非常に優れた論文であるが、グレブストは、確実に実際には朝鮮を訪問してはいない。

『朝鮮幽囚記』はオランダで出版(1669年)され,ヨーロッパに未 知の国・朝鮮を知らせた。
4つの特徴とは次のとおり

1:刑罰の特徴 ハメルらが実際に体験した刑罰のほか,李朝の特有の刑罰を見ていく  
2:奴隷 人口の半分が奴隷だとハメルが指摘する奴隷を中心に李朝の身分制度について  
3:官吏の不正 儒教エリートであるはずの朝鮮王朝の官吏の不正・腐敗について  
4:ハメルが指摘する朝鮮王朝官民の主要な行動特徴の「嘘をつく」について1653年7月16 日に済州島

Ⅰ 刑罰の特徴
南西岸に漂着したデ・スペルウェル号の生 き残ったオランダ人36名が現地人に目撃され現地・大 静県の役人たちに取り囲まれる。

ハメルは朝鮮での刑罰の様子を 述べたところで,  「一度に百回も叩くとほとんど半死半生になります。 しかし,多くの者は50回も叩かれないうちに死んでし まいます」と述べたところも出てくる。

水軍の節度使という高官でも杖や鞭で叩かれる という場面は朝鮮史によく出てくる。

日本では律令に鞭および棒による 殴打は出ているが,室町時代以降は行われていないと いう。室町時代に日本にやってきた朝鮮使節が書いた 『海東諸国紀』に「(日本では)刑に笞杖なし」と報告

 朝鮮王朝では高官が反逆罪で処刑されると,その家 族のうち男子は殺害され,妻や娘たちが奴婢(奴隷) の身分に落とされることは通例であった。

米国の新聞記者ハルバートは著 書『朝鮮亡滅』(1906)で,「鞭打ち刑はものすごい勢 いで鞭を真上から振り下ろすというやり方なので,時 には囚人の脚の骨を折ってしまい,一生の不具にして しまうことさえ起こる。ところが囚人がたっぷりと鼻 薬を利かすと,鞭を振り下ろす腕が途中で止まり,後 は静かに落ちるとか,もっと極端になると,鞭は囚 人の身体を避けて地面をたたく,といった形になる。 (中略)死ぬ直前まで鞭を撃たれなければ囚人は死刑にならない。“拷問されてゆっくり死ぬよりもむしろ 一挙に斧の一撃で処刑された方が楽だ”と無実の罪を 認めてしまう」と述べている。

スウェーデンの記者グレブストはソウルで監獄を見 学した。地元の通訳の青年は恐怖に駆られて逃げ出し たが彼は踏みとどまって囚人の拷問と山賊の死刑のあ りさまを見届けた。「理由は何であれ,こんな状況が まだ地球の片隅に残されていることは,人間存在そ のものへの挑戦である。とりわけ私たちキリスト教 徒が一層恥じるべきは,異教徒の日本人が朝鮮を手中 にすれば真っ先にこのような拷問を廃するだろうとい う点だ」と述べている(グレブスト,原著は1911年, p.239)。

グレブストの予言の通り,日本は朝鮮を保護 国とし,後に併合し,残酷な拷問や刑罰を廃止した。

Ⅱ.奴隷(奴婢)
『世界の奴隷制の歴史』 の中でパターソン(2001)は朝鮮では「東洋で最も進 んだ奴隷制度を持って居た…前近代世界のどこよりも進んだ奴隷制度を持っていた」と述べている。

ハメルの朝鮮幽囚記に「奴隷の数は全国民の半分以 上に達します。というのは自由民と奴隷,あるいは自 由民の女性と奴隷の間に一人または数人の子どもが生 まれた場合,その子供たちは全部奴隷とみなされるか らです。奴隷と女奴隷の間に生まれた子供は女奴隷の 主人に属します」(p.38)と記述されている。
人口の半分ほどが奴婢とは驚きだが,李成市ほか (2000)も「十五世紀の後半には全人口に占める私賤 (個人所有の奴婢)の割合が八~九割に達していたと 記録もある。もちろん,ある程度の誇張が含まれてい たとみるべきであるが,少なくとも当時の朝鮮社会で は私賤の数が人口の相当部分を占めていたことは事実 である」と述べた。宮嶋博史(1995)は「16世紀には 全人口の3割ないし5割近くを奴婢身分の者が占めて いたとされる」と述べている。
元 寇のとき,壱岐で住民の大虐殺が行われ,生き残った 少年少女100人が数珠つなぎにされて高麗王と妃に奴 婢として献上されたと高麗の正史にでている(北原, 2013)という。

ハメルの幽囚記に「奴隷やそれに類する人々は,ほ とんど子供を構いません。それは,子どもたちが仕事 をできるようになると,彼等の主人がすぐに人をやっ て,彼らを引き取らせるからです」と記している。


李朝における奴婢の身分判定と,その所有権の帰属 は二つの原則があった。「従母法」と「一賤即賤」で ある。前者は所有主が異なる奴と婢の間に生まれた子 供は母親である奴婢の所有者の所有となる,とする もので,後者は父または母のどちらかが奴婢ならば, その子供は奴婢の身分となる,ということだ(宮島, p.65,中央日報2018. 4. 20)。

江戸時代の日本には奴婢(奴隷)は居なかった。

朝鮮の白丁 は牛の屠殺と精肉が独占的に認められていたので,生活が豊かだったかもしれない。賤民扱いされたが,奴 隷ではなく自由民だった。

 朝鮮における奴婢の制度はいつまで続いたのか?吉 田光男(1999)によると,「奴婢の解放は,1801年の 政府による公奴婢原簿焼却と,1886年の奴婢身分世襲 の禁止を受けて1894年の甲午改革に身分制廃止で実現 した」と記述し,朴永圭(2012,p.408)も「1894年 の甲午改革によって身分制度は完全に廃止され制度上 の身分はなくなった」と述べている。しかし,上記の 李真の元の所有主への返還はその後の出来事だ。

『世界の 奴隷制の歴史』の著者パターソンは朝鮮の奴婢につい て,「1484年に国家が所有していた奴隷は35万3000人 であったが,1655年にはわずか19万人になった。多く の要因がその後朝鮮の奴隷制が衰退したことを説明し ているが,最終的な奴隷の廃止が1911年の日本による 征服後に行われた」(パターソン,2001,p.608)と最 終的に朝鮮での奴婢制度が廃止されたのは日韓併合後 だったことを指摘している。  21世紀の韓国で,奴隷事件が起こった。

Ⅲ.官吏の不正

19世紀に朝鮮が欧米諸国に開国し,外交官・宣教 師・ジャーナリストが朝鮮に滞在するようになると, 彼等が一様に朝鮮における官吏の腐敗に驚き,収奪さ れる一般住民に同情している(金学俊,2014)。
 
「繁盛して富裕になったような人は,たちまちにし て守令の執心の犠牲となった。守令は,とくに秋の収 穫の豊かであった農民のところへやってきて,金品の 借用を申し出る。もしも,その人がこれを拒否すれ ば,郡守はただちに彼を投獄し,その申し出を承認す るまで,半ば絶食同様にさせたうえに,日に1~2回 の笞刑を加えるのであった」「ある朝鮮の農民が,あ るとき,私に訪ねた“私がなぜ,もっと多くの穀物を 栽培し,もっと多くの土地を耕作しないのかって?な ぜ私はそうしなければならないというのか?より多くの穀物収穫は為政者のよりひどい収奪を意味するだけ なのに”と」(マッケンジー,p.29)。
 
「商人なり,農民なりがある程度の穴あき銭を貯め たという評判が立てば,両班か官吏が借金を求めに来 る。これは実質的に徴税であり,もし断ろうものなら ば,その男はニセの負債をでっちあげられて投獄さ れ,本人または身内の者が要求額を支払うまで毎朝笞 打たれる」(バード,1905,p.138)。


 「朝鮮には階級が二つしかない。盗む側と盗まれる 側である。両班から登用された官僚階級は公認の吸血鬼であり,人口の5分の4をゆうに占める下人は文字 通り「下の人間」で,吸血鬼に血を提供することをそ の存在理由とする。」(バード,p.558)

 米国海軍将校フォークは「政府は一人の巨大な強盗 と化している」と述べ(金学俊,p.211)米国人牧師 アペンゼラーは「朝鮮人の道徳水準が絶望的なまでに 低い,指導的な立場の官吏はほとんどが腐敗してい る」と指摘,米国人牧師ギルモア「誰かが金持ちだ という噂を耳にすると,木っ端役人は,わざわざ罪を でっちあげて,その者を獄し,搾り上げ,それゆえ, 人々はそもそも金を稼ごうとせず,怠けるのである」 

オーストリアの作家ヘッセ=ヴァルテッグはその著 書『朝鮮・1894年夏』に「もし彼らが生計維持費より も多くを稼げば官吏に奪われる。この官吏は朝鮮の没 落とここに蔓延する悲惨さの最も大きな原因だ。官吏 の貪欲は,利潤獲得と所有に対するすべての欲求と労 働意志,そしてすべての産業を窒息させた。(中略)」 朝鮮人は数百年間も同じところにとどまっている。外 部の世界から徹底的に遮断されていて,官吏の抑圧と 搾取,そして無能力な政府のため,存在していた産業 はむしろ後退した」(中央日報2018. 11. 17)。


Ⅳ.嘘について

 朝鮮幽囚記に「この国民の誠実,不誠実および勇気 について」という見出しを付けて,朝鮮の国民性につ いて述べていることは現代韓国人によく知られている ようだ。ハメルは, 「彼等は盗みをしたり,嘘をついたり,だましたり する強い傾向があります。彼等をあまり信用してはい けません。他人に損害を与えることは彼等にとって手 柄と考えられ,恥辱とは考えられていません」と指摘