朝鮮幽囚記
ヘンドリック・ハメル

1653~1666まで13年間も当時の朝鮮半島で囚われの身であったオランダ人著者による貴重な記録である朝鮮半島の人々の異様性が良くわかる。


p22
【済州島に関する記述ととして】島は人口が多く、食料品が豊富に産出し、馬や牛が豊富です。彼らはそれから毎年多くの歳入を国王に収めています。住民は非常に貧しく、卑しい人々で、本土の人々からはほとんど尊敬されていません。

p24
私たち一同は国王の御前に連れていかれました

p25
必要なものを整えるためと衣服の仕立て代を払うために、私たち人一人に布を二反づつ与えました

p34
1660年
この年と翌年とは雨が降らなかったので、穀物も他の作物も大変な凶作でした。1662年も新しい収穫があるまではそれが続き、何千人という人が餓死しました。街道は追剥のため通行できなくなり、国王の命令によって旅行者の安全を保つために厳重に警備されました。それはまた道端で餓死した人々を葬るためでもあり、また、毎日起こる殺人や強盗を防ぐためでした。いくつかの町や村が略奪され、国王の倉庫はや破られて穀物が運び出されました。しかもその犯人は罪人として捉えられることはありませんでした。というのはそれは大官の奴隷たちによって行われたからです。生き延びた人々の食糧はドングリ、松の樹皮及び野草でした

p37
国王の権威について
統治ではタルタル人の支配下にあるとわいえ、国王の権威は絶対です。国王は国全体を自分の思うとおりに統治し、王国顧問団の意見に従うというようなことはありません。彼らの間には領主つまり都市や島や村を領有している人々はいません。大官たちは彼らの収入を彼らの耕地と奴隷とから手に入れます。私たちは2、3千人の奴隷を所有する大官を見たことがあります。また彼らはいくつかの島や領地を国王から与えられていますが、彼らが死亡すると、直ぐにそれらは国王の手に収まられてしまいます

p38
奴隷の数は全国民の半数以上に達します。というのは自由民と奴隷、或いは自由民の夫人と奴隷との間に一人又は多数人の子供が生まれた場合、その子供たちは全部奴隷と見なされるからです。奴隷と奴隷との間に生まれた子供は女奴隷の主人に帰属します

p39
王国顧問官、上級及び下級の官吏について
王国顧問官は国王の顧問と言ってよく、毎日宮廷に出仕してあらゆる事件を国王に報告します。彼らはどんな問題についても国王を強制することはできずただ助言と行動とによって補佐するだけです。彼らは国王に次いで非常に尊敬されており、免職されるようなことがなければ一生か、または80歳まで在任します。これは宮廷に勤務している他の官吏や高い地位に達した者についても同じです。太守は毎年、その他の上級及び下級の官吏は三年ごとに交代させられます。大部分の者は彼らの犯した過失の為に任期の途中で罷免されるので、任期を完全に勤めあげることはめったにありません。国王は常に至る所に隠密を派遣し、統治に関する有益な情報を手に入れようとしています。従って官吏はしばしば死罪或いは終身の追放刑に処せられます

p40
重い罪とそれに課せられる刑罰について
国王に反抗した者と、王国から逃げ出そうとした者は、その一族全ての者と一緒に根絶やしにされます。

p41
盗人は非常にたくさんいます。その刑罰は足の裏をたたいて次第に死に至らしめるものです。

p42
男性は夫人を非常に好み、更にその上に非常に嫉妬深いので、たとえ親友であっても妻や娘に会うことは許されません。

p45
人々はほとんど僧侶を尊敬していません。彼らは多量の貢ぎ物を収め、国家のために労働に服さなければなりませんので、国の奴隷と同じようにしか考えられません。

p48
彼らの結婚について
彼らは、四親等以内の親類とは結婚も恋愛もできません。彼らは、8,10、ないし12歳或いはそれ以上になると、彼らの両親或いは親類によって嫁にやったり婿にやったりされます。

p50
奴隷やそれに類する人々は、ほとんど子供をかまいつけません。それは子供たちが仕事ができるようになると、彼らの主人がすぐに人をやって、彼らを引き取らせるからです。子供たちの父が死んだ場合は3年、母が死んだ場合は2年の喪に服さなければなりません。その期間中は僧侶と同じ食事をしなければならず、官職につくこともできません。大小の官職についている者は両親のどちらかが死ぬと、直ちに辞職しなければなりません。彼らは夫人と一緒に寝ることもできません。もしこの期間中に子供ができたら、その子は私生児と見なされます。また、他人と口論したり、結党したりすることも、酒を飲むこともできません。

彼らはめったに体を洗って清潔にしませんので、人間というよりもむしろ案山子のように見えます

p52
この国の国民の誠実及び勇気について
彼らは盗みをしたり、嘘をついたり、騙したりする強い傾向があります。彼らをあまり信用してはなりません。他人損害を与えることは彼らにとって名誉と考えられ、恥辱とは考えられていまっせん。従ってある人が取引で騙された場合、その取引を破棄することができるという習慣があります。馬や牛の場合は3,4カ月過ぎると時効になります。土地又は不動産の場合は引き渡しの行われる前であれば破棄する頃ができます。

彼らは病人、特に伝染病患者を非常に嫌います。病人は直ちに自分の家から町或いは村の外に出され、そのために作られた藁ぶきの小屋に連れていかれます。そこには彼らを看病する者は誰も訪れませんし、誰も彼らと話をしません。

p53
都から北京まで旅行して帰ってくるまでには、どんなに早くても3カ月ほどかかります。お互いの取引は、夫々の価格に応ずる綿布を媒介として行われます。大官と大商人は銀を媒介として取引をしますが、農民や貧しい人々は米その他の穀物を媒介として行います

p54
彼らは喫煙の習慣と煙草の栽培の方法を日本人から学んだのです

p55
蚕も非常に多いですが、彼らはよい絹布を作るための絹糸を取る方法を良く知りません。

国王が1662年にそれらの神殿を全て取り壊させたからです

p55
国家及び商人の使用する度量衡について
それは全国を通じて同一です。だが一般の人々や小売商人の間ではひどいごまかしが行われます。
彼らは銅銭その他に貨幣を知りません。それは単にシナとの国境でだけ流通しています。彼らは銀を重量でやり取りします

p57
彼らの暦及びそれと同種の書物はシナで作られますが、それは彼らがそれを作る知識を持っていないからです。