人骨分析の専門家による著作であるが、中村氏は、弥生時代の人口増加推定に関して、極めて重大な内容の論文の著者でもある

P1
漢王朝の役所が置かれた楽浪郡へ定期的に朝貢していたという。中国の正史(漢書地理誌)にわずか19文字で書かれたこの話は、

(漢書地理誌には次のとおり
樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云
楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。)

P46
近年、東京大学の徳永勝士らによるHLA遺伝子群(人の免疫機能に関係して自己と非自己の識別などにも重要な働きをしており、極めて多型性が強く、集団間の遺伝的類縁を探るための有力な遺伝子群とみなされている)の多型解析でもアイヌと南米の先住民(北米先住民の一部とも)とのつながりが示唆される結果が報告されている

(①下の論文が、徳永氏ら
Genetic link between Asians and native Americans: evidence from HLA genes and haplotypes
他に関連論文として
Analysis of HLA genes and haplotypes in Ainu (from Hokkaido, northern Japan) supports the premise that they descent from Upper Paleolithic populations of East Asia

P79
いずれ近い将来、混血があったかどうかというレベルではなく、全ての現代人の祖先を約20万年前のアフリカに求める新人アフリカ起源説そのものの見直しも進んでいくように思われる

P84
いつから縄文時代が始まったのか、従来はおよそ1万2、3000年前からと紹介されることが多かったが、近年、その時期をめぐって学会の考えに少し変化が起きている

隆線文土器と呼ばれるタイプを最初の土器だと考えると

従来の定説より3000年以上も古くなるといううのである

P90
縄文時代の墓の中には、改葬という、いったん埋葬された遺体をもう一度掘り起こして別の場所に埋葬し直し多様な事例がかなり報告されている

P154
当時の東アジアにあっては縄文人がかなりユニークな形質」の持主だったことが分かってきた。彼らに類似する集団が、今のところ同時代の東アジアのどこにも見当たらないのである

P155
問題はやはり、どうして縄文人のような人々が往時の日本列島だけに住み着いていたのかということである

P200
縄文時代も今からおよそ3000年近く前、ついに終わりの時が来る。その終焉をもたらしたのは、大陸から海を越えてやってきた人とその文化であった。

P219
いわゆる2重構造モデル、つまりもともと日本列島には現在のアイムや琉球人の祖先になるような人々が住んでいたが、そこに大陸から異なった系統の人々が流入し、その影響で本州域の人々は変化したが、列島の両端にはその影響を受けなかった原住の人々が残ったのでは、というシナリオが改めて浮上してくる動きとなった

P264
これまで紹介してきた北部九州の弥生人骨はほとんどが弥生時代中頃のものであり、縄文時代末から弥生初期にかけての、肝心の移行期の人骨資料がぽっかり抜け落ちているのである

P265
一つの解答へのヒントは、弥生中期の北部九州で観察された高い人口増加率(少なくとも1~3%)にある。

土着集団との人口比の逆転は充分起こりえるとの結果が得られた。