この著者は、元寇は2回とも台風にあったとしているが、専門の研究者で旧帝大系大学教授ですら、このような無知な状態であることに驚く。(このバカな教授殿は、文永の役が現在の暦では、11月であったことすら知らない!)

p28
10世紀前後から、まず江南の地帯で
水利田の造成が進展してきた
それと同時に水稲栽培技術が一新された。すなわち苗代仕立てによる移植、人糞・堆肥・胡麻かすはどの施肥

p39
朱子学では自然・人間界を通じてもろもろの存在の根拠となるのは絶対不変の超越的な理(天理)であり、この理が個別的な存在に内在化したのが性(天然の性)である。こうした性=理に基礎づけられた人間は本来肯定的な存在であるが、しかし、具体的な各人は人欲や情の気(気質の性)によって混濁された状態で現れており、天然の性に帰すること(格物窮理)が人間の道とされた

p57
遼の聖宗は、994年朝鮮の高麗朝を屈服させて背後を固め、1004年大挙して南進した

p87
既に日本は843年に新羅との国交を絶っていた

p77
北方に契丹が興ると、高麗は三度その侵攻を受けて、一時は国都開城を占領され、契丹の冊封を受けた
チンギスハンが金の燕京を攻略すると満州での金の支配体制は崩壊した。これに乗じて、モンゴル軍は満州を制圧して高麗の北部に侵入し高麗を屈服させた。その後、チンギスハンの西征により高麗への軍事的圧力は一時緩んだが、オゴタイハンが即位すると本格的な侵攻をはじめ、1231年には国都の開城を包囲し、以後、30年近くにわたって朝鮮全土を踏みにじった

p78
これにより、高麗の各地には監督官であるモンゴル人のダルガチが派遣されて内政に関与した

p79
1274年北九州に襲来し、博多、箱崎を攻略した。しかし、折からの台風によって軍船が漂没して敗退した

p82
また、地方の各行政機関には監督官であるダルガチが配置された。従って宋代に官僚登用制度して確立された科挙はその意味を失って廃止された

p215
奴変

次に明末清初期の奴変について見てみよう。
明末における奴僕身分に含まれる存在形態はさまざまであった。主家内での非生産的な家内雑務に従事するもの、土地の耕作や手工業、商業・流通部門で使役されたもの

このように奴僕の形態は多様であったが、この身分を形成する中核は、
圧倒的に人身売買であった。身売りした男僕は義男として、女婢は義婦として主家の家内に擬制的な家族員として抱え込まれ、主家の給養を受けてその家長の家父長的な支配のもとに置かれた

p223
支配秩序の根拠を超越的、絶対的な性=理に求める朱子学