アジア研究 Vol. 51, No. 1, January 2005に掲載された北朝鮮の20世紀末の特異な現象に関する分析論文。下線は、私が付けたもので原文にはない。また、論文はPDFを保存しているのでリンク先はない。【】内は、私のメモ

20世紀末飢饉時の北朝鮮の一人当たり穀物供給可能量は、1人当たり430gであり、韓国の朝鮮戦争頃とあまり変わらず、食糧分配が適切になされていれば、飢饉は生じなかったとしている他者の説を元に、援助食糧の広範な横流しが横行したことが原因だとしている

はじめに
地方都市部の労働者を中心に最少で20~30万人、最大では280~350万人の死亡者が出たといわれる北朝鮮飢饉ほど、知られているようで知られていない飢饉の事例はおそらくないであろう。

被害地域の実情に対する情報がほとんどないことである。

研究者の多くが飢饉に関して単純に食糧難として扱ってきたことである。

本稿は、FADが生じたことは間違いないとしても、それが直接的な飢饉の原因ではなく、「二重のエンタイトルメントの失敗」が原因であったと捉えようとしている。すなわち、北朝鮮飢饉は、配給制の崩壊によるエンタイトルメントの失敗とジャンマダン(商場)での交換エンタイトルメントの失敗が重なって生じたと捉える。

国家統制による旧来の配給システムの崩壊後、ますます多くの食糧が非公式の市場によって配分される状況は、明らかに移行期の経済と呼ぶことができる。

2020-10-13 (2)
脱北者2653名への聞き取りによる家族の死亡者数である。このデータから、全体の死亡者数が算出できるはずであるが、論文著者は、算出していない。

2020-10-13

ⅰ先行研究の検討

1.FAD飢饉説
FAD飢饉説を唱える主要な研究として、イム(1999)、リ(Lee, 2003)の研究があるが、ここではリの研究を中心としてその主張をみてみよう。まず、リは人口統計学的手法を用いて北朝鮮の公式人口統計から、1994年1月~99年8月の間に平常値を超える68万8千名の追加的死亡者数を見出し、この間の北朝鮮の食糧危機が飢饉に発展したと結論づけた。

1994年~96年の間に年平均30%を超える穀物生産の減少にあったこと、などを挙げている。

また、東北地方(咸鏡南࡮北道)に飢饉の被害が集中したのも、同地域の食糧生産の減少が基本的な要因であったとしている。

彼は、「政策の失敗」説を否定し、ありとあらゆる政策を駆使したにもかかわらず、絶対的な食糧不足のゆえに飢饉が生じたと主張するのである。

さて、リは、1932年~33年のソ連飢饉や1959年~61年の中国飢饉と異なる北朝鮮飢饉の特徴として、一つに、都市部の飢饉であったこと、二つには、全住民に長期にわたって深刻な健康上の危機をもたらす「スローモーションの飢饉(famine in slow motion)」2)であったこと、を挙げている。

1995年~97年の地域別穀物生産状況はすべての地域で激しい生産の落ち込みを見せており、地域による偏りはほとんどない。

2.FED飢饉説

センの飢饉論に従って、北朝鮮飢饉の原因を「エンタイトルメントの失敗」であると明言するFED飢饉説を唱える研究には、ハン(1999)、田中(2000)、李(2001)、ナチオス(2002)などが挙げられる。

第一に、深刻な食糧不足、あるいは食糧危機の存在は認めてはいるが、それは飢饉の決定的原因とされていない。

ナチオス(2002)は、政治的優先順位により北朝鮮の党軍政の核心階層と平壌居住者、そして軍需産業࡮主要国有企業の従事者は食糧危機から保護されたが、一般住民は差別的配給政策、あるいは配給中断により深刻な被害を受けたと主張する。また、すべての論者が、農民よりも都市住民、とりわけ地方工業都市の労働者や老人࡮子供などの社会的な弱者から多くの被害者が出たという都市部飢饉説に同意している

ナチオス(2002)は、国家配給システムの崩壊に飢饉の原因を求めているが、農民市場の台頭と関連したエンタイトルメントの失敗にも注目している。つまり、危機後に非公式経済が蔟生したものの、そこでの米価は暴騰し、市場へのアクセスが可能であった特権的な一部の人々が生き延びる一方で、都市住民は所得の減少などに見舞われ、市場へのアクセスが著しく制限され犠牲者になっていったと捉えている

ⅱ飢餓と食料エンタイトルメントの変化

1. 配給の中断とジャンマダンの蔟生

1990年代の北朝鮮の経済危機は、社会主義圏の崩壊に伴う「貿易ショック」、一世代以上に渡って続いてきた「戦時経済」、そして「食糧危機」という三つの経済的重圧が重なって生じた現象であり、同国の経済は事実上、崩壊の状態に陥っていた。そして経済崩壊の具体的な発現が、食糧システムの崩壊であり(エバースタット、2003: 108–109)、食糧システムの崩壊は同時に、集権的経済管理システムの崩壊でもあった。

農民たちは、生産物の国定価格と市場価格との価格差が800~1,100倍にも達する現実に遭遇し、集団農場の公的な生産活動より自留地、「テギバット」(隠し田)5)などでの私的生産と、農民市場向けの私的取引を選好する傾向を一段と強めた。

北朝鮮のFAO提出資料によると、1996年には総生産量200万トンのうちの44万トン(22.0%)、97年には総生産量214万トンのうちの68万トン(31.8%)を占めた6)。ナムムン(2000)は、実際の私的生産量は北朝鮮発表値より高い可能性があると指摘している。

事実上、この時期の北朝鮮経済は、非公式経済主導の二重経済、もしくは「隠ぺいされた市場体制」へと変質したのである(金、1997: 53)

2. 飢饉の時期の食糧エンタイトルメントの変化


Ⅲ 北朝鮮飢饉の原因

1. 北朝鮮飢饉の死亡者数と主な被害階層

北朝鮮飢饉の主な被害階層は、地方工業都市の労働者とその家族であったのである。

2020-10-13 (1)

2020-10-13 (3)

2. 食糧総供給量の推移と実際の配給状況

労働者には1996年~97年に配給が非常に不安定な状態に陥り、1人当り250~270 g/日しか配給されていない。ここでも農民より労働者がさらに厳しい状況に置かれていたことがわかる。

3. 北朝鮮飢饉の原因
要するに、飢饉の時期の国家配給システムの崩壊は、食糧不足だけではなく国家配給食糧あるいは援助食糧の広範な横流しによって生じたとみることができる。

北朝鮮の1995年~97年の430~442g/日(FAO)、あるいは403~471g/日(韓国政府)とみなせる1人当り供給可能量は、国連基準の1人当り最少必要量458 gに比べれば、ぎりぎりの水準である。食糧供給がたとえ非常に厳しかった期間においても、食糧がすべての人口に平等に配布されてさえいれば、人々が何らかの対応策で飢饉を回避できる可能性があった。

飢饉の時期の北朝鮮の1人当り供給可能量は、韓国が最も貧しかった、1947年~58年の期間の1人当り供給可能量とほぼ同水準である。当時の韓国で飢饉が起らなかったように、北朝鮮でも、大規模な飢饉は防げたはずなのである(ハン、2000: 7–8)

分配の失敗、つまり、北朝鮮飢饉は、旧来の国家配給システムの崩壊と東北地方の選別戦略が引き起こした惨状であり、その意味で配給制という旧来のエンタイトルメントシステムの失敗が飢饉のひとつの原因だと規定することができる。

次は、なぜ北朝鮮飢饉の主な被害者が地方工業都市の労働者であったのかに焦点を絞って、その原因を考えてみることにしよう。

ここで、交換エンタイトルメントの悪化と関連した諸問題点を考えてみよう。第一に、飢饉の年にあって、米価に対して賃金が相対価格のみならず、絶対額も減少したことである。すなわち、1994年4月には政務院決定40号によって、労働者の賃金等級の一律的な下向調整が行われ、月平均賃金が60ウォン以下に引き下げられたのである(ジョ、2000: 59)。

のみならず、1994年~98年の間の工場稼働率が20~30%にまで下落したこともあって、「待機休暇制」と「労力調節事業」という名目下で、事実上の労働者の強制休職が行われた。

第二に、「外貨稼ぎ」事業の問題がある。

四重経済のヒエラルキーが市場交換過程で再生産され、特権層と一般労働者との不平等をさらに深化させた側面である。こういう現象を、ナチオスは移行期におけるクローニ資本主義、ノーランドは共産官僚のヤクザ資本主義と呼んでいる。

第三に、公的金融制度の破産が及ぼした影響である。長年の経済危機の中で公的な銀行システムはほぼ破産し、一般住民は銀行預金の引き出しすらできなくなった。

第四に、続いて説明するような「賃金通帳」、「࡮3生産」、「社会動員」と関連した広範な「略奪」が行われたことである。

飢饉の時期の北朝鮮は、まさに「配給国家」から「略奪国家」へ転落したといっても過言ではなかった。