日本での朝鮮史の権威と言える者による朝鮮史だがページ数は少ない、しかし、馬力のある著作であり、さすがというしかない。最後の年表は意味がある
17世紀後半以降銅銭普及としているが?である
また、スターリンによる強制移住は、スパイと見做したことが原因である
17世紀後半以降銅銭普及としているが?である
また、スターリンによる強制移住は、スパイと見做したことが原因である
p11
その北境はこの二江ラインに遥かに達せず、ようやく西側で鴨緑江に至ったのは高麗の時、そして東側の豆満江にたどり着いたのは朝鮮(李氏朝鮮)になってからであった。それが中国との折衝を経て
白頭山に定境碑が建てられたのは1712年である
p27
紀元前1000年を前後とする頃から朝鮮半島での人々の暮らしはまだ採集経済ではあったが原始的な農耕が始まるにつれて人口が増えてきた
紀元前300年頃までが普通青銅器時代と呼ばれる
p33
漢の武帝はさらに東方政策を推し進めまず紀元前128年に半島東岸に蒼海郡を置いた。20年後の紀元前108年には衛氏朝鮮を滅ぼしてその故地に楽浪郡をはじめ真番・臨屯・玄菟の4郡を置いて軍制度を通じて直接支配に野呂出したのであった
p38
郡の支配は諸種族の抵抗にあうことも少なくなかった。抵抗の中核部分は北方の貊族であって、彼らはいち早く政治的な結集を成し遂げ、高句麗国を形成した。高句麗の興起は紀元前に遡るが、その実情は良く分からない。
【この章は武田氏によるが、どこをどう見ても、中国の史書=正史によれば、高句麗は貊族であって、韓族ではない。即ち、半島北部は今日の視点からは、征服王朝である高句麗に支配されていた】
p27
紀元前1000年を前後とする頃から朝鮮半島での人々の暮らしはまだ採集経済ではあったが原始的な農耕が始まるにつれて人口が増えてきた
紀元前300年頃までが普通青銅器時代と呼ばれる
p33
漢の武帝はさらに東方政策を推し進めまず紀元前128年に半島東岸に蒼海郡を置いた。20年後の紀元前108年には衛氏朝鮮を滅ぼしてその故地に楽浪郡をはじめ真番・臨屯・玄菟の4郡を置いて軍制度を通じて直接支配に野呂出したのであった
p38
郡の支配は諸種族の抵抗にあうことも少なくなかった。抵抗の中核部分は北方の貊族であって、彼らはいち早く政治的な結集を成し遂げ、高句麗国を形成した。高句麗の興起は紀元前に遡るが、その実情は良く分からない。
【この章は武田氏によるが、どこをどう見ても、中国の史書=正史によれば、高句麗は貊族であって、韓族ではない。即ち、半島北部は今日の視点からは、征服王朝である高句麗に支配されていた】
p40
【3世紀である】
同じ頃、半島の漢江以南の地域には農耕を営む韓族が住みつき75国を超える数の小国が群立していた
p41
313年頃高句麗は朝鮮半島を南下し、楽浪・帯方の2郡を攻略してその地を併せた
p85
綿布は17世紀後半以降銅銭が普及するまで、米と並んで貨幣としての機能を担うようになる
p106
田植え法は李朝前期には慶尚道や江原道の一部地域でのみ行われていたが、17~18世紀に南部地域に広く普及する
p139
全羅道、忠清道の農村は朝鮮政府の税収の半分以上を占める穀倉地帯であったが、1880年代末にこの地方一帯を襲った旱魃の被害は深刻であった
p162
1937年には、スターリンが対日優和のためにシベリアに在住していた朝鮮人を全て中央アジアに強制移住させたことなどによって、この地域一帯では1930年代末には抗日武装闘争を続けることが不可能になった
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