この在日朝鮮人による朝鮮半島歴史創出家の著作は、数多くあり、私はこれで3~4冊目であるが、最もひどい内容である。一応は資料に基づいているが、今日の日本における朝鮮半島史への誤解の主犯格が、この人物であろう。半島の本当の歴史を知るには、中国に残された一次資料による他ないようである。ただし、族譜に関する記述は参考になった

p17
朝鮮には「異姓不養」といって異姓の者を養子に取らない慣習があり、

p26
朝鮮人は白衣を好み、「白衣民族」ともいわれます。人によっては染料がなかったからだと言いますが、
(モンゴル侵攻前の高麗時代には、染料があったことは確実。反面、李朝朝鮮では、染料を自国内で生産していなかったことはほぼ確実。中国との朝貢貿易で輸入されていたのであろう)

p28
朝鮮の歴史は常に防御的な立場で貫かれてきたのです。朝鮮人が「防御民族」だといわれるゆえんです。
隋や唐の侵略をうけた高句麗、契丹や元の侵入を受けた高麗、豊臣秀吉の侵入を受けた李朝時代の戦法を見ますと、侵入軍が通過する地域の住民は食料などをもって山城に逃げ込み、敵を半島部に深く引き入れます。そうして後方からの補給線が長く伸びてしまうと侵入軍に山城からゲリラ的出撃して

(いい加減にして下さい。山城に籠城したのなら、その山城が攻撃されれば終わりですよ。山中にばらばらに逃げ込んだ!そうとしか考えられません。)

p33
おそらくイエメク族は、熊や虎をトーテムとして崇拝する北方系狩猟民であることでしょう。
これは、朝鮮の原始種族が、アルタイ山脈からシベリアに移動し、さらに満州から朝鮮半島に南下してきたその経路と符合するように思われます。解放後韓国では1961年まで「檀君紀年」が使われました。これは檀君が即位したとされる紀元前2333年を檀君元年としたものです

p34
朝鮮半島南部の韓族のなかでは、その始祖伝説のなかに、南方系の卵生説が目につきます。

p121
高麗磁器にも青磁、白磁、緑磁その他がありますが、やはり青磁が最も優れ

p124
1258年までのほぼ60年間、崔氏4代による武人政権が続きます

p127
オゴタイは金を滅ぼしてきた中国に進出すると同時に、さらに高麗にも過重な貢物を要求してくるのです
1231年モンゴル軍が高麗に侵入してきたのです。
開京に迫ったモンゴル軍は高麗と講和し、西北面に72名のダロカチ(官吏)を残して撤退しました。

(姜さんよ、文章の辻褄が合いません。講和したのではなく、膨大な貢物を与えて、モンゴル軍に引き揚げてもらったんですよ!あなたが、別の本でかいてますよね!ちなみに、フビライが、元朝を開いたのは、1271年、南宋滅亡は1279年。)

p127
モンゴル軍の侵入は大規模なものでも6回(1231、1232、1235、1247、1251、1254年)になります。特に54年から59年にかけては持続的に侵入してきて高麗本土を荒らしましたが、江華島を占領することはできませんでした。江華島では南部朝鮮からの海上輸送による租税米によって、


p128
1270年
1170年に始まった百年にわたる武人政権はここで完全に終わったのです。この年、高麗は
モンゴルとの戦争に終わりを告げました

p129
本来、高麗に対するモンゴルの執拗な侵入の目的は、朝鮮半島を日本や南宋を攻撃する兵站基地にすることでした。
(当時のモンゴル軍には、兵站=食料の必要はなく、侵攻地で略奪ですよ。正気ですか?)

p130
(高麗の)世子は即位前は大都にとどまり、即位後もしばしば大都(北京)に往来したため、高麗王室にモンゴル風が蔓延するようになります

(これが本当であれば、元の帝室の娘は、結婚後も、北京にとどまり、朝鮮半島には全く出向いていないはずである。だから、日本人朝鮮半島歴史学者も、高麗国王は朝鮮内におらず北京と往来としている。高麗国王は、大都で生まれ育ち結婚後もとどまり、朝鮮には時々行くだけの名目的存在だったのだ!やっと気づいた。杉山氏は、「王政復古」などと書いているが誤りである。歴代高麗国王のうち、3名はモンゴルの監督官によって退位させられており、高麗国王は単なる名目上の存在に過ぎなかったと考えられる)

p139
1363年、
元の厳しい監視の目を潜り抜けて、3個の木綿の種子を筆の蓋に隠して持ち帰り
朝鮮における綿作のきっかけになりました。

p140
高麗時代における仏教の隆盛に伴った仏教文化の遺産として優れた仏画がります
元に服属させられていた時代に、国王の北京滞在と往来に多くの儒者たちが随行し、或いはそこに滞在したことによって、宋学である朱子学が伝わってきたのです

朱子学派による廃仏論

p167
1451年に「高麗史」が完成したのです

p182
ところが東人と西人との対立の中で、全羅道差別というとんでもない副産物が飛び出してきたのです。
p183
それ以来、全羅道は「反逆郷」というレッテルを張られて、人材登用が厳しく制限されるようになったのです
この戦争で李舜臣水軍の勝利を支えた民衆的基盤は全羅道にあったのです

p187
李朝時代に国境を鴨緑江、豆満江まで北上させる過程では、女真族との大小の衝突が繰り返されました
国境線が安定するようになったのです

p188
ヌルハチはしだいに女真族を統合して、1616年に国号を後金とし、その太祖(在位1616~26年)になりました
1636年に後金は国号を清と改め、
朝鮮国王に臣礼を取るように要求してきました。朝鮮政府はこれを無視したために、太宗は同年12月に10万名の大軍を率いて侵入してきたのです

p197
足掛け7年間にわたる戦争は、朝鮮のいたるところに深い爪痕を残しました。特に慶尚道の被害は甚大で、戦乱によって諸制度は乱れ、人口は減少し、農村は荒廃し、食糧不足と疫病が長いい間続きました

p208
党争が門閥間の対立に発展するにしたがって、一族の結束を固めるためのものとして族譜が登場してきた、ということなのです。甚だしくは、両班たちの必須の知識として族譜を暗記する、いわゆる譜学のようなものがあったほどです

p210
李朝時代に科挙のエリートコースである文科合格者200名以上を出した家門をあげてみると、
①全州李氏873②安東権氏359(以降は略す。「韓国人の姓氏」李勝羽から引用している)
例えば合格者がずば抜けて多い全州李氏というのは、全州を本貫とする李氏で、朝鮮王朝の歴代国王は全州李氏です。
科挙が権勢に振り回されたことは歴然としています
韓国などで話を聞いていると、家門が両班でない人はおらない程ですから。

p217
しかし残念ながら、この時期における西学=洋学の受用は直接西洋の原書によるものではなく、北京を通じて、しかも漢訳された本によるものでした

p198 江戸時代の朝鮮使節往来一覧
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p219
李朝500年の基本資料は「李朝実録」です。それを4部印刷して

p225
絵画にみる新風

厳格な試験を通じて採用された画員たちが、宮廷や貴族、両班たちの需要にこたえて、画業を専門にしていました。これは身分から見ると中人に属します
職業的画家としての画員の他に学者や文人たちの余技としての文人画がありました