チンギスカンとモンゴル帝国
ジャンポール・ルー

初めて読むフランス人=西欧歴史家の手によるモンゴル史でページ数は少ないが、よくできた概説書で日本語に翻訳されるのも頷ける。アラビヤ語文献が出所なのだろう


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p18
モンゴル系諸部族はかつて、モンゴリアではなく現在の満州に住んでいた

p19
モンゴル系諸部族が父祖の地を完全に離れたのは10世紀以降のことである。その一部であるキタンもしくはキタイ(契丹)族が定住民の住む中国の北方に侵入し、遼朝を建国した。遼朝は1125年まで続いたが、その年に女真族(金朝)によって駆逐され、西遼(カラ・キタイ)の名でイスラム地域に仏教国を建設することとなる

シベリアの森林地帯に進出していたトルコ系諸部族がモンゴリアに根拠地を置き、ここを中心として突厥(552-744)、ウィグル(744-840)という大帝国を建設した。しかし西方への移動が続き、次第にその数は減っていった。

p20
モンゴル系諸部族は彼らの領土に入り込み、周囲の部族を吸収したり、或いは同化したりしたが、共同で放牧を行うこともあった。そうした中で、中国人から「アムール河上流に住む部族」として知られていた本来のモンゴル部は、オノン河流域に定着した。

p41
モンゴル帝国は30年にわたって戦勝に次ぐ戦勝をかさね、帝国は途方もない拡大を続けた。極東では朝鮮の高麗朝が1231-1236年にモンゴルの軍門に下った。資料では1206-1207年にモンゴルの傘下にはいいったとされるチベットは、実際には1250年に属国となった

【韓国人どもの作り話は別として、在日の朝鮮半島史美化運動家は
p106
1231年になってモンゴルの将軍サルタイが率いる軍団が
高麗に侵入し、
サルタイに黄金70斤、白金1300斤をはじめ膨大な貢物を送って引揚させた

p107
高麗政府はモンゴルとの徹底抗戦を決意し、1232年に都を開京から江華島に移した。

韓国人ども朝鮮史美化運動家を無視して、中国の元史では、
太宗3年=1231年に次のとおり明記しており、上の西欧歴史家の記述は概ね正しいが1236年ではない。中国正史を参照していない。著者は漢文は読めないだろうし、過去の研究の蓄積があるのだ

三年(太宗=オゴタイハン。在位1229年9月13日 - 1241年12月11日
秋八月,(略)是月,以高麗 殺使者,命撤禮塔率師討之,取四十餘城。 高麗 王遣其弟懷安公請降。

p42
チンギスカンが中国北方の金との戦いを始めた直後、南宋との長い戦い(1234-79)も始まった。

p43
特にキプチャック族からは、バトウの軍隊や行政組織に大量の人材が流入した。かくて、バトウの軍隊はトルコ族の軍隊と言ってもよい状態になり、その王朝はジュチウルㇲ(キプチャクカン国)と呼ばれるようになった。
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p51
イラクではバクダードが1258年2月に陥落し、アッバース朝カリフは処刑された。この事件ほど人々に衝撃を与え大きな象徴的意味合いを持った事件はなかった

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(絵の解説として)
モンゴルの騎馬戦術
彼らは振り向きざまに矢を射ること、いわゆるパルティアンショットのできる無敵の騎馬兵であると同時に商業の保護者でもあった

p64
モンゴル民族は数において劣勢だった

チンギスカンが遊牧民の帝国を作り、世界制覇へと乗り出したて言った当時、モンゴル語を話す人々は、いったいどのぐらいの数いただろう。恐らく数十万を超えることはなかっただろう。
諸部族を併合した時点でも100万ないし150万がせいぜいだったろう。
チンギスカンが亡くなった時兵士の数は約12万9000千人だったという。これには、当時中国で戦っていた兵士の数は含まれない。この数からいうとモンゴル族の10人に一人が兵隊だったことになり、これほどの割合でしかも長期にわたって成年男子が徴兵されるのはいかなる国でもありえないことだ。これに加えて、他国を占領するたびに強制的ないし自発的に従軍した人々もいたはずである。その数は膨大で恐らく10万ないし100万という単位だったのではないだろうか。言い伝えによれば、チンギスカンは被占領国の男子の10人に三人を徴兵したといわれる。

p65
少数だが無敵の軍隊

モンゴル族はこうした数の劣勢を強烈な個性によって補った。
彼らは盲目的なまでに従順で、聖職者以上に秩序や規律を重んじたとカルピニは記している。
確かにモンゴル族は盛んに略奪を行った。しかし戦利品は仲間で分け合ったし、戦列を離れて勝手に略奪を働いたりはしなかった。
【カルピニの記述は、中央アジア・蒙古旅行記―遊牧民族の実情の記録 講談社学術文庫、2016年で読めるので絶対に読もう

p66

モンゴル軍は、アケメネス朝ペルシャに遡るといわれる10戸隊、100戸隊、1000戸隊、10000戸隊、から構成されていた。従来は氏族の連帯を通して個人よりも共同体の精神が重んじられてきたが、チンギスカンはそれに代わるものとして、軍としての連帯感を強調した。そこでは各兵士が自分の部隊の成員に連帯責任を持ち、一人が失敗を犯せば全員が罰せられた

p70
外国人を登用し、彼らを監視するためにダルガチと呼ばれる軍事総督を置くようにした。

p106
キプチャク族には同胞を奴隷として売り払う慣習があった。特にマムルーク朝エジプトにはたくさんの奴隷を売った。

p115
満州族は中国を征服して中国最後の王朝・清を創建する際、まずモンゴル族に請うて、自分たちがチンギスカンの末裔であるというお墨付きをもらっている(1634)