宮嶋氏は、数少ないDNAが日本人である朝鮮史研究者である。


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p10
中国の長い歴史において、唐と宋の間に大きな歴史の画期が認められることは異議のないところであろう.
日本では古代と中世の画期説、中世と近世の画期説の二大学説が存在する。欧米の中国研究者の間では、宋代以後を後期中華帝国と呼んで、唐代までの時代と区別するのが一般的である

p60
永楽帝は
ベトナム北半を占領し直接支配を行ったのがその例である。しかし、明の支配が安定していたのは5年弱に過ぎず、反明運動の激化により、永楽帝の死後数年で明はベトナムから撤退した

p84 (中国の)
科挙制度の最大の特色はその開放性にある。
受験資格はほぼ全ての男子に開かれていた

p101
中国と朝鮮の科挙を比較してみよう。李朝の科挙の最大の特徴は特定の家門から多数の合格者を出したことである

p103
1%強の同族集団が全文科合格者の半数以上を輩出したわけだ。
中国の明清時代と比べると大きな違いである

p104
人口比でみると朝鮮の文科合格者は中国の5倍ほど多かったことになる
このように李朝の科挙は中国のそれと比較して少数の血縁集団による寡占状態と人口比で見た文科合格者の多さという二つの重要な特徴を持っていた

p105
臨時に実施される文科はその日程の公表から試験実施までが極端に短かった
同じく科挙という制度を採用しながらもその在り方は中国と朝鮮では大きく異なっていたのである

(この辺りから、p149までは柳希春という朝鮮人が残した日記に基づく記述が多く、延々と続く。
一次資料が十分ではないようだ。しかし、内容は日本の同時期の住職が変わっても書き継がれた妙法寺記のような簡単で客観的なものではなく、こまごまとした内容であり、一個人の日記に依存して朝鮮史を書かざるを得ないのがおかしいと宮嶋氏は思わないのであろうか?在日を除く、日本の半島史の正規の研究者は、一クラス状態であろうから仕方がないのか?)
p117
こうした双系的な親族観念が存在したため、財産相続においても息子と娘を区別せず男女均分相続が慣行化されていた。
居住形態においても妻方居住が広く見られた
男性が嫁を娶ることを朝鮮語では「チャンガカンダ」(婿に行く)と表現するが、当時はまさに「行っていた」のである
希春一族の居住パターンは当時の両班たちに典型的なものである。つまり、妻方や母方を頼って何度も居住地を変えながら、1人の出世人が出ると居住地を移さなくなり、子孫たちが代をついで世居するというパターンである。16世紀の朝鮮は、こうした移住と定着が大規模に行われれる流動的な社会であった

p118
16世紀に次第に多くの同族集団において族譜が編纂されるようになっていった。
朝鮮の族譜編纂史上、17世紀前半あたりまでに編纂されたものは初期族譜と呼ばれ、その形式が後の時代のものと大きく異なっている。その最大の特徴はある一人の人物を起点として、その子孫が内系・外系の区別なくすべて収録されていることである


p124
両班は身分か
両班を身分概念でとらえてしまうとうまく説明できないであろう
(この後、ある朝鮮人の著作を長く引用しているが、くだらん内容に過ぎないので割愛する)
両班というのは従って身分ではない。

p130
田植え期の降雨が不安定な朝鮮では稲作の主流は田植えを行わない直播き法であったが16世紀には慶尚道地方で田植え法が普及し始めていたことがうかがえる

p131
両班たちの経済力

希春は
9から12ヘクタールほどの農地を所有していたと思われるが、その規模はわからない
農地と並んで重要な財産であった奴婢は100人ほどを所有していたことが日記からうかがえる


p219
重要な事項として、八旗制度の成立を挙げなければならないだろう
一旗は、7500人で構成される
後にモンゴル八旗、漢人八旗も作られ、全24旗となった。八旗に編入された人々を旗人というが、普通の漢人であれば本籍を表すのを「某々県人」などというところを、旗人の場合には「某々旗人」というのである。即ち、旗とは単に軍事組織にとどまらず、人間の基本的な帰属を表す社会組織であった

p249
実録とは国王の一代記という意味であるが、国王の死後、実録を編纂することが制度化されたのは中国の唐代のことであった
朝鮮で実録の編纂が確認できるのは、高麗時代にはいいってからである。しかし高麗各王の実録は一つとして現存せず、他の書物に引用された断片のみが今日伝わるだけである。それに対して李朝各王代の実録は全て残っていて、これを総称して李朝実録と呼んでいる

p255
女真は朝鮮族にとって最も近い異民族であり、長い間支配と同化の対象であった。そして、オランケと呼んで夷敵視してきたのである。清への屈伏は従来のこうした関係を180度転換させるものであった
小中華の考えが台頭してくるのは極めて自然ななりゆきであった

p264
党争の評価
これを朝鮮民族の民族性のごとく見なす言説は、植民地期の日本人研究者によって流布されたものである
韓国の研究者から
党争が平和的な政権交代の政治のルールであったのではないかというものである
(当たり前だが、著者は、何故党争が生じたのかについて、ぼかした説明しかできていない)

p268
軍役
実際に兵役につく場合と、兵役についた者の家族を扶助するためにの費用を負担する場合の二種類があった。二種類の軍役のうちでは、後者の占める比重が次第に大きくなり、軍役負担者は国家に綿布(これを軍布と言った)を治め、国家はその収入で兵士を雇う、代価雇立精が一般化しつつあった
両班の場合、現役の官僚は勿論軍役免除であった。
次第に有名無実化し、両班階層の者は軍役が免除されるのが常態化された。奴婢は
軍役は免除されていた

p273
しかし17世紀に入ると奴婢にも軍役を課することが行われた。束伍軍というのは、奴が負った軍役の種類であった

p277
朝鮮で田植え法が本格的に普及するのは17世紀から18世紀にかけてである

p292
康熙帝
母は漢軍八旗の出身であり、祖母(順治帝の母)はモンゴル人なので、康熙帝のなかには、満・漢・モンゴルの血がともに流れていたことになる。彼は、満州語・漢語・モンゴル語を自由に操るトリリンガルであった

p329
庶子に対するこうした厳しい差別は中国には見られないことである

p335
15世紀に造られ始めた族譜はもともと両班層の専有物であった。一族の族譜を有することが両班であることの証だったわけである

p348
二度にわたる侵略を受けて服属するに至った清との間には朝貢関係が結ばれた。そして朝鮮からは原則として一年に三度、元旦及び清国皇帝と皇太子の誕生日に使節が派遣された
朝鮮は一年三貢という最も密度の高い朝貢関係を結んでいた

p356
身分制の動揺
18~19世の朝鮮では、身分制の崩壊とか、身分制の動揺というべき事態が急速に進行していたとするのが学界の定説である。

p357
国家的身分としては、良人と賎人の二つだけが、法的に明確に規定された身分であった。両班というものは、良人の中で官僚となったものと、その3代以内の親族をさすもので国家的身分では本来なかったのである。他方社会的身分制という点で見ると、李朝社会には、両班、中人、良人、賤人という4つの身分階層が成立していた。
このように李朝社会においては国家的身分性と社会的身分制が元々大きくずれていたのであり、両班層において特にそうであった。しかも国家的身分制と社会的身分制の関係が時代の推移により変化し、社会的意味での両班概念が国家的身分制にも反映されていった。両班の子孫たちが原則的に軍役を免除されるようになったのはその典型的な例である
表3、4は、四方博によって明らかにされた慶尚道大邸地方の戸籍分析の結果である

Ⅰ期=1690年
ⅱ期=1729年
Ⅲ期=1783年
Ⅳ期=1858年

表3身分別戸数とその比率
  両班戸 良人戸 奴婢戸 総数
Ⅰ期 290戸  9.2% 1694  53.7% 1172   37.1 3156  100
ⅱ期 579   18.7
1689  54.6   824   26.7 3092  100
Ⅲ期 1055    37.5
1616  57.5   140     5.0 2811  100
Ⅳ期 2099    70.3
  842  28.2     44     1.5 2985  100

表4身分別人口数とその比率
  両班 良人 奴婢 総数
Ⅰ期 1027人  7.4%  6894  49.5%  5992   43.1 13913  100
ⅱ期 2260   14.8
 8066  52.8  4940   32.4 15266  100
Ⅲ期 3928     31.9
 6415  52.2  1957   15.9 12300  100
Ⅳ期 6410     48.6
 2659  20.1  4126    31.3 13915  100
【貴重な資料である
①慶尚道は穀倉地帯であるにも関わらず、約170年間、人口は増えていない。
②18世紀末=1783年に奴婢人口が一度減少し再び増加している】

p359
18~19世紀の身分制におけるもっとも重要な変化は、両班戸・両班人口の増大よりも、奴婢戸の消滅にあった。表3に見られるように19世紀半ばには奴婢戸は全体の1.5%とほとんど消滅するに至っている



p360
李朝時代の奴婢は、公奴婢と私奴婢の2種類に大別されるが、後者が多数を占めた。私奴婢身の2種類があり、それらは身役奴婢と納貢奴婢と呼ばれる。前者は上典(奴婢所有者)の家内や周辺に居住しつつ、上典の家内労働や農耕労働に従事する奴婢である。独立した戸籍を持たない身役奴婢を特に率居とも呼んだ。後者の納貢奴婢は、独立した家計を営み、上典に対しては毎年定まった額の物品を上納する義務を負うだけであった。納貢奴婢の中には、上典の居住地と遠く離れて住む者もおり、
奴婢が上典の支配を逃れて、奴婢身分から抜け出す事例は、納貢奴婢の場合に多く見られた
17から18世紀における奴婢の売買価格の変化を見ると、婢が奴よりもはるかに高値で売買される傾向が強まってくる
このことは農業労働における奴の役割が減少したのに対し、婢の家内労働における役割がさほど変わらなかったためであろうと思われる。奴婢の人口構成においても、婢の数が奴をはるかに上回るようになる。


p388
ほぼ前述した二つの顔、即ち中国皇帝としての顔と北方民族のハーンとしての顔

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p389
1818年に編纂された行政規則集
に載せられている朝貢国は、朝鮮、琉球、ベトナム、ラオス、タイ、スールー(フィリピン南部)、オランダ、ビルマ、西洋がある