま秀忠に差し出せないのである

p32
善隣関係は1868年の明治維新まで保たれる
【正式国交ではなく、善隣関係と明記。上手い嘘と騙しである】

p284
19世紀の朝鮮では悪政と凶作が続き、通信使の派遣どころか、対馬や草梁倭館に給付する綿布や米の調達さえ困難を極めた

【①対馬藩は、山地ばかりの為、米作は島民の食糧を賄うレベルでは絶対にできない。これが真実であれば、対馬藩の米は、朝鮮からものものであったことになる
②草梁倭館を朝鮮王朝実録で検索しても、全くヒットしない。即ち、正式名称ではない
③対馬藩による倭館では当然ではあるが、ヒットする。対馬藩が幕府の目を盗んで密貿易を行い、米が出来ない=食料不足が宿命である対馬の欠点を補っていたと推定される。
④ただし、対馬藩は、表向きは、幕府の意向通りに建前上は、朝鮮との密貿易を取り締まる立場にあった。しかし、事実上は、その必要性から黙認又は事実上の推奨と見て間違いない。マイナーレベルのテーマの為、論文は少ない。
以下ぐらいしかない。それにしても、対馬藩は明らかにおかしい・=対馬の人々のDNA?

対馬藩における密貿易に対する処罰について 

古文書が語る竹島問題

近世の日朝関係日本学士院会員 田 代 和 生

近世に於ける対鮮密貿易と対馬藩

森 克己
九州大学大学院人文科学研究院
1950
この朝鮮人は、上記論文ぐらいは当然知っていたはずである。?

朝鮮半島を見る基礎知識
クロード・バレーズ 他
白水社文庫 1994年

必要な点は、メモした、

第一章 地理的外観 クロード・バレーズ
p8
朝鮮半島の5分の4は山岳地形であるが

p15
1930年に日本(朝鮮総督府)が行った調査によると、当時7万あった自然村のうちわずか20%だけが同族部落の定義に当てはまるに過ぎなかった

第二章 文明 李玉

p38
印刷技術は高麗王朝のもとで目覚ましい発達をしたことが知られている。木版の技術によって2度にわたる「大蔵経」の印刷が行われた後
高麗人が発明したものでその他の際立ったものとしては、金属活字がある

バカバカしいの一言に尽きる。下記は教科書的な「中国史 下」昭和堂から
p57
各王朝で大蔵経が盛んに出版されるようになる。
開宝蔵は高麗、西夏、大越、日本など仏教が盛んな周辺諸国に下賜され、高麗では11世紀前半に下賜された開宝蔵をもとにして大蔵経を出版している(高麗大蔵経)。契丹でも11世紀半ばに大蔵経が出版された(契丹大蔵経)


第三章 政治史 マルク・オランジュ
p68
元は高麗の宮廷に命令が十分に行き届いているか注意を怠らず、高麗の王の首を何度もすげ替えた

p71
ヘンドリック・ハメル
彼の抑留記(日本語訳朝鮮幽囚記)は非常な評判となり、ヨーロッパ人はこの本によって朝鮮の「国内」のことを知るようになった

第四章 経済史 李鎮明
p96
朝鮮王朝実録や古い記録に残された人口数は
不完全である。しかし、その数字を信じるならば朝鮮の人口は1660年には500万人であった。
1693年には700万に達したが、1696年には急減して580万人となった。
1732年には730万人、1813年には790万人に達したものの、1816年には再び減少し660万人を記録している。19世紀の間中、朝鮮の人口は650万の線の近くを上下しているが、1910年には1330万人を記録してる

p98
16世紀以降官吏の給与は
穀物や布地の現物支給となった

p99
19世紀末には手工業に従事する人の数は5500人程であったが

p100
地方での商業活動は行商人を仲介とした物々交換に限定されていた

p104
日本の朝鮮占領がこの中世的な国家の経済発展を促進したことは明らかであるが、


朝鮮世祖の字小主義とその挫折
河内 良弘(京大教授~天理大学教授)
天理大学学報

記述内容の水準の高さから、本物の研究者と感じたので、著者略歴を調べた。

李氏朝鮮の事大主義は良く知られているが、この字小主義には驚いた。しかし、「野人皆慕悦威徳、争来朝見」とは恐らくは当時の対馬の人々が李成桂に謁見したことを示すと思われる。
対馬は山地ばかりであり、宿命的に交易(又はいわゆる倭寇)によってしか、生存できない。

この貴重な一次資料に基づく内容から、朝鮮半島の人々の屈折した精神異常性を真に痛感する。

同じ頃、安南=ベトナムでも、中国をまねて、自らに朝貢する国を有する形式をとっている。つまり、安南は、字小主義ではなく、直接に中国をまねている。李氏朝鮮創始者は、安南の真似=中国の猿真似すらできず、この字小主義をとらざるを得なかったのだ。

貴重な論文である

朝鮮の世祖は、女真人や倭人を臣下となし、女真人の土 地をわが藩簸とよび、夷狭をわが子として招撫する立場を「字小之義」と呼んだ。字小の義とは、中国の古語で、者が小者をいたわり、はぐくむ意で、事大の礼を逆の立場から言いかえたものである。

魯山君日記

時世祖、以務農輿学、養兵為事。期於控弦百万、威制夷秋、習陣訓兵。倭野人皆慕悦威徳、争来朝見。

世祖の威徳を慕い、倭人および野人が、争い来りて朝見すとは、世祖を儒教的徳治思想にいう理想的君主に擬し記述であって、世祖の直接の発言ではないが、実録記者が世祖の理想とするところに即して記るした一文である

諭威士口道都節制使郭連域目、野人倭人、倶為我藩態。
倶為我臣民。王者等視無異。或用為力、或用為声、不
可以小弊拒却来附之心。予即位以後、南蛮北秋、来附
者甚衆。皆願為我子、此天所誘也。非予智力。但来往
駅路、有弊国家、支待難継。以時宜授卿方略、如左。

 世祖は、こうした政治的立場、すなわち野人倭人をわが臣民となし、その土地をわが藩簸とよび、夷秋をわが子として撫値する立場を、「字小の義」と呼んだ。


朝鮮史【増補新版】

李玉
金容権 訳

白水社
2008年

原著はフランス語で書かれている。このくだらん朝鮮史本を読んだフランス人が、日本の朝鮮統治に関して、誤った視点を有することになることは確実であり、著者の狙いは明らかにその点にある

著者の韓国人は、1956年~1970年、14年間もフランスに滞在し、最終的には教授ポストを得た後に帰国し、2005年に亡くなっている。今まで読んだ精神異常民族の朝鮮史は、民族史観に基づき我々は優秀な民族を示そうとして、ばけげた記述に満ちていたが、志那学の長い歴史を有するフランに長期間滞在したせいか、最もましな内容である

①ハングルんに関する赤字にしておいた箇所が強烈に印象残った。パスパ文字がハングルの源流では?とする学者もいるが、初めて気づかされた。
②バカバカしいので、メモ省略したが、この人物は弘安の役についても「台風」としている。フランスにいながら、このレベルでしかないのには驚かされる。しかも教授職まで得ている
③記述からして、フランスでは、高麗後期は元の直接支配下にあったおいう正しい見解が支配的であるようだ
④1928年生まれの著者は、最終的にはフランスに戻り、78歳でなくなっている。
⑤この精神異常民族の手による書籍の姉妹本として、フランス語で書かれた翻訳が「新朝鮮事情」と題して白水社文庫クセジュ669番で出ているそうである。是非読むこと



p13
新石器時代の土器
3つの主な範疇に分けられる
1..表面に文様の施されていない
(円底無紋土器、紀元前4000年頃)
2.「串の目」文様を入れたと思われる土器(串目文土器、紀元前3000年頃)
3. 滑らかな表面が酸化鉄を入れたと思われる土器(彩文土器、紀元前1800年頃)

第一の範疇の土器は
海岸からかなり遠い大同江、漢江
の流れに沿った
地点でよくみられる

第二の範疇の土器は
遥かに海岸近くで
発掘された

第三の範疇に属する土器の分布圏は、朝鮮半島の北方地帯に限られている

p16
【檀君神話に触れた後】
漢と対立していた多数の人々が安住の地を求めて鴨緑江を渡って朝鮮半島の北部へ来る道を選んだとみるべきであろう

p20
中国の郡県支配
【上記はタイトルであり、ハッキリと認めている】

p21
朝鮮半島の土着種族が石器の使用から金属器の使用へと移行していったのは、明らかに中国文化との接触過程においてである

p24
高句麗の起源
高句麗国家の始祖
は扶余の出で鴨緑江北岸に移住した種族を支配していた

p33
400~650年の文化の発展
文官・僧侶とも、その大部分が中国の移住民、あるいは少なくともその子孫、混血児であったことは明らかである

p39
【新羅について】
新羅は
以前より多くの住民を統治しなければならなくなったからである。その大部分は他種族(以前の高句麗、百済人)が占めた。管制再編成の為の最初の努力は、約10年の歳月を要した

p52
日本が1050年以来高麗に朝貢したとする「東史綱歴」(第7巻)の一部は信じるわけにはいかない
【この記述には驚いたが、精神異常民族は、フランスにおいて、上記資料を基に、嘘を吹聴していたことは確実である】

人口210万に膨れ上がった朝鮮半島全土が、995年、10道に分けられた

p54
ふつう1戸が1名の兵丁を供出したと結論づけることが恐らく妥当であろう
中央軍兵力の内訳は
士官・下士官が3517名、現役兵士4万5000名、予備役兵3万7
000名である。地方軍の数は分からない。戦時の動員数は当時としてはかなりのものであった。こうして、947年契丹に立ち向かった「光軍」の数は実に30万を数える。そして、1104年の女真の攻撃に備えて召集された兵力は約17万だった

p55
行政機構の運営いかんは、約1万7000の両班たちに任されていた

p58
農奴の名にふさわしい範疇に属する者たちについては何も知られていない。反対に奴婢については、彼らがただの動物同然に人身売買の対象であったことが知られている。奴婢は女性が男性より高価だった。少なくともある資料によると、女奴婢の値が986年に決められ、15~50歳はひとりにつき反物120疋、15歳以下の少女は50疋、50歳以上は最高60疋であり、一方男の場合の公式の値は、15~60歳で100疋以下、10代の男子・老人男子も50疋を超えることがなかった

p65
中国から持ち込まれた青磁の技術は朝鮮でかなりの完成度に達した

p71
三別抄が降伏したのはやっと、無力化した高麗政府が諦めてモンゴル軍にその征伐を頼んだ時
(1273年)のことであった。この時以来、高麗は
元と運命を共にし、その直接支配下に入ることになる

【ここ以降は李氏朝鮮時代】
p72
特に、結婚都監なる特殊な部署の設置(1274年)は両宮廷の関係をさらに緊密なものにした

p80
【刑罰に関する記述に続いて】
奴隷になった場合、体に「強盗」の文字を入れ墨された


p81
一番下にいたのが農奴奴婢の群れで、1484年にその数は26万1984人に達した

p81
コメと織物はなおも長い間、全国的に最も通用する交換紙幣の役割を果たし続けた


p85
【ハングルについて】
固有朝鮮語音と漢字朝鮮語音にひとつひとつ厳密にあてられた符号によって成り立っており、単語を音節ごとに文字化するというこの体系
国家の奨励にもかかわらず、実際には文人はハングルをさほど用いなかったらしい

【このページ以降は、お定まりの民族史観に基づくバカげた記述が続く一例として】
p113
1940年になって、大韓民国臨時政府軍が日本軍占領下の中国領土解放の闘争に加わる

【1941年時点で、いわゆる光復軍は、小隊規模であったことが、当時中国重慶のガウス大使から本国への電報で確認できる。】








一目でわかる日韓併合時代の真実
水間政憲
PHP研究所
2013年



リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの該当ページ

日本之朝鮮 1911年 有楽社(写真が不鮮明)

生活状況調査 1930年 朝鮮総督府

半島の近影 1937年 朝鮮総督府鉄道局

写真帖「朝鮮」大正10年 朝鮮総督府(写真は鮮明だが、宣伝的要素が強い)

日本地理風俗体系(朝鮮地方・上)16巻 1930年 新光社(検索したが出てこない)

朝鮮教育総覧 1921年 朝鮮総督府学務局

平壌府 1932年 朝鮮総督府

朝鮮の都市 1931年 大陸情報社

朝鮮社会教化要覧 1938年 朝鮮総督府学務局(五家統制等について言及しており、貴重資料)

「朝鮮事情」昭和17年版 朝鮮総督府(類似内容のものが多数あり、出てこない)

朝鮮鉄道40年略史 朝鮮総督府鉄道局

朝鮮の聚楽 1933年 朝鮮総督府(検索したが出てこない)

著者が使用した画像は上記が出所であるが、他に下記の調査がある

[朝鮮総督府]調査資料 第34輯 生活状態調査(其四)平壤府

以下の一文が印象的であった。まさにそのとおりである。 「韓国の慰安婦や竹島問題は近代社会の常識では考えられない行動をとっているが、その根元には半島で広く信仰されていたシャーマニズムの影響が「恨」となって表れていると解釈すれば、一連の非理性的な行動も納得できます」



p10
日韓併合後も米国や英国のように、ハワイ王家とビルマ王家を潰すようなことはしませんでした

p15
朝鮮半島ではハングル文字は蔑まれ、女子が細々と使用していた程度でした。実際にハングル文字を普及させたのは、総督府時代の学校教育からです
IMG_0807



p100
総督府の火田民定住化計画
最下層の民でもあった火田民
IMG_0808



p118
「ライタイハン」
その数はベトナム人女性が名乗り出ないこともあり、数千人から3万人と言われています

p122
日本地理風俗体系を引用し、男のを「覡」【かんなぎ】女のを「巫」という


韓国の慰安婦や竹島問題は近代社会の常識では考えられない行動をとっているが、その根元には半島で広く信仰されていたシャーマニズムの影響が「恨」となって表れていると解釈すれば、一連の非理性的な行動も納得できます

p143
いま我々日本人は覚悟が問われています







李氏朝鮮王朝における対外使節の出自について
林麻衣子

グーグル論文検索で、奴婢 李氏朝鮮で検索すると、この学部学生の卒論が上位に表示されてくる。研究者にはならなかったようであるが、本当にビックリ仰天するのは、ダレの朝鮮事情が参考文献として表示されている点である。

ダレの「朝鮮事情」を読めば一目瞭然ではあるが、19世紀において、フランス人神父の目には、朝鮮人は精神面ではまともな連中ではないと映ったことは間違いない。

日本に多数いる朝鮮史美化運動家=自称朝鮮史研究者とは異なり、恐らくは、日本人であろう、また、韓流ブームに浮かされていたであろう若い女性がダレの「朝鮮事情」を読んでもなお朝鮮史に関する卒論を書いていることに驚かされる。お金に余裕出来れば、ダレの「朝鮮事情」を1万冊程大量購入し、各大学特に女子大の門前で無料で配布しよう!そうすれば、よほどのバカでない限り、文字が読め内容が理解できる限り、女の子は韓流など即座に止めると考えていたが甘かったのかもしれない。この若い女性は、ダレの「朝鮮事情」を読んでなおかつ完全な奴隷制社会であった李氏朝鮮の庶孽について卒論を書いているのである。(推定されるのは、やはり、DNAが完全な日本人ではない?)

学生の方ゆえ仕方がないが、明実録・清実録及びその猿真似に過ぎない朝鮮王朝実録をこの方が検索していないことは確実である

庶孽を3つの実録検索すると、
①清実録はゼロ
②明実録では6カ所
③精神面での完全なDNA異常集団の猿真似記録では多数

以上から庶孽という表現は明朝時代の中国では使用されていたが、清朝ではそのような母の出自による差別を止めたようである。当然であるが、キチガイどもの猿真似記録=朝鮮王朝実録には多数ある

両班の庶子、すなわち妾子や妾子孫のことを庶孽といい、両班の一族に含まれるものの、その中では低い扱いを受けていたとされている。この庶睦への低い扱いとは実際どのようなものであったか見ていきたいが、当時の官僚社会全体の中で庶孽をひとつひとつ見ていくのは困難である。

間恭作氏の「庶孽考」によると朝鮮通信使に庶孽がいたとされている。そこで李氏朝鮮が外交関係を持った日本と中国への対外使節、すなわち朝鮮通信使と燕行使の構成員において庶草がどのような扱いを受けたかを明らかにしたい


朝鮮通信使には製述官という役職があった。これは文書の起草にあたる役峨で、任命については「文オのある者を選び、門地にかかわらず任命する」といわれている。身分が厳格に分かれていた李氏朝鮮の社会で、この「門地にかかわらず」というのは、当時の特権階級である両班より下の階級を指していたのだろうか、あるいは両班であっても庶夢のことを表していたのだろうか。この製述官に加えて、同様に文オが必要と考えられる書記、また、正使・副使・従事官の三役について出自をまとめると 表ー の よ う に な る 。 こ れ に よ る と 、 正 使 ・ 副 使 ・ 従 事 官 の 三役に庶草の者は一名のみであり、全十二回の朝鮮通信使派遣で 任 命 さ れ た 製 述 官 一0名中六名が庶孽であった

このように朝鮮通信使の下級構成員には庶孽が多く任命されたということができる

朝鮮半島では古くから、子供の身分は、その子供を産んだ母親の身分を引き継ぐのが慣習であるとされてい応。また、両班であることの条件のひとつに、結婚相手の姻族も両班か( 1 3 )ら選ばれていることがあり、両班が正式に寡婦や農民の娘と結婚すると、その子孫は両班階級のほとんどすべての特権を
失い、官職の途も閉ざされるとされている

庶孽の場合、正式な結婚のもとに生まれた子孫ではない。 したがって、両班の一族から追われることはなかったが、妾 子あるいは妾子孫であることで低い扱いを受けていた。その 一端を挙げると、高麗の頃から庶孽は相続権が低かったとさ ( 1 5 ) れていることがある


また、李氏朝鮮の時代、『経国大典』に規定された科挙の受験資格には「罪犯不叙用者、臓吏之子、再嫁失行婦女之子及孫、庶孽子孫、勿許文科、生員進士試」とあり、庶孽は科挙文科を受験できないとされていた。武官を選考する武科の( 1 6 )方は庶華でも受験は認められていた


一般的な庶華の場合、正四品の者も存在した(21)が少なく、六品から八品の辺りがほとんど占めていた。

 1 )シ ャ ル ル ・ ダ レ 著 、 金 容 権 訳 『 朝 鮮 事 情 」 ( 平 凡 社 東
一 九 七 九 年 ) 一 九 一 頁 。
(2)前間恭作「庶芽考」『朝鮮学報』第5号(-九五三年)•第
6号 ( 一 九 五 四 年 ) 。
( 3 )芳 賀 登 『 日 韓 文 化 交 流 史 の 研 究 』 ( 雄 山 閣 、 一 九 八 六 年
五 頁 。
( 4 )注 ( 3 )『 日 韓 文 化 交 流 史 の 研 究 』 。
( 5 )辛基秀『朝鮮通信使往来二六0年 の 平 和 と 友 好 』 ( 労 働 経
済 社 、 一 九 八 三 年 ) ― - ― - 四 ・ 一 三 五 頁 、 朝 鮮 総 督 府
『 朝 鮮 人 名 辞 書 』 ( 同 院 、 京 城 、 一 九 三 七 年 ) 、 『 清 選
堂 、 ソ ウ ル 、 一 九 七 二 年 ) 、 『 國 朝 榜 目 』 ( 編 者 未 詳 、 年
詳 ) よ り 作 成 。
( 6 )民 族 文 化 推 進 会 編 『 燕 行 録 選 集 」 ( ソ ウ ル ) 第416.89輯、注 ( 5 )『 朝 鮮 人 名 辞 書 」 、 『 國 朝 榜 目 』 よ り 作 成 。
( 7 )朴趾源著、今村与志夫訳『熱河日記朝鮮知識人の中国紀行』
( 平 凡 社 東 洋 文 庫 、 一 九 七 八 年 ) 解 説 部 分 。
( 8 )注 ( 2 )「庶茸考」によると、『海東繹史』を著した翰致奮は
燕行使のひとつで冬至に派遣された冬至使の構成員に庶従弟と
し て 同 行 し て い る 。
( 九 ) 注( 5 )『朝鮮通信使往来二六0年の平和と友好』三二頁。
( 1 0 )申維翰著、姜在彦訳注『海滸録朝鮮通信使の日本紀行』
( 平 凡 社 東 洋 文 庫 、 一 九 七 四 年 ) 四 頁 。
( 1 1 )注 ( 5 )『朝鮮通信使往来二六0年の平和と友好』三二頁。
( 1 2 )注 ( 2 )「 庶 草 考 」 。
( 1 3 )宮嶋博史著『両班」(中央公論社、一九九五年)ニニ頁。
( 1 4 )注 ( 1 )『 朝 鮮 事 情 』 一 九 一 ・ 一 九 二 頁 。
( 1 5 )注 ( 2 )「 庶 草 考 」 。
( 1 6 )注 ( 2 )「 庶 草 考 」 。
( 1 7 )『宣祖実録』によると同王十六年四月から十二月にかけて、
決められた。ただし、「庶草納粟十石皆得許通」と、「納米」で
は な く 「 納 粟 」 と な っ て い る 。
( 1 8 )許通の撤廃を皇帝が認めたかどうかについては、『粛宗実録』
二 十 二 年 八 月 丙 戌 条 よ り 「 引 見 大 臣 備 局 諸 臣 、 右 議 政 手 趾 善 _ ― - 『
吏曹判書崖錫鼎、以変官制通庶草、事陳箭、下廟堂、当待諸大
臣還朝、商議稟処、而其中庶草納米許通一款、本非金石


 平 成 十 年 度 卒 

過去500年間 欧米諸国が使う植民地統治手法
 国際派ジャーナリスト・危機管理コンサルタント
丸谷元人

ある方から、有料で販売されているPDF版書籍を無料でメール添付で頂戴した。本当にありがたいことである。丸谷氏の経歴は極めて?という感じであるが、話の内容が非常にうまい譬え話が多く、話術に秀でている者であることは間違いない。反面、簡単な容易にわかる事実誤認や少し歴史知識のある者なら間違いだとすぐわかる内容があまりにも多い。

当然であるが、そのままメモできないので、1ヵ所以外は単語のみ抜き出した。このメモをしておいた目的は、著者の方が、私には完全に要注意人物に思えたからである

内容を途中まで読んだ私の直感(又は単なる妄想)及び懸念は、この人物が、朝鮮総連(=北朝鮮)の日本世論工作員ではなかろうか?という点に尽きる。内容からしてその可能性が極めて高い。

*目的
少しでも、日本の世論を反米に向かわせる

*根拠
①検索した経歴に日本戦略研究フォーラム政策提言委員以外に一切具体的な機関名がでてこない。企業名を伏せることは当然としても?である。また、日本戦略研究フォーラム政策提言委員に現時点では、この人物の名は無い。しかも、ご丁寧に、わざわざ、(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)とある。

②私も知らなかった。この人物は良く知っている?

「2000年の始めぐらい
北朝鮮
最初
外資銀行
HSBC、
香港上海バンキ ングコーポレーション
イギリス人男性」

③本文中では、抜き出した単語とは完全に異なり、北朝鮮シンパであることを、完全におくびにも出していない。単語だけ抜き出して初めてわかることである

「北朝鮮
永久
不滅?
超大国の思惑」

③以下のみ、本文をそのまま記載させて頂いた。ありがとうございました

「ものすごく優秀な日本の国立大学で研究をした方の多くが在日の方であると、しかも北系の方であるそうです。そ うすると日本の技術が、みんなあちらに行ってしまっているのではないかという懸念も当然あるわけなのです。 日本にはそれを止める法律がないわけですから、今ようやくそれを止めようとしているみたいですけれども、そういう ことがあります」

上記の内容は絶対におかしい。上手くごまかしたつもりであろうが、決定的なミスを丸谷氏はしている。

ものすごく優秀な日本の国立大学で研究をした方の多くが在日
=我々は優秀な民族が朝鮮人が有するごく一般的な妄想である。しかし、私の知る限り、北系の方とする場合は、確実に皆無である。

④当然であるが、決め手として、日本戦略研究フォーラムに問合せするしかない。

検索結果より
「1974年生まれ。オーストラリア国立大学卒業。同大学院修士課程中退。オーストラリア国立戦争記念館の通訳翻訳者などに従事。また南太平洋・中東およびアフリカで駐在員等の身辺警護、テロ対策、不法監禁・脅迫事案対応、地元政府および部族との交渉、武装勢力やマフィア、地元労働組合への犯罪予防と情報収集他を行う。米海兵隊での訓練(暴動鎮圧、犯罪基本捜査課程他)や、英国における誘拐人質事案初動対処訓練、ならびに米民間軍事会社における対テロ戦闘・戦術射撃・市街地戦闘・要人警護等を修了。また米系大手IT企業の地域統括セキュリティ・マネージャー(日本・韓国・豪州・NZ)やリスク管理部部長(日本・韓国)などを歴任、危機管理・情報漏洩・産業スパイ対策も担当。日本戦略研究フォーラム政策提言委員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)



分断
統治
欧米諸国
得意

【この前に。カースト制を利用したイギリスのインド統治に関する手法を述べている】



ルワンダ
ベルギー
植民地
ツチ族とフツ族の対立
扇動

他民族統治
牧場のやり方
学んだ
家畜
牧羊犬
逆らうこともできないのです。
この手法
人間に使って
【会田雄二氏氏が、アーロン収容所で、全く同趣旨のことを書かれていた記憶がある。ヨーロッパは基本的には、小麦の収穫が20世紀になるまで不安定であり、どうしても、家畜の肉を大量に消費する必要があり、家畜の制御の方法を植民地に適用したという趣旨であった。丸谷氏は、アーロン収容所を読んでいると思われる】 

この分断統治では、シェパードといいますか、牧羊犬を育てるということは非常に重要です。 自分たちがわざわざ行ってやることほど、バカなことはないのです。

インド
陸軍士官学校
10万人から20万人くらいの 街
27、8才の白人が1人で支配
【うまい譬えの次にイギリスのインド統治実情が示されている。現在のパキスタン・バングラデシュを含む広大なインド亜大陸をわずか500人程度のイギリス人が間接統治していた。】



日本
マコーリー主義
土着
本来の感性を失っていっている
アウン・サン・スー・チー女史、
パキスタンのブットー首相
マララ
マコーリー主義
アイドル


【これは本当にたとえ話がうまいとしかいいようがない。しかし、丸谷さんのお考えを突き詰めていくと、究極的には米中対立で、「アメリカは自分たちがが正しいと信じる見解を、何らの根拠もなしに、何らの権限を有していないにもかかわらず、世界中の人々に押し付けようとしている」という中国の基本的認識が正しいのだ!ということになる。ご本人はその点に気づいているのであろうか?
一般に、この手の論者が最終的に行き着くのは、「ユダヤ陰謀論」的な内容であることが非常に多い。】

軍事政権
抑圧
許せない
本質を見ないまま
どんどん応援団

【うまい譬えの一言に尽きる。しかし、根源的には、民主主義 VS その国その民族に応じた統治手法 の2者択一という見解である。30年前のインドは、どこをどう見ても「民主主義」になじまない実情があったことは否定しえない。インドが、欧米流の民主主義を踏襲せず、中国のような別の統治手法を採用していたと仮定すれば、恐らくは、今日、インドがGDPで世界第一位であった可能性が極めて高い。しかし、インドはその極度の文化的特異性とデイビッド・ライヒが「交雑する人類」の中で、明言したような遺伝的な特殊性により、中国のような統治手法をとることは不可能であったと言える】 




コンゴ
銅の生産地
世界
銅7割
当時
生産

【これは、ほぼ確実に誤解である。「だそうです。」と逃げているが、調べればわかることである。

2015年時点で次のとおりであり大規模な銅鉱山が今後にあることは確かである
銅鉱の産出量(銅含有量ベースの重量、2015年)はチリ、中国、ペルー、アメリカ合衆国、コンゴ民主共和国が上位国です。 特にチリは世界の約30%を産出しています。

銅という非常に広範に使用される汎用金属であるからして、コバルト(コンゴが58%)・タングステン(中国が87%)のような希少金属と異なり、ほぼ確実にあり得ない。
嘘と騙し以外の何らの能力を有しない韓国人と同じような言い回しを日本人がするべきではない。
恐らくは、銅ではなくコバルトの産出国では1960年当時においてコンゴが70%前後を占めていたのであろう

「だそうです。」は韓国人が嘘を意図的につく時の慣用表現である

 
ルムンバ
大統領
参謀長にクーデターで殺害
実はベルギーの王さま
アフリカでは18世紀、19世紀
1,000万単位で人を殺した

丸谷氏はご存知ないであろうが、もっとはるかに酷いのは、スペイン人とポルトガル人である。間接的・直接的に殺された南米人の数は正確には全く分からない。確実であるのは、①今日のメキシコ人の男系祖先は90%以上がスペイン人男性である。②今日のアルゼンチンは、白人国である。

丸谷氏による聴衆を聞き入らさせるための「お話」が続く



【途中、飛ばし読みした】

ものすごく優秀な日本の国立大学で研究をした方の多くが在日の方であると、しかも北系の方であるそうです。そ うすると日本の技術が、みんなあちらに行ってしまっているのではないかという懸念も当然あるわけなのです。 日本にはそれを止める法律がないわけですから、今ようやくそれを止めようとしているみたいですけれども、そういう ことがあります

【完全な誤解であると自信をもって言い切れます。北朝鮮=朝鮮総連が入り込んでいるのは、理工系学部がない一橋大学です。北朝鮮の核開発が日本の技術無しではできなかったのは事実ですが、「ものすごく優秀な日本の国立大学で研究をした方の多くが在日の方である」は完全な間違いで、猛烈に勉強するため、知能が低くとも、一橋大学には入れるのです。ちなみに、丸元さんは、ウラン濃縮に絶対必要なのが、数百機以上のガス遠心分離機の回転数をただ一つで制御する周波数変換器であることを御存じでないだろう。北朝鮮が、ウラン濃縮を開始した時点で、その性能の周波数変換器を製造できるのは、三菱電機・日立・東芝の3社しかなかった。この3社に勤務していた在日が関与した可能性が極めて高い





北朝鮮
永久
不滅?
超大国の思惑


北朝鮮
永遠
不滅
【完全に正解です。中国にとって、北朝鮮は。「生かさぬよう殺さぬよう」に存続させておくのが、ベストだからです。少なくとも、習近平以下中国指導部は100%確実に「生かさぬよう殺さぬよう」存続を意図しています】

戦後 の日本人
視野狭窄

2000年の始めぐらい
北朝鮮
最初
外資銀行
HSBC、
香港上海バンキ ングコーポレーション
イギリス人男性です


関東軍
参謀
100万の兵力
フィリピン
移動
瀬島

【この時点で、読むのを完全にやめる。事実誤認どころか、第二次大戦史をほぼ知らない

①私の記憶では、1944~1945年頃、陸軍の主力100万=支那派遣軍は、広大な中国大陸に張り付いていた。というよりも、蒋介石の後退戦術にはまって泥沼化していた
②形式上は支那派遣軍に含まれるが独立性が極めて高かった関東軍70万
③寺内寿一を総司令官とする南方総軍=50万~70万
である。「100万の兵力をフィリピンにどんどん移動させた」のであれば、方面軍司令官山下は、刑死しなかったであろう


岩波講座 世界歴史 11 
構造化される世界
14~19世紀
岩波書店
2022年

p135の記述から、執筆者2名の知識レベルがわかる。李氏朝鮮時代の奴隷=奴婢に関する基本文献である四方の研究さえも知らないようである。私は、宮嶋氏の著作で知ったが。

それ以上に驚いたのが、参考文献として、民族史観に染まりきっている韓国人どもの、しかも、英文の論文しか参照文献にあげてはいない


驚くべきことに、民族史観に基づき、奴婢=奴隷ではないと考えていた朝鮮人もいたのだ。
Korean Nobi and American Black Slavery 2010 Rhee et.al

当たり前だが、相続と売買の対象であり、両班の主要な財産であった奴婢が奴隷であることは明白である

My own Flesh and Blood: Stratified Parental compassion and low in Korean slavery
Kim 2019

奴隷たちの世界史
ルシオ・デ・ソウザ
岡 美穂子

p131
奴隷とはいかなる人々を指すのであろうか。実のところ、日本国内のみならず海外でも、その定義は極めて困難で、ほぼ不可能であるとされている。

p132
アフリカ大陸を南北につなぐサハラ交易では、ポルトガル人が大西洋の奴隷貿易を開始する前の時代では、地球上でもっとも大規模で継続的な奴隷取引が行われていた。このサハラ交易ではアフリカ南部と北部をつなぐ街道の上を金や奴隷が運ばれた

p135
18世紀の朝鮮では、人口の約30%が奴隷で占められていたと推定されている。近年まで、韓国の学会では、奴婢を奴隷としてと絶えることに必ずしも肯定的ではなかった(Rhee and Yang 2010:5-39)
、しかしながら、最近の研究では、奴婢は財産(つまり所有物)として扱われ、搾取や強制労働の対照であったことが明らかにされつつある(Kim 2019)

【バカの一言に尽きる!最近の研究ではなく、70年以上も前に既に日本人によって明らかにされている、ルシオ・デ・ソウザなる者は日本語を苦痛なく読めないであろうからして、やむを得ないが、岡 美穂子という女性は日本語を読めるはずである、小学生ではあるまいし、研究者を止めるべきである。同時に、今回刊行されている岩波講座世界史がいかに無意味かつ杜撰な内容であるのかの象徴であろう。基礎文献の網羅・収集すら全くされてはいない、本当に酷い!

四方によれば
①18世紀には、奴婢比率は一度低下している
②19世紀には再度上昇している
③民族史観に基づく、韓国人どもは、奴婢戸の減少をわざと強調している。しかし,元データはどこをどう見ても、四方が調べたデータである。


表3、4は、四方博によって明らかにされた慶尚道大邸地方の戸籍分析の結果である

Ⅰ期=1690年
ⅱ期=1729年
Ⅲ期=1783年
Ⅳ期=1858年

表3身分別戸数とその比率
 両班戸良人戸奴婢戸総数
Ⅰ期290戸  9.2%1694  53.7%1172   37.13156  100
ⅱ期579   18.7
1689  54.6  824   26.73092  100
Ⅲ期1055    37.5
1616  57.5  140     5.02811  100
Ⅳ期2099    70.3
  842  28.2    44     1.52985  100

表4身分別人口数とその比率
 両班良人奴婢総数
Ⅰ期1027人  7.4% 6894  49.5% 5992   43.113913  100
ⅱ期2260   14.8
 8066  52.8 4940   32.415266  100
Ⅲ期3928     31.9
 6415  52.2 1957   15.912300  100
Ⅳ期6410     48.6
 2659  20.1 4126    31.313915  100



韓国の高校生向け教科書に記載されている図


IMG_0737

韓国と日本の比較文化論
金 ホアン

講座制「民族大学」
ブックレット4
明石書店
1994年

私がこの読書メモを始めた最初の頃、この金某というおバカな朝鮮人の嘘にものの見事にだまされたことがある。李氏朝鮮の早婚制についての記述である

①中国正史検索サイトで扶餘で検索し、魏書では以下の短い記述しかない。

扶餘也。在失韋之東,東至於海,方二千里。其人土著,有宮室倉庫。多山陵廣澤,於東夷之域最為平敞。地宜五穀,不生五果。其人長大,性強勇,謹厚,不寇抄。其君長皆以六畜名官,邑落有豪帥。飲食亦用俎豆。有麻布衣制類高麗而幅大其國大人,以金銀飾之。用刑嚴急,殺人者死,沒其家人為奴婢。俗淫,尤惡妬婦,妬者殺之,尸其國南山上至腐。女家欲得,輸牛馬乃與之。或言本穢貊之地也。

②魏志夫餘伝では、

在國衣尚白 白布大袂袍袴
 履革踏 出國則尚繒繡錦罽 大人加狐狸狖白黒貂之裘 以金銀飾帽

とやや詳しく書いている。魏志倭人伝もそうであるが、魏志の記述よりも正史の記述を重要視すべきであろう。

③朝鮮王朝実録では、扶餘に関する記述は相当数あり、一例として

史/編年/朝鮮王朝實錄/世宗實錄/元年(1419) 卷三至六/卷四 五月至七月/秋七月

○柳廷顯報:“我國扶餘人尹含等三人,自倭船逃還言:‘初,賊以船三十餘艘,侵中國之境見敗,生還者十餘艘耳。每船所乘,不過三四十人,亦絶糧飢餓僅還。’”

即ち、15世紀初頭時点では、扶餘は漢民族ではないとして明確に扱われている。実録では、今日のロシア領(沿海州附近)又は満州の北東部の人々をもって、扶餘と呼称したと思われる

この金某なる人物は、この書籍の略歴の最後に「名古屋韓国学校副理事長」とあり、日本在住である。これが日本における「朝鮮史」の実情である。いい加減、嘘をまき散らすのはやめて欲しい

④李氏朝鮮時代において、衣服用の染料については、安価なものは、黒・薄い黄色(服喪期間中にのみこの薄い黄色の衣服を着る)の2つしかなかったようである。

他の染料色については、儀式用にのみ使用される衣服にのみ使う高価品であったようだ

*海藻禄では、大阪を訪れた際に、沿道の庶民の見物人が色とりどりの着物を着ているのを見て驚いている
*黒衣については、朝鮮王朝実録にて白衣を禁止し、黒衣を着るべしとわざわざ色まで指定している。安価な他の服飾用染料があるのであれば、黒を指定することなど絶対にあり得ない。

元来、黒一色の服など、どこの国でも服装として好まれることなどほぼあり得ない。私が知っている唯一の例外は、中国の夷族(現在の表記はイ族)であるが、奴隷制社会であった夷族の場合は奴隷であるかどうかを見分けるために奴隷主(元々はチベット高原の遊牧民)は黒衣を着用したのだ。奇妙な一致は、夷族も服装は黒、白のみである

國史編纂委員會編 史/編年/朝鮮王朝實錄/顯宗實錄/改修實錄/十二年(1671) 卷二十三至二十五/卷二十三 正月至三月/正月/1日

朔日癸丑/令朝官士人,着黑衣,禁白衣。東方尙白,國典雖有白色之禁,而仍因成習,莫之變。上思以易之,遂定是制

実録で禁白衣で検索すると4件ヒットする。

⑤韓国人がどうしもないレベルの「おバカ」となり果てた原因の一つにやはり、ハングルだけを使用してニュースが配信されることがある。ハングルだけでは、慣れたとしてもやはり非常に読みにくいようで、複雑な内容を伝えることをほぼ不可能に近い。韓国のネット情報の日本語訳サイトでも、ハングルで書かれた記事タイトルのみ読んで、記事内容をほとんど読んではいないのでは?と思える書き込みも多い

⑥この金 某というバカな朝鮮人にまた騙されるところであった。下が証拠だ。
記事タイトルの3割ぐらいは漢字かもしれない。しかし、記事本文は、ほぼハングルだ。この1980年代で若い韓国人は、そもそも漢字を学んでいないのだからして当然である。
例えば、記事タイトル中の西独の意味が若い韓国人(30歳以下)には解らなかったであろう

stupid

魏志東夷伝の扶餘のくだりでは、”国衣尚白 白衣大袂”と記述し、衣服は白色を尊重し、
今日の韓民族は、扶餘族から出ていますから、漢民族はなんと2000年来、白色の衣装を好んできた別称「白衣民族」であります。
色々な理由が学者によって挙げられています。

その一つは
服色によって尊卑を現した官憲主義のせいで、一般民衆は白衣以外には着ることができない程になったとのことです

その二つは、染料が貴重品で高価だったので、白衣を着ることになったとみる人もいます

その三としては【朝鮮人名】は、太陽崇拝や敬天思想の神聖な色として
白を挙げ、白衣のルーツをそこに求めています

この非経済的な白衣について、朝鮮王朝時代に入ってからも
歴代の王が白衣の着用を禁じましたが、これもまた官吏だけが実行し、一般の庶民は相変わらず頑なに白を着用しました。
1906年、法律をもって白衣の着用を禁止しました。【注として統一日報、1991年5月28日】


p78
一部ではハングル専用を主張する学者もいますが、一般的には新聞・雑誌などほとんど、ハングルと漢字混用が主流をなしています。韓・日両語も漢字語がほぼ6割あると言われています
【言われていますは、上手い嘘である。もしも、神が、存在すれば、貴様らのような嘘と騙し  以外の何らの能力を有さないことが、データで明白であるDNA異常民族を消滅させるであろう、私の分析が正しいのであれば、明らかなDNA異常民族が今日まで集団として存続しえた理由は、朝鮮半島の地理的孤立性が主原因だ】

世界の教科書シリーズ① 韓国の歴史 新版
国定韓国高等学校歴史教科書

大槻 健 他 訳
明石書店
2000年

次の点が印象的であった

①古代朝鮮に関し、楽浪郡に関する記述は一切されてはいない。20世紀後半において、韓国内での朝鮮史の定番本とされている「韓国通史」 韓ウグンですら、楽浪郡の存在を明記している

②高麗へのモンゴル侵攻については、「降伏」という記述は避けている

③李氏朝鮮時代の開始について、元朝から明朝への交替に伴う、李氏朝鮮の創始である旨の記述は一切ない

④朝鮮通信使に関する記述、抗日独立軍等々に関する記述は、小学生向け国定歴史教科書と完全に同じ内容を詳しく書いたものに過ぎない。この教科書で学んだ韓国の高校生は、日本との独立戦争に勝利して韓国は独立を達成したのだ!と今でも妄信しているかもしれない。年齢的には、40歳以上の者である。朝鮮通信使に関する記述は、現在でも同じであり、先進文化を日本に教えに行ったのだ!とほぼ全員が信じ込んでおり、その旨の書きこみをカイカイで見た記憶がある。一体全体、オツムはまともか?としか言いようがない

⑤下記画像を掲載し、奴婢が朝鮮末期にはほぼ消滅したことを高校生に印象付けようとしている
IMG_0737

しかし、大邸地方とあることから、慶尚道の大邸地方身分制度の変動を研究した第二次大戦前の京城大学教授であった四方博の研究に基づき算出されたデータを使用している。


身分別人口変動とあるが、戸数(戸数比1.5%)のことであり、人口数(人口比31.3%)ではない。
下は、宮嶋氏の貴重な著作から、対象地域は全く同じ慶尚道大邸である

Ⅰ期=1690年
ⅱ期=1729年
Ⅲ期=1783年
Ⅳ期=1858年

表3身分別戸数とその比率
  両班戸 良人戸 奴婢戸 総数
Ⅰ期 290戸  9.2% 1694  53.7% 1172   37.1 3156  100
ⅱ期 579   18.7
1689  54.6   824   26.7 3092  100
Ⅲ期 1055    37.5
1616  57.5   140     5.0 2811  100
Ⅳ期 2099    70.3
  842  28.2     44     1.5 2985  100

表4身分別人口数とその比率
  両班 良人 奴婢 総数
Ⅰ期 1027人  7.4%  6894  49.5%  5992   43.1 13913  100
ⅱ期 2260   14.8
 8066  52.8  4940   32.4 15266  100
Ⅲ期 3928     31.9
 6415  52.2  1957   15.9 12300  100
Ⅳ期 6410     48.6
 2659  20.1  4126    31.3 13915  100


重大なことを意味しており、韓国内では現在でも、1930年代の日本人による研究しか奴婢人口比率に関する資料がないことを意味している。韓国には文学部の歴史学科に学ぶ連中も多いはずである。
朝鮮史に関して、韓国人研究者の著作・論文は一切無視するべきである決定的な根拠を得た。
この国定教科書は、最高レベルの研究者が必ず執筆に関与している

上の表が明確に示すように李氏朝鮮時代は、奴婢戸と常民戸に依存する小規模農業生産から、李氏朝鮮時代後半から末期にかけては、奴婢を所有する本物の両班による奴隷制農業生産へと大きく生産形態が変化したことを強く示唆している

最も悲しむべき点は、辻大和氏に代表されるような若手朝鮮史研究者(恐らく、DNAは日本人ではないが紛らわしい)が同様の完全な嘘を日本国内で巻き散らかしている点である。

奴隷制社会を奴隷人口が30%を超えると定義するのであれば、李氏朝鮮時代は完全な奴隷制社会である。何故、同時代の中国・日本とは全く異なる奴隷制社会が19世紀においてすら形成されてしまったのか?精神面における朝鮮民族の明らかな異常性だけでは、絶対に説明不可能である。それにしても李氏朝鮮の奴隷制に関する朝鮮事情や朝鮮幽囚記などの数少ない外国人による記述のほうが正確であるという点には驚愕するしかない


この国定教科書の内容に関しては、バカバカしいのでメモはしない、画像で充分である

まさしく、精神異常民族であることが、この高校生向け歴史教科書に良く表れている





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岩波講座 世界の歴史17 近代アジアの動揺 19世紀

完全な精神異常民族である韓国人どもは、18世紀末の朝鮮の人口が1800万などという無茶苦茶な推計をしている。1909年に日韓併合の前提として、朝鮮全土で人口調査がされたが、完全に無視しているようである。だからこそ、完全な精神異常民族である

p26
18世紀においてアジアの多くの地域では、現地の王権が貿易を掌握することで経済的な優位性を確保するとともに、軍需物資や対外情報を統制することを意図していた。日本の鎖国もその一つの形態と言ってよい

p123
朝鮮の経済と変動
ーーー財政と市場、商人に注目して
石川亮太


第二次大戦後の朝鮮史研究が日本との接触こそが朝鮮に「近代化」をもたらしたという外因論の克服を大きな課題としてきたことがある

p124
韓国の経済史学界では、2000年頃から「19世紀の危機」論と呼ばれる議論が起きた

p125
土地生産性を低下させた原因として有力視されているのは山林の荒廃である

p126
戸籍に基づく推計値では、17世紀半ばに1000万人程度であった朝鮮の人口は、18世紀末には1800万人程度でピークに達した後、19世紀初めの大飢饉で1600万人程度まで急減、以後世紀末まで停滞していたとされる。(朝鮮人の人名2名 1977)。

p128
1809年の朝鮮南部の飢饉は深刻で

李舜臣提督と亀船
桜井健郎

いわゆる亀甲船の朝鮮王朝実録での記述については、「アジア人物史 7 16~18世紀」のメモにまとめておいた。記述量が少ない点(5カ所のみ)は、同時代の少しは信頼しうる一次資料で見る限り、実際には海上戦闘において、亀船はあまり有効ではなかったことを強く示唆する


2023-7-6-4


しかし、李舜臣に関しては、200年も経ってから、その諱名である「李忠武公全書」が発行され、民族の英雄として扱われ始めた。上の画像は、李忠武公全書 14卷首1卷 [1](国立国会図書館デジタルコレクション)に掲載された絵図である。先頭に、竜の彫物があるが、200年前の朝鮮王朝実録にはそんな記述は絶対にない。まさしく、「歴史の創出」が、朝鮮半島では昔から行われてきた明確な証拠である。中国史マニアである私の知る限り、中国史ではそのような「歴史の創出」は見られない

以上から、
①名称は亀甲船では絶対になく、確実に、亀船である。上の画像でも、龜船とハッキリ書いている
②朝鮮王朝実録における李舜臣の記述量は、相当量に及ぶため、李舜臣が朝鮮水軍の首領的存在であったことは間違いない
③しかし、李舜臣の抵抗と亀船は、朝鮮王朝実録の記述量からみて無関係の可能性が極めて高い。龜船は、龜城と同様にあまり役には立たなかったようである。しかし、「歴史が創出」されている。
④それにしても、「アジア人物史 7 16~18世紀」の辻 大和氏の記述内容はあまりにも酷すぎる。このままでいけば、次第に「史実が変化」していき、100年後には、秀吉の朝鮮侵攻において、朝鮮は侵攻してきた日本の武士団を独力でうち破たったのだ!だとされるであろう。

李舜臣提督
その偉業は乱の 200 年後(1795 年) 王命によって王室図書館が編纂した“李忠武公全 書”にまとめられ,提督と亀船に関する第 1 級の 史料として後世に残された.提督も亀船も国の誇 りとして韓国の人々に代々語りつがれてきた.

亀船の形と大きさについては“李忠武公全書” に 2 面の絵図と 694 字の説明文があるが,他の 部分が提督に関するバイブルのように扱われてい たのに,絵図も説明文もほとんど信用されなかっ たようである.


故金在瑾先生
その解読作 業の一部始終は,構造など亀船のすべてととも に,先生の“亀船”(金在瑾著・桜井健郎訳)

注1)故金在瑾先生は韓国海洋大学とソウル大学で長年造船工 学の研究・教育に携わられた世界的学者であります.名 護屋城博物館には亀船の 1/10 模型が展示してあります が,先生が図面を引いて製作を指導されたものです.

2023-7-6


角材 10 本 を連結した厚さ 1 の平らな底板は韓船の基本で, 縦方向強度をうけもつだけでなく,その寸法さえ 解れば全体の大きさが推測できる.船体下部は 底板・ほぼ平らな船首部と船尾部・側壁からでき ているが,そのような構造様式はすべての韓船に共通のものである.そして,船首部など底板以外 の厚さは 0.4 である.

2023-7-6-2

2023-7-6-3


しかし,“亀船”の付録“亀船の神話”による と,鉄甲船説を裏付ける史料は韓国側にはない. また,亀船を鉄甲船とする日本側記録には誇張が 多い.金先生は「“李忠武公全書”にそのことを 示す字句が一つもないことから鉄甲船ではない」 と明言されている.

【李舜臣と亀甲船に関しては、デジタルコレクションで調べると、日露戦争前後に、くだらん大人向け絵本がいくつも出版されている。上に言う日本側記録とは、当時の一次資料のことではなく、大人向け絵本の類のことである】

アジア人物史 7 16~18世紀
近世の帝国の繁栄とヨーロッパ
22022年
集英社

①亀の旧字体は龜である。朝鮮王朝実録で、龜の一語検索での結果は次のとおりでたったの5箇所
②亀甲の2字検索では、検索結果では、16世紀ではヒットしなかった。
③龜船でヒットするのは朝鮮王朝実録のみであり、中国史では全くヒットせず

1592年=秀吉の文禄の役、1597年=秀吉の慶長の役

次のとおり、5箇所しか記述はない。むしろ、圧倒的に記述が多いのは「亀城」である


朝鮮王朝實錄 / 宣祖實錄 / 二十五年(1592) 卷二十六至三十三 / 卷二十七 六月 / 21日

我軍令船突進,先放大小銃筒,盡燒其船,餘賊遠望頓足叫呼。方戰鐵丸中舜臣左肩。初二日到唐浦,賊船二十艘,列泊江岸,中有一大船,上設層樓,外垂紅羅帳,賊酋着金冠錦衣,手執金扇,指揮諸賊。

わが軍は亀船に突進を命じ、大小の銃筒を先に放ち、(敵の)船を焼き尽くした、残りの敵は遠くから見ていて、地団駄踏んで叫んだ。李舜臣の左肩に(火縄銃の)鉄砲の玉が当たった。
(以下省略する)


史/編年/朝鮮王朝實錄/宣祖實錄/二十六年(1593) 卷三十四至四十六/卷三十九 六月/29日(P.42-1) 

令其速調全羅等道水兵 船,遶出海面。倭如帖然守法,不敢生事。職卽聽其颺去,蓋恩自我始,不至深追,而全大義。否則令朝鮮水兵,邀截於前,我率大兵,尾進于後,待其困極,機有所乘,背腹夾擊,一大創之。



朝鮮王朝實錄 / 宣祖實錄 / 二十八年(1595) 卷五十九至七十 / 卷六十八 十月 / 27日

’今者亦當乘此冬月,汲汲修整船隻、器械,厚集水軍之勢,
 船不足,則晝夜加造,多載大砲、佛狼機、火箭器具,以爲遮截海道之計,此乃最爲救急之良策也。常時慶尙道船材所産處,只有巨濟玉浦、知世浦等處,賊兵經年入處島內,未知船材尙有餘存與否。此事密通於都體察使、統制使,勿露軍機,留意措置,以備緩急可也。至於陸地防禦,則前所陳據險一事外,他無善策。倭賊善於置陣,必爲於路邊要衝,左右控制,通望無礙之處。

記述の年月が正しいのであれば、李氏朝鮮は何らかの方法で秀吉が再侵攻してくる情報をつかみ、夜に日をついで、亀船の製造を行っていたようである。対馬の宗氏が、李氏朝鮮に内通していた可能性が高い


朝鮮王朝實錄 / 宣祖實錄 / 二十九年(1596) 卷七十一至八十三 / 卷八十二 十一月 / 7日

“李元翼今欲下去南方,某條召集人民,以實閑山島、長門浦。若失守巨濟,則無復可爲矣。”上曰:“
 船之制若何?”以恭曰:“四面飾以板屋,狀若  

朝鮮王朝實錄 / 宣祖實錄 / 三十年(1597) 卷八十四至九十五 / 卷八十五 二月 / 7日

如慶尙左道舟師,甚爲孤弱,令上道沿海各官,戰船所作,格軍充定,黃海道亦可令善手,大作板屋,船等制,急速措置事,議啓。


朝鮮王朝實錄 / 宣祖實錄 / 三十年(1597) 卷八十四至九十五 / 卷八十五 二月 / 7日

如慶尙左道舟師,甚爲孤弱,令上道沿海各官,戰船所作,格軍充定,黃海道亦可令善手,大作板屋,
船等制,急速措置事,議啓。


亀船とは、1596年に記述されているように

四面飾以板屋,狀若
 
(船の上部の前後左右の)四面を板屋をもって飾る、その状態は亀に似ている

*単に船の上部4面を板で覆ったものに過ぎない。当時の朝鮮半島には火縄銃(朝鮮では鳥銃と呼ばれていた)がなかったので、海戦での火縄銃による攻撃を防止するためであろう。

*同じ表現として亀城があり、朝鮮人どもが単に明実録を模倣に過ぎないにもかかわらず愚かな自慢をしたがる李氏朝鮮の公式記録である朝鮮王朝実録での検索結果では、圧倒的に亀城の方が多く検出される

*少なくとも、朝鮮王朝実録では亀甲船ではなく、亀船であるのは100%確実である。

*念のため、甲船で検索したが、16世紀の記述では全くヒットしなかった

*亀甲でも同様であり、16世紀の記述では全くヒットしなかった。

*勇気を引き起こして、執筆者の方に問合せして見た。内容を下記にメモ

https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/ihp/hanji.htm

中国正史の検索サイトであるが、朝鮮王朝実録も含まれる

https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mql/login.html

明実録、清実録、朝鮮王朝実録の3つを一緒に検索可能

【送付内容の一部】 

   亀甲船では朝鮮王朝実録では検索ヒットしませんので、亀若しくはその旧字体で検索しますと、5つの箇所で、亀船 で検索ヒットします。

どの箇所かにつきましては、下記URLにメモしております

http://existenzkazuo.livedoor.blog/archives/23586816.html

 

    従って、朝鮮王朝実録から見る限り、亀船 が正しい表現のように思えます。同様の表現として、亀城があり、多数検索ヒットします。

  
亀甲船とする一次資料名を教えていた開けないでしょうか。お忙しいところ、誠に恐縮ですがお願い申し上げます。

しかし、調べた著者のメールアドレスでは、配信されなかった


【メモした箇所の執筆者は 辻 大和横浜国立大学 大学院都市イノベーション研究院 都市イノベーション部門 准教授】
p418
朝鮮王朝は窮地に陥ったが、李舜臣の率いる朝鮮水軍や、各地の義兵、援軍に駆け付けた明軍などの働きもあり、朝鮮はなんとか日本軍を押し戻すことになった。
【これでは、朝鮮王朝があたかも自力で日本軍を押し戻したようなニュアンスに感じられる】

p421
李舜臣は1567年に武科に及第し、武官としてのキャリアをスタートさせた
【中国明朝の完全なコピー国家である李氏朝鮮での武官の地位は極めて低かったはずである】

p424
亀甲船は大砲をのせ、船の上を板で張った重武装船であり、まるで亀の甲の様であるとして亀甲船と呼ばれたのであった。亀甲船は前方に竜頭があり、そこから大砲を放った。船上の板には錐が露出し、敵が登れないようになっていた

2023-7-4

①李氏朝鮮時代末期又朝鮮半島を訪問した西欧人又は李氏朝鮮のお雇い西洋人であった者及び日本人の見聞記・写真記録等を一覧にしてまとめておく。いずれもリンク先で無料で読める
②年代別に並べた


*朝鮮幽囚記

ヘンドリック・ハメル
1667年
原書はオランダ語であり、東洋文庫から邦訳が出ている。読んでメモ済み



*朝鮮事情 
C・ダレ
1874年
原書はフランス語である。李氏朝鮮の実情が最も良く分かる優れた内容。読んでメモ済み


Choson:The Land of the morning calm
Percival Lowell
1888年(アメリカ議会図書館所蔵、全451頁、PDFファイル)
著者に関しては、ウキペディア記事があるが天文学者でアジア研究者という変わり種


朝鮮国真景 林武一 撮影
国立国会図書館所蔵(1892年、全133頁)
現存する最古の写真集であり、アメリカ議会図書館ウェブサイト掲載の小さな写真はどうもこの林という日本人が撮影した画像が元資料であるようだ



*朝鮮旅行記
ゲ・デ・チャガイ編
1896年
原書はロシア語である
日露戦争直前のロシア人将校による朝鮮訪問記。読んでメモ済み


Corea The Hermit nation 第3版
William Elliot Griffis
カナダ、オンタリオ大学所蔵、全524頁
ウィリアム・グリフィスについては、福井藩のお雇い外国人。
「明治日本体験記」(東洋文庫)「ミカド 日本の内かなる力」(岩波文庫)は読んでメモしている


イザベラ・バード・ビショップ、朝鮮紀行の英語原文 
1898年全554頁
著者はイギリス人女性
本命ウェブサイトに大量の抜粋をしている。東洋文庫で日本語訳を初めて読んだ際には、何てけがらわしい連中だ!と怒って、読了後に本を畳みに叩きつけた。


Fifteen years among the top-knots; or, Life in Korea
Lillias Horton Underwood. 
1904年
著者はアメリカ人女性で、英文ウキペディアによれば医学部卒業とあるが、詳細は不明。李氏朝鮮に1888年到着。下記2冊も執筆

With Tommy Tompkins in Korea (1905)

Underwood of Korea(1918)



The passing of Korea
Homer B. Hulbert, Homer
1906年
ホーマー・ベザレル・ハルバートは、宣教師である。
朝鮮亡滅というタイトルで日本語訳も出てはいるが読んではいない

The tragedy of Korea
McKenzie, Frederick
1908年
F.A マッケンジーについてはかつて随分と調べたことがある。当然、こいつが書いた2冊は読んでいる
朝鮮の悲劇の日本語訳は読んでメモ

Korea's fight for freedom
McKenzie, Frederick
F.A マッケンジーによるが、邦訳は出されていない。英語原文で読みメモしている


*アメリカ議会図書館 画像ライブラリ
撮影年月日・場所が記載された画像集。李氏朝鮮の古い写真は画像サイズが小さく意味が無い。朝鮮国真影の方が良い


李氏朝鮮に関するものではないが、読んでみよう

The new Korea

朝鮮時代の定配について
矢木, 毅
2015-06-30  東洋史研究 2015, 74(1)

驚かざるを得ないのが、刑罰ですらほぼ完全に朱元璋が定めた中国の明律によっている点である。
しかし、
①明律と異なり、李氏朝鮮時代500年を通じて、奴隷=奴婢制度は維持され、奴隷を有する者こそが、事実上の両班階層であったといえよう。
②この論文で意味がある表1中に「爲奴」という刑罰がある。確実に奴婢=奴隷とする刑罰である

*ウキペディアから明律抜粋
「罪に関しては十悪(謀反、謀大逆、謀叛、悪逆、不道、大不敬、不孝、不睦、不義、内乱)に、罰に関しては五刑(笞刑、杖刑、徒刑、流刑、死刑)に分類された。
刑罰に関しては「唐律」の流れを汲んでおり、笞刑、杖刑、徒刑、流刑、死刑の五刑が「正刑」とされた。」

*世界史の窓から全文
「明の洪武帝が編纂した刑法。大明律ともいう。  大明律ともいわれる明の刑法。初代の洪武帝の時、1367年の第1回以来、3回の改変が行われ、1397年に完成し、明令とともに明の基本法典とされた。律は唐の律令制度と同じく、刑法を意味し、唐律などを参考にして定められた。

洪武帝は明律の中で、良民を略奪して奴婢にすることを十悪罪の一つとして、厳禁した。また、皇族・貴族を除いた一般人は、奴婢を所有し使役することを禁止した。モンゴルの支配で奴隷身分にされていた農民を解放し、自由に農業生産を行わせ、租税基盤を増加させるためであった。  明律は次の清朝にも継承され、さらに李朝の朝鮮、黎朝のベトナム、日本の江戸幕府の法律にも影響を与えた。」

今の時代に旧字体で書かれ、コピペが上手くいかない。

大明律、經國大典、續大典など朝鮮時代の基本法典における各種の罪名・𠛬名が網羅 に列擧されている。

經國大典續大典などの朝鮮獨自の基本法典

いわゆる﹁笞・杖・徒・液・死﹂の五𠛬に該當する罪名


表1にまとめたのは明律の本來の𠛬名とそれ以外の朝鮮獨自の𠛬名とを分 かりやすく對比させたものである
2023-04-29

定配の定義

定配とは,配所を定めること︑または配所を定めてその地に配流することをいう
定配には徒𠛬に準じる定配と流刑に準じる定配との二種類があるが、


この言葉は本來正式の𠛬名ではなく︑

近世朝鮮時代の古朝鮮認識 (特集 東アジア史の中での韓國・朝鮮史) 

矢木, 毅

2008-12 

京大大学院教授であり、ポストからして朝鮮史研究の第一人者であるはずである。2008年に書かれたにもかかわらず、旧字体を多用し、コピペが上手くできないという奇妙な論文(著者によれば随想)である。バカバカしいので後半はほとんど読んではいない。しかし、一つだけ確実であるのは、精神面での完全なDNA異常民族の歴史を研究する者は、その影響を受けざるを得ないという点である。2008年にわざわざ旧字体で朝鮮史に関する「随想」を書くとんでもないレベルのバカが今日の日本において存在しているのである。しかし、一字資料(中国正史)に取り組んでいる点からして、研究者とは言える

これに封し、朝鮮半島に展開した歴代諸王朝の園競は、たと それは中国を中心とするいわゆる「加封瞳制」のなかに、これらの諸王朝の君主が「外臣」として参  入 し 一字の国号をもつ「内臣」の諸王より一等級格下の「二字」の国の待遇をもって位置づけられたことを意味している

「新羅」、「百済」や「高麗」などの国号は、もとを質せば「斯慮」、「伯済」、「高句麗」などの土俗の呼稽を美化したも のを用いているのである。言、つまでもなく、それは段末の賢臣である箕子が、段を滅ぼした周の武王によって「朝鮮」に封ぜられた故事に基づ のにすぎないが、それに比べると「朝鮮」という園競は、文義上、はるかに由緒ある中国的な呼稽といわなければならない

「朝鮮(衛氏朝鮮)」の首都「王険城」が、その故地に設けられた漢代の梁浪郡の治所、すなわち大同江下 流の現在の平壌の封岸に存在したことは、 二十世紀初頭の考古撃的護掘によって賓註されたとおりであるが、だからとい じめから今日の平壌の一帯に存在していたのかどうかは不明であるとしなければならない。 

筆者は先に三韓という概念の成立を取り上げて、それが韓圃・朝鮮の人々の歴史意識、領域意識にどのような影響 と嬰遷の過程を明らかにしておきたいと思う。 を及ぼし績けてきたのかについて考察したが、今回はそれと封をなす「朝鮮」という概念について、同じようにその成立

国号の制定

自国の国号をわざわざ外圃の君主に決めてもらったというこの事賓は、近代以降、朝鮮の「事大主義」を示す象徴的なエピソードとして、しばしば庇瓢の意を込めて語られることが多い。しかし、明の洪武帝が選んだのはあらかじめ提示さ れた「朝鮮」、「和寧」というこつの候補のなかからであって
そのうち、洪武帝が第一候補である「朝鮮」を揮ぶであろ やがてその名を以て呼ばれる新王朝の君臣たちにとっては、ほとんど珠定内の事柄であったにちがいない

太組元年(一三九二)八月、つまり明の洪武帝から「朝鮮」を国号とする正式の決定が惇えられる以前の段階において、 すでに新王朝では「朝鮮」の創建者である「檀君」及び「箕子」を額彰L、自らがその正統を受け継ぐ存在であることを 誇示する作業を進めている。

平壌と朝鮮
そもそも今日のソウルは、古くは「平壌(南千壌)」と呼ばれ、楽浪郡の故地の「平壌」に針して、その「王気」が衰退 した場合にこれに替わって新たに首都となるべき土地の一つとして、古くから風水師たちによって喧惇されてきたところ

 附記
本稿は草卒の聞に思いつきを書き並べた蕪雑な随想にすぎない。


岩波講座 世界の歴史 07 東アジアの展開 8~14世紀

下記メモ部分以外に目立つ箇所無し。岩波講座の歴史シリーズは、論文と一般向け著作の中間のような内容が多い

矢木教授は論文多数でろうが、検索するとどうゆうわけか?朝鮮史の転回点となったことは確実であるにもかかわらず、最も肝心の高麗へのモンゴル軍侵攻に関する論文が無いようである。

p276
【この部分は矢木毅、京大人文科学研究所教授、朝鮮中世史が専門】

朝鮮半島の人々は、数千年にわたる中国との交流を通じても、ついに自分たちの固有の文化や言語を失うことはなかった。これはほとんど奇跡といってよい程のことであるが、
中国本土と朝鮮半島を結ぶ「遼西・遼東」の地域ーー遼河の東西の地域ーーは古来必ずしも韓民族の支配する地域ではなかった。そうしてそのことは、中国本土と朝鮮半島を適度に引き離すことにもなった。しかし、この地域が契丹や女真などの北方民族によって支配されると、朝鮮半島の人々は大陸との陸路の交通路を失い、危険な海路による交通ーー具体的には山東半島を経由する北路と江南に直航する南路ーーとに頼らざるを得なくなった





戦時期の日本における朝鮮人労働者についての再検討 : 世界遺産への登録で浮上した論点をめぐって: 2016年11月12日社会経済史学会九州部会レジュメ

宮地, 英敏 九州大学附属図書館記録資料館産業経済資料部門 : 准教授

国際労働機関(ILO)の強制労働に関する条約(Forced Labor Convention) 1930 年 6 月 28 日成立
:日本は 1932 年 11 月 21 日批准

第二条1 本条約ニ於テ「強制労働」ト称スルハ或者ガ処罰ノ脅威ノ下ニ強要セラレ且右 ノ者ガ自ラ任意ニ申出デタルニ非ザル一切ノ労務ヲ謂フ

For the purposes of this Convention the term forced or compulsory labour shall mean all work or service which is exacted from any person under the menace of any penalty and for which the said person has not offered himself voluntarily.

⇒「forced labour」または「compulsory labour」とはこの国際法に違反する、違法 な強制労働であったことを意味している 日韓の外交交渉により、「forced to work」という表現を用いることで妥協 出典「岸田外務大臣臨時会見記録」(平成二七年七月五日二十二時四十九分)

第二条2 尤モ本条約ニ於テ「強制労働」ト称スルハ左記ヲ包含セザルベシ
Nevertheless, for the purposes of this Convention, the term forced or compulsory labour shall not include--

(d) 緊急ノ場合即チ戦争ノ場合又ハ火災、洪水、飢饉、地震、猛烈ナル流行病 若ハ家畜流行病、獣類、虫類若ハ植物ノ害物ノ侵入ノ如キ災厄ノ若ハ其ノ虞ア ル場合及一般ニ住民ノ全部又ハ一部ノ生存又ハ幸福ヲ危殆ナラシムル一切ノ 事情ニ於テ強要セラルル労務
(d) any work or service exacted in cases of emergency, that is to say, in the event of war or of a calamity or threatened calamity, such as fire, flood, famine, earthquake, violent epidemic or epizootic diseases, invasion by animal, insect or vegetable pests, and in general any circumstance that would endanger the existence or the well-being of the whole or part of the population;

⇒「forced to work」と表現することによって、違法な第二条 1 の強制労働ではなく、 第二条 2 の強制労働の除外規定であり国際法的に合法であったことを日本政府は 明確化した

※「exacted」では、「強要された」という意味合いとともに「必要とされた」 という意味合いもあるために、不適切と判断されたのであろう 一方では韓国政府は、「forced to work」は「forced labour」と同じであると主張 ⇒実質的には外交戦の争点として to be continued

数量データを再検討することで、朝鮮人労働者の性格についても言及する 先行研究は豊富にあるが・・・ 朴慶植(1965)で注目され、山田昭次ほか(2005)、外村大(2012)でだいたいの現在の研 究水準にある 一方で、根強い朝鮮人労働者の出稼ぎ説 西岡力(2000)、岡田邦弘(2003)など 経済史研究者は市原博(1991)(1997)が動員後の職場レベルでの分析をしているが、動 員自体の分析ではない


大蔵省管理局編『日本人の海外活動に関する歴史的調査』通巻第十冊、朝鮮編第九分冊
1946(昭和 21)年に設置された大蔵省在外財産調査会が作成
1949(昭和 24)年~1950(昭和 25)年にかけて刊行されたシリーズの1冊 復刻 1991 年
戦後補償問題研究会編『戦後補償問題資料集』第二集
2000 年 小林英夫監修でシリーズの全復刻

上記資料(68 頁)を基に、西成田豊(1994)が具体的な「強制連行」データを提示
この表を決定的なデータとして、1939(昭和 14)年度~1945(昭和 20)年度にかけて、72 万 5 千人の朝鮮人が日本本土へ「強制連行」されたと位置付けており、西成田豊後の研究は 大体においてこの数値を踏襲している。

ところが、意図的か無自覚かはさて置き、西成田豊をはじめそれ以降の論者達は、上記資 料の 65-67 頁を無視してきた その内容は、1929(昭和 4)年度~1939(昭和 14)年度までの「徴兵令に依らざる対日労務供 給」の部分であり、後述するように出稼ぎ労働にあたるデータである



続いて「朝鮮人日本内地渡航者帰還累年表」が掲示される→表2 ・1929(昭和 4)年度~1938(昭和 13)年度にかけて、少ない年で 10 万人ほど、多い年で 15 万人ほどの朝鮮人労働者が、個別渡航という形で自発的に朝鮮半島から日本へと移 動していた


つまり、1938(昭和 13)年まで、一定数の朝鮮人労働者がプッシュ要因によって朝鮮半 島から日本へと送り出され、彼らは出稼ぎ労働者だったからこそ、その多くはしばらく 日本本土で働いた後に朝鮮半島へと戻って行っていた。この状態が前史として存在す る。

3.プッシュ要因の大きさを踏まえた労務動員の始まり-1939(昭和 14)年度 西成田豊(1994)を皮切りにして頻繁に用いられるようになった数量データ 「朝鮮人労務者対日本動員数調」→表3


、「期間満了移入朝鮮人労務者指導要領ニ関スル件」アジア歴史資料センター Ref.A04018767400「公文雑纂・昭和二十年・第七巻・内閣・次官会議関係(一)(国立公文 書館)」によって確認

日本政府は現実の状況を無視し、1945(昭和 20)年度に入っても、朝鮮人労働者 は出稼ぎ労働者であるという大前提を崩さなかった。

 

この点を、「期間満了移入朝鮮人労務者指導要領ニ関スル件」アジア歴史資料センター Ref.A04018767400「公文雑纂・昭和二十年・第七巻・内閣・次官会議関係()(国立公文 書館)」によって確認

 

この指導要領は、朝鮮人に対する労務動員の期間を一年間延長するにあたって、事業主 を指導するために作成

 

「関係官庁及団体ハ固ヨリ事業主モ誠意ト情愛ヲ披瀝シテ一体的努力ヲ為スコト」が 重要であると掲げられ、その上で、「物心両面ニ於ケル優遇」を行うことが明記された

 

具体的な 8 項目(ただし宮地による内容要約)

一、人物や技能に応じて指導的地位に就けること

二、期間延長の手当として二百円以上の金銭を即時交付し、朝鮮半島にいる家族に送金 するよう指導すること

三、朝鮮半島にいる家族に対して二百円以上を支給し、さらに繊維品等を贈与すること、 ただし後者は、軍需大臣及び厚生大臣からの見舞品とする

四、石炭関係労務の場合には、困難性などを踏まえて特別手当を支給すること

五、別居手当及び家族手当を支給し、朝鮮半島にいる家族に送金するよう指導すること

六、事業主は朝鮮人労働者の同意の下に給与から一定金額を差し引き、朝鮮半島にいる 家族への送金を代替して行うこと

七、未払いの手当等は、即時に支払うこと 八、食費の増額を行うこと 朝鮮人労働者の昇進、家族への見舞金の送付、特別手当の支給、食料の充実などといっ た対策が掲げられたている→かなり手厚く遇することで、労働力を確保しようとしていたことが分かる



②動員の人数
従来の研究史においては、統計の数字のうち重複を加味した「延べ人数」として理解しなければならない部分を、単純な合計人数として読み取ってしまっていた現実には、延べ人数 ・・・・ として七十万人前後の朝鮮人労働者が労務動員によって日本で働 いたのであるが、その時々の現在数は、1943 年度で 20 万 5 千人強、終戦時で 26 万 5 千人強であった


 1930 年代までの朝鮮半島は労働力が過剰であり、日本への出稼ぎが頻繁に行われていた。 1930 年代末に至り、戦時の徴兵で日本人の男性労働力が減少しているために単純労働者を 更に海外から入れたいという思惑(本音)が生まれた。しかし一方で朝鮮人の日本への移住は 最小限に抑えたいという本音もあった。この両者を一挙に解決したのが出稼ぎ労働の拡充 という建前(欺瞞)的な政策であり、戦時における朝鮮人の労務動員という「forced to work」 であった。

つまり極めて欺瞞的ではあるが、日本における戦時の朝鮮人労働は、まさしく国際労働機 関(ILO)の強制労働に関する条約の第二条第二項に充当するものであり、国際法に違反す る「forced labor」ではなく合法な「forced to work」だったといえる

それでは何故、その「forced to work」があたかも「forced labor」であるかのような印象 を惹起させてしまうのか? それは、官僚達による政策立案の未熟さと、未熟さを利用した現場レベルでの犯罪的な行 為、そして政策が行き詰まっても根本的な修正を躊躇する無責任な体質、更にはその皺寄せ が弱者に押し付けられるという、何重もの欺瞞や失態が折り重なっていたから

参考文献
市原博(1991)「戦時下の朝鮮人炭鉱労働の実態」『エネルギー史研究』15
市原博(1997)「戦時期日本企業の朝鮮人管理の実態」
『土地制度史学』40-1 大蔵省管理局編(1949)『日本人の海外活動に関する歴史的調査』通巻第十冊・朝鮮編第九分 冊
岡田邦弘(2003)『朝鮮人強制連行はあったのか』日本政策研究センター
金子文夫(2007)「占領地・植民地支配」石井寛治他編『日本経済史4戦時・戦後期』東京大 学出版会
金廣烈(1997)「戦間期における日本の朝鮮人渡日規制政策」『朝鮮史研究会論文集』35
金洛年(2002)『日本帝国主義下の朝鮮経済』東京大学出版会
高峻石(1980)『南朝鮮経済史』柘植書房
外村大(2012)『朝鮮人強制連行』岩波書店
西岡力(2000)「朝鮮人『強制連行』説の虚構(上)在日の真実に迫る」『月曜評論』2000 年 8 月号
西成田豊(1994)「労働力動員と労働改革」大石嘉一郎編『日本帝国主義史3第二次世界大戦 期』東京大学出版会
林えいだい(1989)『消された朝鮮人強制連行の記録』明石書店
原朗(2013)『日本戦時経済研究』東京大学出版会
朴慶植(1965)『朝鮮人強制連行の記録』未来社 朴慶植(1973a)『日本帝国主義の朝鮮支配』上、青木書店
朴慶植(1973b)『日本帝国主義の朝鮮支配』下、青木書店
朴慶植・山田昭次監修(1993)『朝鮮人強制連行論文集成』明石書店
宮地英敏(2010)「資料 中央協和会編『朝鮮人労務者募集状況』」『経済学研究(九州大学)』 77-1
宮地英敏(2016)「戦時期の日本における朝鮮人労働者についての再検討」『福岡地方史研究』 54
山田昭次ほか(2005)『朝鮮人戦時労働動員』岩波書店
Everett S. Lee(1966) ’A Theory of Migration’ Demography, 3-1
W. Arthur Lewis(1954) ‘Economic Development with Unlimited Supplies of Labor’ The Manchester School, 22-1


金日成と金正日
現代アジアの肖像 6 岩波書店
除 大粛
古田 博司 訳

本書後書きによれば、岩波書店の求めに応じて、ハングル執筆し、古田 博司が日本語に訳したものである。日本人で金日成について書ける者がいないことが情けない。和田春樹もいい加減な内容しか書けないことを岩波書店は知っていたのだ。中国内朝鮮族出身のハワイ大学教授の手によるが、中身の非常に濃い内容。

ただし、国立国会図書館のアジア歴史資料センターの資料を全く参照せずに書かれた内容である。以下は同センターから一部を抜粋したものである。

金日成に関し、ほぼ完全に、一次資料である日本側陸軍記録と著者の書く内容は一致している。

①著者は金日成を名乗る者が複数いたという韓国人の嘘については、言及を避けている。キチガイども(韓国人)は、3名が名乗っていたとする場合が多い。金日成指揮下の東北抗日第一路軍第二方面軍の画像2枚あり、昭和27年時点で見た者は「大分異なる」としているが、2枚目の比較的鮮明な画像では、太れば恐らくは金日成であろう。

レファレンスコード
C13010013700

作成者名称
復員局資料整理課

資料作成年月日
昭和27年11月

写真第一 東北抗日第一路軍第二方面軍 現在の
と大分異る
写真第二 匪名2 崔賢 迷魂陣地 写真第三 写真第四 吉林通化間島三省治安粛正地域要図 昭和十六年二月 野副討伐隊司令部 穆稜 牡丹江 葦河 珠河 至ハルピン 牡丹江省 寧安 鏡泊湖 五常 楡樹 舒蘭 松 間島省 吉林省 拉法 吉林 九台 至新京 汪清 図們 延吉 朝陽川 敦化 蛟河 和龍 安図 樺甸 磐石 朝鮮 通化省 撫松 濛江 輝南 梅河口 金川 柳河 至奉天 長白 臨江 通化 台湾@約二倍半二相当スル粛正地域@図 写真第五 昭、15、2、中旬 楊靖宇 匪跡ヲ索メテ長追スル通化区討伐隊 一部(写真ハ昭和十五、二中旬蒙江附近ニテ楊靖宇ヲ追撃中



上の画像は、比較的鮮明な2枚目画像から金日成だけを切り抜いたものである。直感的には、後の金日成と同一人であると思える。従って、金日成複数人説など韓国人という人類史上稀に見る劣悪遺伝子集団、精神面では完全なDNA異常集団が創出した単なる「嘘と騙し」に過ぎない。

韓国人というまさに人類のクズどものは、とことんどうしようもない連中である。日本でも、この人類史上稀に見る邪悪の極致、「嘘の固まり」とも言うべきDNA異常集団の流布したところの金日成を名乗る人物は複数人いたという嘘で騙されている者が多いことであろう。私もその一人であった。

しかし、上の写真がそうではないことをハッキリと示している。我々人類は、①過去のデータから見て明らかに人類の進歩に何らの貢献もせず②現在のデータから見てむしろ人類の阻害要因である韓国人という人類の敵又はクズどもに対して、その効率的な処分方法の検討に着手するべきであるとすら言える
FDAは、韓国人固有のバリアンツリストを異常なまでに慎重を極めた手法で抽出することに成功している。そのリストに基づき、韓国人を全滅させるウィルス作成は容易に可能である。SNV-35リストを使えばよいのだ、韓国人ども以外には全く影響しないウィルス作成ができる。ただし、1年程度で人工作成ウィルスに変異が生じるであろうという重大な難点がある


第2 治安方策/其2 治安粛正計画/第1期(1939年10月1日より1940年9月)治安粛清計画要綱
其二 治安粛正計画 第一期(一九三九年十月一日ヨリ一九四〇年九月)治安粛正計画要綱 一 匪情 東北抗日聯軍第一路軍総司令揚成宇(部下約四百名) 同副司令、魏極民第一方面年司令曹亜範等ハ主トシテ通化省及樺甸県(吉林省)方面ニ第二方面年司令ハ間島省及ヒ南部吉林省方面ニ第三方面年司令陣輸章ハ東南部吉林省東北部間島寧安県(牡丹江省)方面ニアリ数百乃至数十名ノ集団匪トナリテ所在部落ヲ襲撃シ行政県公署所在地以外ニ侵透セズ人心陶々避難民ハ各所ニ流浪シ治安全ク混乱ノ状況ニ在リ其編成第四表ノ如シ 二、方針 本期間ニ於テハ主トシテ有力匪ヲ求メテ之ヲ徹底的急追シ其捕捉殲滅ヲ期ス 治標工作(討伐)ニ即応シ治本思想工作ヲ推進特ニ道路

作成者名称
関東軍司令部
資料作成年月日
昭和16年6月~7月
 判決 一、第一路軍匪ノ入満ハ確實トナレリ軍ノ再建及西進ノ企図アルモノ、如ク今後ノ動向注意ヲ要ス 二、第三路軍系王明貴匪主力ノ入満確實ニシテ其西進企図略明瞭トナレリ尚オロチョン工作注目エ価ス 三、第三路軍主力(第九支隊)ハ近來糧秣エ窮乏シアルカ如シ今後特ニ開拓団集団部落等ノ警戒ヲ要ス 全満匪賊概数一、三六〇名 但熱河省ニ侵入セル第八路軍系 冀察熱 進軍約六〇〇ヲ含ム 李明順匪入満ス 昨15年12月入「ソ」セル李明順匪84月入満

レファレンスコード
C13071218300
吉林、間島、通化三省治安粛正の大要 昭和14年10月~16年3月
第五 討伐成果 本期討伐に於ては東北抗日聯軍第一路軍総司令以下約三千の大小匪団を討伐し有力匪首の大部を捕殺し多大の成果に発@せり但し以下若干匪首を逃し蘇聯領に逃避せしめたるは甚だ遺憾とする感なり 然れども該方面の治安全く安定し東辺道開発を容易ならしめたるは@満国発展の為慶賀に堪えざる所なり 討伐成果第一表の如く又東北抗日聯軍第一路軍編成並に匪首捕殺表左の如し 第四表 (表) 総司令 楊靖宇 副司令 魏極民 土匪大頭目 双勝 土匪頭目 串山好 土匪頭目 全局好 司令部 参謀 方振@ 参謀 李総青 参謀 丁 秘書処長 全光 一路長治科長 王寿山 地区@@主任 金光学 南溝@委員 金在範 副官 李久王 部員 韓暁光 善南峯

レファレンスコード
C13021441100

作成者名称
警備行軍部隊中隊長 陸軍歩兵中尉笠間哲行

三、行軍地方一般ノ状況 其一賊情及脅迫文ノ一例 安図県地方ニ於ケル匪賊ハ朝鮮併合当時ニ其端ヲ発シタル民族的偏見ヲ根底トシ次テ民族自決主義ニ変移シ更ニ共産党ニ投シタル所謂共匪ノ外満洲国成立ト共ニ反満反日ヲ標榜シ且強盗行為ニ依リ生活ヲ為ス土匪ノ二種ニ大別シ得ル如クニシテ此中共匪最モ多ク之等匪賊ハ逐年減少セリト雖モ質ニ於テハ思想的根底極メテ深ク団結鞏固其抵抗モ執拗ナルモノヽ如シ本年五月下旬以来咸南方面ヨリ北上シ豆満江上流ノ鮮内及対岸近クニ屡々出没蠢動セル匪賊ハノ率ユル約二百内外ノ共匪ナルモノヽ如ク其編成並侵襲状況概ネ左ノ如シ 東北抗日聯合郡第一路第二方面軍編成表 指揮成(二八) 主任呂伯岐(三〇) 副官処長 金海山(三五) 女子六名

レファレンスコード
C13020873600
作成者名称
咸興憲兵隊長髙橋虎鹿
昭和十一年度 昭和十一年度 ○編制及制度改正中ノ主要事項 一、三月五日朝憲秘庶第二八号ニ依リ咸鏡南道咸州郡興南邑ニ憲兵分駐所ヲ開設ス其ノ編制左ノ如シ 曹長一、軍、伍一、上等兵一、憲兵補一計四当分曹長ニ代フルニ特務曹長ヲ充ツ 昭和十一年度 ○派遣出動及事変業務 一、四月九日憲兵下士官一、上等兵一関東憲兵隊編制改正要員トシテ配属 二、六月二日憲兵下士官一、上等兵一琿春駐屯歩兵隊編制改正要員トシテ配属 三、八月中旬ヨリ咸鏡南道対岸満領内ニ共匪出没シ逐次対岸満領主要部落ヲ襲繋シ掠奪、放火、主義宣伝ニ狂奔ス憲兵ハ守備隊ニ協力之カ情報蒐集鎮圧ニ努ム 四、八月二十七日歩七四聯隊国境守備隊越境出動ニ際シ恵山鎮

レファレンスコード
C13050338200
資料作成年月日
昭和16年3月9日
野討冬作命第一九号 野副討伐隊命令 三月九日十四時 吉林現地指導機関 一、三月八日長島工作隊ハ樺甸県夾皮溝北方地区ニ於テ第一路軍副司令魏極民以下八名ヲ殲滅セリ 匪ハ依然和龍(大拉子)附近ニ潜在シアルモノヽ如シ 二、討伐隊ハ主力ヲ以テ匪ヲ索出殲滅シ治安ノ最後的粛正ヲ完成セントス 各討伐隊ハ緊褌一番最後ノ努力ヲ傾注シ関東軍司令官ノ要望ニ応ヘンコトヲ期スベシ 三、吉林地区討伐隊長ハ成ルベク多クノ兵力ヲ以テ速カニ和龍(大拉子)方面ニ前進シ間島地区討伐隊長ノ区署ヲ受ケ匪ヲ索メテ撃滅スベシ 之ガ為出動部隊 全部ノ集結ヲ待ツコトナク転進容易ナル部隊ヨリ逐次前進セシムベシ 四、通化地区討伐隊長ハ魏極民匪索出ニ使用セル討伐隊ヲ速カニ招致シ匪討伐ニ重点ヲ指向スベシ

レファレンスコード
C13050335900
資料作成年月日
昭和16年1月13日

第一、匪情 現在ニ於ケル匪情附図第一ノ如シ 昨年秋季討伐ノ結果陳翰章、朴得範、李司令、張雨亭等ノ有力匪首ヲ捕殺セル為統制紊レ頽勢ヲ辿レル匪団ハ益々其度ヲ増加シ帰順逃走者相継キ崔賢、安政吉等其他第一路軍警衛旅ニ属セル匪団ハ討伐隊ノ鋭鋒ヲ避ケ討伐地区外ニ脱出シ第二路軍ト合体尚其一部ハ「ソ」聯ニ逃走シ地区内ニ残存シアリト予想スル、魏極民全光等ハ重軽機ノ大部ハ之ヲ穏匿シ主トシテ小拳銃ノ装備トナリ三十名以下ノ小群ニ分散潜伏シ其所在ヲ眩ス為殆ント行動セサル状況ニシテ討伐開始当初三千ヲ算セシ匪団ハ今ヤ二、三百名トナリ匪根ノ討滅モ目睫ノ間ニ在リ

レファレンスコード
C13050335600
資料作成年月日
昭和16年1月13日
野討冬作命第四号 野副討伐隊命令 一月十三日十時 吉林現地指導機関 一、匪情別冊昭和十六年度吉林、間島通化各省討伐粛正計画要綱(以下粛正要綱ト略称ス)ニ示セルカ如シ 二、野副討伐隊ハ粛正要綱ニ示セルカ如ク重点ヲ地区内残存匪タル、魏極民、全光等ニ指向シ先ツ地区内粛正ヲ完成シ次テ要スレハ地区外ニ脱出セル崔賢其他ニ重点ヲ指向シ三月末迄ニ残存匪根ヲ絶滅シ治安ノ恒久的粛正ヲ完遂スル為討伐部署ノ一部ヲ変更セントス 三、各地区討伐隊長ハ粛正要綱ニ基干綿密果敢執拗ナル討伐ヲ続行スヘシ 四、昭和十六年一月十六日十二時ヲ以テ西北南地区討伐隊ノ各称及部署ヲ変換シ北及西地区討伐隊ヲ合シ吉林地区討伐隊トシ南地区討伐隊ヲ通化地区討伐隊ト改称ス

資料作成年月日
昭和15年12月12日
野討秋作命第一八号 野副討伐隊命令 十二月十二日十二時 延吉司令部 一、陳翰章匪ハ十二月八日小湾溝附近ニ於テ間島地区討伐隊ノ為射殺サレ其ノ残匪ハ鏡泊湖東西ノ地区ヲ彷徨シツヽアリ匪ノ所在ハ明瞭ナラザルモ五道楊岔西方馬鞍山北方地区ニ潜在シアルコト略〃確実ナリ 魏極民匪ハ吉林通化間島三省境地帯ニ全光匪ハ樺甸、敦化県境附近ニ越冬ヲ準備シアルモノヽ如シ 第二軍管区ヨリ歩兵第五旅ヲ増派シ十二月十四日零時以降予ノ指揮下ニ入ラシメラル 二、討伐隊ハ討伐ノ重点ヲ魏極民匪ニ指向シ年末迄ニ該匪ヲ索出殲滅セントス 三、間島地区討伐隊長ハ一部ヲ以テ鏡泊湖東側及南側地区ヲ徘徊シアル陳翰章ノ残匪掃蕩ヲ続行シ其他ノ主力ヲ以テ討伐ニ徹底的重点ヲ指向シ之ガ索出殲滅ニ任ズベシ

昭和14年10月~16年3月
第五 討伐成果 本期討伐ニ於テハ東北抗日聯軍第一路軍総司令以下約三千ノ大小匪団ヲ討滅シ有力匪首ノ大部ヲ捕殺シ多大ノ成果ヲ発揚セリ但シ以下若干匪首ヲ逸シ「ソ聯」領ニ逃避セシメタルハ甚ダ遺憾トスル処ナリ然レドモ該方面ノ治安全ク安定シ東辺道開発ヲ容易ナクシメタルハ満洲国発展ノ為慶賀ニ堪エザル所ナリ 討伐成果第三表の如く又東北抗日聯軍第一路軍編成並ニ匪首捕殺表左ノ如シ 第三表 三省討伐主要戦果一覧表 (表) 各地区直轄工作隊 戦果種別 戦果合計 遺棄死体 帰順 捕虜投降(逮捕) 小銃 拳銃 自動火器 重機 軽機 迫撃砲 自動軍銃 擲弾筒 山寨覆滅 穀類 メリケン粉 阿片 方面軍等の組織 (表)

上の陸軍記録から昭和16年3月までに、東北抗日聯軍は満州内においてほぼ壊滅状態となり、多くは投降し、少数がソ連領内に逃げ込んだ。この著作と完全に一致する




p18
金日成は回顧録の中で
11912年4月15日に生まれたと言っている
その出生当時の名前は金成柱であった。彼の二人の弟は金哲柱、金英柱という

p19
金日成の本貫は全州金氏であり、彼の12代前の先祖が全羅北道から平壌に移住してきたという

p22
1929年5月に17歳の若さで逮捕投獄されたのだった。
監獄を出た後、金日成は学校へ戻ることができず、満州全域に散在している様々な抗日救国団体に参加し、自己の名を金成柱から金日成へと変えた。ここで我々がよく聞く話は、金成柱が、金日成という朝鮮の有名な愛国者かつ伝説的な抗日闘士の名を騙ったというものである。しかし、これは金一斉の1930年代の抗日の業績を無視し、彼の抗日運動を否定しようとする政治的な意図から出た言説であり事実ではない

挑戦独立運動史には、「キム・イルソン」という名を持つ人々がある。彼らの漢字名には金一成もあり、金日星もある。しかし、かの有名かつ伝説的で、誰もが知っている愛国闘士「キム・イルソン」は、その中のどの人物かと問うても、韓国のいかなる歴史学者も独立運動研究家も誰誰であると指摘することはできない。そのような伝説的な抗日闘士が実在したとすれば、朝鮮人のみならず、独立運動を抑圧しようとした日本人にも良く知られていたはずである。そのような人間は実在しない。
キム・イルソンという名前を持つ人物としては、北朝鮮の金日成主席に比すべき抗日闘争歴を持つ人物は存在しない。
韓国で語られているようには正体不明の人物なのではない

p23
中国共産党員楊靖宇が
1936年2月20日に東北抗日聯軍という抗日遊撃軍を組織した

p24
1941年初めの冬季作戦により討伐を成功裏に完遂した。この討伐戦で東北抗日聯軍の指導者たちは
殺害され或いは帰順し
抗日軍としての役割に幕を下ろした

p25
この時生き残った聯軍指導者とパルチザンたちは満州国を離れソ連の沿海州に身を避けるのだが、彼らはそこでソ連共産党の極東軍傘下の別働部隊に再編成された
金日成の抗日運動とは、この東北抗日聯軍で行った運動のことである。
この聯軍は間違いなく共産軍であり、満州国に住む漢族(中国人)と朝鮮人が合同で抗日運動を行ったものだが、指導的な役割を担ったのは、何名かの例外を除けば、全て中国人であったという事実である

従って、東北抗日聯軍は中国共産党の抗日運動であり、朝鮮独立運動の一部でもなければ、朝鮮の抗日運動でもなかった。この東北抗日聯軍には、中国に住む朝鮮族が主に参加しており、中国に対する彼らの要求は、中国に居住する朝鮮族の自治権であった。

中朝混成の抗日聯軍には民族的葛藤と不信も数多く生じ、裏切り者も実際多かった。

このような中国の漢族と朝鮮族の合同抗日闘争は、朝鮮独立運動に影響を与え、朝鮮の解放にも寄与した。しかしこれは朝鮮が中国延安や満州で独自に朝鮮の独立のために戦った抗日運動ではなかった。

p27

彼は疑いもなく東北抗日聯軍第二軍第6師の師長だったのである

p32
金日成が武装闘争を行っていたのは朝鮮人民軍などではない。中朝混成の遊撃軍、中国人民革命軍であった。これは、東北抗日聯軍の前身であり、
北朝鮮がその存在を主張する朝鮮人民革命軍というものはなかった

p33
彼は満州においておおよそ1934年から1940年まで約6年間闘争した。
その最も大きな戦闘は、満州で自分の遊撃隊を率い、朝鮮国境を超えて日本の警官を殺害した1937年の普保堡戦闘であった。この戦闘は1937年6月に行われた。金日成が東北抗日聯軍第二軍第6師師長のとき、自己の部隊員100名内外のパルチザンを率いて国境を越え、日本の国境守備隊警察を襲撃したものである。彼らが7名を殺害し、7名に重傷を負わせ、1937年6月4日の夜をその地で明かし、翌朝、再び国境を超えて満州に戻った。


p51
金日成は満州と沿海州で抗日運動の輝かしい経歴を持つ。しかし、中国共産党指導の中国人部隊である東北抗日聯軍と沿海州のソ連88特別旅団での闘争歴である。朝鮮国内では広く知られてはいなかった。しかるに、ソ連で4年間の訓練を受けてきたお陰で、金日成はソ連軍によって選ばれたのである。
ソ連が朝鮮の全ての革命家や独立闘士の中から金日成を選抜したことについては、様々な論争が起きている。そのうちでもっとも重要な理由は、1930年代から40年代に至る間、朝鮮共産党とソ連共産党との関係が断絶していたこと。

p52
満州の戦歴と沿海州での活動のみの為、朝鮮国内の民族主義系の独立運動家や共産主義者にも金日成は広く知られてはいなかった。このような事情から、ソ連占領軍の圧倒的な支持を受けてはいたもの、帰国した若干33歳の青二才金日成を、朝鮮人は愛国独立闘士としては生半(なまなか)には受け入れなかった。当時の朝鮮人は誰もがこう言ったものである。金日成は偽物だ。ソ連が開放された朝鮮に共産主義政権を建てるために連れて来た人物だ。













韓民族の歴史と文化ー50万年前から高麗時代まで 上
崔 圭昌(1960年高麗大学校教授、明星大学客員教授)
2001年 大阪市天王寺区ソウル書林

この精神状態は正常であるのか?という疑問を呈さざるを得ない400ページ近い歴史書上巻?によれば、
①渤海や高句麗は、韓民族が打ち立てた王朝である=どうも韓国内では、そのように見做すが定説中の定説であるようだ
②韓民族の歴史は、少なくとも50万年前にも遡る。
この書籍の韓国語版は1999年に出されている。現在、人類は約6万年前にアフリカを出て世界各地に拡散したことが知られているが、さすがに、朝鮮半島が人類発祥の地であるとは書いていないが?大爆笑!
韓国人にとって、歴史は「創出されるもの」「創り出すもの」であることが良く分かる。

何よりも重要であるのは、このような奇妙な現象は、そのほぼ全ての原因が韓国人がDNA異常民族であることに起因している点である。集団遺伝学の論文から見て100%間違いない


p87
韓民族は100万前の昔から韓半島および東北アジアの広大な地域に分布した
【韓国憲法前文にいうところの、悠久の歴史とは、100万年にも及ぶらしい。また、大韓民国臨時政府というアメリカの公式外交記録からみれば、完全に存在していない、】

p90

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p95
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【楽浪郡の位置が大きく異なる】
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p157
隼人はおそらく韓民族系統の集団であったようである
【薩摩半島に存在していたであろう隼人をこのように見做す?】

p69
支石墓(Dolmen)
地中海沿岸をはじめ、北アフリカ、インド、中国の海岸地域と日本の北九州、及び韓半島の全地域や遼東半島に広く分布する墳墓
しかし、韓半島や遼東半島に分布しているこれらの巨石墳墓は、中国海岸地域やヨーロッパのそれとは直接的なかかわりがないことが最近の調査でほぼ明らかになった


一八世紀朝鮮知識人の清朝認識―金昌業の思想を中心に

李豪潤
 約300年間で612回であり、年平均2回。朝鮮人どもの精神面での異常は、清朝に対する考えによく表れている。何故、中国清朝に優越感など朝鮮人どもが、持つことができるのか?

金昌業(一六五
八〜一七二二)は、一六三六年清朝の朝鮮侵攻 (丙子胡乱)の際、 瀋陽に人質として連行された金尚憲(一五七○〜一六五二) た。彼は、 一七一二年清朝の第四代皇帝の康熙帝 の曽孫で、朝鮮王朝後期の名門巨族である安東金氏の一員として生まれ

『稼斎燕行録 ① 』という使行録を残した。 『稼斎燕行録』は、豊富な内容や

一般的に朝鮮王朝後期の四大『燕行録』と呼ばれている。 〜一七八三)の『湛軒燕記』 ・ 『燕行雑記』(英祖四一年、一七六五 年)、朴趾源(一七三七〜一八○五)の『熱河日記』(正祖四年、 一七八○年)、 金景善(一七八八〜一八五三)の『燕軒直指』(純祖三二年、 一八三二年 ② )を いう ③ 。

金昌業の「清朝に対する優越認識」を分析した研究が多く、金昌業の対清観が 「朝鮮中華主義」 から脱殻できなかった限界を持つと指摘され、

もちろん金昌業の『稼斎燕行録』には「朝鮮中華主義」に関する記録、特に清朝の弁髪や胡服に対し、朝鮮の衣冠文物へのプライドの表現が多く記録されているのは間違いない。しかしながら、金昌業の対清観を見ると「朝鮮中華主義」的な認識はあるものの、清朝の文化や礼楽文物に対し高い評価を下す

二.金昌業と『稼斎燕行録』

金昌業が参加した一七一二年の冬至使兼謝恩使行は、 正使・金昌集、副使・尹趾仁、書状官・盧世夏などの三使が使行団を率いる五四一人の大規模の使行団であった。この使行に動員された馬匹は四三五頭で、これもまた先例のない大きな規模で、平常の対清使節団が使行団約二五○人、馬匹約二○○頭であることと比べると

明朝の滅亡した時点において朝鮮だけが中華の国であるという論理であろう

四.対清使行と情報入手

朝鮮王朝時代の対清使行、 即ち燕行使行の回数は、 清朝の入関(一六四五年)から甲午改革を行う一八九四年まで六一二回に至る ㉒ 。

清朝の神・仏信仰を否定的に紹介している。こうした中国の道教・仏教信仰に対する朝鮮儒者の拒否感は清朝のみならず、朝鮮の儒者が正統中華王朝と認識し、観念的な儒教の理想郷と考えた明朝を訪れた朝鮮儒者の紀行文にも見える

朝鮮の衣冠に対する自負心と共に清皇帝を胡皇と呼んでいるのが分かる。

このように、金昌業は目に見える文化の差、つまり衣冠文物については朝鮮の礼学文物に誇りを持っているが、清朝の発展ぶりについても高く評価しているのが分かる。

ここで金昌業は、清朝の康熙帝の治績により、たとえ目に見える外観は夷狄であるが、儒教や学問の奨励、愛民政治などによって、現在の清朝の発達した文物と太平を成したと結論付けている。

イザベラ・バード 極東の旅
金坂清則 編訳
東洋文庫
2005年

イザベラ・バードは、朝鮮紀行にて19世紀末李氏朝鮮末期の断末魔の姿を活写し、朝鮮半島の人々の特徴としての「高潔の士を輩出できずに来た」という特性を的確に指摘している。その原因は、ほぼ確実に朝鮮半島の人々の遺伝子にあるであろうが、19世紀末の時点では知る由もない。

私の知る限り、中国共産党には無数の高潔の士が存在していた、ベトナム共産党にも多数の高潔の士がいたことは近藤紘一氏の著作で知った。だからこそ、両国ともほぼ独力で独立を達成できたのである

しかし、1945年~1952年頃、北朝鮮労働党、南朝鮮労働党には私の知る限り「高潔の士」など皆無に等しい。故に、北朝鮮・韓国とも独力ではなく、それぞれ、ソ連・アメリカの手によって独立させられた。しかし、アメリカは30年もの、ソ連は5年の、国連信託統治をそれぞれ主張していたにもかかわらず、棚ぼた式で独立してしまった。集団遺伝学論文が正しのであれば。朝鮮人DNAが、地理的に近い中国東北部・日本人に比べても極めてすら、???であることに疑問の余地は全くない。

いつの日か、そのことが広く知れ渡ることであろう。多分、100年~200年ぐらい先である。その頃には、現在は1人5万円もかかる全ゲノムシーケンスが低コストで可能となろう。



p166
ある霊廟でのビショップ夫人の従者たち

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p162
朝鮮の宿

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p161
ビショップ夫人の旅の一行
【サングラスをかけたのがビショップ夫人】

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【朝鮮半島での撮影写真が少なく、上記程度しか印象に残らなかった。】



【ここから下は全て中国で撮影されたものである】


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Northeast Asian Linguistic Ecology and the Advent of Rice Agriculture in Korea and Japan

John Whitman

Published: 14 January 2012

世界的に有名な言語学者が単独で書いた論文である。

朝鮮半島には、(元々は、中国に史書でいうところの濊族が住んでいたが、)そこに山東半島から中国人に近い連中が稲作とともにBC1500年頃に流入し、その後、BC950年頃に日本に到達。言語学でいうところの farming/language dispersal modelというのをあてはめると、上記の通りとなるのだそうである。
イントロでの朝鮮半島におけるBC3世紀頃の稲作の一時停止は知らなかった?先行研究として、安という韓国人の論文で、稲作は、朝鮮半島で考古学証拠が一時的に消滅しているとのことであるが、DNA異常民族である韓国人の考察などあてにはならない


13世紀のボトルネック効果(私の仮説)を経て、まさしく人類史上稀に見る劣悪かつ邪悪の極致となり果てたキチガイども(=韓国人)の言語と日本語の近縁性を言語学の観点から上手く説明している。

確かに、ひらがなで、機械翻訳すると、(た、こめ、ほ、いね、ぬか)は韓国語でも全く同じ発音である。しかし、漢字で機械翻訳すると、全く異なっている。




abstruct

The languages of Northeast Asia show evidence of dispersal from south to north, consistent with the hypothesis that agriculture spread north and east from the vicinity of Liaoning, beginning with the millets approximately 5500 BP. 

Wet rice agriculture in Korea and Japan results from a later spread, also beginning in Shandong, crossing via the Liaodong peninsula and reaching the Korean peninsula around 1500 BCE. 

This dispersal is associated with the Mumun archaeological culture after 1500 BCE in the Korean peninsula and the Yayoi culture after 950 BCE in the Japanese archipelago.

Both Koreanic and Japonic are relatively shallow language families, with Koreanic the shallower of the two, consistent with the chronology above. 

Introduction


I argue that the historical distribution of the Japonic and Koreanic language families is associated with two events in the archaeological record.

Wet rice cultivation reaches northern Kyūshū by 950 BCE, and the western end of the Inland Sea by 600 BCE. 

The distribution of Koreanic, and ultimately, the disappearance of Japonic from the Korean peninsula, results from the arrival of a population which is associated with a temporary hiatus in wet rice agriculture in the southern Korean peninsula around 300 BCE.

Background

As a linguistic area, Northeast Asia is made up of ten language families: Ainuic, Amuric (Nivkh/Gilyak), Japonic, Kamchukotic, Koreanic, Mongolic, Tungusic, Turkic, Yeniseic, and Yukaghiric (Janhunen 1998: 196–197).

The third, fifth, sixth, seventh, and eighth of these families are sometimes related by various versions of the Altaic hypothesis, which asserts a genetic relation between Mongolic, Tungusic, and Turkic (Ramstedt 1952) or between these three families and Koreanic (Poppe 1960) and Japonic (Starostin et al. 2003; Robbeets 2005). However, there is still no scholarly consensus about the Altaic hypothesis; for critiques, see Georg et al. (1999) and Vovin (2005), among many others.Footnote1













2022-09-09

Table 1 gives a basic correlation of language families, location, and primary modes of food production.

2022-09-09 (1)

Archaeological and historical considerations

The Shandong/Liaodong dispersion hypothesis


Miyamoto (2009) presents a scenario where agriculture spread from (possibly distinct) locations in northeast China to the east and north (Fig. 2).

Miyamoto distinguishes three major spreads of agriculture from this region.

The first, associated with Setaria and Panicum, spreads from the Liaoning region to the northwestern part of the Korean peninsula and thence to its eastern and southern coasts. Almost simultaneously, a spread of these cultivars took place from northeast China to the south of Primoriye and thence to its coastal plain (Miyamoto 2009: 25–6). 

The second dispersion adds dry field rice cultivation to the millets; it spreads from Shandong through the Liaodong peninsula to the south of the Korean peninsula in the second half of the third millennium BCE. 

The third dispersion includes wet rice cultivation and associated tool complexes. It takes the same route from Shandong to Liaodong to the Korean peninsula around the middle of the second millennium BCE. 

This third dispersion reaches the Japanese archipelago, where wet rice cultivation appears in northern Kyūshū around 950 BCE (800 BCE according to Miyamoto 2009: 28).Footnote






2


2022-09-09 (2)


Hiatus in wet rice agriculture on the Korean peninsula


According to Ahn (2003: 81–81; 2010: 91), rice farming settlements disappear from the archaeological record during the third century BCE, reappearing again in the first century CE.

Early Chinese sources on the Korean peninsula and the Japanese archipelago


The earliest substantial Chinese sources on populations in the central/south Korean peninsula, the so-called Dongyi “Eastern barbarian” (Book of Wei) in the Wei shu section of the Sanguo zhi (late third century CE) and the Hou Han shu (fifth century CE), describe three groupings of peoples, the so-called Samhan “Three Han” (三韓 Sanhan): Mahan (馬韓) in the west central region, Chinhan (辰韓 Chenhan) in the southeast, and Pyŏnhan (弁韓 Bianhan) in the south.Footnote4 Traditional Korean historiography indentifies these groupings as the antecedents of the historical polities Paekche (百済), Silla (新羅), and Kaya (加耶), respectively.

Linguistics

Toponymic evidence on language locations


Clear evidence for the presence of a Japonic language or languages on the Korean peninsula is provided by the so-called Koguryŏ placenames recorded in the gazetteer chapters 35 and 37 of the twelfth century Korean history Samguk sagi (三國史記 Record of the Three Kingdoms).

The crucial data have been known since Shinmura (1916). It consists of entries where a Silla toponym is paired with the original Koguryŏ name for a locality that came under Silla control after the Koguryŏ defeat in 668. Some of the Koguryŏ toponyms renamed by Silla are phonogrammatic, or have an alternate name that is phonogrammatic. 

Chronological depth of language families

Both Japonic and Koreanic are relatively shallow language families.

Neither the phonological evidence nor the statistical evidence (in the case of Japanese) is consistent with a date of protolanguage divergence older than the dates for the beginning of wet rice agriculture, as pointed out by Hudson (1999) and Lee and Hasegawa (2011). 

The scenarios whereby Japonic arrived in the archipelago and dispersed as a result of the Yayoi expansion, and Koreanic arrived in the peninsula and dispersed as a result of the advent of the Korean bronze curved dagger culture, are consistent with the farming/language dispersal model (Bellwood and Renfrew 2002).

The dates of these two events, 950 BCE and 300 BCE, respectively, are also consistent with the gap between the chronological ceilings for dispersal of the two families, before 700 CE for Japonic and before 1,450 CE for Koreanic.In both instances, we know that the actual date of dispersal must be earlier, but we do not know how much.

The remarkable non-diversity of Japonic and Koreanic can be explained by two factors. 

Crudely put, the effect can be conceptualized as a local reduction in linguistic diversity compared to the home population. The same effect would be anticipated in the establishment of Koreanic in the south central peninsula, and again as it expanded throughout the peninsula.

The second factor is archaeohistorical. Both the Yayoi expansion in Japan and the spread of the Korean bronze curved dagger culture were subject to bottleneck effects, to borrow another term from evolutionary science.

Kobayashi (2007) accounts for the relatively slow spread of Yayoi culture to the east in terms of the “walls” (壁 kabe) put up by the progressively more robust Jōmon cultures to the east in the archipelago. In the case of Korea, the Chinese commanderies in the north of the peninsula imposed a bottleneck until their demise in the early fourth century CE. Release of each bottleneck results in a new dispersal and founders effect. 

Rice and related agricultural vocabularies

Vovin (1998) discusses possible external cognates for the ten Japanese terms related to rice agriculture in (2). The proto-Japonic reconstructions I cite are slightly different from Vovin’s.

  1. 2.
    1. (a)

      *jinaC 2.4 “riceplant”Footnote11

    2. (b)

      *mə/omi 2.1 unhulled rice

    3. (c)

      *jənaC 2.1 “hulled rice”

    4. (d)

      *kəmə/aC 2.3 “(hulled) rice”

    5. (e)

      *ipi 2.3 “cooked rice”

    6. (f)

      *po 1.3a “ear of grain”

    7. (g)

      *ta 1.3a “ricefield”

    8. (h)

      *nuka ?2.3 “rice bran”

    9. (i)

      *ko “flour, powder”

    10. (j)

      *nəri “starch, rice glue”

Vovin suggests cognates for four of these, (2e), (2g), (2i), and (2j) from Koreanic, with cognates for (2e) in Tungusic and Turkic, for (2g) in Mongolic and Turkic, and for (2i) in Tungusic as well.

These facts are consistent with the Shandong/Liaodong dispersion hypothesis outlined in “The Shandong/Liaodong dispersion hypothesis” section.

Conclusion

In this paper, I have sketched a specific historical scenario that attempts to explain the linguistic ecology of the non-Sinitic language families in Northeast Asia associated with wet rice agriculture, Japonic and Koreanic.

This scenario is couched within the general hypothesis of a diffusion of agriculture from the area around the Shandong peninsula to the north and east.

According to the scenario, Japonic arrives in the Korean peninsula around 1500 BCE and is brought to the Japanese archipelago by the Yayoi expansion around 950 BCE.

On this view, the language family associated with both Mumun and Yayoi culture is Japonic, although the association of a culture in the archaeological sense with a single language family is almost certainly an oversimplification.Footnote12

Koreanic arrives in the south-central part of the Korean peninsula around 300 BCE with the advent of the Korean-style bronze dagger culture. Its speakers coexist with the descendants of Mumun cultivators, and thus with Japonic, well into the common era. Each of these demic diffusions, as well as the later dispersions of Koreanic and Japonic, result in founder effects which diminish the internal variety of the language family. Japonic and Koreanic, as well as possibly other Northeast Asian languages, share some agricultural vocabulary, but this shared vocacbulary precedes rice farming.

東アジアと日本 日本・朝鮮・中国関係史
歴史教育者協議会 編 2004年 青木書店

執筆者はほとんどが高校・中学校の教諭や大学の非常勤講師?(教授、準教授・講師等明記されていない)・博士課程在学者である。何のために出版されたのかが?であるが、青木書店であるからしてバリバリの代々木系=共産党系であり、その支持者=歴史教育者が日本・朝鮮・中国関係史の全時代を通じた関係史を一つにまとめたものである。当然、唯物史観に立脚しているはずであるが、そのような記述は見られない。参考になる点は全くないが、朝鮮史に分類しておく

p2
長江流域は、河姆渡遺跡などが発掘され、前5000年頃から稲作が行われていたことが分かってきた。しかし、「長江文明」と言えるものではないという。

p8
高句麗は北方のツングース系の貊族の国で百済・新羅・伽耶の漢族と異なる
【武田幸男氏の朝鮮史と同じ記述であるが、伽耶は除くべきである。歴史教諭は知らないであろうが、2021年に伽耶地域でSNP分析では完全に現代日本人と同じ位置にプロットされている古代人DNA分析論文が出された。伽耶地域に日本人が進出していたことは100%間違いない。この論文は、オーストラリア人が筆頭著者である

p38
(朝鮮人名)は
私兵的騎馬隊の馬別抄を編成した。武人政権は正規軍の三別抄を組織した
【この記述は朝鮮史としては、はじめてお目にかかる。恐らくは、キチガイどもは韓国ではそのようにキチガイどもの子=高校生に教え込んでいるのであろう。即ち、中国を上回る5千年の歴史を悠久の有する優秀な民族であると!大爆笑であるが、歴史教諭にDNAがキチガイどもである者が多いことが分かる。韓国の歴史教育が日本に持ち込まれてしまっている】



李朝後期の戸口動態

馬渕貞利
東京学芸大学紀要 第3部門 社会科学, 30: 167-199
1979-01-31

1.17世紀末から20世紀初頭までの間、人口はほぼ同じであったことは、ソウル大学の英文論文で知っていたが、この論文でも同じことが確認しえた
2.反面、この分析が正しいのであれば、1642-1672年の30年間で人口は約3倍となっており、日本統治時の2.5倍を上回っている 
3.朝鮮半島に関する極めて貴重な人口推移データである 



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非自発的マイノリティにとっての「歴史的祖国」に関する一考察
:ウズベキスタンの朝鮮族を例に

旭川大学

宮﨑 理 OsamuMIYAZAKI 保健福祉学部コミュニティ福祉学科

以下がこの論文が依拠した基本文献である。
①半谷史郎・岡奈津子:『中央アジアの朝鮮人-父祖の地を 遠く離れて』,,東洋書店,2006
②柏崎千佳子訳:「コリョサラム-旧ソビエト連邦 のコリアン」,新幹社,2007
③髙全恵星監修:『ディアスポラとしてのコリア ン-北米・東アジア・中央アジア』
④『沿海州・サハリン 遠い昔の話-翻弄された朝鮮人 の歴史』,22頁,凱風社,1998

しかし、上記以外にも
ロシア極東の朝鮮人一ソビエト民族政策と強制移住一
岡 奈津子
英文ウキペディア記事
にかなりの基礎文献がある。特に⑤はほぼ全て網羅している

張鼓峰事件(ちょうこほうじけん)は、1938年
ノモンハン事件(ノモンハンじけん)は、1939年5月から同年9月
である。
スターリンによる朝鮮族以外の強制移住は全て第二次世界大戦勃発後であり理解しうるが、この論文でも①に依拠して強制移住の要因として「1930年代に入って,極東地域の情 勢が急速に緊張の度合いを高めていったことが挙げら れる。」と抽象化しているが、上のように、いずれも朝鮮族の強制移住1937年がなされた後に起こっているのである。両事件発生後であればつじつまが合うがそうではない、かつ、沿海州付近では日露の国境紛争など存在しえない。豆満江が自然の国境として明確であるからだ。

「1930年代に入って,極東地域の情 勢が急速に緊張の度合いを高めていったことが挙げら れる。」は具体的には満州事変のことを確実に意味するが、日中間のものであり、日露間のものではない。従って、強制移住の必要性はその当時にはほとんどなかったことは間違いない

しかし、秘密指令で「極東地方への日本のスパイ活動の浸 透を阻止するため」に行われた旨明記されていることは確かである


2017年5月,スターリン時代の1937年 にロシア極東地域から中央アジアに強制移住させられた朝鮮族の子孫にインタビュー調査を実施した。

筆者はこれまで,在日朝鮮人に対するインタビュー 調査を実施してきた。

例えば,次のよう なケースである。ある在日朝鮮人3世の女性は,日本 という国家のなかの X県で生まれた。現在,彼女は日 本の国籍を取得している。彼女の祖父母は現在の大韓 民国に属する Y道の出身なので,彼女はそこを自らの 故郷として位置付けている。一方,彼女が自分の祖国 であると実感しているのは,朝鮮民主主義人民共和国 である。

非自発的マイノリティの一つの例として,本稿で は,ウズベキスタンの朝鮮族を取り上げる。ウズベキ スタンの朝鮮族は,非自発的マイノリティの重要な例 の一つである。中央アジアに位置する旧ソ連のウズベ キスタンには,スターリン時代の1937年に,ロシア極東地域から強制移住させられた朝鮮族の子孫が多く暮 らしている。

旧ソ連の朝鮮族に関する研究は,それほど多く蓄積 されていない。なぜならば,ソ連時代,彼/彼女たち の存在は,マイノリティとして「タブー」と見なされ ていたからである5)。本稿では,ウズベキスタンの朝 鮮族を取り上げることによって,旧ソ連に居住する少 数民族の人びとが直面する課題に関する諸研究に寄与 することを志向したい。

ウズベキスタン共和国は,中央アジアに位置する旧 ソ連の共和国である。面積は44万7,400挨と日本の 約1.2倍である。人口は3,030万人である。民族構成 は,ウズベク系(78.4%),タジク系(4.8%),ロシ ア系(4.6%),タタール系(1.2%)などとなっている。 本稿で対象としている朝鮮族は,人口の1%以下,約 17万人が居住していると推定される。国民の90%以 上がムスリムである15)。

ロシア極東地域への朝鮮族の移動は,大きく4つの 時期に分けられる。
第1期は,1860年代に朝鮮が飢饉 に見舞われた時期,
第2期は,1910年の日本による韓 国併合に伴うもの,
第3期は,1919年の三一独立運動 が壊滅させられたことによるもの,
第4期は,1922年 10月の極東におけるソビエト政権樹立がきっかけと なったものである
(20)。

ロシア極東地域に移動する朝鮮族の数は増加の一途を たどり,ソ連で初めて国勢調査が行われた1926年に は,16万8千人(地域人口の14%)に達している
(21)。

ロシア極東地域に移動した朝鮮族たちは,1937年, スターリンによって中央アジアへ強制移住させられ た。その背景には,1930年代に入って,極東地域の情 勢が急速に緊張の度合いを高めていったことが挙げら れる。スターリンは,朝鮮人の「国境をまたぐ民族の 絆」へ猜疑を抱き,日本人に雇われた朝鮮人スパイが 極東地域に潜入を図っているという嫌疑をかけたので ある
(22)。半谷史郎・岡奈津子:『中央アジアの朝鮮人-父祖の地を 遠く離れて』,,東洋書店,2006


1937年8月21日,ソ連人民委員会議長モロ トフと全連邦共産党中央委員会書記スターリンは連名 で文書を発し,「極東地方への日本のスパイ活動の浸 透を阻止するため」に,朝鮮族を中央アジアに強制移 住させるよう命じた
(23)。

それによって,極東地域の朝 鮮族のほぼ全てに当たる17万1,781人(3万6,442 世帯)が強制移住させられた。そのうちの7万6,525 人(1万6,272世帯)がウズベキスタンに,9万5,256 人(2万170世帯)がカザフスタンに移住させられた。

強制移住は,貨物列車による約1ヶ月に及ぶ過酷な長 旅であり,多数の死者を出すものであった。計画全体 としては,1937年10月25日までという極めて短期間 のうちに遂行された
(24)(25)。

強制移住に伴い,当初は民族語学校が中央アジア に移設された。しかし,1938年に「民族語学校改変決 定」が出され,朝鮮語の教育機関はすべて閉鎖された。 このことの影響は非常に大きく,母語教育が行われな いことで,戦後に入ると朝鮮語を話せない朝鮮族の割 合が急激に増加した
(26)。

朝鮮族を取り巻く社会的現実の重要な特徴として挙 げられるのが,少数民族に対する差別である。独立 後,中央アジア各国では,カザフスタンではカザフ人,キルギスタンではキルギス人,ウズベキスタンではウ ズベク人というように,それぞれの共和国の基幹民族 (titularnation)の民族主義が台頭した。


調査に応じられる2名の紹介を得た。

(1)首都圏在住者の事例:Aさん
Aさん(調査当時60歳)は,ウズベキスタンの首 都圏に居住し,語学教師を務める女性である。彼女は, インタビューに際して,資料館で調べた朝鮮族の強制 移住に関する資料や親戚から借りた文献,自身が所有 する祖先の写真などを多数持参した。

首都に居住するには許可が 必要であり,誰でも住めるというわけではない。首都 圏で暮らす Aさんの社会階層は,比較的高い部類に属 すると思われる。

 朝鮮族がロシア極東地域 へ移住し始めたのは,1863年以降である。この移住 者の中に,Aさんの曽祖父母たちも含まれていた。朝 鮮半島で,「朝鮮の貴族の下で働くのは大変だったた めに,より良い生活のために,ロシアと朝鮮を行き来 する中で移住した」という。Aさんの祖父母は共にロ シア極東地域で生まれ,父母もそれぞれロシア極東地 域の異なる町で生まれた

1937年に,Aさんの父も母も,最初はカザフスタン に強制移住させられた。当初は自由な移住は許されて いなかったが,1953年のスターリンの死後,朝鮮族 は,「土地が良くないカザフスタン」から少しずつウズ ベキスタンへ移住していった。そうした移住者の中 に,Aさんの父母も含まれていた。

ウズベキスタンに強制移住させられた多くの朝鮮族 が,ソ連国籍を得るためにロシア正教に改宗したとい う。

子どもに聖人の名前を付け,ロシア風の名前にす る人びとも多数いた。Aさんの苗字は朝鮮風のものだ が,名前はキリスト教に由来するロシア風の名前であ る。ソ連は多民族国家であったが,朝鮮族は,「ロシア 文化を受け入れて,社会的地位を得た」と語る。

Aさんはロシアの大学で学んだ後,語学教師になっ た。夫もロシアの大学で学び,研究者になった。夫の 兄弟や Aさんの義理の兄弟など,親族には大学教員が 多く,ロシアの大学で教鞭を執っていたり,北米の大 学を卒業したりした親族もいる。Aさんの息子のうち ひとりは留学先の日本で会社を経営しており,韓国人 の女性と結婚した。もうひとりの息子は,日本の大学 院に通っている。首都圏で暮らしている娘もおり,そ の夫は独立後にウズベキスタンに来た韓国人である。

韓国からウズベキスタンにビジネスで来る人がいた り,逆に,ウズベキスタンから韓国に出稼ぎで行った りする人も多い。それは,「朝鮮族のためのビザ」があ り,「気軽に韓国に行ける」からだという。

(2)地方都市在住者の事例:Bさん
Bさんは,ウズベキスタンの地方都市で生まれ育っ た18歳の男性である。調査当時,職業専門学校に通う 学生(当時3年生)であった。インタビューに際して, Bさんの友人(朝鮮族以外の民族2名)も同席した。

将来韓国に行くことに備え,現在,Bさんは朝鮮語 を習っている最中である。

Ⅴ.考 察
韓国の移民労働者受け入れ政策が挙げ られる。2007年,韓国政府は「外国人勤労者の雇用等 に関する法律」を一部改正し,中華人民共和国国籍お よび旧ソ連地域の国籍を有する朝鮮族に,韓国内での 自由な就業を認めるようになった42)。


1)半谷史郎・岡奈津子:『中央アジアの朝鮮人-父祖の地を 遠く離れて』,4頁,東洋書店,2006.

5)Kim,GermanN.andKing,Ross.:‘KoryoSaram:Koreansin theFormerUSSR’,“KoreanandKoreansAmericanStudies Bulletin”,Vol.2:No.2&3,EastRockInstitute:New Haven, 2001.(=柏崎千佳子訳:「コリョサラム-旧ソビエト連邦 のコリアン」,髙全恵星監修:『ディアスポラとしてのコリア ン-北米・東アジア・中央アジア』,373頁,新幹社,2007.)
18)Kuzin,AnatolijTimofeevich.:“Daljnevostochnye Korejtsy: Zhiznj i Tragedija Sudjby”, Daljnevostochnoe knizhnoe izdateljstvo:Yuzhno-Sakhalinsk,1993.(=岡奈津子・田中水 絵訳:『沿海州・サハリン 遠い昔の話-翻弄された朝鮮人 の歴史』,22頁,凱風社,1998.)

20)Kuzin,AnatolijTimofeevich.:op.cit.,(=前掲,25頁).
21)半谷史郎・岡奈津子:前掲,20頁.
22)同上,28-30頁.
23)ソ連人民委員会議・全連邦共産党中央委員会決定第1418- 326号極秘,1937.
24)半谷史郎・岡奈津子:前掲,35-36頁.
25)Kuzin,AnatolijTimofeevich.:op.cit.,(=前掲,161頁).
26)同上,36頁.











ロシア極東の朝鮮人一ソビエト民族政策と強制移住一

岡 奈津子


①スターリンは、国境付近の(少数)民族を大量に強制移住させたことは知っていた、しかし、ソ連が極東地域のキチガイどもを強制移住させたのが、一番最初のケースであったことを初めて知った。
移住完了は、1937年であり、1939年のノモンハン事件の前なのだ!後ではない!
なお、英文ウキペディア記事によれば、キチガイども以外の強制移住は全て第二次大戦勃発後である。

②それ以上に驚いたのは、強制移住ではなく、事実上は国外追放しようとした点である、大きく赤字にしておいた。真の目的は、強制移住ではなく、国外追放であったと断定してよいであろうが、同様に強制移住の対象となった他の民族集団について調べなければ、確定はできない。在日による朝鮮史の美化運動は余りにも酷過ぎる。朝鮮王朝実録でみると、飢饉と疫病発生の連続の悲惨な状態であり、現時点で可能な方法を模索して、日本も同様にするべきであるのかもしれない。

③移住先の現在のカザフスタン、ウズベキスタンでは事実上米作は不可能であり、民族集団としての朝鮮人はソ連領内から完全に消滅した。完全な民族抹殺と言っていい。第二次大戦終了直後、アメリカは朝鮮の独立を認めず20年以上もの信託統治を主張し、ソ連すら5年の信託統治を考えていた。北も南も棚ぼた式に偶然独立したに過ぎないが、何故長期の信託統治が必要と考えたのか?その理由を調べよう。1945年当時、朝鮮人の遺伝的な特異性など絶対に判明してはいない

④極東ソ連領域内は、いわゆる抗日パルチザンにとって、当時唯一の安全な地帯であり、若干のソ連の支援を受けていたのである。従って、他の国境付近の民族とは同列に論じることは絶対にできない。むしろ、国境付近に留めて、抗日パルチザンを強化する方がソ連にとっては好ましかったはずだ。にもかかわらず、あえて強制移住に踏み切っている。

⑤著者は知らないようであるが、大韓民国臨時政府と称する40人ほどの朝鮮独立運動家のことを調べた際に偶然知ったが、スターリンがソ連内の朝鮮人だけで構成する2個師団を編成したことは100%確実だ。強制移住者17万には、この2個師団を構成した朝鮮人の若者を含むかどうかはわからない。師団編成時期を調べるしか仕方ないが、素人の私には不可能に近い

遠く離れた中央アジアの米作にはむかない平原地帯へ強制移住させ、かつ、若い男性は全員が軍へ!加えて、英文ウキペディア記事によれば強制移住に伴い10%~25%のキチガイどもが死亡している。

これは、遺伝的に見た場合の巧妙な朝鮮人DNA抹殺政策であると見ていい。意図的かどうかは不明であるが、結果論としては確実にそう言える。何故なのか?1930年代年当時、病理遺伝学は勿論のこと集団遺伝学など存在しない!何らかの理由で、まともじゃない連中であると判定したと思われるが、ロシア語で書かれた資料など読めないので調べることは不可能である


西側ではすでに1950年代から、朝鮮人の強制移住をとりあげた研究が発表されてきたが51、 ロシア極東への移住開始から強制移住までをはじめて詳細に描き出したのは、和田春樹の論 文であった{6

極東でソビエト政権が最終的に樹立された1922年から、朝鮮入が中央ア ジアへ追放される1937年までを対象とする。

本稿ではとくに、ソビエト政権樹立時から一一貫して存在 する朝鮮人に対する当局側の不信が、37年の強制移住に結び付くさまを明らかにしたい。な お、ロシア極東の朝鮮人社会を見る場合、朝鮮独立運動との関係は極めて重要であるが、本 稿では扱わない


1926年の全朝鮮人人口は16万8009人であるから、外国籍ないし無国籍 の朝鮮入は全体のほぼ3分の1を占めていたことになる69}。

朝鮮人代表の多くは、朝鮮人コルホーズへの差別問題をとりあげた。

ここで当時、地元紙にさかんに掲載された朝鮮人への差別問題を、さらに具体的ににとりあ げてみよう。

スイフン渓谷」は27世帯中、11世帯が朝鮮人であった。これらのコルホー ズで朝鮮人は苦労して米を作っていたが、ロシア人からは「朝鮮人は怠け者だ」「働くこと もできないし、働こうともしない」と言われ続けていた。

(2)移民制限と北方への移住政策 
チチェーリン外務人民委員が主宰した同人民委員部の審議会は1926年1月「中国人と朝 鮮人のソ連領への流入を阻止するため、あらゆる可能な措置をとる」ことを決定した。

一方、地元では1929年8月、朝鮮人移民の閲題を検討した極東地方執行委員会幹部会が 「地方への外国籍朝鮮人の無断流入、および彼らによる土地と国家財産の勝手な占拠との闘 いを強化する」ことが必要であるとの決定を下した。

それに基づいて、ハンカ湖から豆満江 河口に至る国境地帯の警備強化、違法入国した朝鮮人を追放するための合同国家政治保安部 の権限拡大、外国籍朝鮮人の北方への移住などの一連の具体策がとられることになつだ73}。

そののち極東地方執行委員会は1931年9月10日、朝 鮮人労働者に対し、以後は当局が特別に募集した者のみに入国を許すことを決定した。さら に12月20日には入国目的を親戚訪問と商業活動に限定し、農業移民を禁止した(74)。

この時期までは、朝鮮人は母国と満州、ソ連を比較的自由に往来していたが、これらの措 置によってロシア極東への移住は禁止された。クージンによれば、1932年、外国人の再登 録が実施され、その2年後には全住民に国内旅券が発行され、これを機に多くの朝鮮人がソ 連国籍を取得した〔75}。

 
【以下の点を初めて知った】
このように移住を制限し朝鮮人の帰化を奨励する一方、20年代なかばから
朝鮮人を強制的に北方へ移住させる政策が検討されはじめていた。


全ロシア中央執行委員会は1926年12月6口、朝鮮人への土地分与について特別な方法を定め た。それは、対朝鮮国境からハバロフスク市までの地域で今後朝鮮人移民に土地の分与を禁 じ、そこに住む土地なしの朝鮮人をハバロフスク管区(ハバロフスク布以北)等へ移住さ せ、朝鮮人が占断していた土地にロシア共和国の他地域からの移民を頂ちに入植させるとい うものであった⑯。

朝鮮人の移住は沿海州の土地不足が主要な原因ではな く、むしろ国境沿いの地域をロシア入で堅めるために行われたのであった。


1932年初頭の極東地方の民族構成は、ロシア人103万3000人(全人口の582%)、ウクラ イナ人36万5000入(20.6%)、朝鮮入19万人(10.7%)、ベラルーシ人6万人、中国人5万人、 ユダヤ人1万3000人、先住民は6万3000人であった〔84}。

35年には極東の朝鮮人人口は20万4000人に達している〔85}。

4.強制移住
ソ連の30年代は、まさに追放の時代として幕を開けた。その最初の犠牲者は、「クラーク」 の烙印を押された人々であった。彼らはロシア北都、シベリア、ウラル、カザフスタンなど へ移住させられ、移動の自由を奪われていた。その数は、強制収容所や監獄に入れられてい た者を除いても、1932年1月には140万にのぼっていたという{96。

一つの民族全体に対敵協力の罪をきせ、まるごと追放した初期のケースとして、朝鮮人の 強記移住はのちのちの「見本」となったに違いない。

なぜなら、第二次大戦期には多くの民 族が朝鮮人と同様の運命をたどったからである。40年代、国家的作戦に従って強制的に移 住させられた人々は301万1108人、「自発酌に」移住した入も含めると、その数は322万6340 人に達した。

それらの民族としては、チェチェン人、イングーシ人、カラチャイ人、バルカ ル人、カルムイク人、クリミア・タタール人、ギリシャ人、ドイヅ人、メスヘチア・トルコ 人、クルド入のほか、エストニア人、ラトヴィア人、リトアニア人などが知られている

1937年8月21日、政府・党中央委員会の極秘決定により、国境地域からの朝鮮人邉放が 命じられた。以下はその全文である。

⑤移住させられる朝鮮人が希望により国外へ出ようとする場合は、簡略化した国境通過手続きを容認し、出国を妨害しないこと
K.スターリン



移住開始から10月3日までに、約7万8000人が追放された〔103}。

8月21日の党・政府決定が出されてから約1ヵ月後、今度は極東地方全域を対象とした移住命令が出された。以下はその抜粋である。

4万4977人、9284世帯が移住させられた{118}。

チェルヌィシェフは9月22日、圏境地域の朝鮮入の移住後、残りの朝鮮人をそのままに しておくことは「朝鮮人はみな親族のつながりが極めて強いため」危険であると訴えてい る。「極東地方における朝鮮人の居住地域が残りの地区に限定されていることは、彼らの精 神状態にまちがいなく影響を及ぼし、これらの集団は日本の活動にとって好都合な土壌とな るだろう」。なかでもチェルヌィシェフは、沿海州の海沿いの漁業を営む地区が「日本の諜 報活動の最重要拠点となっている」とみていた。 

各地区の朝鮮人が「日本の諜報活動要員となっているのは疑いない」ため、極東に残る朝鮮人を放置しておく ことは、不適切かつ危険だと述べている(119}

1937年10月25日、極東地方からの全朝鮮人の移住は完了した。全部で3万6442世帯、17万1781 名の朝鮮人を、124の列車で移住させた。

1万6272世帯、7万6525名の朝鮮人がウズベク・ソビエト社会主義共和岡へ、2万170世帯、9 万5256名がカザフ・ソビエト社会主義共和国へ割り振られ、移送された。

隋唐帝国と古代朝鮮
中央公論社 世界の歴史⑥
武田幸男

古代朝鮮に関する恐らくは最も詳しい一般向け著作である。武田氏はかつての中国史の一般向けに似た書き方をされている。中国史の英雄豪傑伝的な昔の中国史の記述パターンである。一般向けの為仕方ないが残念である

①この本が出た当時、日本では弥生時代の初め=稲作開始は紀元前3世紀頃とされていた。朝鮮半島の稲作開始が8世紀であれば、国立民族学博物館が正しければ、ほぼ同じ頃に、日本と朝鮮半島でほぼ同時に稲作が始まったことになる
②武田氏は、9世紀における新羅と日本の断交について触れていない。遣唐使のルート変更から見ても断交したのは間違いない。旗田氏は明言している


p251
朝鮮の歴史は古朝鮮で幕が開く。その古朝鮮は三つの王朝からなり、
「壇君朝鮮」から始まる。ついて「箕子朝鮮」がつづき、これを「衛氏朝鮮」がしめくくる

p261
重要なのは、中・南方の河川流域や海岸地域で、紀元前8世紀頃から水稲栽培が広がっていったことである。
青銅器が製作され、使用されるようになった。はじめ西北部に始まり、やがれ紀元前8~7世紀ごろ中・南部に広がっていった

p262
紀元前4~3世紀から、北部各地で鉄器の使用が始まった。
紀元前2~1世紀までには、鉄器の使用は南部においても一般化し

p271
前漢の4郡の時代
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p304
4世紀の初頭、高句麗が楽浪郡・帯方郡の2郡を占領した
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p331
半島の前方後円墳は、既に10基余りが確認されており、その分布は馬韓の南部に限られ、5世紀後半から6世紀にかけて、海岸・河川地帯に集中して築造された
その墳形はどうみても、3世紀以来の列島独自の前方後円墳にそっくりである

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p332
ここには、漢山の落城に前後して、また倭の五王の時代に接続して、突然、前方後円墳を築造した勢力者たちが出現した


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p354
朝鮮半島の南方の小国家の群れがそれである。ここでは加羅諸国と呼んでおく。加羅諸国の始まりは闇の中である。
あえて言えば、その成立は4世紀初頭の前後とみてよかろう。それからの知の200年余り、しぶとく生き続け
6世紀まではかなりの国々が残っていた。

p355
「任那加羅」は金官国(金海)に当てられる。
金官国は加羅諸国を代表し、盟主国の地位を確保した
p357
金官国はそれから100年程ながら得て532年対に新羅に降伏した
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p409
8世紀のはじめと半ばに飢饉や流亡の社会現象が集中的に記録されている。

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朝鮮女性の知の回遊
朴 宣美

韓国で修士課程を終えた後、アメリカ留学後に日本留学。事実上は博士論文の内容に付加しもの。
李朝朝鮮は、同じ民族を奴隷として売買していた稀有の例であるが、女性が事実上は奴隷であったことを完全に忘れていた。しかし、本書中の「日本への留学」という著者の表現は明らかにおかしい。分析の対象となったのは、日本統治下の時期であり、パスポートすら全く不要で朝鮮半島は日本国内であったのだから「留学」などではない。

西欧人が喝破した「遺伝と教育により朝鮮人は恥知らずの嘘つきである」や朝鮮統治に当たった多くの者の印象「朝鮮人はほとんど先天的な嘘つきでる」は本書にはあてはまらないが、画像でメモした初等教育の男女差が1941年ですら男2対女1であるのには驚愕せざるを得ない。


p28

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【真に驚愕のデータである。儒教の強い影響を端的に示すデータである。朝鮮人女性は、1941年頃、推定で少なくとも80%程度は初等教育を終えていないことになる。簡単な足し算引き算もできなかったのである。金学順という売春婦(従軍慰安婦)が、稼いだ多額のお金をあっさりとあきらめた旨を韓国人が反日種族主義という本で書いているが、その根本理由は、簡単な計算ができなかったからだったのだ。謎が解けた!

ウキペディア記事によれば「初等教育就学率は1910年で1.0%、1923年で2ケタ台にのり11.2%、1935年で21.7%、1943年で49.0%であった。」としているが、上の表と合わせると、49%を男2女1の比率で計算すれば、女の就学率は18%程度である。売春婦(従軍慰安婦)のほぼ全員が簡単な足し算引き算もできなかったと考えてよい】

p164
1890年代「奴隷」状態の朝鮮女性を「開放」する近代的言説として導入された「母・妻」論(19世紀末期の良妻賢母論)は、
【著者は朝鮮女性が奴隷状態であったことを認めている。それを解放したのは日本である。まさしく、遺伝的異常民族と呼ぶべきであろうが、今日の日本人はその点に気づいてはいない!少なくとも、江戸時代において日本人の女性は奴隷状態ではなかった。】

実録 朝鮮戦争
崔 極

驚いたことに、韓国で出版されたのではなく古希を迎えた韓国人が日本語で書いたものである。長年付き合いのある群馬県の株式会社カワシマという100%確実に在日系企業の会長からパソコンを韓国人がプレゼントされたのを契機に日本語で書いたものを山口大学農学部の牧田登之教授に見てもらい校正を繰り返して書いたのだという。光人社は現在は産経新聞が買収しているが、戦記物を多く出している。
驚愕するのは、著者の略歴が「1955年~95年政治活動」とあるだけでほぼ不明である点である。韓国社会の裏社会=闇の一員とみて間違いない。全大統領当時に、これら韓国の裏社会の構成員の多くが処分されたが、生き残ったのであろう。ほとんど読んでないが、メモだけはしておく。砲兵隊所属の将校であったそうだが?


p185
智異山にゲリラ討伐の為に移動するのである

p219
身を潜めていたゲリラが銃を捨てて、
降伏してきた。捕虜は全部で17名、そのうち5、6名が女性と見られた。ボロボロに汚れた着物を着て、異臭が鼻をついた。全くこの世のヒトではないような乞食の群れだった。それでも様々な旧式の小銃を持っていたからゲリラには違いない
【20世紀初頭に某アメリカ人が鋭く指摘したように、遺伝と教育により、韓国人男性のほとんどは、大げさな物言いをし極端な誇張をするか、又は、単なる恥知らずな嘘つきであるが、この記述は、本当であると推察される。朝鮮戦争におけるゲリラの一側面であり、その多くは直ちに射殺されたと推定されるが、捕虜として引き渡したと明記】

p254~p257
上官殺害の悲劇
大隊長はその場で即死した
【殺したのは中隊長であったとのこと。大隊長が中隊長に向かって拳銃を抜こうとしたところ、逆に射殺されたとのこと。第二次大戦当時の日本の陸軍の通常編成の歩兵大隊であれば、大隊長は800名程度(4個の歩兵中隊)の部下を有する将校である。このような異様な事例は、恐らくはただの一つもないはずである。(最大400万以上の兵員数であったため、ゼロではなかったかもしれない)

韓国人男性の激情がよく見て取れる。朝鮮戦争では、人口比で見た場合には、民間人が異常に多く戦闘の巻き添えではなく、殺されていることは確実であるが、軍人ですら、激情の結果としてこの状態であることに驚愕する。全ゲノムシーケンスすれば中国人・日本人とは非常に異なる朝鮮人の特異なDNAは既に3つの集団遺伝学論文からみて明らかであるが、その変異(非同義配列多様体)は肉体面ではなく精神面に強く形質として発現している実例であろう。遺伝子を特定するとすれば、MAOA遺伝子が原因とみて間違いない。】

p275
政府の記録によると戦争の人的被害は、韓国の民間人死亡者37万3599名
行方不明者38万7744名
北の民間人犠牲者も、死亡、負傷、行方不明合わせて270万人を超えていた
【韓国政府発表の正確な数値と見てよい。この数値が韓国内では民間人犠牲者数と見なされているのであろう。民間人死亡と行方不明合計で約76万人にもおよぶ。当時の人口は、約3000万弱程度であった。米軍推計値では、民間人死亡と行方不明合計で約100万人。学者推計(和田春樹)では約35万。どれが正しいのかは?であるが、すざまじい「同胞殺し」=「民間人虐殺」が行われたことは間違いない。恐らくは、米軍推計が正しい。このうち、李承晩が処刑命令を出した又は黙認した保導連盟処刑は、5万人程度かもしれない。F.Aマッケンジーは若い頃の李承晩を好意的に書いているが、保導連盟処刑を知ればどう思うのであろうか?彼らの特異なDNAに起因する激情が主原因と見て間違いない。】





韓国現代史 ⅱ
韓 洪九

韓国人によるベトナム戦争での民間人虐殺の正確な数は、今も不明である

p22
中国人が経営する商店という商店は、国中ほとんどが火をかけられ破壊された。少なくとも百数十人の命が奪われた。大規模な反中国人暴動が1931年7月初旬

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p26
中国人がいた所ではどこでも暴動が起こったと言っても過言ではありませんでした。全国の中国人街は文字通り血なまぐさい修羅場になったのです。

p31
1970年代初めに3万5千余であった華僑はいまや2万名余りです。チャイナタウンがない国、華僑資本が成功できない国、華僑数が毎年減り続けている国。この3条件を満たす国は韓国だけです。

p35
韓国軍によって虐殺された民間人5千人という数字が死亡者全体の中で占める比率は実際には極めて低いでしょう

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p37
ベトナム戦争での民間人虐殺の大部分が、よりによって韓国軍によって行われたという事実は、実に不幸なことです

p49
今まで約80余件の虐殺の事例が分かっていますが



日本統治下の朝鮮における憲兵警察機構

松田, 利彦
1995-11-01

憲兵隊数は約1.4万、予算は人口比で見れば内地よりも多い。この数字で間違いないであろう。

1907年に比べ1910年に憲兵隊人員数が大きく減少したとは考えにくい。1910年で憲兵と警察合計で約8000名。義兵と称するゲリラ蜂起にこの人員数と1個師団(1916年以降2個師団へ、朝鮮軍自体は1921年創設)で対応した点からその規模が推定できる。台湾統治初期に2個師団を動員し多数の現地民間人死者を出した点と対比すると、義兵と称するゲリラに関する帰化済み又は朝鮮名のままの在日朝鮮史学者連中の嘘が完全にばれる。
「日本は2個師 団約5万人を投入して,漸く5か月後に平定した27) 。割譲後,日本の支配が 確立される1897年までに,反日ゲリラを含む戦死者は当時の人口の1% 強 の3万2千人にも及んだ。」(「なぜ韓国は反日なのか」より)

台湾の高砂族と同じ規模で蜂起したとすれば、朝鮮の人口1200万からして少なくとも正規軍20万人程度を鎮圧に動員する必要が確実にあったし、民間人死者は、12万以上となるはずだ。従って、義兵と称するゲリラの規模は、台湾に比べ遥かに小さいものであったことは確実である。また、F.Aマッケンジーの著作からゲリラがキチガイどもの悪癖である内紛で組織化されていなかったことも確実である。義兵総大将など存在せず、バカげた自称に過ぎない。

「なぜ韓国は反日なのか」の分析は間違えている。基本的には、単にキチガイどものDNAが異様であるからに過ぎない。

松田氏は現在は国際日本文化研究センター副所長・教授であるが、この論文執筆時は京大文学部助手。数字だけ頂戴した。中身はほとんど読んでない


憲兵警察制度は、機構内での組織原則の面でも、朝鮮民族に対する支配の面でも憲兵が中枢的位置を占める、きわめて軍事色の強いものだった。今日、 一九一〇年代の朝鮮支配様式は、「武断政治」よりも直戴に「憲兵政治」と表現されることも少なくない。

2021-09-15 (2)


過去の研究は、憲兵警察成立の契機を義兵闘争の高揚という点から説明するが、その鎮圧後、いかなる治安目標が設定されたかは十分に明らかにしていない。

2021-09-15

三・一独立運動と朝鮮の社会的排除
 小川原 宏幸

大原社会問題研究所雑誌 №727/2019.5

内容を読むと、キチガイどもの自律性を述べている点から見ても、そのDNAが朝鮮人であることはほぼ確実であり、この愚かな研究者は、下記を意図的に伏せているか?又は知らない。日本における朝鮮人DNAの朝鮮史研究者などその存在は100%意味はなく、有害無益かもしれない?、どこの国の人間も中国史には興味を持っても朝鮮史など見向きもしないのが常である、

①万歳=マンセーは、李朝朝鮮時代には絶対に叫ぶことができなかったこと=朝鮮国王には千歳とのみ叫ぶことができたこと。

②3・1運動時において、多くの場合、群衆は、独立万歳ではなく、単に万歳と叫びながら行進したこと(=でなければ即座に強い弾圧にあった)、及び、高宗の葬儀が決定的な誘因であったこと、また事実上は死去した高宗に対する万歳であったこと(=その意味において、庶民による暗示的な植民地統治の否定)
要するに、高宗退位=義兵と称する旧支配階層両班(自称両班が大多数)のゲリラ蜂起、高宗死去と葬儀=3・1運動と称する日本統治に対する民衆の反発と捉えて間違いない。

③このバカは、白丁のみを取り上げている。しかし、白丁は奴婢=奴隷ではない、かつ、生業と関連する被差別民に過ぎなかった。このバカは、キチガイどもの国=韓国では奴婢は李朝末期にはほとんどいなくなり、1894年には、完全に消滅したとキチガイどもに教え込んでいるので、それを信じ込み、かつ、日韓併合後は、現実にも奴婢制度は完全否定されたため、3・1運動当時には全然問題ではないと考えているようだ。実際に分析する必要があるのは、当時はまだ色濃く残っていたはずの元奴婢である。妓生を先頭に押し立てて万歳を叫びながら行進したことを言及している。

当たり前だが、妓生は李朝時代の官奴婢=性奴隷なのだよ!奴隷そのものなのだよ!いい加減にしろ!妓生を先頭に万歳と叫びながらデモ行進したのは、真っ先に、拘束されるのが先頭の妓生だからだと推定される。両班に性上納を行う性奴隷だからして、拘束されても何ら構わないという意識が当時はまだ一般民衆に根深かったと見て間違いないであろう。妓生の女性たちは、半ば無理やりに先頭に立たされたと考えて100%間違いないが、女性たちも喜んだかもしれない。元奴隷が完全開放されたのは1910年であり、デモ先頭は妓生の高年齢層の女性が、多かったであろう。そして、高齢の妓生の女性たちは、両班を含む一般民衆が、私たちを人間並みに扱ってくれた=一緒にデモ行進できた という点にむしろ喜んだ可能性が極めて高い。

著者は、知っているくせに、下記のように明らかに美化して嘘を書いている。いい加減にしろ!
「地方における妓生は,地方庁の管理下に置かれ,官吏または官の宴席で酒杯を斡旋したり歌舞 によって興を供したりする存在であった」
違う!李朝朝鮮では、漢陽の両班が、(スパイ的意味合いで)定期的に地方巡察をしていた。その際に、性接待を行うのが奴隷であった妓生=官奴婢の最大の役割である。まさに性奴隷そのものである。古田博司氏によれば、このような接客業女性に対する蔑視は今日の韓国ですら強くみられるとのことであり、1919年であれば、もっと強烈であったことは100%確実である。

元奴隷なのだから、デモの先頭で真っ先に憲兵・警察に拘束されても構わない!そのような意識が、強く残存していたことの明確な証拠とみて間違いないであろう!

「朝鮮民族を読み解く」 古田博司
p64
実に朝鮮半島居住の朝鮮民族では、接待業は賤業なのである。韓国の場合、食堂、床屋、酒場などはとりわけ卑しまれる。悲しいことに、これには序列があって、食堂のウェイトレスは床屋の女店員をさげすみ、床屋の女店員は酒場のホステスを卑しみ、酒場のホステスは自分たちは旅館の女たちとは違う、「自分たちはあのようなチムスン(動物、禽獣)」ではないと力強く主張するのである

当時の妓生は、まさにチムスンそのものであったからして先頭なのだ!


本論文の課題は,朝鮮時代に,身分制にもとづく自意識など諸次元で存在していた地域社会にお ける帰属規範が日本の植民地支配に直面して民族という規範に収斂するなかで,従来の社会的排除 にどのような変化が生じたのかを,特に挙族的にナショナリズムが高揚としたと評される三・一独 立運動を事例に考察することにある。

1 三・一独立運動の勃発

三・一独立運動が発生した背景には,まず何よりも,日本の植民地化,特 に 1910 年の韓国併合以来続いてきた過酷な武断政治への不満と独立願望という内在的要因があげ られる。加えて外在的要因となったのは,アメリカ大統領ウィルソンによって提唱された民族自決 主義への期待であった(5)。そうしたなか,三・一独立運動の起爆剤となったのは,1919 年 1 月 22 日 に死去した先帝高宗の葬儀であった。

高宗の死去をめぐっては当時毒殺説がま ことしやかにささやかれ,高宗の死に哀悼の意を表す者が続出した。

1919 年 2 月 8 日,李光洙が起草した独立宣言書が東京・神田の YMCA で発表された。ひそか に朝鮮半島に伝えられ,キリスト教,天道教を中心とした 33 人のいわゆる民族代表が署名した独 立宣言書が大量に印刷されて全国に発送された。その伝達と運動の展開には宗教団体や学生などが 大きな役割を果たした。

3 月 1 日,民族代表は,抜きがたい愚民観をもつがゆえに民衆の暴力化を おそれて早々に運動から離脱したが,その後ソウルでは学生を中心に,太極旗を掲げた独立万歳の 示威運動がパゴダ公園から市中へと広がっていった。

3 月 3,4 日の高宗の国葬を挟み,大規模な示威運動が展開されたが,,初期の運動では,都市を中心に宗教家,学生,教師といったインテリ層が運動の中心となった。それに対し,3 月中旬以降 から 4 月上旬にかけて運動が拡大していく過程では,農民,労働者,商工業者,官吏,両班等,さ まざまな階層が参加するようになり,また指導者もインテリ層に限定されなくなった

日本の弾圧に直面し,朝鮮民衆の対抗暴力は激しさを増していった(14)。鎌,棍棒,割木などの原 始的武器や投石等による示威衝突事件も数多く起き,巡査の惨殺や朝鮮人巡査補の乱打といった事 件も発生した。

2 地域社会における三・一独立運動
本論文の関心からはとりわけ,農村地域で展開された示威運動において,都市の運動 とはやや様相を異にして運動が展開された点を押さえる必要がある。

農村での示威運動の展開過程には一定の規則性が存在したが,それは定期市日と相関関係にあっ た(19)。示威運動は,定期的に市が開かれる場市での飲酒に乗じて始められ,人々の酔狂状態をとも ないながら,祝祭気分のなかで運動が展開されていった。

したがって三・一独立運動が祝祭的であればあるほど,運動が沈静化さ せられると急速に退潮していった。


3 三・一独立運動における社会的排除

 朝鮮時代において最も社会的排除の対象となったのは白丁である。身分制の最下層に位置づけら れた白丁は,農業のほかに屠殺業,獣肉販売,柳器製造等を生業としたが,衣食住等において一般 民衆から差別されていた。

1894 年の甲午改革によっていわゆる「身分解放」が行われるが,その後 も社会的差別が残り続けた。妓生を群衆の先頭に押し立てた民衆の行動論理はどのように解されるであろうか。従 来,地方における妓生は,地方庁の管理下に置かれ,官吏または官の宴席で酒杯を斡旋したり歌舞 によって興を供したりする存在であった(55)。示威運動における妓生の動員は,三・一独立運動とい う祝祭に際し,こうした宴席を郡守ではなく民衆が代執行的に開催させたものと解される。

おわりに

日本の植民地支配に反対して 1919 年に起こった三・一独立運動は,民族共同体的な意識を高揚 させ,その後の朝鮮および東アジアの反帝国主義運動を強く規定していく一大結節点となった。そ の点はいくら強調してもし過ぎることはない。

京畿道安城で妓生が動員された事例は,従来の社会的差別がも つ両義性を指し示すものであったと考えられる。
白丁は,礼法,生活上,交際上の差別を受けていたためである
こうした白丁に対する民衆の差別行動が生起した のは,三・一独立運動後,旧来的な秩序観に回帰したためと解すべきか,それとも三・一独立運動 から断続的に続くものととらえるべきものなのかは,なお考察を要する。



朝鮮史研究入門
朝鮮史研究会編

研究者向けの日本語のみを対象とする巻末の膨大な量の文献リストを見て震撼するのは、著者名に占める在日朝鮮人どもの多さである。朝鮮人による、韓国語即ちハングルと言う単なる発音記号からの翻訳ではなく、純然たる日本語で書かれた文献数が圧倒的に多い。

従って、朝鮮に関しては、その真の姿を知るには、中国の史書などの中国語文献及びなまの記録である朝鮮王朝実録と補助的に李朝朝鮮を訪れた西欧人の記述に基づく類推よるしかない。日本における朝鮮史は、明らかに酷い歪曲と美化に終始している。メモする価値を有しないが、印象的であった箇所メモする。

特徴的であるのは、全てにおいて根拠となる数値がほとんど記されていないという点である。こいつらは、頭がおかしいのか?例えば、三別抄軍と称するものが、何人程度なのかすら書かれていない。光復軍は、恐らくはソビエトの支援により、当初の40人程度から第二次大戦終了時の339人で確定しているからして、同じ程度の人員数であったであろう。くだらん形式論に過ぎない。

p105
モンゴルの侵攻軍については単純にモンゴル人の集団であるかに誤解されがちだが、実際には契丹人や投降した高麗人などを含む混成部隊であった
【当然であるが、投降した高麗人を通常の戦闘員として含む点が、モンゴルによる現在の中東附近侵攻と異なる点である。ホラムズシャー等中東附近侵攻の場合には、降伏した城塞都市住民の男性は、単なる土木工事兵・矢よけ兵として次の城塞都市攻略時に動員されたが、高麗の場合には大規模な土木工事兵=先兵としての動員はほとんど必要ではなかったはずである】

p106
1260年の講和修好後、高麗は元との緊密な政治関係の下で存続することになる

韓国人どもよ!いい加減にしろ!講和などでは断じてない!
この記述は(=1260年と明記)、けがらわしいお前たち、特異な遺伝子集団が創出した歴史が、従軍慰安婦20万人強制連行だけではなく、朝鮮史の全分野に及ぶ明確な証拠である。

我々人類が、様々な呼称で神と呼ぶ超自然的な力(遺伝子かもしれない)=神が韓国人どもを南北とも消滅させるであろうことはほぼ確実な情勢である。(今まで消滅しなかったのは、朝鮮半島の地理的な孤立性と日韓併合という日本人のおせっかいが主原因であるが、この1970年の論文から見て、李朝朝鮮の後半1690年~1904年の200年以上の間も人口は全く増加せず、1690年と1904年でほぼ同じ人口である)

北朝鮮=恐らくは40年以内、南朝鮮=何もしなくとも500年後にはほぼ消滅又は100万程度の少数民族へ。韓国の合計特殊出生率は、2020年で0.84であるが0.7程度で下げ止まるであろう。

合計特殊出生率は、韓国人どもの男性の遺伝的な特異性に起因するその異常なメンタリティーによりほぼ確実に回復しない。北朝鮮の自滅は、農業生産力が回復する見込みが薄いことから、単なる時間の問題に過ぎない。


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燕行使
1637年以後
使節の派遣回数は1894年までに約500回を数え、平均で年2回ほどになる

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【1~3世紀に関するこの図で現在の全羅道附近は、いわば空白地帯である。新羅による半島統一までの朝鮮半島は、倭人を含めるかどうかは別として、明らかに言語・習俗の異なる複数の集団が混在していたことは中国の史書の記述からも確実であり、それらの集団を半島東南部から起こった新羅が朝鮮半島から追い出した過程と見るべきである。現在の全羅道附近には、日本にしかない前方後円墳が発見されている】

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朝鮮独立運動と国際関係
長田彰文

同氏の博士論文の要旨である。現在は上智大学教授

大阪生まれの長田氏は恐らくは朝鮮人DNAであると推察される。早稲田卒の長田氏が一橋大の大学院に入学している。一橋大には、朝鮮総連が深く食い込んでいることは既に知っているが、表面上、この要旨からはそれがわからない。 マッケンジーが,Korea`s fight for freedomの中で高く評価し長く言及している李承晩について、タイムマシーンに乗り、1958年に行けば、マッケンジーは李承晩の本質を知るであろう。補導団の処刑命令を下したのは、李承晩以外にはあり得ない。


朝鮮は一八八二年、西洋諸国の中で米国と最初に修好条約を締結したが、その中の第一条「周旋条項」を援助義務を定めたものと考えたため、自国に対して危機が訪れる度に助力するよう米国に要請した。しかし、歴代の米国政府はその要請には応じず、


米国においては一九二一年に大統領に就 いたウィルソンが一連の演説で「民族自決主義」を提唱した

それぞれの形で独立運動を起こしはじめ、それは、朝鮮においては三.一運動の形となった。
数多くの残虐な行為がなされ(その結果、統計で明らかに なっているだけでも七五〇〇人あまりの朝鮮人が死亡した)

米国でも報道されたため、
多くが日本を非難し、朝鮮に同情的な論調を掲げた。

日本を出発した斎藤一行は一九一九年九月二日、ソウルに到着
斎藤爆殺未遂事件が発生

斎藤自身が朝鮮在住外国人(とりわけ米国人)に対して宥和的姿勢を示したため、駐ソウル米国総領事館、朝鮮在住米国人宣教師の姿勢は柔らいで、米国本国においても朝鮮問題に対する無関心という「常態」へと戻っていったのである

民族自決主義の朝鮮独立運動への影響を過大評価も過小評価もすることなく正確にとらえることは、三・一運動を理解するのに不可欠であろう

往々にして横の連絡をとらず、自らの判断にのみしたがって行動をとったために無用の対立を引き起こしてしまい、そのことが独立運動の効果的な展開にとってマイナスとなり、独立運動自体の分裂へとつながったことである。とりわけ、一切の相談もなしに李承晩、鄭翰景が委任統治請願を行ない、その同時期に別の人物が李承晩への非難を国務省に告げたこと、そして委任統治請願が大韓民国臨時政府を李承晩派と反李承晩派へと分裂させる引き金となづたことは、
【このような内紛と分裂こそが、第二次大戦終結後、アメリカが、朝鮮人には自治能力はないとして30年にも及ぶ長期の国連信託統治を主張した最大の背景かもしれない。】


三.一運動の勃発は、
朝鮮人の主導によって起こったものとは恩われなかった。
警戒の目を向けたのが
朝鮮在住米国人宣薮師であった

英国人ジャーナリストのマッケンジーは一九二〇年、以上のような米国の対応について以下のように記した。
(以下、マッケンジーの予言を長く引用している)



『魏志』 東夷伝訳註初稿 (1)
田中俊明
国立歴史民俗博物館研究報告 第 151 集 2009 年 3 月

魏志東夷伝に関する決定版ともいえる内容である、残念ながら肝心の韓・倭人に関するものは出ていない。市販本の記述は、ほぼこれに依拠しており、詳しい注解までついている。

①韓国人どもの歴史書の日本語訳では高句麗を自民族としているが、中国史書によれば、言語が、夫餘と同じであるからして、完全に異なる民族である
②中国史書は、周辺民族にろくな漢字をあてはめないが、穢という漢字をあてはめていても記述は倭人同様に好意的である。言語・習俗は高句麗と同じとしていることから、朝鮮半島東部の山岳地帯には、明らかに現代韓国人どもとは異なる人々が居住しており、これらの人々が北に押し上げられ朝鮮半島から放逐されたとみるべきであろう

③魏志辰韓伝によれば朝鮮半島及び日本の鉄は、ほぼ現在の慶尚道=辰韓が産出地であったようだ。これが新羅にとって決定的に有利な点であった可能性が高い。朝鮮史に区分しておく。

魏志辰韓伝 原文
國出鐵韓濊倭皆従取之 諸市買皆用鐵如中国用銭 又以供給二郡


前半の序・夫餘・高句麗・ 挹婁・東沃沮・濊までをとりあげ、残る韓・倭人は機会を改めたい。

(Ⅱ) 夫餘伝

[原文]
夫餘在長城之北。去玄菟千里。南與高句麗、東與挹婁、西與鮮卑接。
 [現代語訳]
夫餘 は長城 の北にある。 〔その中心地は〕玄菟〔郡治〕 から千里離れ ている 。南は高句麗と、東は挹婁と、西は鮮卑と接している  。北には弱 水がある (。およそ二千里四方〔の広さ〕である  。戸数は八萬ある 。 人々は定住している  。宮室・倉庫・牢獄がある  。山地・丘陵や広大な 沼沢が多い。東夷の地域においては、最も平坦で広い  。その土地は五穀 には適しているが、五果は育たない  。その人々〔の体格〕は大きくて、 性格は強く勇ましいが慎み深い。 〔他国へ〕侵略しない  。

兄が死ぬと〔弟は〕兄嫁を〔自分の〕妻とする。匈奴と同じ習俗

[註解]
(1) 夫餘 
後代の史料には、扶餘とするものもある。なお、 「餘」と「余」とは 文化等については、本伝を通して考察する。 本来別字であり、ここでは、夫余とは表記しない。夫餘の民族的性格・

夫餘の名が史上に現われた最初は、 『史記』

夫餘の中心地(本拠地)は、上記のように「鹿山」とよばれた。その 力になってきている。 図などにあてる見解があったが、近年では吉林省吉林市にあてるのが有 「鹿山」について、吉林省農安・黒龍江省阿城(旧阿勒楚喀) ・遼寧省昌

夫餘は最終的には、五世紀末に勿吉の攻撃を受けて、四九四年、王族 が高句麗に亡命し、滅亡する。 


(Ⅲ) 高句麗

[原文] 高句麗在遼東之東千里、南與朝鮮・濊貊、東與沃沮、北與夫餘接

[訓読]
高句麗は遼東の東千里に在り、南は朝鮮・濊貊と、東は沃沮と、北は夫餘と接す

[現代語訳]
高句麗 は遼東〔郡治〕から東に千里のところにある 。南は朝鮮・濊貊 と、 東は沃沮と、 北は夫餘と接している  。

丸都の麓に都を置いている  。 〔広 さは〕約二千里四方である。戸数は三萬である。

東夷での古くからの言い伝えでは、 〔高句麗は〕夫餘の別種であると 性や衣服には、異なるものがある いう。言語やいろいろなことは夫餘と同じものが多いが、その性質・気性や衣服には、異なるものがある

牢獄は無く、犯罪があれば諸加が評議して、すぐにそれを殺し、妻子を沒収して奴婢とする。

その習俗は淫らである

高句麗の馬はみな小さくて山に登るのに便利である 。人々は気力があり、戦闘に習熟している。沃沮・東濊がみな隷属している

〔高句麗とは別に〕小水貊がある。高句麗は、大きな河(鴨緑江)に面して国を形成している。


[註解]
(1) 高句麗
高句麗の名が史上に現れた最初は、 『漢書』
時代が降ると、高麗、という表記が一般的になる。隋・唐代の史書などはみな高麗である。

高句麗は貊族と考えることができる。貊は狛とも通じ、
狛もコマとよみ、狛犬や、高句麗系の渡来人と關わる地名としても残されている

朝鮮・濊貊・沃沮・夫餘

朝鮮は、
楽浪郡の領域をいっていると考えてよかろう。 

濊貊は、ほんらいは濊と貊とであるが、貊は高句麗であり、実際には濊のみを指していると考えることができる。 ただ濊と書くべきところを、濊貊と誤用したと考えるべきであろう

ここにいう濊は、 『魏志』東夷伝の後文に濊伝があり、そこで詳しくとりあげるが、およそ朝鮮半島の
東海岸、江原道一帯を住地にしていた

沃沮も後文に東沃沮伝があり、そこで詳しくふれる。濊よりも北東、 (4 咸鏡道から中国の吉林省琿春縣あたりまでを住地としていた。

(Ⅳ) 東沃沮

[註解]
東沃沮は、この『魏志』が初見である。
沃沮の住地は、朝鮮半島東北部、現在の朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南北道あたりで、日本海に面している。中心地は、咸鏡南道咸興附近とみられる。沃沮はほんらい濊の一部であったと考えられる。上記の「夫租薉君」 と同じく穢人 三上次男によれば、 「前漢時代の沃沮県の住民は、他の嶺東諸県の住民 印も、 「夫租」における「濊」族の長に対して与えられたものであろう。

(Ⅴ) 挹婁
挹婁は、夫餘から東北に千餘里離れたところにある
その人の姿かたちは夫餘に似ているが、言葉は夫餘・高句麗と同じではない。大海に面し、南は北沃沮と接している。

挹婁の人たちは不潔である。

[註解]
挹婁という種族名は、 『魏志』と『後漢書』の東夷伝にそれぞれみえるが、 一般的ではない

魏志』の記事に基づいて、およそ夫餘の東北、北沃沮の北で、海に面した地ということで満足すべきであろうか。

(Ⅵ) 濊
濊は、南は辰韓と、北は高句麗 ・ 沃沮と接し、東は大海に面している。今の朝鮮の〔故地の〕東部は、みな濊の地である。戸数は二萬ある

その老人たちは自ら、もともと高句麗と同種であるといっている。その人々の性格はつつしみ深くてすなおで、食欲なども少なく恥を知っており、高句麗に要求はしない。言語・法律・習俗はほとんど高句麗と同じであるが、衣服には異なるところがある。

同姓は結婚しない。いみはばかることが多い。

人を殺した者は死で償う。盗みは少ない。



韓国の民話
任東権

1995年出版であり、その時点で著者は韓国民族学会名誉会長であったそうだ、訳者によれば韓国の民話の代表的著作とのことである。役職名からして、日本の柳田国男の相当する者であろう。

全152のうち、賢い又はバカを趣旨的にタイトルに含む民話が21もある。約14%も占めているのが、恐らくは、この韓国人どもの民話集の最大の特徴である。日本の民話・昔話と大きく異なる韓国人どもの民族性をハッキリ示すと思われる。


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しかし、著者の「幼い時の記憶」や講義を通じて学生から得たと称するものは、全て民話などではなく、単なる「記憶の創作」に過ぎないと断定していい。恐ろしいことに気づいたが、民族学ですら平気で嘘を書き、かつ、多くの韓国人どもがその嘘を見破れないのである。

韓国人どもにとって真理の追求という考え方・意識がそもそもないか、又は、非常に薄いという恐るべきことに気づいた。少なくとも、この民話集で見る限り、韓国人どもに民俗学では真理の追求という考え方は、韓国人どもには存在しない。

p10
152話の民話は幼い時の記憶と筆者が旅行しながら収集したものと
講義を聴いている学生たちを通じて得たものである

p80
神様とトッケビ
神様に助けてくれるようにと祈りの言葉を唱えた。すると急に天井が裂けて太くて丈夫な綱が一本降りてきた。それに捕まってしばらく上っていくと天国についた(民話採取地は書かれていない)

【神様をグーグルの機械翻訳で彼らのハングルと呼ぶ発音記号に変換して検索하나님したところ、画像では全てキリスト教のGodしか出てこない。つまり、韓国人どもには、約30%を占めるキリスト教信者以外には神様という感覚は地獄と同様にほぼ存在しないはずである

この日本語ページによれば
神様
韓国の国歌(국가)では「神様」を하느님(ハヌニム)と歌っており、一般的にも「ハヌニム」という。語源は「空」を意味する하늘(ハヌル)。空にいる(様)という意味。カトリック(天主教・천주교)での하느님と呼ぶが、プロテスタント(기독교)では「唯一、ひとつ」という意味の하나님(ハナニム)とよぶ。

하느님が神様であり明らかにキリスト教のGodである。キリスト教では、中世ヨーロッパでは素朴に神が空から地上の人々の様子を見ていると考えていた。だからこそ、ガガーリンが人類初の宇宙飛行をした際に神はいなかったと語ったことが、多くのキリスト教国の中世同様の素朴な信者には衝撃であったのだ。キチガイどもは、中国人をも遥かに上回る「完全無宗教的な人々」と呼ぶのがふさわしい。

地獄・神の観念の完全無存在と先祖崇拝こそが、韓国人どもの明らかにinsaneな集団特性を示す。世界的にも極めて珍しい集団である

ウィキペディアによれば、
トッケビ(도깨비)は、朝鮮半島に伝わる精霊、妖怪。 朝鮮時代以前には具体的な姿形は表象されず、鬼火などの神霊的な存在として伝承された。

とのことであるが、도깨비で検索して画像を見ると、どうも悪さをする妖怪又は日本で言う鬼を意味する。訳者は神様の原語をカタカナ表示していないので?民話採取地は書かれてはいないので、著者の主張通りであれば、このキチガイの記憶であろうが、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い出す。この韓国人は1926年生まれであり、19歳まで完全に日本人としての教育を受けている。韓国民話ではなく、単なるこのこの韓国人の創作又は蜘蛛の糸を読んだ学生のバカ話と断定してほぼ間違いない。

p211
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断じて民話などではない。単に、有名な中国の故事を民話だとして掲載しているに過ぎない。この点については、訳者も少し気づいているようである。

p175
【両班の使用人が、故郷を離れて別の土地で両班になりすまし、主人である両班が来た際には、周りの人間をうまく騙し、元の主人の両班には金を与えた旨記述し】
そして、使用人は一生両班としてよい暮らしをして死んだという
(民話採取地は京畿道としている)

民話には、民間説教的側面がある。嘘をついて人を騙しても結果は悪くはないということを明らかに示す民話である。画像化しておいた

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使用人と翻訳しているが、間違いなく奴婢である。朝鮮人どもの特性がよく表れている民話である。
現存する人類の諸集団において、最も邪悪を極めた、かつ、私が調べた範囲では科学的リテラシーが完全に欠如し、その面だけに限れば人類史上稀に見る劣悪遺伝子集団の象徴とも言うべき民話であり、内容は本当であろう。嘘と騙しで結果さえよければいいのだ!する民話である。本当に恐ろしい人々の特性をはっきりと示す。

p221
韓国民話の特徴(著者によるまとめ)
始祖から自分に至る系譜を書いた族譜を持っているし、
先祖4代の弔日祀りは、今も行っている。日本では皇室だけに
伝わっているが
韓国の家庭ではほとんどが守られている

【まさに韓国人どもの面目躍如である。このバカは、李朝朝鮮時代、最低でも30%は奴婢=奴隷であったことなど知らないであろう。19世紀において、同じ言葉を話す同胞を奴隷とし売買していた唯一の民族集団である。】


Korea's fight for freedom

F.Aマッケンジー氏の Korea's fight for freedomは、アマゾンで無料でダウンロードできる。翻訳は出ていない。
①このくだらん刊行物の後半に、manseiという朝鮮語が恐らくは100回以上も、翻訳されることなくそのまま出てくるが、この卑しき紳士を装うマッケンジーは、その意味を何ら述べていない。

マンセーは朝鮮語で万歳である。万歳は中国皇帝に対してのみ使用できるので、中国の冊封体制下の朝鮮では国王に対してチョンセー即ち千歳としかいうことができなかった。恐らくはマッケンジーはこの程度のことすら知らなかったであろう。

しかし、この刊行物を読んだ当時の者は、恐らくは、manseiをfreedomを意味するのだとほぼ確実に推測するに違いない。実にあさましい。意図的と考えざるを得ない。少なくとも、万歳を意味することぐらいは、マッケンジーは知っていたはずである。しかし、そうすると、キリスト教信者が3・1運動の中心になったにもかかわらず、死去した前朝鮮国王高宗をしのんで万歳を連呼しながら行進すること自体が、キリスト教とは全く無関係になってしまう。

②反面、この刊行物には、前著である朝鮮の悲劇と異なり、明らかな嘘や誇張が極度に少なくなっている。前書きから見て、朝鮮の悲劇はかなり厳しい批判を浴びたようであり、書き直そうとも思ったが新たに著作を出すこととしたと書いているところから、内容的には齟齬は大幅に減少している

私には、下記部分が強烈に印象的であった、この卑しきジャーナリストは、日本の朝鮮統治の一側面をはっきり書いている、しかし、それを極度に否定的にとらえている、そしてその捉え方は、4000年の歴史を有する朝鮮民族という明らかな嘘に基づくものである、最後の赤字にした一文を上手く訳せず悔しい、しかし、日本人に対する直接ではない暗喩的な逆説的なこれ以上ないほどの侮辱である!マッケンジーがその意図で書いたのは間違いないであろう、激怒する!確かに、当時も今も、日本人男性の平均身長はキチガイどもにに比べ、2cm程度少し低い!しかし、マッケンジーという糞野郎は、日本史をほとんど知らず、嘘の朝鮮史を叩き込まれたのであろう、バカめ!

赤字の部分が、マッケンジーというfucking guyの本質を見事に示しているが、同時に、彼はキチガイどもに単に騙されたともいえる、そして、そこには恐らくは朝鮮人女性が介在している。


Between the annexation in 1910 and the uprising of the people in 1919, much material progress was made.

The old, effete administration was cleared away, sound currency maintained, railways were greatly extended, roads improved, afforestation pushed forward on a great scale, agriculture developed, sanitation improved and fresh industries begun.

And yet this period of the Japanese administration in Korea ranks among the greatest failures of history, a failure greater than that of Russia in Finland or Poland or Austria-Hungary in Bosnia.

America in Cuba and Japan in Korea stand out as the best and the worst examples in governing new subject peoples that the twentieth century has to show.The Japanese in Korea stand out as the best and the worst examples in governing new subject peoples that the twentieth century has to show.

The Japanese entered on their great task in a wrong spirit, they were hampered by fundamentally mistaken ideas, and they proved that they are not yet big enough for the job.

They began with a spirit of contempt for the Korean. Good administration is impossible without sympathy on the part of the administrators with a blind and foolish contempt, sympathy is impossible.

They started out to assimilate the Koreans, to destroy their national ideals, to root out their ancient ways, to make them over again as Japanese, but Japanese of an inferior brand, subject to disabilities from which their overlords were free.

Assimilation with equality is difficult, save in the case of small, weak peoples, lacking tradition and national ideals.




1
The Koreans were mild, good natured, and full of contradictory characteristics.

 

Despite their usual good nature, they were capable of great bursts of passion, particularly over public affairs.

 

At first, they gave an impression of laziness.


 

 

2

次の文で始まるが、いい加減にしろ!言いたい。恐らくは、当時のキチガイどもに嘘を吹き込まれたのであろう。高宗の妻に関する記述が印象的であるが、これも?

 

For hundreds of years it was the ambition of Japan to replace China as the Protector of Korea.

 

The Queen continued to exercise her remarkable influence over the King, who took her advice in everything. She was the real ruler of the country.

 

King was still kept a prisoner in the palace.


 
3

This gave final edge to the temper of the mob. Two Ministers were dragged into the street and slaughtered. Another Minister was murdered at his home. In one respect the upheaval brought peace. The people in the country districts had been on the point of rising against the Japanese, who were reported to be universally hated as oppressors. With their King in power again, they settled down peaceably.

 

4

悪意に満ちているつぎの文で始まる。

It was a double blow to Japan that the check to her plans should have been inflicted by Russia, for she now regarded Russia as the next enemy to be overthrown, and was already secretly preparing against her.


下記の内容は、完全なる間違いであり、司馬さんによれば伊藤博文は独断で当時の政府に何ら相談せずに個人外交的にロシアに行ったに過ぎない

 

Japan, willing under certain conditions to forget her grievances, had first sought alliance with Russia and had sent Prince Ito on a visit to St. Petersburg for that purpose.

 

この忌まわしい人物は、

朝鮮の悲劇では写真まで掲げて、囚人の扱いを日本のせいにしていた。しかし、この章の内容で、高宗がロシア公使館に滞在していた当時の朝鮮内政の混乱がわかる 

 

The Emperor, whose nerve had been broken by his experiences on the night of the murder of the Queen and in the days following, was weak, uncertain and suspicious. He could not be relied on save for one thing. He was very jealous of his own prerogatives, and the belief that some of his best statesmen and advisers were trying to establish constitutional monarchy, limiting the power of the Throne, finally caused him to throw in his lot with the anti-Progressive group. Then there was no real reform in justice. The prisons retained most of their mediaeval horrors, and every man held his life and property at the mercy of the monarch and his assistants. Some of the foreign advisers were men of high calibre; others were unfitted for their work, and used their offices to serve their own ends and fill their own pockets. Advisers or Ministers and foreign contractors apparently agreed at times to fill their pockets at the cost of the Government. There is no other rational explanation of some of the contracts concluded, or some of the supplies received.

 

During the period of active reform following the King's escape, the Progressives formed a league for the maintenance of Korean union. At their head was Dr. Philip Jaisohn, the boy General of 1884.


下記は、当時の混乱と朝鮮人の民族性をよく描いている 

The reformers were accused of desiring to establish a republic. Dissension was created in their ranks by the promotion of a scheme to recall Pak Yung-hio. Some of the more extreme Independents indulged in wild talk, and gave excuse for official repression. Large numbers of reform leaders were arrested on various pretexts. Meetings were dispersed at the point of the bayonet, and the reform movement was broken.

 

この章は、つぎの文で終わっている。centuriesは、何世紀にも渡ると訳すべきであろうが、

江戸時代に朝鮮などに誰も興味がなかった

 

and Japan was at last about to realize her centuries' old ambition to have Korea for her own.

 

5

I travelled largely throughout the northern regions in the early days of the war, and everywhere I heard from the people during the first few weeks nothing but expressions of friendship to the Japanese. The coolies and farmers were friendly because they hoped that Japan would modify the oppression of the native magistrates.

 

The military, too, gradually began to acquire a more domineering air.

 

This process was hastened by a supplementary agreement concluded in August, when the Korean Emperor practically handed the control of administrative functions over to the Japanese.

 

President Roosevelt was convinced, mainly through the influence of his old friend, Mr. George Kennan, that the Koreans were unfit for self-government.

 

6章は、朝鮮の悲劇と同じ内容が多いため、途中から読まなかった

 

7章も、国王交代に関するくだらん内容のため、ほとんど読まず

 

8

この章は、ほぼ、朝鮮の悲劇と同じ

By the first week in September it was clear that the area of trouble covered the eastern provinces from near Fusan to the north of Seoul.

従者は、4

So, although travelling lightly and in a hurry, I would be obliged to take two horses, one pony, and four attendants with me.

 

The rebels were reported to be killing all men not wearing topknots.

 

9

Up to Chong-ju nearly one-half of the villages on the direct line of route had been destroyed by the Japanese.

 

The rebels were mostly townsmen from Seoul, and not villagers from that district.


以下の記述は、明らかに嘘だ!首都のソウルですら、李朝時代には常設店舗はなかった

The shops were shut and barricaded by their owners before leaving, but many of them had been forced open and looted.

 

A Japanese sentry and a gendarme stood at the gateway, and cross-examined me as I entered. A small body of Japanese troops were stationed here, and operations in the country around were apparently directed from this centre.

 

I at once called upon the Japanese Colonel in charge. His room, a great apartment in the local governor's yamen, showed on all sides evidences of the thoroughness with which the Japanese were conducting this campaign. Large maps, with red marks, revealed strategic positions now occupied. A little printed pamphlet, with maps, evidently for the use of officers, lay on the table.

 

The Colonel received me politely, but expressed his

regrets that I had come. The men he was fighting were mere robbers, he said, and there was nothing for me to see. He gave me various warnings about dangers ahead. Then he very kindly explained that the Japanese plan was to hem in the volunteers, two sections of troops operating from either side and making a circle around the seat of trouble. These would unite and gradually drive the Koreans towards a centre.

 

The maps which the Colonel showed me settled my movements.

 

In the street outside a hundred noisy disputes were proceeding between volunteers and the townsfolk. The soldiers wanted shelter; the people, fearing the Japanese, did not wish to let them in. A party of them crowded into an empty building adjoining the house where I was, and they made the place ring with their disputes and recriminations.

 

From what he told me, it was evident that they had practically no organization at all.

I returned to Seoul.

この章には、朝鮮の悲劇に書いてあるaccountsを見た記述はない。嘘であることが確定した

 

10

The average Japanese regarded the Korean as another Ainu, a barbarian, and himself as one of the Chosen Race, who had the right to despoil and roughly treat his inferiors, as occasion served.

彼は、アイヌを知っている。だとすれば、江戸時代についても知っていたはずだ

 

This book will probably be read by many Koreans, young men and women with hearts aflame at the sufferings of their people. I can well understand the intense anger that must fill their souls.

 

I hope that every man guilty of torturing, outraging or murder will eventually be brought to justice and dealt with as justice directs.

 

In the first case, they destroy sympathy for their cause.

 

11

Between the annexation in 1910 and the uprising of the people in 1919, much material progress was made. The old, effete administration was cleared away, sound currency maintained, railways were greatly extended, roads improved, afforestation pushed forward on a great scale, agriculture developed, sanitation improved and fresh industries begun.

正直に認めている

 

And yet this period of the Japanese administration in Korea ranks among the greatest failures of history, a failure greater than that of Russia in Finland or Poland or Austria-Hungary in Bosnia. America in Cuba and Japan in Korea stand out as the best and the worst examples in governing new subject peoples that the twentieth century has to show.

 

The Japanese entered on their great task in a wrong spirit, they were hampered by fundamentally mistaken ideas, and they proved that they are not yet big enough for the job.

 

イギリス人よ!貴様らは、インドやケニアで何をした

 

They began with a spirit of contempt for the Korean. Good administration is impossible without sympathy on the part of the administrators;

 

引用しないが、鞭打ち刑が復活したそうだ

Under this system crime has enormously increased. The police create it. The best evidence of this is contained in the official figures. In the autumn of 1912 Count Terauchi stated, in answer to the report that thousands of Korean Christians had been confined in jail, that he had caused enquiry to be made and there were only 287 Koreans confined in the various jails of the country (New York Sun, October 3, 1912). The Count's figures were almost certainly incorrect, or else the police released all the prisoners on the day the reckoning was taken, except the necessary few kept for effect. The actual number of convicts in Korea in 1912 was close on twelve thousand, according to the official details published later.

 

Convicts Awaiting trial Total 1911 7,342 9,465 16,807 1912 9,652 9,842 19,494 1913 11,652 10,194 21,846 1914 12,962 11,472 24,434 1915 14,411 12,844 27,255 1916 17,577 15,259 32,836

 

この後、くだらん記述が続くので10章は飛ばした

 

11

しばらくは、朝鮮のキリスト教布教を書いているが、ダレの朝鮮事情には言及していない

 

The main religion of the people was Shamanism, the fear of evil spirits.

 

The tens of converts grew to tens of thousands. From the first, the Koreans showed themselves to be Christians of a very unusual type.

 

They started by reforming their homes, giving their wives liberty and demanding education for their children.

 

When I hear the cheap sneers of the obtuse stay-at-home or globe-trotter critics against missionaries and their converts, I am amused.

この後、キリスト教に改宗した朝鮮人は正直だ等の記述がある

 

When the Japanese landed in Korea in 1904, the missionaries welcomed them. They knew the tyranny and abuses of the old Government, and believed that the Japanese would help to better

things. The ill-treatment of helpless Koreans by Japanese soldiers and coolies caused a considerable reaction of feeling. When, however, Prince Ito became Resident-General the prevailing sentiment was that it would be better for the people to submit and to make the best of existing conditions, in the hope that the harshness and injustice of Japanese rule would pass.

 

At the time of annexation, almost the whole of the real modern education of Korea was undertaken by the missionaries, who were maintaining 778 schools.

 

12

When the heads of the Terauchi administration had made up their minds that the northern Christians were inimical to the progress of the Japanese scheme of assimilation,

朝鮮北部であったことが注目される

 

延々と拷問による自白例を挙げた後、

I have never yet met a man, English, American or Japanese, acquainted with the case, or who followed the circumstances, who believed that there had been any plot at all. The whole thing, from first to last, was entirely a police-created charge. The Japanese authorities showed later that they themselves did not believe it.

 

13

The Koreans living outside Korea formed a National Association, with headquarters in San Francisco, under the Presidency of Dr. David Lee, which in 1919 claimed a million and a half adherents.

 

A favourable moment was approaching. The old Korean Emperor lay dead. One rumour was that he had committed suicide to avoid signing a document drawn up by the Japanese for presentation to the Peace Conference, saying that he was well satisfied with the present Government of his country.

 

Another report, still more generally believed, was that he had committed suicide to prevent the marriage of his son, Prince Kon, to the Japanese Princess Nashinoto.

 

The automobile prison van, with them inside, had to make its way to the police station through dense crowds, cheering and shouting, "Mansei! Mansei!

嘘であろう?この時代に、捕まえた朝鮮人をバンタイプの車で輸送したとは考えにくい。manseiは、キチガイどもの言葉で万歳である、彼らは、過去千年間、千歳=チョンセーとしか言えなかった

 

"Mansei!" Not only Seoul but the whole country had in a few minutes broken out in open demonstration. A new kind of revolt had begun.

上の嘘からバカバカしく思うが、3.1運動の主体は通常はキチガイどものキリスト教信者とされているが、"Mansei!"=万歳を何故使うのだ。

 

この後、キチガイどもの独立宣言の英訳

 

14

日本では、3.1運動の主体は、クリスチャンとする場合が多いが、

the leaders of the Christians and the leaders of the non-Christian bodies acted in common. In other places, by mutual agreement, two gatherings were held at the same time, the one for Christians and the other for non-Christians. Then the two met in the streets, and sometimes headed by a band they marched down the street shouting "Mansei" until they were dispersed.

 

キチガイどもの最大の特徴は、内紛だ。しかし、そうではない旨を書いている

It was soon seen that every class of the community was united. Men who had been ennobled by the Japanese stood with the coolies; shopkeepers closed their stores, policemen who had worked under the Japanese took off their uniforms and joined the crowds, porters and labourers, scholars and preachers, men and women all came together.

 

The movement was a demonstration, not a riot.

 

On the opening day and afterwards—until the Japanese drove some of the people to fury—there was no violence.

 

以下は、うるさい!ドアホ!貴様のこの本は、今、アマゾンで0円でダウンロードできる

Then the word was passed round that the movement was to be suppressed by relentless severity. And so Japan lost her last chance of winning the people of Korea and of wiping out the accentuated ill-will of centuries.

 

Japanese civilians were armed with clubs and swords and given carte blanche to attack any Korean they suspected of being a demonstrator.

 

Next day was Sunday. Here the strong Christian influences stopped demonstrations, for the Korean Christians observe the Sunday strictly. This gave the Japanese authorities time to gather their forces.

 

印象的だったのは、マンセーと叫ぶ記述が非常に多いことである

 

The Japanese treatment of these two nobles was crowning proof of their incapacity to rule another people.

そうかい!うるさいわ!貴様らイギリス人は、独立運動で、インドで10万人、ケニアで5万人程度を殺し、オーストラリアでは、原住民を人間扱いせず、アボリジニ狩を楽しみ。

偉そうに言えないはずだ、バカめ!

 

Viscount Kim was sentenced to two years' penal servitude, and Viscount Li to eighteen months, both sentences being stayed for three years. Kim Ki-ju, Kim Yu-mon and Li Ken-tai were sentenced to hard labour for eighteen months, twelve months and six months respectively. The sentence reflected disgrace on the Government that instituted the prosecution and decreed the punishment.

本当の事を書いているので褒めてやる、しかし、キチガイどもが独立後、朴正熙時代には、学生運動家に、死刑や長期間の懲役を課したことを、タイムマシンで貴様が知れば、面白い
それ以上に、マッケンジーよ、タイムマシンで1947年へ飛べ!貴様がいい印象を抱かせるように書いている李承晩が朝鮮戦争時に保導団員への処刑命令を下したシーンを見れるぞ!少なくとも5万人、恐らくは10万人を李承晩は事実上殺している。

 

Unable to find any evidence against the missionaries, the Japanese turned on the Korean Christians. Soon nearly every Korean Christian pastor in Seoul was in jail; and news came from many parts of the burning of churches, the arrest of leading Christians, and the flogging of their congregations. The Japanese authorities, on pressure from the American consular officials, issued statements that the missionaries had nothing to do with the uprising, but in practice they acted as though the rising were essentially a Christian movement.

 

下の民族自決こそ最終解決方法である。キチガイどもを朝鮮半島に封じ込めれば、自らの愚劣さで自滅する

Count Hasegawa, the Governor-General, had already issued various proclamations, telling the people of the Imperial benevolence of Japan, warning them that the watchword "self-determination of races" was utterly irrevelant to Japan, and warning them of the relentless punishment that would fall on those who committed offences against the peace.

 

以下、この章は、むやみに引用が多い

 

15

There were rumours that most of the Korean policemen had deserted; they had joined the crowds; the Japanese were searching for them and arresting them; and, men whispered, they would be executed.

 

この章も、引用と注書が大部分であり、平壌での様子があるのみ

 

16

I have lived for a week or two at a time, in the old days, in the house of a Korean man of high class, and have never once seen his wife or daughters.

貴様は、その理由を知らんだろ!

 

'You Christians are all liars,'

常習的嘘つきをliars

 

After fifteen days in the prison outside the West Gate, some of the girls were called in the office. "Go, but be very careful not to repeat your offence," they were told. "If you are caught again, you will be given a heavier punishment."

 

朝鮮語の万歳が、この本の後半には、恐らくは100回以上でてくる。しかし、著者は、その正確な意味を知らないようであり、読者には、何の意味か不明であり、恐らくは、独立=manseiと思うであろうが

 

However, on March 29th, market day, when there were many people in the place, some children started demonstrating, and their elders followed, a crowd of four or five hundred people marching through the streets and shouting "Mansei!" There was no violence of any kind.

 

この章では、女性の服を脱がして尋問する様子が何度も書かれている。

 

17

 

On April 23rd, at a time when the persecution was at its height, delegates, duly elected by each of the thirteen provinces of Korea, met, under the eyes of the Japanese police, in Seoul, and adopted a constitution, creating the Republic. Dr. Syngman Rhee, the young reformer of 1894, who had suffered long imprisonment for the cause of independence, was elected the first President. Dr. Rhee was now in America, and he promptly established headquarters in Washington, from which to conduct a campaign in the interests of his people.

 

The Provisional Constitution was essentially democratic and progressive:

 

The American churches were for some weeks strangely silent. There is no reason why the full reasons should not be made public.

 

An Imperial Rescript was issued late in August announcing that the Government of Korea was to be reformed, and Mr. Hara in a statement issued at the same time announced that the gendarmerie were to be replaced by a force of police, under the control of the local governors, except in districts where conditions make their immediate elimination advisable, and that "It is the ultimate purpose of the Japanese Government in due course to treat Korea as in all respects on the same footing as Japan." Admiral Saito, in interviews, promised the inauguration of a liberal régime on the Peninsula.

 

斎藤が、朝鮮総督に就任

 

18

"What do you want us to do?" men ask me. "Do you seriously suggest that

America or Great Britain should risk a breach of good relations or even a

war with Japan to help Korea? If not, what is the use of saying anything?

You only make the Japanese harden their hearts still more."

What can we do? Everything!

I appeal first to the Christian Churches of the United States, Canada and Britain.

 

この章は、この文で始まる

 

They have built wisely and well, and have launched the most hopeful and flourishing Christian movement in Asia. Their converts have established congregations that are themselves missionary churches, sending out and supporting their own teachers and preachers to China. A great light has been lit in Asia. Shall it be extinguished? For, make no mistake, the work is threatened with destruction. Many of the church buildings have been burned; many of the native leaders have been tortured and imprisoned; many of their followers, men, women and children, have been flogged, or clubbed, or shot.

 

You, the Christians of the United States and of Canada, are largely responsible for these people. The teachers you sent and supported taught them the faith that led them to hunger for freedom. They taught them the dignity of their bodies and awakened their minds.

下のyourは、暗喩であり、日本人のことであるが、鞭打ち刑は、李朝時代の朝鮮の刑である。いい加減にしろ!

Your teaching has brought them floggings, tortures unspeakable, death.

 

Then you can extend practical support to the victims of this outbreak of cruelty. There could be no more effective rebuke than for the Churches of the English-speaking nations to say to their fellow Christians of Korea, "We are standing by you. We cannot share your bodily sufferings, but we will try to show our sympathy in other ways. We will rebuild some of your churches that have been burned down; we will support the widows or orphans of Christians who have been unjustly slain, or will help to support the families of those now imprisoned for their faith and for freedom.

 

"The Koreans are a degenerate people, not fit for self-government," says the man whose mind has been poisoned by subtle Japanese propaganda.

When you ask me if I would risk a war over Korea, I answer this: Firm action to-day might provoke conflict, but the risk is very small. Act weakly now, however, and you make a great war in the Far East almost certain within a generation. The main burden of the Western nations in such a war will be borne by America.

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