二 重 構 造 モ デ ル: 日 本 人 集 団 の 形 成 に 関 わ る 一 仮 説
埴 原 和 郎
国際日本文化研究センター 

1994年に出された二重構造モデル提唱者の論文。この論文は当初英語で書かれた。その日本語訳を著者自ら行ったものである。埴 原 和 郎は自然人類学者に分類されている。人類学論文に分類すべきだが、内容は遺伝学への影響が極めて大きいので遺伝学に分類する。本当に重要であるのは、この論文でも明記しているように歴史的記録でも古墳時代=3世紀~6世紀頃に朝鮮半島から当時はまともであった人々が非常に多くやってきたことを明らかに示しているにもかかわらず、日本人と韓国人どもは、全ての集団遺伝学の論文で主成分分析図から見て、あまりにもきれいにシャープに分かれていることだ。

タイ人とベトナム人は、遺伝学論文1本しかないが両者は主成分分析図では現代日本人の東北人と近畿の人々程度の差しかない、そして、タイ人は11世紀頃にタイ方面へ移動したと歴史学者は考えている。約1000年前である。日本人と韓国人どもは、約1500年前である。恐らく、日本人と韓国人どもを完全にきれいに分岐させたのは、日本側の縄文人との交雑であろうが、それと共に、朝鮮半島側でも、分岐を促進する要素があったはずであり、恐らくはモンゴル軍侵攻による人口の大幅減=歴史上の記録による私の推定で約85%減である。これレベルであれば、ボトルネッ効果に近い現象が生じる。そして、韓国人どもがおかしくなったのは、その後の奴婢制による人口増加だ、FDA論文がもし正しいのであれば、韓国人どもは人類史上稀に見る劣悪遺伝子集団と言い切ってよい。

従って、人口が増えるはずがないのだ、しかし、奴婢制が李朝朝鮮においてとにもかくにも、500年程で人口を2.5倍程度に増加させる役割を果たしたのだ。それでも、李朝朝鮮末期には人口は減少していた。そして、韓国は今後平時にもかかわらず信じがたいレベルで急速に人口が減少していく。


要約
 この混血の過程 は現在 も続いてお り, 日本人集団の二重構 造性 は今 もなお解消 され てい ない。 したが って身 体 ・文化 の両面 にみ られる日本の地域性-た とえば東西 日本 の差 など-は, 混血 また は文化 の混合の程度 が地域 によって異なるために生 じた と説明す ることが できる。

研 究 小 史
1823年 に来 日 した シー ボ ル ト (P. F. von Siebold) は 日本 人 と日本 文 化 につ い て 広 範 な研 究 を行 っ た。 シ ー ボ ル トに よれ ば, 日 本 人 は蒙 古 人 に似 て お り, 日本 の新 石 器 時代 人 は 現 在 の ア イ ヌ の 祖 先 で あ る とい う (1854; Siebold, 1897参 照)。

 ベ ルツは生体 学的研究 に基づ き, アイヌ と沖縄人が共通の起 源 を もつ こ とを指摘 した (1911, アイヌ ・沖縄 同 系論)。

モース (1879) はアメリカ イ ンデ ィア ン遺跡 との比 較研 究 の結 果 に基づ き, 日本の新石器時代 人はアイヌによって置 き 換 えられ, その後アイヌは北海道以外 の地域で, アジア大陸か ら移住 して きた現代 日本人 の祖先 集 団 によって再 び置 き換 え られた と考 えた (プ レ・アイヌ説 pre-Ainu theory)。

 病理学者である清 野 とその門下の 研究者 らは多 くの貝塚 を発掘 して1000体 以上の 人骨 を得た。清野 はそれ らの計 測デー タを統計 学的 に分析 した結果, 次 の結論 に達 した。すな わち, 縄文人 は現代 日本 人の直接 の祖先 である が, 近隣諸集団 との混血に よって形 態に変化 を 生 じた-と いう考えである (混血説 hybrid theo ry,1943, 1949)。また彼 の主張 によれば, 縄 文 人が東南 アジア人 と混血す ることによって現代 日本人 の大 部分 を生 じ, 北 アジ ア人 との混 血 に よって アイヌを生 じた とい う。

ハ ウエルズ (W. W. Howells, 1966) はア イヌ, 本土人お よび縄 文人の頭骨デー タを判別 分析法 によって比較 し, アイヌ と縄 文人は互い によ く似てい るものの系統は異な り, 縄文 人の 減少 に伴 って集団の置換が生 じた と結論 した。

弥 生 時 代

弥生時代 は紀元前3世 紀か ら紀元後3世 紀 に わた って続い た。
小 山修三 (1978) は 縄 文 時代 か ら古 墳 時代 にか けての人 口 を推計 し, 東 日本 にお ける平均的集落の人口は縄 文時 代 には24で あったが, 弥生時代 には57に なっ た と推定 した。。

政治 ならびに防御 に関 わる知 識 ・技術 はまず北部九州 に入 り, その後の古墳時 代 (3-6世 紀) には近畿地方 にまで及 んだので あ る。 

渡来 人 の数 は弥生時代 になって急速 に増加 した。こ の時代は気温の低下 と, 中国の中・北部お よび朝 鮮半 島 における争乱の時期 に一致す る。

 した が って 日本列 島への渡来 は, おそ ら く気候変動 に伴 う近 隣諸 国の動 乱 に起 因す る もので あ ろ う。歴 史学者の上田正昭 (1965) に よる と, 弥生 時代 の金属器 は典型的な北 アジア型 を示 し, 大 陸 か らの渡来人が運 んだ ものであ ろうとい う。

中国の歴史書であ る三国志 (魏志) には紀元57 年 に 日本 か ら朝貢のあ ったこ とを記 している。 この記事 は, 当時の 日本 にはすで に多数の渡来 系集団が住み, 弥生中期 まで に小 規模の クニが 形成 されて いた こ とを強 く示唆 す る もの であ る。

上田に よれば, 大陸か らの渡来 は弥生時代 か ら7世 紀 に至 るほぼ1000年 間にわたって続 き, 渡来人の中 には権 力者やその一族ばか りで な く, 多数 の庶民 も混 じっていた とい う。

埴原和郎 (1984) は弥生人お よび新石器 時代 か ら現代 に至 る中国北部, 蒙古, 東部 シベ リアな ど多数の集団の骨 データを多変量解析法 に よってて比較 し, 金関 の考 えを補強す るとともに新 し い知見 を得た (図3)。

渡来系弥生人の頭骨形 態 は蒙古, 中国東北部お よび東 シベ リアなどの極 端 な寒冷適応 をとげた集団 との強 い類縁性 を示 す ので ある。 この結果は, 渡来集団の起源が北 アジアにあるこ とを示す と思 われ る。 したが っ て渡来集 団は, まだ断定の段 階ではないが, お そ らく彼 らの原郷か ら朝鮮 半島や中国北部 を経 由 して 日本 に到達 したのであろう。

オ ッセ ンバ ー グ (N. S. Ossenberg, 1986) は頭 骨 の 非計 測 的形 質 の 出現 頻度 を ス ミス (C. A. B. Smith) の平 均 型 差 尺 度 (Mean Measure of Diver gence)を 用 い て比 較 した結 果, シ ベ リア か ら近 畿, 関東, 北 海 道 (ア イ ヌ), 縄 文 人へ とつ な が る形 態 学 的勾 配 が存 在 す る こ とを確 か め た。


東 日本 と西 日本の弥生人集団は形態学的に大 き く異 なる。頭骨計 測値 を統計 学的に分析す る と, 西北九州 と関東地方の集団は縄 文人の特徴 を濃厚 に残 してお り, Qモ ー ド相 関係 数行列 に 基づ くク ラス ター分析 で は, これ らの地方 の集 団 は北部九州や土井 ヶ浜の集団 と明瞭に分離 さ れ る (図4)。

2021-02-06


 しか し関東地方で も渡 来系 の形質 を示す個体 が発見 されるので, その影響 は意外 に早 く関東 に も及 んだ と思 われる。 全体 として, 骨形態 か らみた弥生 時代 の特徴 は, 北 アジア集団の遺伝 的影響が西 日本, とくに 北部九州 に及ぶ 一方, 東 日本 では在 来の縄文 人 の遺伝的連続性が認め られ る一 とい うことがで きる。 この事実は, 少 な くとも骨形態 において 日本人集団の二極 分化 (bi-polarization) が弥生時 代か ら始 まったこ とを意味す る。

古 墳 時 代 
古墳 時代 は3世 紀 か ら6世 紀 にわ たって続 き, 小規模 のクニ グニが統一 され, つ いに近畿 地方で朝廷 が成立 した ことによって特徴づ けら れ る。 この時代 で もう一つ注 目される点は, 朝 廷が政策 と して中国や朝鮮か ら高度 の文化や技 術 を導入 す るため に積極 的 に渡来 人 を受 け入れ, その人 口が増加 したことで ある。

人骨のデー タか らみる と, 古墳 時代 に大 陸か ら渡来 した集 団の大部分は北 アジア系 であ り, 東 日本 と西 日本 の差 は弥生 時代 以 上 に明瞭 に なった (城一郎, 1938a, b; 埴原和郎 ら, 1984; 埴 原和郎, 1987a, b; 図4)。 
【極めて重要である。David Reichらの論文では古墳時代の日本人の交雑を遺伝学から検出している】

一般 に, 当時の東 日本 の集団は縄 文人の形 質を受 けついでいるが, 西 日本で は渡来 人の形 質が優勢 である。同時 に, 西 日本 集団の中には縄 文人 と渡来人 との中間型 を示す個体 が認 め られる。 したが って, 古墳時 代 を通 じて二つ の集団の混血が進んだ と思 われ るが, この傾 向は とくに西 日本 で顕著 にみ られ る。 

山口敏 (1985) は頭骨の非計 測的形質の分布頻 度 に基づ き, 古墳 人集 団が全体 として縄文人 よ りは現代 日本人や朝鮮 半島の集団に似 ているこ とを明 らかに した。この結果 は,日 本人集団が弥 生時代以後 に北 アジア集団の影響 を強 く受 けた とい う見解 を支持す る もので ある。さ らに山口 (1987) は, 東 日本の古墳人が縄文人 よ り土井 ヶ 浜 の弥生人 に強い類似性 を示す こ とか ら,土 井 ヶ浜集 団の特徴 はほぼ8世 紀 までに東 日本 に も広 がった と結論 した。 山口が研究 した頭骨資料 は4世 紀 か ら8世 紀 にわたる もので, この時代 は古墳時代 から初期 歴 史時代 に相当す る。

古墳 時代 の特徴 の一 つは, 弥生時代 に比較 し て渡来系集 団が急増 したこ とである
【極めて重要である】
埴原和郎 (1987a) は, 弥生 時代 の始 ま りに当たる紀元前3 世紀 か ら, 初期歴史時代の7世 紀に至 る1000年 間の人 口増加 につ いて コンピューター ・シミュ レー シ ョンを行 った。 この シ ミュ レーシ ョン は, 小山修三 (1978) による古代人 口の推定値 に基 づ く人 口増加率 と, この期 間に生 じた頭骨 形態 の時代的変化 に基づ くものである。その結 果, 7世 紀末 まで に日本 人全体のほぼ70-90%が 北 アジア系集団 によって占め られた と推測 され た。同時 に, 渡 来系 集団が占める割合 は東 日本 に比べ て近畿地方で格段 に高い ことも明 らか と なった。

周辺地域 の集 団
ここで<周 辺>と い うのは, 6世 紀の朝廷樹 立い らい古代 の都が営 まれた近畿地方 か ら遠 く 離れた地方 を意味する。この時代, 朝廷 は周辺 地域 の住民 に対 してほ とん ど影 響力 を もた な か った。

日本 書紀, 続 日本紀 などの古い歴史書 にはエ ミシ, エゾ, エ ビス, クマ ソ, ハヤ ト, ツチ グモ などの名 でこれ らの地域 の住民が記述 されてい る。

埴原和郎 (1990) は頭骨 データの 地理的変異 の分析 に基づいて, 東北地方 のエ ミ シまたはエゾは, 現代 の アイヌ と非 アイヌ系 日 本 人 (和人=本 土人) との中間的形態 を もつ集 団であったろ うと推測 した。言 い換 えれば, 彼 らは渡 来系 集団の影響 をまった く, またはほ と ん ど受 けなかった集団で, そのため に他地域 に 比べ て縄文人 の形質 を濃厚 に残 していたと思 わ れる。

 北海道出土 の頭骨 データを分析す る と, 縄 文人が続縄 文時代 と擦文時代 を経 て, 徐 々に現代の アイヌ に小 進化 し た ことがわか る (埴原和郎, 1984)。

か つ て べルツ (1883, 1885, 1911) は沖縄 人 とアイヌ との 強 い類似性 を指摘 し, 両者が共通の祖先 を もつ と主張 した。 しか しこの見解 は最近 に至 るまで 無視 され, アイヌ と沖縄 の集団は本土人 とは別 もの として研究 が進 め られて きた。

埴原 (1985) は このデー タを含 めてさ らに 統計学的分析 を進 め, 沖縄 人が縄 文人およびア イヌ と同 じクラスターに分類 されるこ とを確 か めた。 さらに池 田 (1982) は前頭洞 の計測値 を 比較 し, アイヌ, 沖縄人 お よび縄 文人 は同 じク ラス ターに分類 されるが, 現代 の本 土人, 中国 人お よび朝鮮人 は別の クラス ターに分類 される ことを報告 した。

 現代 日本人
小 山修 三 (1978) は縄文時代 の 遺跡数 と人口密度 が両地域 で異 な り, 東 日本 で は西 日本 に比べ て人 口密度が著 しく高かったこ とを指摘 した。しか し西 日本 の人口は弥生初期 か ら増加 し始め, 遅 くとも弥生末期 の3世 紀 に は東 日本 を凌駕す るに至 った。 この ような人 口 密度 の変化 は, 大陸 か らの渡来集 団の影響 によって食物生産 を始 め とす る文化が西 日本 で急 激 に変化 した ことを示 している。現代 に もみ ら れる東西 日本 の違い は, おそ ら く縄文時代 ない し弥生 時代 にその端 を発 した ものであろ う。

この稿 の始 めに紹介 した種 々の説で無視 され ていた重要 な点は, 日本人集団の地理的変異で ある。

2021-02-06 (1)


2021-02-06 (2)

2021-02-06 (3)

この結果 は, 東西 日 本の集団の間で今 もなお混血 が進行中であるこ とを示 している。つ ま り縄文系 と, 弥生時代お よびそれ以 降に来た渡来系集 団の形質の差 がこ ん にちの地域差 を生 じた ことになる。 日本 人は 文化 的に も生物学的 にもよく均質集団 といわれ るが, この考 え方 は誤 っている。

 
考 察
日本人集団の形成過程 に生 じた重要な出来事 は, 縄 文系お よび北 アジ アか らの渡 来系 か らなる二つの集団の共存 を想 定す ることによって説明する ことがで きる。

前 者 はおそ らく旧石器 時代 い らい, また後者は弥 生時代か ら日本列 島に居住 し, これ ら2集 団の 融合過程は現在 も続 いている。


地理的 にみる と 縄文系 の集団は主 と して北海道 (アイヌ), 沖縄, 本州東部, 九州南部 お よび四国に住み, 北 アジ ア系 (渡来系) 集団 は本州西部お よび九州北部 に住 んでい る。渡 来人は水稲耕作, 金属器, 政 治的知識 などの新 しい文化要素 を 日本 に導入 し た。彼 らは まず西 日本, おそ らくは北部九州で 小規模 のクニ グニ を作 り, やが てそれらが大規 模 な権力 に統一 され, 6世 紀 には近畿地方で朝 廷が成立す るに至 った。