(2000年に出された北朝鮮に関する論文で関大の「経済論集」に掲載された。グーグルearthで、北朝鮮のはげ山の状況を見ると、北朝鮮は、もう持たない。)

食糧危機に関して,その深刻化の時期は「1995年の水害以降」とされている。また,その発生要因に関しては,相次ぐ自然災害と同国経済構造の諸問題(経済の自力更生・軍事偏重と交易の対社会主義圏偏重)に求められてきた。 しかし,北朝鮮政府が「大規模水害」を理由に食糧危機の発生を公式に認め,国際社会に対して人道支援を要請したのは1995年になってからのことである。

北朝鮮の食糧危機と難民の発生状況
「第一期」(1993年10月~1994年10月)
北朝鮮ではまず1993年度に,農業に適さない北部の山岳丘陵地域(咸境北道と両江道)で食糧配給の中断が始まった。

しかし,「第一期」には不法越境者はまだ少数であり,中国側の親族から金品の支給を受け,1~2ヶ月の短期間の滞在で再び北朝鮮に帰還するケースが主流であった。

第二期」(1994年~1995年10月頃)
この時期(1995年8月)に,穀倉地帯である黄海北道・黄海南道の一部に大量降雨による洪水被害が発生した。しかし,難民の証言によれば,直接的な洪水被害の程度は一般に伝えられるほどではなかった。「雨が非常に多く降るなと思ったが,洪水で農作物に大損害を与えるとは思わなかった。一般住民の間でも洪水被害について話す人も別にいなかった」(P氏)という。

北朝鮮で1989年から毎年継続する不作の原因は,全時期を通して,原材料不足・エネルギー不足による工業の不振により,営農物資(農業機械,化学肥料,除草剤,殺虫剤等)が不足したことによる。餓死者の発生が本格化するのは「第三期」からであるが,これは経済破綻の累積効果と,後述する対北朝鮮人道支援の悪影響によるものとみられる。 これにより,同時期になると,親族訪問を目的潜伏定住を目的とする不法越境者が徐々に現れ始めた

「第三期」(1995年11月----1996年度)
水害に見舞われた95年度の収穫後,朝鮮労働党は全国民の約4分の1に相当する朝鮮人民軍,国家保衛部(政治警察),社会安全部,軍需工場,各級党機関員などに,過去の遅配・欠配分を含め,一年分の食糧を配給した。残余の食糧は主にエネルギー戦略部門の炭鉱労働者を中心に分配され,その他の一般労働者・事務員,および教師や看護婦・医師などにはほとんど配給されなかった。これら配給を受けられなかったグループが難民の源泉となった。

次のグループの住民が深刻な打撃を被むることになった。①副業畑を保有できない都市部住民,②行商のための中国製品にアクセスするのが困難な日本海(東海)側の都市住民,③資本財や中間財を生産する大規模事業所の集中する都市住民である


「第四期」(1997年~現在)

同時期が難民の急増期に相当する。「96年はーカ月平均で40~50人,97年は毎日のように渡ってきている。97年末に豆満江が凍結してからは一日平均で40人」(和龍県B村)などの証言がこれを裏付けている。この背景には,北朝鮮経済の蓄積疲労がピークを迎えたこと,および人道援助食糧の分配の歪みが継続したことを挙げることができる。