水野俊平という北海商科大学という名前も聞いたことのない大学の教授さんの朝鮮半島に関する著作である。ウィキペディアで調べると、妻は韓国人で、韓国に留学していたとのこと。
以前に、同じ水野氏の朝鮮の歴史に関する在日朝鮮人らしき人物との共著を読んだことがあるが、実に酷い内容であった。

この本のメインテーマは、下記のとおりであるが、外国人の目を通してしか知りえない点に驚愕する。


P7
一般的に朝鮮時代の庶民生活は19世紀末から20世紀初めに朝鮮を訪れた西欧人の見聞録を通じて語られることが多かった。


以下の通りであり、ぼぼ読んでメモしている。もう一冊ロシア海軍将校の書いたものがあるが、除外していい。

朝鮮幽囚記録 ヘンドリック・ハメル
(これに関しては、小川教授の論文が非常に参考になる)

悲劇の朝鮮 アーソン・グレブスト
(実際には訪問していないようであるが、キチガイどもは何故気づかないのだ?)

朝鮮事情 C・ダレ
(恐らく、これが最も正確に記述している)

朝鮮紀行 イザベラ・バード・ビショップ
(別ブログで詳細メモ。)

現在、日本にはまともな朝鮮史研究者など存在しない。武田幸男氏、宮嶋博司氏、馬渕貞利氏等日本人のまともな朝鮮史研究者は全て高齢となり事実上は研究停止状態であり、ごく一部の例外(10人以下)はあるが、ほとんど全て実態上は在日韓国・朝鮮人又は帰化した元韓国人によるあまりにも酷い歪曲と美化がされているに過ぎない。このことは、外国人による李氏朝鮮時代の記述からだけでも明らかである。その中で、水野氏に代表されるように天理教関係者のみが、純然たる日本人の朝鮮史研究者であろう。

水野氏は、この著作の中で李氏朝鮮時代の庶民生活に決定的な影響を及ぼしたであろう1659年以降は継続して実施されていた五家統法について何ら言及されていないのが残念である。庶民生活をメインテーマとするのであれば必ず言及するべきだ。

韓国の片田舎である済州島で育った呉善花氏が正直に告白されているように、「泥棒に入られたことがない家などない」状態は明らかに李氏朝鮮時代から継続している。五家統法は第二次大戦中に始まった日本の隣組とは全く異なり、連帯責任による統治手段であるが、朝鮮人のメンタルを象徴しているともいえる


P8
日本から唐辛子が入るまではキムチは辛くはなく、(以降略)

P17
朝鮮時代の身分階層については、両班、中人、常民(常人、良人)、賤人(奴婢)の4つに分類する考え方と、まず常民(常人、良人)と賤人(奴婢)に両分した後に両班を常民の上部に据える考えが得方の2つがある
これは、両班という階層の定義が多分に社会的な慣習に基づくものであり、可変的なものであったためである

P20
つまり、儒教を信奉し、科挙によって官吏に登用される素養を持ち、社会の道徳的基盤を維持する知識人であることが両班の条件であった

P21
その結果、時代が下がるにつれて両班の比率が高くなり、相対的に常民、奴婢の比率が低くなっていく。いわゆる庶民の両班化の結果である

P22
研究者によって異なるが、16世紀には全人口の3割ないし5割近くを奴婢が占めていたとされる

この一文は、宮嶋氏の著作の一文と内容的には全く同じ文章である。私は当初水野氏の経歴から研究者とは韓国の研究者のことであると解していた。

下は宮嶋氏 両班 岩波新書から。ヒトは環境の影響を強く受ける。韓国という人情には厚いが、明らかなDNA異常民族の環境下で一定期間過ごしている
p65「研究者によって見解が分かれるが、16世紀には全人口の3割ないし5割を奴婢身分の者が占めていたとされる」

P25
奴婢の逃亡は、18世紀にはいいって急激に増加し、奴婢人口の減少につながった

P26
はじめは技術職官吏を意味する用語だった中人(小見出し)

中人という名称の由来にはいくつかの説がある。まず、朝鮮時代後期の党派争いの中で政治的中立を保ったために中人という名が生じたという説、両班でもなく常民でもない中間に位置するためにその名があるとする説があある
また、漢城の中間地帯に居住していたところから由来したとされる説がある。

朝鮮事情では、中人は本来ソウルにしかいないと明記しており、これが正しい。その他の中人は、事実上は両班同様に単なる事実上の社会的身分詐称に過ぎない。両班の庶子も中人とみなす場合もあるが、首都の漢陽=ソウルが大部分のはずである。歴史学者よりも外国人の方が実情を伝えているという奇妙な状態にある


P26
技術職官吏を意味する中人には、訳官(通訳官)、医官、算官(会計)、律官(法律)、陰陽官(天文・地理・命課学) 以降略


P29
朝鮮時代後期になって中人の定義は次第に拡大され、両班にも常民にも属さない中間階層を示す概念となった。
末端官吏(略)、下級武官(略)、地方の末端官吏(略)、両班の庶子、(略)儒学を学ぶ「校正(キヨセン)」等も広く中人とみなされるようになった。

P31
記録の乏しい常民(小見出し)

朝鮮時代にはこの階層に対して様々な名称が用いられた。
研究者によって若干の差はあるが、大体において常民は、両班・中人や奴婢ではない一般平民で主に農業、商業・手工業に携わっている者のことをさす場合が多い

P32
朝鮮時代における常民の大きな特徴は「国役」を負っていたということである。(略)両班は時期によって若干の差はあったが、軍役をはじめとする「国役」を免除されていた。
これに対し、常民は年貢である(略)などが課されていた

P34
支配階層であるはずの両班階層が3分の2を占めるという奇妙な様相を呈している。奴婢戸は、ほぼ消滅しているが、(略)

私の知る限り、自らの社会的身分を事実上詐称するという詐欺的現象は、中国・日本の近世や西欧の中世には全く見られない現象であり、朝鮮人の民族性の異常性と特異性を明確に示す現象と考えてよい。常民は、両班を詐称し、奴婢は逃亡後に常民を詐称したのだ!上記の著者の記述から、明確なのは、朝鮮人のあくなき、かつ、異常なまでの社会的地位の上昇志向である。今日の韓国においてもみられる現象であり、若年層の失業率の高止まりの根本原因である。また、朝鮮時代の歴史を現在の韓国の歴史学者等から正確に知ることは不可能だ!欺瞞と騙しと歴史の捏造は、日本との関係だけに限ったことではなかったのだ!

「僕は両班の子なんだ!」司馬さんの朝鮮人への強烈を極めたうまい皮肉を思い出す。司馬さんは、姜在彦という朝鮮史美化運動家と交遊があったのだ、にもかかわらず、司馬さんですらハッキリと書かざるをえなかったのだ!勇気をもって批判するべき時である。あなた方は、明らかにおかしいと!

司馬遼太郎さんの「耽羅紀行」(=済州島紀行)抜粋

P104 「僕は両班の子なんだ」という言葉を子供のころから何度も聞いた。わりあい数が多かったから、朝鮮人はみな両班だと思うことにした。」

司馬さんは、陳舜臣さんとも深い交遊があった。司馬さんの遺伝的には中国人(=陳舜臣さん)と遺伝的には朝鮮人(=姜在彦という朝鮮史美化運動家)に向けた視線は全く異なるのだ。

何故、多くの日本人が、遺伝的に完全に正常な人々=中国人と、明らかに遺伝的におかしい連中を8%~20%程度も含むという意味において集団として遺伝的に異常であると言ってよい集団との相違を気づかないのであろうか


P44
では庶民の居住地はどこだったのかというと、意外なことに漢城の中心部であった。(略)最も低い地帯であったため、水はけが悪く、雨が降るとぬかるみとなった、
夏には、川から悪臭が漂うなど良好な生活環境とは言い難く、自然に庶民が密集して住む区域となった

P56
その(戸籍)調査方法が基本的に自己申告であったということである

戸籍の信頼性の低下(小見出し)

人口の減少は失政のせいにされて責任を問われかねず、(略)

李朝朝鮮時代の人口推移に関するソウル大学の論文を読んだことがあるが、意味がなかったようだ!欺瞞が蔓延する社会では、歴史そのものが、創出される対象のようである。
社会的身分を自己申告?であれば、戸籍に基づく両班の比率など意味がない。


P77
韓国・朝鮮では自らを白衣民族と呼び、平服は白い服であったというのが定説である。(略)白が好まれていたのは事実であろうが、青色、黄色、褐色に染色された衣服もかなり目に付く。当時使われていた染料は主に植物性のもので、代表的なものが藍やクチナシの実だった

著者の上の記述根拠は、絵であり李朝末期の写真ではない。アメリカ議会図書館の1910年より前の朝鮮の写真から見ると、両班を含めて、王宮関係者以外は全て白の服しか着ていない!20世紀初めですら、王宮関係以外は誰一人色のついた服を着ていない。

著者は、天理大学卒業後に、大学院で韓国に留学し、博士号取得している。恐らく、キチガイども=韓国人の歴史学者にそのように嘘を吹き込まれ考えもせずに信じてしまったのであろう!
解けた。朝鮮人には、歴史とは存在せず、歴史とは、彼らの都合のいいように作り出すものなのだ!だから、従軍慰安婦強制連行という歴史も、終戦後、50年以上たった頃、作り出され始めたのだ。
朝鮮人には、客観的な真実の歴史なんでそもそも存在しないのだ。

中国正史の検索サイトで「染」でヒットする朝鮮王朝実録を見ると、一番上に、「 署 :掌 造事。令二,正八品」とあるのが出てくる。官営=王宮直営の染色工場を意味すると思われる。正八品は官職のランクであり日本でいえば正8位又は従8位となる。

中国正史の検索サイトで「染色」でヒットする朝鮮王朝実録を見ると、上から2番目に染めた冬服とある。中国や日本では衣服は染められているのが普通であるからしてわざわざ染めた服などという表現は絶対に使用しない。

贈兩使各染色冬衣一襲

李朝朝鮮時代には染料は一般に全く普及しておらず、中国との朝貢貿易で入手し高価であったため王宮関係でのみ使用されていたと断定していい。王宮直営の官営工場でしか色のついた服はつくれなかったのである。韓国人どもは必死にこの点を隠しているが、あるバカな朝鮮人が、

③「海遊録 朝鮮通信使の日本紀行」にもわざわざ色まで書いて

その華美なること目も眩むばかり。その盛んなること江岸よりも倍加し、ここに至って精神もまた眩む。
青、紅、紺、紫、緑、黄の班紋衣を着た男女老少が人垣を成している

と書いていることからも、通信使のおバカな記録係は事実上、当時の李朝朝鮮では染料が一般には普及しておらず、日本を訪れて庶民が色のついた服を着ているのに驚いた様子を吐露している。ただし、薄い黄色の服は国内製造していたかもしれない。


P84
朝鮮時代の女性は外出時に顔を隠して歩いていた。元々これは両班家の婦女子の作法とされていたものであったが、時代とともに次第に庶民層まで拡散した

P95
いずれも滑車を用いず、綱を付けた釣瓶を直接井戸に降して水を汲んでいるのが特徴である。(略)
これらの井戸は比較的浅い地表付近の水脈に頼るものでだったから、干ばつの季節には枯れてしまい、結局河川や枯れていない井戸から水を組んでこなければならなかった。(略)漢城には、水を汲んで売る水売りを生業とする人々が存在していた。

P127
朝鮮時代には松禁、牛禁、酒禁と呼ばれる禁則があり、三禁と呼ばれた。

松禁=松の伐採の禁止(理由は書かれていない)
牛禁=牛の屠畜禁止(牛は農耕に不可欠なため)
酒禁=酒の醸造・販売・飲酒禁止

P128
この時代においての食肉は元旦などの特別の日に限られ、指折り数えるほど特別のものであったということである

P133
朝鮮時代には身分のよって家屋の規模に制限があった。

P136
他人の家に同居する間借りが増加

P172

crazykorean2

染色用の染料自体は、朝貢貿易で中国から輸入していたようである。これは王宮関係者の店の品目リストである。写真で見ても、王宮関係者の写真のみ、色のついた服を着ている
P189
実は煙草は日本からもたらされたものであった

P220
漢城の庶民生活の中でよくわかっていないことの一つが糞尿をどのように処理していたのかということである(略)便所は屋内に作られず(略)個別の建物として建てられた

P233
朝鮮王朝実録には疫病(伝染病)の流行に関する記事が数多く登場する。特に朝鮮時代後期に入って疫病は大々的な流行を見た。(略)17世紀中盤から19世紀中盤にわたる伝染病の流行は国家の人口を激減させた。1660年~1864年の間に死亡者が多数発生した疫病は79回にわたっており、そのうち10万人以上が死亡した場合は6回もあった。(略)朝鮮時代に最も猛威を振るった疫病は天然痘と麻疹であった

以下のとおりだそうだ。
1807年→約756万
1835年→約661万

P249
一般的に朝鮮時代の庶民生活については、朝鮮末期の西欧人の見聞録によってその後進性ばかり強調されたり、植民地支配以前の朝鮮文化を称揚する観点からその優秀性ばかり論じられる傾向がみられる。

この記述から、韓国では歴史は「創出されるのもの」であることがよくわかる。
李朝末期の人口減少は、ソウル大学の論文で知っていたが、この著作にあるように伝染病が原因でったのかどうか?であるが、参考文献を見るとハングル文字のものが多い。この書の致命的な欠点である、中国で書かれたものを参照すべきであろう