岩波講座 日本歴史 古代Ⅰ

極めて重要な内容である。研究に最も有利な地位である九州大博物館教授の論考が強烈な印象を与える。恐らくは、これが正解であろう。

縄文時代から弥生時代へ
 設楽博己 東大教授
p76
歴博は弥生早期の試料の測定礼を増やし、弥生時代の開始年代は、前960年ー前915年即ち紀元前10世紀後半に来る可能性を指摘している

p77
歴博の示した新年代には海洋リザーバー効果の可能性があるのではないかという批判が展開された


東アジアにおける弥生文化 岩永省三 九州大学総合研究博物館教授
p105
2003年に国立民族学博物館がAMS(加速器質量分析計)による煤の年代測定によって、弥生時代の開始年代が500年古くなるとする見解を発表した
しかし、この年代観は全く妥当でないと考える
まず、歴博は土器の外面に付着した煤を分析しているが、
煤は燃料として用いた樹木に由来するもので
樹木が土壌から吸い上げた炭素、すなわち土器が使われた時よりもずっと前の時代の炭素を含みうる
そこで2004年、田中良之、溝口孝司、岩永、トム・ハイアム(オックスフォード大学)は、歴博年代の検証のために弥生人骨のAMS測定を行った。それによると、歴博年代観より新しくなり、炭素14較正年代は弥生早期=前7-5世紀、
海洋生物を食べていた場合の海洋リザーバー効果で人骨の年代が古く出ることから、これでもまだ古めに出ていると考えられる

p106
歴博年代に再考を迫るものであるが、まだ反証はされていない

p109
「形質の変化」とは、弥生時代になってから縄文時代と異なる形質の「渡来的弥生人」が北部九州を中心として出現したことである

p110
渡来人はどこから来たのか。シベリア・華北から朝鮮半島にかけて「渡来的弥生人」と同様の形質の古人骨が出土していることから、人類学では中国山東半島周辺・江南やバイカルなどが候補に挙げられている。しかし、文化における影響・類似関係から見て、縄文晩期以降に北部九州に文化的影響を与えた地域は朝鮮半島南部のみであり、他地域の可能性はない。墳墓・住居・土器・農具などの比較から、朝鮮半島南部の中でさらに絞り込む研究も進んでおり、半島東南部(嶺南)説、東南部+西南部(湖南)説が対立しているが、
南江流域~金塊地域が有力候補である

p111
渡来の契機は何か。当該期に列島にヒトが渡った事情は、気候変動による寒冷化説がある。この説は
14C年代を実年代に補正する較正曲線の波形から寒冷期を読みとる方法による。他方、列島側で渡来人をスムーズに受け入れた事情は後述する。「文化の連続性」とは何か。稲作が朝鮮半島からもたらされたことは、縄文時代から弥生時代への移行期の北部九州で、稲作農耕に係わる各種文物など朝鮮半島南部と共通するものが出現することから裏付けされる

精神文化にも大転換があり、墓(支石墓)、副葬用磨製石器(石鏃・石剣)、葬送習俗(埋葬姿勢)抜歯風習にも渡来系のものが導入された。しかし、朝鮮半島南部と北部九州の文化が最も類似するこの時期でも、朝鮮半島系の無土器文化の遺物・遺構だけで構成される遺跡はなく、朝鮮製・朝鮮系の遺物も少なく、無土器文化そのものに変わったわけではない。農耕文化と不可分に複合した収穫具・工具・祭具など、縄文文化にないものを選択的・段階的に導入したものの、同一機能を有するものが存在する場合には導入しなかったことからみて、縄文文化の在来伝統と規制が健全に働いていた中で、なかったものだけ導入したことが「文化の連続性」をもたらした原因である。

ではこの「形質の変化」と「文化の連続性」が同時に生じ得た背景は何か。渡来系文物を伝えた渡来人の数は、渡来系技術である土器制作時の外傾接合手法の様相から見て大量ではなく、独自のコロニーを作ることもなく縄文人の集落に吸収され共生していたとみられる。にもかかわらず、形質の変化が見られたのは以下の経緯による。
縄文時代に元々人口が少なかった福岡平野のを中心とした北部九州に、それほど多くない渡来人(若年~成年層主体、男女ほぼ同数)が散発的にやってきたので、スムーズに縄文人社会に受け入れられ混血が進んだが、文化規範を取り仕切ったのは縄文人の熟年(40ー60歳)・老年(60歳以上)層だったので、在来規範が優先され、渡来人とその混血の子供たちも在来文化の規範に沿って石器や土器を作った。
しかし、小規模で散発的な渡来でも、いくつもの集落に何世代にもわたって行われると、次第に生業も稲作に移り、付随する文化への傾斜が進んで結果的に文化も変わったが、外来文化の受容は選択的であり、朝鮮半島の青銅器文化とは別の弥生文化が出来上がった。同時に渡来遺伝子の再生産は着実に進み、新たな渡来遺伝子も蓄積され、結果的に在来の遺伝子を凌駕して、北方モンゴロイド的渡来的弥生人の形質が出来上がった。

【①上の赤字強調部分は、歴史学者による遺跡分析結果からであり、本当に極めて重要である。特に、朝鮮半島系の無土器文化の遺物・遺構だけで構成される遺跡はなく
を初めて知った。かつ、次の赤字の部分も重要であり、弥生文化と当時の朝鮮半島の文化の共通性を強調しすぎる、松木氏のような名前からして明らかに遺伝的には朝鮮人であろうと推察される日本古代史の歴史学者さえ存在する中で特筆に値する。さすがに、研究に専念できる教授職に就くだけのことはあると思う。

しかし、残念ながら、「縄文人の熟年(40ー60歳)・老年(60歳以上)」とあるが、これは明治以降の日本人の感覚だ!

集団遺伝学では過去数千年~数万年前の分析では、一世代を20年~30年で扱う、言い換えれば、過去数千年~数万年前のヒトの平均寿命を25年程度でみている。縄文時代であれば、40歳を超えれば100%確実に老人であったはずだ。遺伝子云々に関する記述も無茶くちゃである。歴史学者は、集団遺伝学の論文なぞ読むことはないからして仕方がないのであろう。奇妙なことに、「結果的に在来の遺伝子を凌駕して、北方モンゴロイド的渡来的弥生人の形質が出来上がった」ことを人口増加率から分析した遺伝学論文は存在し、私も既に読んでいる。】


倭国の成立と東アジア 仁藤敦史 国立民族博物館教授

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p157
4世紀の倭国及び朝鮮との関係を知ることができる確実な資料は、七支刀銘文と広開土王碑文の二つの金石文のみである。これは中国王朝が弱体化し、「謎の4世紀」と呼ばれるように中国正史にその記述を書くためである
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【新羅本記を無視しているのが印象的である】

朝鮮三国の国家形成と倭 田中俊明滋賀県立大学教授
p273
高句麗
北方の民族である貊族が主体で、他の2国が韓族主体であるのとは大きく異なる
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p274
高句麗には積石塚と呼ばれる独特な墓制があったが、紀元前後にはすでに階層の違いによる築造規模の差が表れている

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