完全に朝鮮史が美化されて書かれた内容と断定してよい。在日朝鮮人の著作にしては一番ましな方である。それにしても、皮肉として李朝朝鮮時代について党争以外の記述がほとんどない。

しかし、党争が族譜を生み出す原動力となったようである

日本における朝鮮史研究は第二次大戦前朝鮮半島が日本国内であった頃が最高水準であり、戦後において、この朝鮮史美化運動家に代表されるようなうじ虫連中が朝鮮史を歪め、美化し、誤ったくだらん内容が流布され続けている

p6
ここで1981年3月、戦後初めて訪韓した時の体験を挟みたい。当時は一流のホテル(五つ星)でも飯には3割の雑穀を混ぜることになっており、米による酒造りは禁止され雑穀によるマッコリ(どぶろく)が主流であった。つまり米と雑穀とによって、ようやく食糧の自給が達成した段階であった

(年月は、恐らく著者の記憶違いである。1980年に韓国の1人あたりGDPは、1万ドルを超えた )

p20
新興国の高句麗は、313年に楽浪郡を占領し、翌年には帯方郡をも滅ぼした。これで400年に及ぶ朝鮮半島内の中国勢力は一掃された
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p53
新羅は660年に百済を、668年には高句麗を滅ぼし、さらに676年まで反唐戦争を続けて
この統一新羅は935年まで続いた
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p83
918年に創建された高麗王朝は、1392年に朝鮮王朝に変わるまで、470年余り続いた

p103
武臣の乱が起こったのは、徽宗24年(1170)8月であった
徽宗を放逐してその弟明宗を立て、上将軍、大将軍の合議体である重房に権力を集中した。「重房」とは日本の幕府に似たものである

p104
1258年までの62年間、
4代の崔氏武臣政権が続いた
崔氏政権はその最高幕府である教定都監にすべての権力を集中し、国王はそのまま残したが、その廃立は武臣政権にゆだねられた。

p105
文臣支配の横暴と退廃に反発して登場した崔氏政権は、1231年から高麗時代最大の国難であったモンゴルの侵略を受け、40年間にわたる戦争に耐え抜いた。そのおかげで、モンゴルに蹂躙されて滅亡した金や南宋の大国と違って、奇跡的に高麗王朝の命脈を保つことができた

p106
1231年になってモンゴルの将軍サルタイが率いる軍団が
高麗に侵入し、
サルタイに黄金70斤、白金1300斤をはじめ膨大な貢物を送って引揚させた

p107
高麗政府はモンゴルとの徹底抗戦を決意し、1232年に都を開京から江華島に移した。そして本土の官民には、山城や海島に待避して徹底抗戦を呼びかけた。江華島は漢江の河口にあり、本土との間には潮の流れが速い水路がある。
サルタイは
侵入してきた。1232年の第2次侵入である
サルタイが
射殺されモンゴル軍は引き揚げた。それからも第3次(1235~1239)、第4次(1247)、第5次(1253)と侵入が続いた。第6次侵入は1254年から1259年まで、ジャラルタイ(車羅大)の引率の元に持久戦の構えであった。1254年の惨状を「高麗史」は次のように記録している

(省略するが、捕虜となったものが20万6千人あまり、殺戮された者は無数)

p108
崔氏武臣政権はモンゴル軍の軍事的圧力によって倒れ、王政が復活した
(武臣政権の朝鮮人が)1270年に殺害され江華島政府の抵抗は終わった。モンゴルの第一次侵入(1231)から39年目である

p109
元宗後の高麗国王は
「宗」の廟号を止めて、「忠〇王」となっている。
第30代「忠定王」(1348~1351)まで続く。

p110
1260年に大元ウルㇲ(元王朝)の皇帝になったクビライは高麗に融和策を取り、それ以来両王朝は婚姻関係で結ばれた。高麗国王は、元皇帝の娘婿である、従って傲慢にふるまった元の使者や将軍たちも高麗国王の前で臣礼をとらざるを得なくなった

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p117
元朝のクビライの時から、高麗国王の太子は元帝室の王女を娶り、国王に即位するのが慣例となった。国王は元帝の娘婿として元の大都(北京)に滞在、或いは往復することが多く
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p191
清国への燕行使、日本への通信使
朝鮮からは年4回の朝貢使ー冬至使、正朝使、聖節使、歳幣使があり、その他にも臨時送使があった。朝貢使の往来は、朝鮮からの「朝貢」に対する清からの「回賜」の形式による、定期的な一種の官貿易の性格を持っていた

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